20140408

(…)私が自分は観客の近くにいると感じるのは、もっぱら、私が映画を自分自身のために必要としているからです。そうでなければ、私は映画をつくったりはしないはずです。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

(…)かりにわれわれがあるスターを選んで契約をかわし、その足しか撮らないとしたら……顔はときどきしか撮らないとしたら、どうなるでしょう? 顔はどうして、体のほかの部分より重要なのでしょう? そう……顔は言語と結びついているのです。でも私には、原始時代においてもそうだったとは思えません。当時の絵画として残っているものから考えて、重要なのはむしろ仕種だったのです。弓を射ったり果実を摘んだりする仕種の方が、顔よりも重要だったのです。ところが今では、顔しか残っていないのです……
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)



 10時半に起きた。6時間あるかないかの睡眠だと目覚めてもしばらく気だるさのつきまとう体質にいつのまにかなってしまっていることに気づいた。もういちど体質を改善していかなければならない。6時間も眠ることができたらすっきりしてしようがないというところまでもっていきたい。うらやましい人種がふたつある。ひとつはショートスリーパー、そしてもうひとつは速読家である。けっきょく時間にかかわる。どちらとも縁のないままここまできてしまった。獲得しそびれたメリットを埋め合わせることのできるゆいいつの可能性といえば残すところ長命だけである。だが、これもいくらかこころもとない見通しだ。病気知らずのタフになりたい。
 歯を磨いてストレッチをした。パンの耳をトースターにセットし、ティファール片手におもてに出て、水場で湯をわかした。小便をすませて水場にもどり、ぐつぐつと音をたてはじめたティファールをながめていると、日傘をさした貴婦人めいた中年女性がふたり、まるで阿片窟にはじめて足を踏みいれるNGO所属の新人ナースみたいなおずおずとした足取りで敷地内にあらわれた。茂みに隠れた熊を追い払う鈴の音のような声で、こんにちはー、とだれにともなく声をかけるのがきこえたので、こんにちは、と彼女らのほうからこちらの姿の視認できる位置に身を乗り出して応じると、まさかほんとうにひとがいるとは思ってもみなかったとでもいうような驚きの表情にぶつかった。それからやや気をとりなおしたふうに、とても丁寧な物腰と鼻にかかった作り声で、来週の月曜日にとても重要な集会があってそのご案内にとあったので、ああエホバかと思った。白いローブを身にまとった顔の濃い西洋人男性のきらきらした微笑みがどこまでもくどい絵柄で描かれてあるあの紙きれを受けとってティファール片手に部屋にひきかえした。その背中に、今日はいい天気で、と投げかける言葉があったので、ほんまですねと応じ、戸を閉めた。
 パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとりながら定点観測に立つと、紙本が2冊売れていたので小躍りした。印税祭りじゃー! ワッショイ! ワッショイ! 朝のウェブ巡回をこなしていると、Fくんの知り合いらしい人物がその2冊の購入者であるらしいことが彼の日記から判明した。
 二杯目のコーヒーを飲みおえると眠気の芯のようやくほぐれてきたような感じがあった(封をあけたばかりのコーヒーのにおいがすごく好きだ)。12時半だった。昨夜のリベンジというわけではないが、どうにも歯切れのわるいところがあったような気がしたので、時間割を変更して「G」の改稿作業に着手することにした。Arto LindsayEminemを聴きながら15時まで書き加えたり削ったり削除したりした結果、マイナス1枚で計264枚。けっこうしんどかった。断章形式であるそのためにたった一語のセレクトで記述の印象がおおきく変わってくるところがあって、たとえば「A」の場合だったら不可視の(しかしかならずどこかに存在するはずの)「正解」と誤差2〜3%までの語彙だったら使用を許せたのが、「G」の場合は1%未満でなければ許せないみたいな厳密さが要請される、そういうところがあって、これがけっこうきつい。作業開始後一時間もたたぬうちに頭のなかがわやになってくる。400枚はちょっときびしいかもしれないと思った。300枚くらいでいいかもしれない。あるいは通し番号で300とか? いずれにせよ年内にはどうにかして出版までこぎつけたい。そうしてあたらしいものを書きはじめたい。
