20140326

それに、私がときどきクリント・イーストウッドの映画を見にゆくのは、社会学的観点からの興味をひかれるからです。彼の映画は、すべての人たちによって見られる、アメリカの中級の映画、B級映画ヒッチコック的映画だからです……彼はどうしようもないバカで、彼の映画も、彼の表現そのものではないのですが、でもそのどうしようもないバカが、私自身も含め――私は彼の映画を見るために五ドル払います――、人々に対してある一定の力をもち、人々を感化し、人々に気に入られているという事実が私の興味をひくのです。だから、彼の映画はある種の世界の表現なのです……
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

 ひとは出発点においてはむしろ主観的で、あとになって、自分の主観はほかのなにかによってコントロールされているということに気づくことになります。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)



 10時半起床。昨夜からの雨がまだ降り続いていた。すこしだけ肌寒い。歯を磨きストレッチをし、パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。くしゃみをしたり咳き込んだりするたびに背中が痛むのは頸椎が原因らしい。ぎっくり腰ならぬぎっくり背中なるものがあるのだという。知らなかった。くしゃみや咳は発症のきっかけにもなるらしく、もともと頸椎に負担のかかっていたところに花粉地獄でくしゃみをしまくったその結果として、どうやらこのような事態をまねくにいたったとみえる。厄介なことだ。このまま頸椎を痛め続けるとまだまだ老後などとはとてもいえない若いうちから車椅子生活なり寝たきり生活なりになってしまうんでないか。なるべく元気に長生きしたい。
 昨日付けのブログを長々と書き記した。一区切りつくころには14時半をまわっていた。それからきのうSと通話しているときにすでに目を通していたWさんからのメールに返信した(これでひとまずブログの引っ越しを告げたひとたち全員から返信を受け取ったことになる)。Wさんは岡崎乾二郎の芸術理論の講義を受けていたらしい。たしかにこれまでいただいたメールの文面からして文章にたいして意識的にたずさわっているひとであるのはまず間違いないだろうとは推測していたのだけれど、芸術理論というのは意外だった。『A』を献本させてもらったときの記憶がたしかなら現在神奈川在住だったように思うのだけれど、実家が奈良にあるとのことで、ついては夏に帰省するそのついでにそちらで会えないかとあったので、もちろん了承した。今年の夏は外国に出る予定もなければ外国人のやって来る予定もない。コーヒーをのみながらだらだらおしゃべりでもできればと思う。
 15時より17時まで「G」作文。プラス2枚で計257枚。BGMは『Pac’s Life』とKanye West『Late Registration』とAlbert Ayler & Don Cherry『Vibrations』。あたらしい断章をとても丁寧に時間をかけて書いてみた。そういう書きかたを採用するとだいたい一日につき断章ひとつ書ければ御の字という遅筆を余儀なくされる(そしてひとつ仕上げるころには頭がパンクしてぶっ倒れる。今日も布団のうえに倒れこんでうつぶせのまま15分ほど落ちてしまった)。でもそれでいい。思い出した。たしかにこの感じだった。「G」を書き出した当初は断章のひとつひとつに抜き身の真剣と対峙するときのような緊張感があったのだ。破格にかたむくかいなかのきわどい域にとどまり、意味の細い筋道をそこにつけて、密度に執着していた。それがいつのまにか手癖にあまえるようになっていた。間に合わせの語彙でそれらしくとりつくろうものをとりつくろう量産体制に入っていた。 でもそれじゃあだめだ。ぜんぜんだめだ。そんなものは小説の執筆とはいえない。やっと正気にかえることができたという感じだ。だめなところはぜんぶ書きなおす。それか削除する。この作品に「鈍さ」はまったくもって必要ない。方針が固まると覚悟も決まる。最高にやばくてするどくてきれきれにさえわたってとがりまくったイルでドープな「文」のかたちを探求するのだ。
