20140313

 原因は結果の後に来るべきであり、それに伴行したりそれに先んじたりするべきではない。
ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)

 先日、私はノートル・ダム寺院の公園を横切る途中で一人の男とすれ違ったのだが、そのとき、私の背後にあって私には見えない何ものかを捉えた彼の眼が、突然ぱっと明るくなった。彼が走り寄っていった若い女と小さな子供に、もし、私もまた彼と同時に気づいていたならば、この幸福な顔は私をこれほど強くうちはしなかっただろう。恐らく、それに注意を向けさえしなかったことだろう。
ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)



10時だか11時だかわからないけれどもとにかく昼前に起きた。Hくんはとっくの以前に起床し活動しはじめていた。何時に起きたのかとたずねてみると、7時だか8時だかいう返事があった。起き抜けにいきなり歯磨きをするこちらの習慣を不思議そうに指摘されたのはこの日だった。前日ではない。
米と中華スープとウインナーとヨーグルトの朝食が出た。居候の身でありながら結局いちども炊事をしなかったことになる。ごちそうになってばかりだった。それからコーヒーを飲んだ。朝食のあとにコーヒーを飲みながらHくんとふたりでおしゃべりをするというのがこの東京滞在期間中の日課のようなものになっていた。大勢のなかでわいわいはしゃぐのも楽しいけれど、親しい人間とサシで親密に言葉を交わすひとときにはまたほかと取り替えのきかないいとおしさのようなものがある。たとえばTとふたりでドライブに出かけた夜とか、Fと理由もなく何軒もコンビニをはしごした夜とか、Sと大文字の送り火の終わった嵐山の川岸で語りあった夜とか、ふしぎだ、こうして列挙してみるとどれもこれも夜の記憶なのに。Hくんとシリアスな言葉を交わしたのはだいだいすべて朝もしくは日中だった。夜はふたりとも疲れきっていてすぐに寝てばかりだった。
サイケデリックなあれこれについて語っていたときだったかSのスピリチュアルな傾向について語っていたときだったか、Hくんが唐突にオーラについて話をふってきたので、ああ見えてESPとかオーラについてはSはおしなべて否定的だった、タイで出会ったばかりのころはまだしもこの夏に再会したときには瞑想についてもなにかしら宗教的で神秘的な営為としてとらえているというよりは科学的生理学的に有効なひとつのテクニックとしてとらえている節があってそれはこちらと同意見だった、と応じると、かつてのバイト先の同僚でオーラを見ることのできるひとがいた、といきなり切り出したので、ほんまけ、となった。ヤクザとのつながりをしばしば自慢げににおわせてみせる典型的なヤンキーで、最初のうちはHくんとずいぶん仲が悪かったというか馬が合わなかったらしいのだけれど、じつをいうとHくんのオーラの色があまりにも黒かったものだから警戒していたのだと告げられて以降、関係が転じた。Hくんがいうにはオーラがどうのこうのとかそんなことを言い出すタイプとはまったくもって異なる、本当にただのヤンキーみたいなひとで、とても嘘をいっているように見えないのだという。最初はハーブかなにかのやりすぎでそんなふうになっただけでないかと思ったけれども、どうもそういうわけでもなさそうであるし、というかそんなふうに簡単に否定してしまうよりももう少しつっこんでそういう話を聞いてみたかったので、この手の話題を切り出してしまったことにどうやら後ろ暗ささえ覚えているらしいHくんをうながして先を続けてもらった。その先輩がいうにはHくんのオーラの色というのはかぎりなく真っ黒に近い緑色らしい。