 THA BLUE HERB『Sell Our Soul』を流しながら腕立て伏せをした。それから炊飯器のスイッチを入れてスーパーにケッタで買い出しに出かけた。帰宅してから米が炊けるまでのあいだ福永武彦が現代語訳している『今昔物語』をつまみ読みした。Sの来日が確定して英語の勉強に集中することに決めたちょうど一年前のいまごろ積ん読本をダンボールに片付けてしまっていたのをふと思い出してふたたびとりだしたそのなかの一冊で、Yさんにもらったやつだった。陰陽師とか土地神とか出てきておもしろい。たしか柄谷行人がどこかで(近代)小説の起源として新聞の三面記事を挙げていたように思うのだけれど、『今昔物語』も基本的にはいついつどこどこでこんなできごとがあったよといううわさ話というかゴシップ記事というかそういう案配のもので、いちおうとってつけたような教訓みたいなものもあることはあるしなかには教訓が先んじて作りなおされ語りなおされたんでないかと思われる挿話もあるのだけれどそれでも基本的にはなによりもまずエピソードの紹介に徹している。で、余計な描写などは可能なかぎりひかえられているようにみえるのだけれど、冒頭「いまはむかし」と続いたのちその挿話の主役の名と役職が説明されるおきまりのフォーマットがあってそのなかでかならず主役の父親や親族についても詳細に説明が入るあたり、ギリシア悲劇なんかで神とも人ともつかぬあの英雄らがかならずだれだれの子なになによみたいにその出自もふくめたひとつらなりの名で呼びかけられているのを想起したりもするのだけれど、じっさいは古い小説の冒頭なんかによくある作者が顔をだして以下に述べるのはじっさいにどこどこであった出来事を作者であるわたしが書きくだしたものである式のあいさつをしてみせるのとおなじで、要するにこれは過去にほんとうにあったできごとなのだと保証する意味でのものにすぎない。フィクションがフィクション固有のリアリティを持ち得てある現在とはちがってフィクションはフィクションにひらきなおることなどはけっして許されずむしろそれが現実のできごとであることをきちんと断り証明しなければならかった時代の技法である。蛇にとりつかれた女の話みたいなのがあって、その話のなかでは蛇が女の子のほそ(女性器)のなかに入りこんでしまうのだけれどそれをたしか陰陽師、じゃなかった医者だったかもしれないけれどとにかくそういうひとが薬湯を蛇の入りこんだところに注ぎこむとあれよあれよというまに蛇がでてきてハッピーエンドみたいな、そういう話であるのだけれど最後にいきなり《そこで娘は、名医の薬湯のおかげで危ない命を取りとめ、そののちはくれぐれも注意して蛇を近づけることのないようにしていたが、三年ほど経ってから、またまた蛇がこの娘に婚いで、とうとう娘は死んでしまった。これも前生からの定めごとであろうと知って、この時は治療をすることもなかった。》みたいな記述がさらっと書きつけられたりしていてちょっとすごい。《前生の定めごと》がさも当然のものとして受け入れられていた時代、ほんとうになんでもないふうに書かれている。
 玄米・納豆・冷や奴・ほうれん草のおひたし・水菜のサラダ・茹でたささみを喰らったのち20分ほどの仮眠をとった。とてつもなく深い仮眠だったので身を起こすのに難儀した。風呂場にいってシャワーを浴びてひげを剃った。それから部屋にもどってストレッチをしたところでまだ21時前だったので、外に出て読書でもしようかと思ったが、迷ったすえ結局自室にこもることにした。Tがサイパン土産にくれたゴディバのチョコをつまみながらコーヒーをがぶ飲みしつつ『ルネッサンス 経験の条件』(クソおもろい!)と『今昔物語』を交互に読みすすめた。バナナも2本食ったしパンの耳も2枚食べた。きりのよいところまで読み進めたところで中断し、ここまでブログを書いて寝た。