 腕立て伏せをした。それから雨のやんでいるうちに近所にあるぼったくりスーパーに出かけた。やっぱりスウェットにウインドブレーカーである。納豆と水菜だけ購入して帰宅後、玄米・納豆・冷や奴・茄子の浅漬け(手作り)・水菜のサラダに茹でただけの鶏胸肉をのっけたしょうもない夕食をかっ喰らった。そうして20分の仮眠をとった。
 サイゼリヤにいって文法問題集を解くつもりだったが、耳をすますまでもなく聞こえてくる激しい雨音に出足をくじかれる格好になった。シャワーを浴びてストレッチをした。22時半だった。そこから発音練習と瞬間英作文を1時半まで延々と続けた。文法問題集よりも先に英作文のテキストをさっさと片付けることに決めた。これまでの二冊それぞれ20周ずつこなしているので今回もそのつもりでいる。とりあえず折り返し地点はすぎた。来月中には片付くだろう。「G」にたいするモチベーションが高まりつつあった最近だけれども(そして入れ替わりに英語にたいするモチベーションが急降下しつつあったけれども)、Sとのスカイプのおかげでそのあたりもうまくバランスをとりなおすことのできた気がする。「作文」「英語」「読書」の三本柱だ。この3コマを転がしていくという当初の方針に準拠する。
 日曜日に友人らと福岡旅行に出かける予定らしいTから土曜日の晩に泊めさせてくれと連絡があったので了承した。
 そのTが去ってしまったために仕事明け日曜日の晩がどうにも手持ち無沙汰になってしまったと昨夜の通話中に告げると、じゃあどうしてわたしに電話してこないのよ、とSは両手を顔の高さにふりあげながら大声でいった。それから彼女の一週間の時間割が披露された。それによると月曜日と火曜日は朝から晩まで大学、水曜日はオフで日中はメディテーションセンターにいったり芝居のワークショップに出かけたりして過ごす、木曜日と金曜日は大学か自室のいずれかで作業、土曜日と日曜日は自室で作業とのことだった。自室にいるときはだいたいいつもログインしている、でもあなたがログインしているところを見かけたことはほとんどない、あなたはもっとオンライン上に姿をみせなきゃだめよ、と続けた。かわりにこちらの時間割も披露した。月曜日から金曜日は朝から晩まで自室で作業、土曜日と日曜日は朝から晩まで仕事、と端的にいうと、そんな生活わたしだったらぜったいに気が狂ってしまうわ、とため息をもらした。英語を日頃使う機会がないと漏らすと、京都で彼女が発見したという外国人のよく集まるカフェの名前を教えてくれた。で、送られてきたウェブサイトをチェックしてみると、とてもすこやかにわいわいみんな仲良くやっているような写真が数枚アップされていて、こんなにも健康的で邪気のない空間にいったいどうして入っていけるのだと思った。アングラ(文化的にではなく社会階級的なほう)にちょっと慣れすぎてしまった。無理だ。こんなところ一歩でも足をふみいれたらきっと蕁麻疹だらけになってしまう。
 スカイプを切る直前、Sはカメラにむけて二度三度投げキッスをしてみせたのだけれど、ああいうの、やっぱり西洋人がやるとすごく絵になる。あごをやや高く掲げてみせる角度とか、くちびるの音のたてかたとか、キスをうけとめた手の送り出しかたとか、あるいは日本人が投げキッスのまねごとをしてみせるときってたぶんだいたいのひとがそろえた四指にキスすると思うのだけれど彼女の場合はたぶん手のひらに近いところにしていてそこのところのちがいが案外おおきな印象の差となってみえるのではないかとか、今日風呂に入っているときにすこしいろいろ思った。外国人のお辞儀がどこか不自然にみえる原因についてはすでに数年前に解明済みでそれについては以前のブログにも書き記したし「G」にも断章のひとつとして採用している。
 ブログを途中まで書き記したのち眠気をもよおしたので布団にもぐりこんだ。そうしてしばらくぶつくさやったところで消灯した。4時だった。