黒というのはやはりいけない色なのかとたずねてみると、ネットで関連ウェブサイトなど調べてみるにやはりまずいらしいとのことで、それじゃあ緑はと、そうたずねてみたところで、いやいやこちらで調べればいいかと思いなおしてその手の検索ワードでググっていろいろチェックしていたのだけれど、Hくんはそれ以来その手の方面にすこし興味が出てきてオーラを見ることのできるための能力の開発トレーニングなどをひまなときに、それこそ作曲の過程で頭が麻痺ってしまったときに瞑想代わりのようにしてくりかえしていたらしい。で、見えるようになったのだ、といった。おどろいた。マジで、とたずねると、いやいやそんなぜんぜんたいしたアレじゃないんすけど、と謙遜するようにいって、まあまあまあと話題をそれっきりですませようとするかのように口をつぐむ。重ねて追求するこちらの言葉にも、いやでもいやーみたいな感じで口をすべらしてしまったことを後悔するような表情ともバカにされるのを避けようとする表情ともどん引きされるのをおそれるような表情ともつかぬとにかく逃げ腰の表情を浮かべて回避しようとするので、いやいやちょい待って、ほんまちょっと真剣に聞かせて、と引き止めて、若干強引なやりかたではあったと思うけれどもとにかくことの次第を聞かせてもらった。それがどんな訓練であるのか訓練をはじめてどれくらい経ってからのことであるのかそのあたり聞きそびれてしまったしいくつかの質問にはHくん自身答えたくないようだったのでたずねなかったけれども、あるときからぼんやりと物の見え方が変わってきたのだという。はじめてオーラを目の当たりにした相手はNくんで、ふたりでHくんの自室でリラックスしてしゃべっているときにふと首から頭部にかけてぼんやりと緑色のものが漂っているのを目にしたのだという。ただそのころから部屋にいるときにいきなりものすごく強い線香のにおいがしてくるなどのいわゆる怪奇現象というやつに悩まされはじめるようになったらしく、これやべえこわすぎるこれ以上続けるとぜったいに危ないことになると、そう思ってからはもう訓練をしなくなったとのことで、それだからHくんがいうには見たいときに見れるわけでも全然ないし見れるひとのなかでもHくんはぜんぜん見れないひとに入るらしい。おれは何色なん、とたずねると、実をいうとこれまでNくんのオーラしか見たことがなかった、それが昨日だったか一昨日だったかこうして部屋でリラックスしてしゃべっているときにふと見えちゃって、青まじりの緑色でした、青緑です、というものだから早速ネットで検索したりしたのだけれど当たり障りのないような記述だったのでよく覚えていない。HくんがいうにはHくん自身がとてもリラックスしているとき、くわえて相手が白い壁の前にいてくれたりするときなんかによく見えるらしいというかこれはその手の界隈では一般常識らしいのだけれど、それだからNくんやじぶんのようにある程度心おきなく接することのできる相手のものが見えやすいというのがあるのかもしれないというか思い出した、この前日であったか前々日であったかあるいは当日であったかもしれないけれどもいずれにせよこのような話題になる以前にHくんからわりと突拍子もないタイミングで、おれもう(…)さん相手にぜんぜん気遣いとかしてませんもんね、みたいなことを言われたことがあったのだけれどあるいはあれは「見えてしまった」その直後の発語だったのではないか、見えてしまったからああじぶんはリラックスしているのだとおもって思わずそうつぶやいたのでなかった、そのあたりはしかしぜんぶ推測であるのだけれどそれとはまた別に、東京滞在最初の夜にふたりで図録やネットの画像をながめながら美術作品についてあれこれ意見を交わしていたとき、ティツィアーノのイエス肖像画が好きだと、ポストカードさえ持っているといって該当する画像をこちらがブラウザで表示してみせると、Hくんはイエスの頭部にぼんやりと漂う黄金色の後光に着目して、仏教なんかでも仏様には後光がつきものであるけれどもあれはいったいなんですかねみたいなことをいっていて、あれはあるいはそういう意味でいっていたのかと得心がいった(そういえば『源氏物語』の光源氏も後光をまとった存在として描かれている!)。まあまあこういうのってあのー自己暗示みたいなものだと思うんすけど、とこちらが否定の言葉をくりだすものと想定してでもいるかのようにHくんは先取りしていって、そうしていくらか後ろめたそうな後悔の表情をまたもや浮かべてみせたのだけれど、その表情は必要ないだろうと、そう思うところがあったので、オーラというものが実際にあるかないかとかあるとすればその科学的な意味付けはどうなるかとかそんなんはもうどうでもよくてただおれは「Hくんの目になにかが見えている」その表面的な事実だけを100%全的に信じる!つまりHくんが嘘をいっていないと信じる!それで万事オーケーではないか!と思った。
