20140227

 真実と虚偽の混淆においては、真実は虚偽を際立たせ、虚偽は真実を信じることを妨げる。本物の嵐で難破した本物の船の甲板に立って、遭難の恐怖を演じてみせている一人の俳優。われわれは俳優も、船も、嵐も信じない。
ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)



10時起床。歯磨き&ストレッチ。これから暖かくなるいっぽうであることを思うと腰痛も多少はマシになるだろうとの見込みを得ることもできるのだけれど、ひとまずのところ夜行バスがおそろしい。バッキバキにいわしてしまうんでないかという不安がある。ゆえに出発までの期間はなるべく丁寧に身体をほぐしておかなければならないといつも思うのだけれど、なまじ生活に支障をきたさない程度の症状に落ち着いているためについついなまけてしまう、適当な力みと適当な頻度に甘えてしまう。
パンの耳2枚とバナナとヨーグルトとクリームチーズの朝食をとったのち、Common『Be』『Resurrection』をおともに金子光晴『どくろ杯』の続きを読んだ。金子光晴の奥さんである森三千代は伊勢の育ちらしくてちょくちょくその方面の記述がでてくるのが面白い。梶井基次郎の小説を読んでいるときにも京都の名が出てきて、というか「檸檬」なんておもいきり見知った町並みの描写をしていたりするわけで、現実と虚構の破れ目がここにうんぬんとかそんなことをいうつもりは毛頭なくてただミーハー気分で楽しい。《三千代は惣領娘で、弟の義文と、はる、ふさ、ちえ三人の妹がいる。三千代という名は父が、橘三千代をあやかるようにとつけた名前だそうだ。三つ、四つのときから、父親に就いて『大学』の素読を習い、全部を暗記していた。小学、中学を通して、主席を一度もくだらなかった。その免状をごっそり、私はいまも保存している。むずかしい女高師の入学試験も、優秀な成績でパスした。伊勢人は長袖風で悠長なうえに、八九分までいって最後の一分の踏み込みが足りないなどと言う人もあるが、その伊勢人の目をさますような存在として、大きな前途を期待されていた。》と『どくろ杯』にあるのだけれど、「長袖風」というのは果たしてどういう意味か、たとえば和装よりも洋装を好む新進気質のひとであるとかあるいは芸事にかまけて実利に疎いとかそういう意味だろうかと思って辞書で調べてみたところ、《〔武士が袖くくりして鎧を着るのに対し、常に長袖の衣服を着ていることから〕 公家・医師・神主・僧侶・学者などの称。ちょうしゅう。》とあった。なるほど。時代と文化に密接にむすびついたこの手の死語というのはすごくおもしろい。たしかにあった過去の一時代にむけてこちらから送りだす想像力にあざやかな道筋をつけてくれる。いまでこそ伊勢人はどうのこうのいったところでなんの説得力もないけれど、テレビもラジオもなかったむかしはいまよりもずっと各地方人の気質みたいなものが、それこそだれもが標準語をあやつることのできるわけではなかった時代の方言と同じく強烈に確固たるものとして在ったはずで、山を超えればそこは異国、言葉も風俗も人柄もそうしてひょっとすると姿かたち顔つきまできっとちがった。民俗学を引っ張るまでもない当然のその事実が、しかしこの伊勢人は長袖風であるというたった一行の記述からありありと思い合わされてみずみずしく腑に落ちる。上海に出るまでの大阪滞在時の記述のなかでは、正岡容というとても魅力的で灰汁の強い人物にたいする言及が目立つのだけれど、どうにも冴えないアル中として描かれているこの人物もWikipediaにあたってみれば大家で、上海に発った金子夫妻を追う記述の視界内より姿を消した彼がその先もぎりぎりのきわきわで生きぬきそうしていつのまにかまがりなりにもなにかを成し遂げている、その事実にすごくぐっとくる。続けなければならない。救いも報いも続けることでしか与えられはしない。あるいは、続けること、続けることのできることそれ自体が救いであり、また報いでもある。キャバレーの描写のなかで出てきた《振袖に、胸高帯の、いずれも大柄な、うんこの太そうな女たちが踊っていた》という一行に笑いかけたが、いやこれはすさまじい一行だと思いなおした。ここまで思いきった修辞を笑いのコンテクストからはずしたうえで使いこなすことのできる人物がこの書き手以外にまったくもって思いあたらない!
