20140221

 ミンダナオの三人の病人中二人が死んだ。水葬が行われるそうで、有志は後甲板に集合と廻状が来た。
 祖国を三日の先に見ながら死んだ人達は確かに気の毒であった。しかし、彼等が気の毒なのは戦闘によって死んだ人達が気の毒なのと正確に同じである。私とても死んだかも知れなかった。自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情しないという非情を、私は前線から持って帰っている。
大岡昇平『俘虜記』)



10時起床。歯磨き洗顔ストレッチ。あるかなしかの綿毛のような雪。パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとったのち何気なくBCCKSをながめているととんでもない漫画を見つけてしまった(https://bccks.jp/user/114144)。なんでか見覚えがあると思ったら、なんとかいう漫画の新人賞の受賞作品としてweb上に公開されていたのを何年か前にいちど読んだことがあったのだった。夢の空間の描き方とかちょっとつげ義春に似ているのだけれど、継承しつつ新たな可能性にむけて発展させることに見事に成功している、それがすごい。独特の間の取り方からにじみだすようなしずかなポエジーは作中でも言及されているタナカカツキのにおいがほんのりする。大竹伸朗のスクラップブックをアイディアとして取り入れているというのもじつにいい。紙の本になっていたら即購入するのに。こういっちゃあなんだけれどBCCKSで公開されている書籍の大半はどうしようもない代物で、いままで目を通したもののうちでわずかでも面白いと思うことのできたものなんてはっきりいって一冊もなかったし、それだからこれじぶんの小説を公開する場をまちがえてしまったんじゃないかなと若干悔やむような気持ちになっていたりもしたのだけれど、こういうすばらしい作品がきちんとあるのだから捨てたもんじゃあない。腐らずにコツコツやっていきたい。
ここ(http://big-3.jp/bigsuperior/rapid/)でも連載しているみたいだった。これもやっぱりすごい。ここまでくるともうつげ義春でもタナカカツキでもない。独立独歩の域にさしかかっている。空間の描き方がやっぱり圧倒的にいい。奥行きのあるきわめて三次元的にとらえられた背景に人物だけがのっぺりと二次元としてあるのが、不安定な線のもたらすわずかなパースの乱れとあいまって、異なる次元の不可能なはずの同居をしかし奇跡的に成し遂げている。こういうこと、小説でできないだろうかと思う。ずっとむかし読んだ内田百輭の小説がなんとなく近いものとして思い返されるのだけれど、しかしこれは気のせいかもしれない、あまりに遠すぎる記憶だ。時空間の切り替えという技法上の問題にひきつけていえば、古井由吉の小説と重ねてみることで得られる示唆もあるかもしれない。この感触を、ぜひ小説に翻訳したい。
ヘルマン・ブロッホの『誘惑者』を読みたいのだけれど図書館にない。のみならず『夢遊の人々』もない。『ウェルギリウスの死』は手元にあるのだがダンボールを開封する気になれないしいま読みたいとも思わない。
古井由吉『野川』の続きを読みはじめてまもなく腰と首が痛みはじめ、と同時に寒気と眠気の双方をもよおしたので布団にもぐりこんだ。古井由吉は脊椎の手術をしている。他人事のようにはどうしても思えない。長らえればいずれむかえることになる既知の道のりのようにさえ見なされる。仮眠をとるつもりだったのが、しらずしらず妄想英会話がはじまってしまい、小一時間ほどだれともしれぬ相手と言葉を交わすはめになった。16時を前にしてどうにも気分のくさくさするところがあったのでおもてをゆっくり出歩くことにした。図書館は閉まっていたので、とりあえず銀行で現金をおろすという体裁で北大路通まで出ることにした。私立小学校の制服に身をつつんだ児童の数人とすれちがったとき、こんな半ズボンのガキンチョでさえネクタイの締め方をしっているというのに、こちらときてはてんでおぼつかないのだといくらか後ろめたい気持ちになった。北大路通にまで出たはいいもののまだまだ歩きたりないところがあったので、銀行でひとまず五万円おろしたのちビブレのパン屋でフォカッチャをふたつ購入し、それからなんとなくそうなるんでないかと外出前から見当をつけていたとおり鴨川まで足をのばした。ボーダーコリーを二頭つれている女性がサモエドかなにか白毛のふわふわした大型犬をつれた男性と立ち話をしているのを間遠にながめながらベンチに腰かけてパンを食べた(ちなみに「サモエドスマイル」で画像検索するとどれだけ心の汚れたクソ人間でも一瞬でキュン死にすることになる)。ボーダーコリーの片割れはときどき高い声をあげて鳴き、そのたびに飼い主の女性にいさめられていたが、あるときを境に後ろ足でぴょんぴょんと高く跳びはねては女性の口元をねらって鼻をつきだしキスするような動作をくりかえしはじめ、男性とサモエドに披露する目的で演じさせた芸であるのかそれともボーダーコリーのほうでの勝手な暴走であるのか、ちょっと見極めはつかなかった。パンを食べ終わったところで河川敷をひたすら南進した。(…)くんの楽曲にでたらめな歌詞をはめこんで歌ってみたが、うまくいかなかった。しばらく歩いていると川をはさんだ対岸でもまたボーダーコリーをつれて歩いている人影が認められたが、リードを引っ張って先をゆこうゆこうとするその後脚がすこし不自由なようにみえた。