母ちゃんには話したんけ、とたずねたのはHくんが母君と自他ともに認めるくらい異常に密な結びつきを有しておりしょっちゅう連絡をとりあっていると聞いていたからで、その母君のオーラの色はどうだったのかとたずねてみれば、あまりよく見えなかった、おれ自身も緑色だからたぶんNも(…)さんもおなじ緑ってことで見やすかったっていうのあると思うんですよ、でも母さんはたぶん違うんですよね、ピンク系っていうかむらさき系っていうか、いっかいちょっと見えそうなときもあったんすけどたぶんちがう色だから、それでおれあんまり見えないんかなって、といって、でもHくんの母君はその手の話題についてはかなり否定的らしい。Hくんの母君はすんごいおじいちゃんっ子だったらしくておじいちゃんが亡くなったときにはあまりのショックでその日の記憶がほとんどすっぽり抜けてしまっているほどで、そんななか唯一たしかに残存している記憶としてもし幽霊というものが存在するのだったらおじいちゃんが必ずあらわれるはずだメッセージを残してくれるはずだと、おじいちゃんが亡くなってから二十四時間ものあいだずーっとカセットテープをデッキにセットして録音しつづけていたらしいのだけれどなにひとつそれらしい声は残っていなかった、それ以来幽霊なんてものはぜったいに存在しないと確信するようになったと、これなかなか強烈に印象的なエピソードであるように思われるのだけれどそういう挿話の紹介された流れからHくんのご両親であったり一家であったりのそれぞれの性格から関係までざっと聞くことになって、うちの一家とはまったくといっていいほどなにからなにまで違うというかある意味では対極にあるといっていいかもしれないのだけれど、しかし一家全員愛が深すぎるなと、ひとまずはそう思った。HくんもNくんもそろってここ数ヶ月は沈みがちだったらしくどちらも死にたくてたまらない時期があったようであるのだけれどじぶんたちが死んだら確実に母親も命を絶つにちがいないというかじじつそのようなことを言われたといっていて、そういう話を親子間でするというのがまずじぶんにとってはおどろきであるし一方が死んだからもう一方も後を追うみたいな結びつきのあることもおどろきであるというかなにからなにまで驚愕だった。ちょっと気軽には書けないこと含めてたくさん聞いてからひといきつくように、おれにとっては家族ってけっこう親密な他人って感じやけどな、と漏らすと、わりとショックを受けたような表情を浮かべてマジっすかというので、いやいや他人いうてもあれやで、死んだらまずまちがいなく泣いてしまうやろなっていうくらいのやから、と取り繕った。それから二十歳のときに考えた命綱の比喩について語った。要するに人間よりどころがないと首を吊るほかなくなっちまうという話だった。ぶっとい命綱一本よりもそれ相応に丈夫なやつを数本のほうが安全だろうと続けたが、自分自身が極太の一品にすがりついたままかれこれ八年も過ごしているので、おれ小説うばわれたら一瞬で死ぬやろな、とおもわず漏らすと、でしょうね、という相づちがあった。そのような考えを抱く契機となった高校時代のできごとを語ると、Hくんはとても意外そうな表情を浮かべていた。その顔を見て、いまでこそこんなにも親しくやっている間柄であるけれどもじつをいうとHくんと知り合ってからわりと日が浅いんだなと、これまで会ったことのある回数にしたってせいぜいが五回程度なんだもんなと、冷静に考えてみるとちょっと信じられないような事実に行き当たった。Hくんからしたらこっちは根っからの自由人であり楽天家であり個人主義の人間に見えるかもしれないが(事実、前日に電車待ちの駅のホームでそのようなことをいわれたばかりだった)、高校時代はむしろ身分制社会に生まれたかったとT相手にしきりに嘆くほど「自由の刑」に処せられていたのだと(むろん当時はそんな言葉などしらなかったわけだが)、そういってみると、ぜんぜん考えられない、まったく想像できないといって目を丸くしてみせた。
