20140327

そして私が観客のことを考えるようになったのは、たとえば『カラビニエ』の場合のように、自分がつくった映画が興行的に大失敗におわったとき……とてつもない失敗におわったときです。『カラビニエ』は、二週間で十八人の観客しか入らなかったのです! 私はそのとき……十八人といえば数えることができるわけで、だから私はそのとき、《その十八人というのはいったいどういう人たちなんだろう? ぼくはどうしてもその人たちのことが知りたい! ぼくはこの映画を見にきたその十八人の人にどうしても会ってみたい。あるいは、その人たちの写真を見てみたい》と考えました。私が本当に観客のことを考えたのはそれが最初です。そのときの私には、観客のことを考えることができたのです。私が思うに、スピルバーグには観客のことを考えることはできません。どうすれば千二百万の観客のことを考えることができるでしょう? 彼のプロデューサーには、千二百万ドルのことを考えることはできます。でも千二百万の観客のことを考えるとなると……それは完全に不可能なことなのです! だからなかには、観客のことを観客一般として考えようとする連中もいますが、でも実際は、観客というのは個々の人間として考えるべきなのです。それに私は、私の娘が私がつくった映画を五分間見るのにも我慢できなかったり、そのくせ、コマーシャルとかアメリカのシリーズものなら何時間でも見ていたりするのを見ると、なにかを考えさせられます。《あんなものを見てもまったくなんの役にも立たないのに》などと考えます。私には彼女を恨む権利はないのですが、それでも、いくらかは恨んでいます。ときどき、彼女の食いぶちを出すのがいやになったりするのです! だから私はそのとき、観客のことを考えているわけです。私は観客と現実的な関係を結んでいるのです。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

 これクソ笑った。



 10時半にいちど起床したが死ぬほど眠たかったので二度寝して11時に再度起きたがそれでも眠たかった。ひどい眠気をかかえてうつらうつらしながら歯を磨いた。洗顔すると多少は目がさめたので部屋にもどってからストレッチをしてパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとり、昨日付けのブログの続きを書いてアップした。フルクサス創始者であるジョージ・マチューナスがリトアニア人であったことを検索のいたずらによって知った。ジョナス・メカスリトアニア人である。たぶん両者ともSはまったく知らないんだろうけど。
 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』の続きを読んだ。なかなか読み終わらない。それほどおもしろいとも思えない。ああこういうパターンかと手の内が読めてしまえるだけならまだしも同じ方法を踏襲すればじぶんのほうがもっとうまく書けるといちど思わされてしまうとあとに残るのは貧乏性の義務感だけである。つまり、「ここまで読みすすめたんだから最後まで読まなきゃ!」。
 16時を前にして家を出た。O大学の前を通りかかると五分咲きの桜が目にはいった。日当りのよいところではすでに八分咲きである。銀行のATMで五万円おろして図書館にいった。それからスーパーで買い物をすませて帰宅した。
 夜にはジョギングを控えているので早めの食事をとろうと思った。玄米・冷や奴・もずく・広島菜のおひたし・水菜とレタスのサラダ・茹でた鶏胸肉を食べた。それから「一年前の今日」の日記読み返しが三週間分ほどたまっていたのをすべて読んだ。その過程でたまたま目に触れた五年前の日記にすこしおもしろいアフォリズム風の一行があったので「G」に採用することにした。ほかにもいくつかおもしろいところがあったので一年後のじぶんにむけてここに再掲しておく。

蒸発した野望が試験管の底で揺れて
発見されるまえの日射しがうろたえた寝顔に点を打つ
だれも信じない夜
知らない記号がきみと悪魔を見てる
(2013/3/9)

たとえばドゥルーズ=ガタリが「人」+「馬」+「武器」=「遊牧民(機械)」になるみたいなことをどこかで書いていたけれども、その公式を人という特権的な所有者(中心)とその所有物(周縁)というふうに解するのではなく、権利上対等な関係同士の融合・合体すなわち変身の結果であると見なし(先の公式の=を→に置き換えるイメージ)、「遊牧民(機械)」とは「人」+「馬」+「武器」の三要素の組み合わせではなく(所有物である馬に乗り所有物である武器を手にした所有者であるひとの姿ではなく)、あくまでも分節しがたいひとつなぎの存在であると考えるその思考回路を、「いま・ここにおけるこのわたし」という具体的な個物(「わたし」という抽象的に記号化された対象ではなく)、取り替えのきかない実存にあてはめてみるとする。すると「いま・ここにおけるこのわたし」というものの成り立ちとは、その具体性(時-空間性)ゆえに到底数えきることのできない無限の要素の融合物であるということがわかる。「遊牧民」が「人」と「馬」と「武器」の合体変身であると形式的にいうことができても、具体性(時-空間性)を含み持つ「特定のこの遊牧民」を「特定のこの遊牧民」たらしめる要素は無限の細部にあまねく行き渡っているために形式的に表現することができない。彼が彼として生成されうるためには彼の出自に集約されうる時間的な因果の無限退行と、(被)所有・(被)所属関係の名のもとにきりもなく結びつく空間的な無限連鎖とが(それらは同一の事柄の別な言い換えでしかないのかもしれない)ともに窮められる必要がある。仮にその遡行を窮めてみようとでもいうならば、それは最終的にこの世界そのもの、いま・ここそれ自体のまったき肯定へと帰結するほかない。「いま・ここにおけるこのわたし」を「いま・ここにおけるこのわたし」たらしめる条件の、根拠の、原因の、遡行的な探究によって、ありとあらゆる歴史(時間)がわたしの起源として回収され、ありとあらゆる存在(物質)がわたしの構成物として回収される。世界は時間的にも空間的にもわたしという自我、自己イメージ、輪郭の拡大によって覆い尽くされることになる。わたしと世界はぴたりと隙間なく一致するにいたる。恍惚の境地とは、永遠の形象とは、そのようなものではないだろうか(恍惚体験を語るクリシェとして自我の拡張もしくは自我の消滅が散見せられることから、なんとなくそんなふうに思っただけにすぎないのだけれど)。
(2013/3/11)

今日のSとの対話からというよりはむしろ昨夜弟のことを考えていたときにふと思ったことなのだけれど、だいじなひとにみじめな気持ちになってほしくないという願望がじぶんにはあるらしいことに気がついた。みじめさというのは不思議な感情(?)で、じぶんがそれに晒されたり見舞われたりしている分にはまだどうにか耐えられるのだけれど、親しくしているひとがそれに晒されたり見舞われたりしているのを見るとそれだけでもう耐えがたく、いてもたってもいられないような、見ちゃいられないような、そんなしんどさ、狂ったような痛ましさに苛まれてしまい、滅多に出ない涙さえあふれそうになるものだ。じぶんはたぶんだれにもみじめな気持ちになどなってほしくないのだと思う。
(2013/3/26)

 Hくんからブログはじめましたメールが届いた。指定されたアドレスを打ち込んで記事を読んで、それから仮眠をとるために布団にもぐりこんだのだけれど眠気はいっさいもよおしておらず、食後なのにめずらしいことだと思いながら蛍光灯のまぶしさに耐えかねて掛け布団で顔を覆ったところまもなく眠りの淵に落下して、めざましをセットするひまさえなかった。