20140220

 沖へ出てだんだん筏は孤独になった。我々は曳船の進む方向によって乗るのはどの船かと探している。曳船を操縦しているのは二人の比島人である。訊いてみると、
「ダット・オーベルデア That overthere」(比島語に th の発音はない)といって、あまり遠くない一隻を指差した。
 船は沖に数ある船の中であまりましな方ではないようである。リバーティ型に乗るものと予想していた我々は少しあてがはずれた。
 だんだんその船に近づいて行く。船尾に旗が垂れ下がっている。海風で黒くよごれた白だ。その真ん中は赤だ。
 沖縄で投降勧告ビラを拾った或る飢兵は、最初そこに色刷られてある赤や黄の集団が何を意味するかわからなかったそうである。赤が鮪の赤であり黄は卵の黄で、つまり全体がすしの絵であると納得するまで、一時間かかったといっている。
 私がこの復員船の船尾の日章旗を見た時の感じはほぼこれに近い。
「白地に赤く」、俘虜となって既に十カ月、我々はこの旗を比島の空の下で見る機会があろうとは思っていなかったのだ。
大岡昇平『俘虜記』)



11時起床。歯磨き洗顔ストレッチ。パンの耳2枚とコーヒーの朝食。YouTubeに断片的にアップされている『青の稲妻』をちょっと観た。どのシーンを切り取っても完璧だ。非の打ち所のない映画。ありとあらゆるカットがヒリヒリ胸をしびれさせる。梶井基次郎風にいうならば、こんなものを生み出すことができれば成仏だ。
読書。BGMは南條麻人『Greed』とJim O'rourke/坂田明/Yoshimio『Hagyou』とSchperrung『Haxan』。ちくま日本文学の『梶井基次郎』を読み終えた。末尾に収録されている手紙がすごくすごくよかった。ここにひとりの人間がいると、ありありとまざまざとみずみずしく迫ってくるものがあった。やらなければいけないと思った。徹頭徹尾やりぬかなければならない。完璧な傑作をこの手とこの指先でテキストファイルにたたきつけてやらなければならない。一分の隙もない完全無欠の小説を。聖書やギリシャ悲劇のように千年の時をこえてなお読み継がれる圧倒的な圧倒そのものをつくりださなければならない。
たとえばある作家が死んでその全集が編まれるにいたったとき、手紙のかわりに電子メールが収録されたり、日記のかわりにブログが収録されたりするようなことにこれからはなるんだろうか。メールは書き送られてから受けとり読まれ返信の送られてくるまでの時差がほとんどないその性格から、かつての手紙のように一通一通が長くないしそのためにより口語的なところがある気がする。であるから読み物として、古い時代の作家の書簡集のようには面白くはならないんでないだろうか。メールのみならずチャットや電話やSNSなど、周囲の人間とのコンタクトを取るための手段が増加しその敷居も低くなった分、手紙の一通一通にかつてこめられていた密度のようなものが電子メールに刻印されるとはとても思えない。手紙とメールをならべて前者のほうが人情があっただの手書きの温かみがあっただのいってみせる型通りの懐古的言説にはまったくもって与する気になれないが、しかし読み物としての魅力というこの一点にかぎっては、やはり手紙(が遠方にある友人知人らとの主たる交流手段であった時代)に軍配があがるのではないかと思う。
腕立て伏せをしたのち徒歩でスーパーに出かけた。食材を購入し帰宅してからビーフシチューを作ってかっ喰らった。ビーフシチューとかいいながらビーフは一片も入っておらずかわりに鶏のささみが入っている代物で、ほかにたまねぎとじゃがいもと人参、できあがった代物にチーズをのっけて米と一緒に喰らうというその時点で素直にカレールーを買っておいたほうがよかったと後悔した。古井由吉『野川』を少しだけ読みすすめたのち21時過ぎまで仮眠をとった。起床後シャワーを浴び、部屋に戻ってからストレッチをした。それから英語の問題集をもってサイゼリヤに出かけた。だだ混みの店内だったので引き返そうかと思ったが、ぎりぎり余っていたらしいひろいテーブル席に案内されたので、あまえて居座ることにした。
22時半より1時半まで延々と口頭で問題を解きつづけた。ファミレスはテーブルが広いし隣席との距離も相応にあるし喧噪もほどよくて口頭でぶつくさ勉強する身としてはたいそう居心地がよろしい。今日も前回と同じく医大生らしい若い男たちが細胞がどうの筋肉がどうのとなにやらむずかしい話をやっていた。席についてしばらくすると注文をとりにいつもの店員さんがやって来たのだけれど、言葉に一瞬つまったこちらの二の矢を継ぐのとほとんど同じかちょっと先取りするくらいのはやさでドリンクバーでよろしいですかといわれて、個人経営の喫茶店や定食屋でもないにもかかわらず「いつもの!」が成り立ってしまっているのが少しおかしく思った(しばらくの無沙汰ののちあらためてここに通いだすようになって今日でまだ三度目である!)。そのドリンクバーを注文するだけしておきながらなにも飲まずにいたらしばらくしておなじ店員さんがまたやってきてなにかお飲物をお持ちしましょうかと声をかけられた。レジ打ち含めてホール仕事のほとんどを一手に担わされているらしいようすのたいそうあわただしいきりきり舞いのなかでなんという気遣いだろうと感動した。1時にさしかかるころから集中力が尽きて頭のぼうっとするところがあったのできりのよいところで勉強を中断し、支払いをすませるべく伝票をもってレジにむかったのだけれど、そこでくだんの店員さんと正面きって向かいあってみるとあらためてけっこうタイプな女性だと思った。それであがってしまったのかそれとも頭が疲れてバカになっていたのか、支払いをすませて店をでるべく扉に手をかけたとき、◯のなかに押の字のはめこまれたシールがしっかり貼ってあるのをきっちり視認していたにもかかわらず扉を手前に延々と引きつづけてしまってどうしてこれ開かないんだ壊れてんのかといぶかしげに思いあげくのはてには鍵をがちゃがちゃやるなどの醜態をさらしてしまった。いやいや「押」ってこれつまり扉を手前に引っ張るって意味じゃないよ逆だよ逆むこうにぐっと力入れるってことだよってはっとして思いなおし、あーはずかC!と外に出た。
帰宅して玄関の引き戸に手をかけようというときに室外機がぷしゅーと音をたてるのが聞こえたのでまさかと思ってなかに入ってみると案の定暖房が点けっぱなしになっていてこういうのがいちばんがっくりくる。ビーフのないビーフシチューを喰らったのちブログを書き、歯をみがいてから寝床にもぐりこんだ。明後日にはもう仕事かと考えるとけっこうがっくりくる。一週間なにをして過ごしていたのかという気持ちになって自己嫌悪とも焦慮ともつかぬものに自意識の末端を炙られているような気分になる。小説を書いていたら書きすすめた原稿の枚数をその週の充実の度合いをはかるための指標のようなものとして見ることができるのだが、それがないとてんで駄目だ。何冊本を読んだだとか何ページ問題集を進めただとか、そんなもんはっきりいってどうでもいい。書くことだけが重要だ。それも比類を絶した小説を書くことだけが!