ひとしきり話し終えたところで家を出た。おもては小雨だった。傘は持ってきていなかったがこの程度だったら問題ないだろうと判断した。強く降り出したらコンビニでビニール傘でも買えばいいと思った。Fくんが話すのを聞いていたときも思ったし、Hくん宅にもどる終電の車内で座席に腰かけていた若いふたりの男女がこの夜一線を越えるかいなかの駆け引きを小声で交わしているのに聞き耳をたてているときにも思ったし、あるいはまた国立新美術館から地下鉄にむけて歩いているこちらを追い抜いていった男性ふたりぐみの通りすぎざまの対話の断片を耳にとめたときにも思ったことであるのだけれど、標準語というのは西の訛りに慣れしたんだこちらの耳にはいくらか棒読みめいて聞こえるときがあって、そうは思わないかと駅までの道を歩いているときにHくんにたずねてみると、とっくの前に東京のイントネーションに慣れてしまったのでよくわからないというような返事があり、そもそもHくんの出身地の愛知は西というよりは東寄りのイントネーションかと、ひとりでに納得したふうにつぶやくと、以前のバイト先に関西出身の人間が三人いたけれどそのうち二人はすぐに標準語を操るようになったという話があって、これには仰天した。関西人というのは世界中どこにいようとなにをしていようと不屈の意志で関西弁をあやつりつづけるという強固なステレオタイプを有していたのだけれどじっさいはそうでもないらしいというか、これ前日Pらと飲んでいるときにも出た話題であるのだけれど、東京に来てからまだいちども西の訛りを耳にしていない、東京はおのぼりさんの都市であるというし先のステレオタイプを踏まえると関西弁を耳にする機会はもっともっとあるものだろうと思っていたのであるけれどぜんぜんそんな気配がない、大学だったらそれこそ地方からたくさん人間が集まるだろうからと思ってもFくんは早稲田でそちらの訛りを耳にしたことがない(あるいは友人知人のなかに西からやってきた人間はいないという言い方だったかもしれない)といっていたし、じつをいうとけっこうめずらしいというかこの都市でバリバリの西訛りでしゃべっているとやはり目立つものなのだろうかと、そんなふうなことをこぼしていると、まあ電車とかで関西弁とか聞こえてきたら「あっ関西人だ!」と思いはするよね、というやたらと納得のいくというか想像しやすいリアリティにつらぬかれた返答がPからあってそれが衝撃だった、その衝撃をHくんに伝えるとまあたしかにそんな感じですねとあって、ていうか東京に来てまで関西弁に固執してるやつはださいっていう空気なんですよ、我が強いみたいにやっぱり思われるんじゃないですかね、とあったので、そういうものなのか、と思った。Hくん曰く、雨上がり決死隊の宮迫などは本当はもうとっくに関西訛りが抜けているのに関西芸人というキャラ上の要請から無理して訛りを持続させているようなところがあるらしい。Pは大学進学にあたって山梨のクソ田舎から京都に出てきたとき、商店や飯屋で働くひとびとが本当におおきにとあいさつするのを目の当たりにして、カルチャーショックを受けたといっていた。異国の異文化という印象を強く持ったらしかった。