対岸のそのまたむこうのこの街をとりかこむ山の一部が茶色く浮かびあがっていたのだが、部分的な日差しのせいでそのような色合いに染めぬかれてみえるだけなのか、それともじっさいにそこだけが立ち枯れてある木々のためなのか、あるいは木々の引っこ抜かれて開拓された山肌のあらわになっているためなのか、どれだけ目を凝らしてみてもやはり見極めがつかなかった。対岸をじぶんとおなじ方角にむけておなじような歩調で歩く人影があった。両者をへだてる空間をたっぷりと用いてゆったりと鷹揚にいくらかもったいぶって舞ってみせる一羽の、あれはおそらくとんびであるように思うのだけれど、鳥がいて、その軌道をぼんやりと目で追っているうちに対岸の相手のほうでもやはり同じようになぞっているらしいその目と不意に行きあう瞬間というのが幾度かあった。かなり間遠な距離ながらしかしたしかに互いを認識するふうな、独特の歩みのぎこちなさのようなものがそのときだけ際立つようであり、そしてまたそこで際立ったものを認める両者の意までもが重ねて際立つようであり、と、いちどこうなると意を決してそらすべきものをそらさないかぎり際限ないものにとらえられてどこにもいけなくなってしまうのではないかというおそれが煮凝る。これは偶景になる、そうメモして顔をあげるとすでに人影はなかった。狐につままれたようだった。
今出川まで下りたところで通りにでた。見知らぬ路地を縫うようにしてたどりながら部屋のある方角にむけて歩をすすめた。見たことのない商店街を発見したので心が踊った。出町商店街というらしかった。こじんまりとしてローカルな、どこかなつかしい、まだ活気のあったころの地元をおもわせる商店街だった。こういう商店街ほどなかを通りぬけて楽しい場所はない。けっしてそれほど多いわけでもない往来のなかにどういうわけか西洋人の姿が目立った。ごみごみとして猥雑ないかにもアジア的なマーケットが大好きな連中にとってはたまらない一画なのかもしれないと思った。商店街をぬけると住宅街だった。そこからの道のりはそれほどおもしろいものでもなかった。散歩をしたり知らない町をひとり歩きしているときいつも思うのだが、住宅街というのは基本的にものすごく退屈である。これが店構えひとつあるだけで風景がぐんと面白くなるのがふしぎだ。町に秘密の奥行きの生まれるような感触がある。民家はどれもこれも基本的に閉鎖的であるしその意味できわめて表面的であって奥行きを感じさせてくれない。反して、店構えとは基本的にひとの出入りするのが前提となっているものであるからそこを想像力の入り口としてあたりいったいの生活に思いをめぐらすことのできる観念的な奥行きがある。ものすごく金をもってそうなでかい家を見上げたり、次の引っ越し先候補に入れてもいいかもしれないくらいぼろっちいアパートをチェックしたり、後退した額のむこうにのばした白髪をうしろでたばねたうえに白ヒゲをたっぷりたくわえた仙人みたいなジジイがアパートのベランダにたってなにひとつ面白味などないだろう住宅街の風景をぼうっと見晴らしているらしい姿をひそかに見あげたりした。年のそれほどかわらぬようにみえるひとりあるきの女性がやたらと立派なマンションに入っていく後ろ姿を見かけたのだが、オートロックで、しかもなんか扉の二重になった方式のもので、オートロックどころかそもそもの鍵がないじぶんの部屋とは雲泥の差だと思った。しばらく歩くと一見するとコインパーキングのようにみえる一画のそのじつどうも墓場であるらしいのが見えてきて、せまいその敷地の中央にそびえたつでかい墓石というか石碑のようなものが気になって接近し見やってみれば、戊辰戦争の慰霊碑だった。そうかこういうものもあるのかこの街はと思った。ずっと同志社の敷地であると思っていたのがどうやら相国寺というクソでかい寺の境内のそれも一画にすぎぬものであるらしいという見当がついてまもなく烏丸通に出た。部屋はもうすぐそこだった。
帰宅してから夕飯の支度だけ先にすませておき風呂に入った。大家さんがまた煮付けものをわけてくれた。奇妙にしつこい眠気をおぼえながら張りのない文章でここまでの日記を書いた。BGMはOval『94 Diskont』Yamataka Eye & John Zorn『50th Birthday Celebration Vol.10』。玄米・納豆・冷や奴・もずく・牛肉とじゃがいもとタケノコの煮付け(大家さんの提供による)・ささみとたまねぎとにんじんと水菜をキムチとこんぶだしと酒とにんにくでタジン鍋したしょうもない夕食をしかしひさしぶりに苦しくなるくらい腹いっぱいにかっ喰らった。しらぬまに右手首に軽くひねったような違和感がきざしはじめていた。けっこう鬱陶しい。腱鞘炎かもしれない。手刀で打つ部分がすこし腫れているようにもみえる。昨日の腕立て伏せが原因だったらまだいい。脊椎からきているのだったらどうしようもない。
くさくさした気分がなかなかどうして落ちてくれない。どうしたらいいものかてんでわからない。食後の気だるさと明日に控えた労働の大儀な予感にすべてをゆだねてだらだら過ごしてやろうかとも思ったが、だらだらするにたるだけの魅力的ななにかがあるわけでもない。しかたがないのでいつ眠りに落ちてもよい覚悟で敷き布団のうえにあぐらをかいて『野川』の続きを読みはじめたところ、食後、それも満腹の食後にもかかわらずふしぎに眠気をもよおすことがなく、日付の変わってさらに時計の長針が一周するころまでじいっと読みすすめることになった。