金子光晴の文体はたぶんじぶんとおなじ方角をむいている。もっとも、方角はおなじでも焦点の結びどころにかんして奥行きの異同はあるだろうが。
小腹が空いたのでささみとほうれん草を具材にラーメンを作って食べた。どうせ眠たくなると思っていたら案の定そうなったので早めの仮眠をとることにしたのがたしか16時過ぎだったように思うのだけれど、めざましを止めに止めまくって次にはっきりと目が覚めたときには20時前だった。四時間ものロスにげんなりしながら今週はもうずっと駄目だとたいした根拠もなく気が滅入った。一日を前半と後半にわけてそれぞれに割り当てた仕事を規定どおりにこなすというのを平日五日間にわたって完全にこなしきってはじめて満足できるわけで、たった一日でも時間割がずれこむとそれだけでもう今週はぜんぜん駄目だったと思ってしまうし、必要ないし欲望にしたがった外出によるロスさえもあとになってからじわじわとこちらの焦慮をむしばむようで、病的だとわかってはいるのだけれどこの実感ばかりはいつまでたってもどうしようもないらしい。ケッタに乗って近所のスーパーに買い出しに行き、ちゃちゃっと買い物をすませてちゃちゃっと帰宅したあとは、先日購入したルーの残りを使ってビーフシチューを作った。ぐつぐつやっているあいだに腕立て伏せをした。そこそこ美味いシチューを喰らいながらウェブ巡回し、Jim O’Rourke『Scend』を聴き、食後は風呂に入った。今日は木曜日なので新しい湯が張ってあり快適である。ひさしぶりにたっぷりじっくり湯船に身をしずめた。
風呂からあがって部屋でストレッチをすると0時前で、咽喉の渇きをおぼえてなぜかどうしても炭酸飲料が飲みたいと、そういうふうに思ったので近所のコンビニへオレンジジュースの炭酸を目当てにいったのだけれどなかったのでグレープジュースの炭酸を購入し、支払いをすませてからおもてに出て横断歩道の信号が変わるまでのあいだに二口ほど飲んだのだけれどそれだけでもう十分となったので、部屋にもどってから残りには口をつけず冷蔵庫にしまって、コーヒーを入れた。そうして0時半より「偶景」の作文にとりかかった。BGMはO.N.O『Slow Day Over Here』とMiles Davis『Sketches Of Spain』。夕食後に花粉症の薬を飲みのを忘れていたのでコーヒーで流しこんだ。気分転換にYouTubeで音源など探しているうちになつかしいものに出くわし、それをおともにいっちょやってみっかとあらためて執筆に繰りだしてみるときなんかによく思うのだけれど、推敲で苦しい思いをしていた時期によく聴いていた音楽をテキストファイルにむかいながら聴いているといちばんしんどいところのものが胸のあたりがじわっとにじみだして身体が重くなり、やがて脳に酸素のあまり届いていないようなぼうっとした息苦しさをおぼえて端的にいって書けなくなるというか書くのが苦痛でしかたなくなる。ある種の音楽はやわらかなトラウマに結びついている。そうして推敲を重ねれば重ねるほど平静に聴いていられる音楽が減っていく。
いまはまだ花粉にたいする疎ましさが勝っているけれどもそれでもこの鼻のむずがゆさにあきらめもついて慣れてくるころには夏の間近であるような気のはやい実感に打たれるのではないかと思う。じぶんにとって一年という単位は、夏の期待と、夏と、夏の余韻だけで成り立っているような気がする。今年の夏もまた奇妙なことになってくれればいい。たとえそれが渦中の身にはげんなりするくらいつらくしんどいことであっても。
4時を前にして作業を打ち切った。プラス2枚で計252枚。これ枚数的にも時期的にも群像が文藝あたりに送ってもいいかもしれないと思った。どの道まだまだ書きつないでいくつもりであるし推敲とかはもういっさいせずにとりあえず出すだけ出してみるみたいなスタンスで。むろん応募したあとも変わらず書きつないでいくのだけれど。5時すぎまで『どくろ杯』を読み進めたのち消灯。