電車に乗るまえに簡単な腹ごしらえをしておこうとなった。むこうに到着してから遅い昼食をとってしまうと21:45発の夜行バスに乗るまえにとる夕食がつらくなってしまうだろうからという逆算の結果からだった。ネコドナルドでいちばんやすいバーガーとシェイクを注文して食べた。Hくんの高校時代からの親友にYくんという子がいて、もう何年も前にHくんから(…)さんこのあいだブログにキリンジのエイリアンズについて書いてたじゃないですか、おれ仲良いやつでエイリアンズすごく好きなのいるんですよとその存在についてにおわされたことがあったのだけれど、現在愛知に住んでいるというそのYくんとHくんとはわりと密に連絡をとりあっているらしく、日曜日などはときに八時間も電話したりするのだという。もともとHくんにせよNくんにせよけっこう電話好きであるという長電話をする兄弟というイメージはあったのであるけれどもそれにしても八時間というのはすごいなとたまげた。おたがいにカップラーメンを食べながら通話をすることもあるのだといって、HくんにとってYくんとシリアスなトーンで交わす対話というのはとても重要な時間であるようだった。そのYくんはこちらでもタイトルを耳にしたことのあるくらい有名なFPSゲームで全国優勝したという経歴があるらしく、Hくんはおまえマジプロゲーマーになれとしばしば猛プッシュしているようだった。もう何年も前にスマブラで対戦したとき、まったくの初心者であるところのYくんにそれ相応にやりこんでいたはずのHくんはなすすべなく完敗したらしい。このおそるべきエピソードはわが実家のむかいに住んでいたふたつ年上のSくんを彷彿とさせる。Sくんは操作方法を教えてあげたばかりの『パワーストーン2』の対戦でいきなりこちらを完膚なきまでにボコりまくったのだった。二十代も半ばを越えると赤の他人からしてみればそれってけっこうすごいやつなんじゃないのと驚かれる程度の経歴を有したひとりやふたりいつのまにか手の届く範囲にいたりするもんだよねと話しあった。Yくんもまた『亜人』を読むか買うかしてくれたらしかった。
電車を乗りつないで国立近代美術館に出向いた。お目当てはWさんに教えてもらった岡崎乾二郎だったが、どうせだったら見てまわることのできるものぜんぶ見てまわろうかということになって、ひとまず工藤哲巳の回顧展から見ることにした。工藤哲巳についてはかつて『肉体のアナーキズム』経由で名前を見知るにいたったはずなのだが、じっさいの作品を見るのは今回がはじめてだった。これほど年代順に作品の展示されておもしろい作家もそうそうないなと思った。まず男性器の露骨なイメージがあった。男性器というモチーフを中心にグロテスクで悪趣味な芸風がしばらく続くと(抜け殻!皮膚!脳みそ!奇形!)、ある一時期を境に今度は染色体=糸が出現する(もちろんその染色体=糸もたとえば人間の割られた頭からのぞく脳からのびてたれさがっているというグロテスクで悪趣味な文脈を踏まえて登場する)。そこから糸を用いた一群の作品が続くのであるけれど、それがやがて糸によって編まれた特殊な凧の制作へと転換し(この凧は青森かどこか地方の伝統的な凧だったような気がするがよく覚えていない)、凧はやがておなじ糸によって編まれた人魂のフォルムを得る事になるのであるけれどもこの人魂にはまちがいなく精子のフォルムが重ねられている。つまり「意味」なり「フォルム」なり「物質」なり、ある一群の作品から次の一群の作品へと異なる次元の論理でしかしたしかに手渡されていくバトンの軌跡のようなものが認められるこの通事的な道筋がまずおもしろかった(もちろんこんなものは細部を捨象し例外に目をつむった要約=物語にすぎないのだが)。ルーレットを用いたガラクタめいたオブジェの初期作品と、どくろと糸とパラソルを配置した最晩年の作品、それに奇妙に落ち着き洗練されたいくつかの平面作品が気になった(これはすなわち「はじまり」と「おわり」と「例外」が気になったと換言することもできるかもしれない。そうしてもっともこの作家の作家性を感じる一連の作品については先に述べたようにその変遷の過程を「読む」のがなによりもおもしろかった)。
Hくんの姿を見失ってしまったのでそのまま次の展覧会場にいった。エレベーターで四階にあがり、そこから一階ずつ順に下におりていった。まずクレーがあり、ブラックがあり、ルソーがあった。さすがだった。ブラックの絵画をおもしろいと思ったのははじめてだった。次の階におりたところでHくんの姿を見かけた。先に行ったものばかりと思っていたのだが、じっさいは工藤哲巳の一連の作品を見てまわったところでどっと疲れてしまい、休憩していたらしかった。現代美術を見てまわるとき特有の脳の疲れを感じるといった。
誤算が生じた。18時だと思っていた閉館時間がじっさいは17時であった。残すところ15分を切っていた。これはまずいとなった。せめて岡崎乾二郎だけでもじっくり目にしたいと思ったので、そこからはほとんど早歩きで展覧会場をめぐった。早歩きの過程で目をひくものがあればやや立ち止まるという方式だった。岸田劉生があった。金色の使い方、というかあの独特の色調、とくに幼い娘のほほを描くにあたってのその光のあてかたがよかった。植田正治の写真作品が一点だけあった。こんなところで出くわすとはとおどろいた。もうずっと以前に、それこそ大学を卒業してまもないころだったかに、鳥取砂丘で撮影された彼の一連の仕事を図録で追ったことがあった。Hくんは東山魁夷の大作を目にするなり、やっぱいい、すごくいい、と嘆息をもらしていた。そうして最後のフロアで岡崎乾二郎草間弥生を見た。どちらもえげつなかった。こんな言い方が許されるのであれば、想像通りに想像以上だった。岡崎乾二郎のあの作品についてはネットで画像をときおり眺めながらやっぱいいなーと思っていただけだったので、こうしてじっさいに目の当たりにしてみるとなによりもまず、こんなにもでかかったのか、という衝撃が先にたった。そういう意味でマティスの赤の部屋をはじめて目にしたときと同じ驚きだった。余白を生かすにあたってあの黄色がなによりも大きいなと思った。あるいは黄色を置くことによって余白が余白ではなくひとつの充実した色彩としての権利を獲得する、ということなのかもしれないが。
ミュージアムショップで岸田劉生の《道路と土手と塀》のポストカードを購入した。これは先日Hくんと浮世絵談義をしていたときに話し合っていた、三次元の風景を二次元に無理やりたたみこんだような独特のいびつさ、二次元の平面に三次元的な奥行きを再現する通常の手並みではなく二次元の平面に二次元的な奥行きを生じせしめたきわめて絵画的な絵画だと思った。いい絵を見たときに必ず生じるそわそわがこれを書いているいま、購入したポストカードにふと目を落としてみるだけでもやはりかすかにうずく。この実感だけを信じたい。
雨がひどくなっていた。おまけに風まで吹いていた。Hくんが折り畳み傘をひとつ持ってきてくれていたのでひとまず相合い傘で駅まで逃げ込むことにした。紙袋に入れたこちらのパソコンをHくんがやたらと気にするので、着替えのヒートテックでぐるぐる巻きにすることで防水対策をほどこした。駅の売店でビニール傘を500円で購入し、それからふたたび地上に出た。歩いていける距離にHくんが前々から気になっていたカレー屋があるらしかったので、そこへいこうという段取りになっていた。おぎやはぎがラジオで絶賛しているものらしかった。Hくんはお笑いが好きで有吉とおぎやはぎのラジオは毎週かならず視聴しているといった。有吉のラジオについてはYouTubeはがき職人のえげつないネタばかりをまとめた3時間近いものがアップされておりそれを酔っぱらった状態でちびちび聞いてはゲラゲラ死ぬほど笑うというのを一時期よくくりかえしていたのでそう告げると(ここにある→http://www.youtube.com/watch?v=FqRYlkDReHY)、(…)さんお笑いとかまったく興味ないんだと思ってましたといわれた。正直いってあんまり興味ないけれどただ基本的にPTAの嫌いそうなネタはけっこう好きで、YouTubeにあがっているものだったらタレント名鑑という番組の検索ワードのクイズとかも自主規制のモザイクばっかで死ぬほどおもしろいし、あとその番組に出演しているおなじ面々でやっている番組の小梅太夫で笑ったら即芸人引退というコーナーもたぶん三回くらい見てて(http://www.youtube.com/watch?v=SjBYRdsIMfo)、酩酊時の最高のおともになりつつある、というと、こちらのリストアップしたものをHくんもすべて押さえていたというかむしろどんぴしゃで大好きだといっていて、おもわぬジャンルで趣味がかぶったものだった、やはりこの男とは気が合うと思った。カレー屋は神保町にあるらしかった。ビニール傘の強風にあおられてうらがえってしまった勤め人らの姿を尻目に黙々と歩いた。疲れていたし、雨も風もますます強くなりつつあった。やがてちらほらと書店の姿が見えはじめた。雑居ビルの下から上までがすべて古書店で埋まっているのを見上げながら、さすが古書の町だと思った。それから岩田宏を思った。彼があの感傷をぶつけた町がここなのだと、オーバーの襟をたばこの火で焦がして階段をおりて、魔法使のさびしい目つきを浮かべたのがこの町なのだと、こわしたいけどこわせないもののむずかしいいとおしさを噛み締めたのがここなのだと、よみがえる詩片のままに思った。
うわさのカレー屋をようやく見つけた。一階がやはり書店になっている雑居ビルの二階にあった。二階にあがるとフロアがぬるぬるとして足をとられそうになった。ものすごい油だった。店に入ると奥のテーブル席に通された。おぎやはぎはここのチキンカレーをおすすめしていたとHくんがいうので、だったらそれいくしかないだろうということでチキンカレーをふたつ注文した。カレーはけっこう辛いほうだと店員さんがいうので、ふたりとも甘口を注文したのであったが、しかしこれはふつうに中辛でもよかったかもしれないとあとになって思った。Hくんはなにやら小洒落た酒を注文していた。こちらはオレンジジュースを注文した。カレーは率直にいってクソ美味かった。こんなにも美味いカレーは今までに食ったことがなかった。ほとんど言葉を交わすことなくひたすらにひたむきに黙々と食べ続けてしまった。完璧だった。思い出すだけで唾がだらだら出てくる。美術館疲れにくわえて満たされた空腹の効果もあり途端に眠気をもよおした。ぽつりぽつりと言葉を交わしたはずなのだが、眠気にまぎれてよく覚えていない。眠気に見舞われた状態でしゃべっているとじぶんが催眠術にかけられてなにかしらの秘密を自白しているような気分になることがときおりある。駆け引きや戦略から遠く離れてただ洩れ出すだけの言葉の印象のせい、ゆるんだ蛇口から一滴ずつしたたりおちる言葉たちの響きのためである。コーヒーをふたつ追加で注文した。近いうちに『亜人』販売促進のためにtwitterをはじめるというようなことをいった。これは科学博物館で昼食をとっているときにも話したことだった。ブログは閉じるつもりだが、もうちょっとだけ匿名性を強化したうえで、どこかよその辺境で続けることになるかもしれないというと、ぜひ続けてほしいと頼まれた。Hくんも基本的に毎日ここをのぞいてくれているらしかった。読むのが日課のようになっているのだといった。
カレー屋をあとにした。おそらく19時近かったんではないだろうか。バスの出発は21時45分だった。新宿まで出向かなければならなかった。電車を乗りつないだ。座席に腰かけてうたた寝した。とちゅうで間違った電車に乗りこんでしまった。Hくんは玉川上水に戻るために西武新宿線に乗らなければならなかった。そこでお別れの予定だったが、夜行バスの待ち合い場所につづく複雑な道のりを気の毒に思ってか、スマートフォン片手にひとまず新宿駅の南口まで送っていくといってくれたので、お言葉に甘えることにした。待ち合い場所までの道順についてはパソコンのほうに送られてきていたメールを携帯に転送してあり、その文章にしたがって歩く必要があった。去年の夏、HくんとSと三人でやはり新宿にある待ち合い場所を探して歩きまわっていると、それほど長い時間迷っていたわけでもないというのに、Sの機嫌がみるみる悪くなりだして、ごめんなさい、わたしが悪いの、でもイライラしちゃって、というその言葉に、なんなんだろこの娘!と思ったと、これは先日Sの京都に滞在していた期間の写真を見せているときにHくんがいまだからいえるけどのていで打ち明けた言葉だった。あれと二カ月いっしょにおったってほやしそのしんどさわかるやろ、と重ねて同意を求めると、でもいい思いしてるんだしいいじゃないすか、とあって、そりゃまあそのとおりだけど、となった。鞍馬寺の階段をおりているじぶんの写真を見て、ああほんとだ、肩回りでかくなりましたね、ていうかこのときの(…)さん痩せまくってますね、とHくんはいった。
残すところは直線のみとなったところでここからはもう大丈夫だからとHくんを制した。カレーごちそうさまでした、というのに、ほんじゃまた次は京都か東京かわからんけどどっかでね、と手をふった。待合室は雑居ビルの二階だった。去年の夏に利用した待合室にはパソコンがあったり簡単な着替えのためのスペースがあったり飲み物のたぐいが提供されていたりしたのだけれど、今度のはまったくの殺風景であるというか、壁際にただネコドナルドのカウンター席のようなものがずらりと設けられている部屋の中央に乱雑に配置されたクッションというかソファというかそういうものが置かれているだけの空間で、飲み物を買ってこなかったことを後悔した。近所のコンビニに買いだしにでもいこうかと思ったが、雨降りのなかをわざわざ出かける気にはなかなかなれなかった。出発まで一時間少しあったのでカウンター席に腰かけ、パソコンを取り出して11日分のブログの続きを書いた。待合室にはこちらが利用しているバス会社とは別のバス会社の利用者も集まっているらしかった。まずそちらの人員らが呼び出されておもてに出ていった。そのタイミングを見計らってパソコンの電源を落として席をたつと、まもなくこちらの利用するバス会社の係員がバスの停車場のある位置を示す地図を掲げながら、こちらに移動してくださいと指示を出した。地図を丹念にチェックする必要はなかった。慣れた利用者らの惑うことない足取りについていきさえすればそれで万事オーケーだった。
道路のわきに一列になって並んだ。アルバイトらしい若い男性スタッフの質問に応じてこちらの名字を伝えると、行きのバスとおなじ最後尾の座席を指定してあったにもかかわらずそこではない別のシートに着席するようにいわれたので、指定してあるはずだがと応じると、予想通り乗員らのなかにもうひとり(…)がいるらしかった。列の前には父と母と祖母と娘の四人家族がいた。家族で夜行バスに乗るというのはどういう気分なのだろうと思った。
22時をまわって出発した。プライベートカーテンの不具合までそのままの最後尾だった。遮光カーテンのむこうにもぐりこんで車外の景色をながめた。渋滞にひっかかってトンネルのなかで立ち往生しているらしく退屈な景色ばかりが続いた。最初のパーキングエリアに達するころにはすでに出発から一時間以上経過していた。そこを出ると完全消灯だった。すでにひとの寝息もいくらかたちはじめていた。外をながめるのをやめにして倒した座席に横になった。暑かった。ぜんぜん眠れそうになかった。車内は暑かった。セーターを脱いでシャツのボタンもすべて外した。それからHくんの音楽をiPodで聴いた。iTunesで再生回数が1位になっている、Sも大好き楽曲だった。そのことを伝えると、高校生のころにすでにメロディは思い浮かんでいたものの当時はかたちにすることができなかった、それを専門学校に進学したあとにいまならできるだろうと思ってかたちにした思い入れのある楽曲なのだとHくんは語った。音楽をkath bloomに切り替えた。低い位置を流れていた感傷がだんだんと波立ちつつあった。さみしさが募った。こんなきもちになるとは思ってもみなかった。自宅に泊まりにきた友人らがまとめて去ってしまったあとの散らかった部屋でひとり気のぬけたように立ちつくしている中学生のころの記憶がよみがえった。はしゃぎすぎたあとの虚脱だった。またさみしいと思った。Sに会いたいと思った。出どころの異なるさみしさが思わぬものをひきよせたかたちだった。だれでもいいから寝たいと思った。