20140409

 私はいつも、映像をつくる人たちは音楽を必要としているのに、音楽家は映像を必要としていないという事実を、不思議なことと……おもしろいことと思ってきました。私はよく、アメリカ映画でであれ心理的映画でであれ、あるいは戦争シーンでであれラヴ・シーンでであれ、音楽が聞こえてくると、カメラがパンなり移動なりによってオーケストラをとらえてくれないものかと思ったものです。そしてしばらくして、カメラにまたもとの場面にもどってもらうわけです。つまり、映像を見る必要のない個所では、音楽は映像からバトンを受け取り、なにか別のものを表現することもできるはずだということです。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

 (…)すべてのものが動きを止めてしまうような重大な社会的出来事に際しては、多くの人が、明るい光のもとで自分をよりよく見つめたり、ものごとを観察するための時間を獲得したりすることができるのです。私が六八年五月のパリのことでよくおぼえているのは、通りを歩く人たちの足音が聞こえてきたときのことです。ガソリンが品切れになったために、みんなが歩かなければならなくなり、その足音が聞こえてきたのです。あれはまさに異様な感じでした。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)



 10時半に起きた。起き抜けに鼻をかむといつも血と痰が混じってすごいことになっている。歯を磨いてストレッチをしたのちパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。
 15時まで「G」作文。枚数変わらず264枚。しんどかった。おおいに麻痺った。使える記述とそうでないものを冒頭からざっと選別するだけのつもりなのにいちいち馬鹿丁寧に手を入れなおしてしまう。「いったん見逃す」ということができないこのオブゼッションのせいで立ち往生してしまう。なぜたった三行を修正するのにまる二日間もかけているのか? バカだ。こんなのぜんぜん経済的じゃあない。
 夜の出発に備えて長めの仮眠をとった。17時前に起きてふたたびデスクに向かっているとTから電話があった。すでに京都にいるらしい。職場にたちよったところMくんも呼んで職場のみんなで花見にいけばいいではないかとTマネージャーに誘われたという。こっちは花粉がアレだから行く気にはなれないけれどもどのみち出発は夜遅くなのだから行ってくればどうかと応じると、すでに従業員ではない人間が本社の人間のつどう場に顔を出すのは気がひけるというので、それじゃあうちに来ればいい、そうして飯でも食いにいこうといった。
 支度を整えているとTがやって来た。当初は夜中に出発する予定だったが、はやめに出発すれば高速を使わず下道で行っても朝方までには高松に到着するんではないだろうかとの見込みが得られたため、京都でだらだらとしているのも馬鹿らしいし、さっさと出かけることにした。ひとまず腹ごしらえが必要だった。 ねずみ屋敷に住んでいたころにそれこそここ最近のくら寿司並みに通いつめていた居酒屋があって、居酒屋といってもそこのラーメンが目当てで週に一度の律儀なペースで通いつめていたのだけれど、いままで食ったことのあるラーメンのなかでダントツで美味くてやばくてなによりほかのどんなラーメンにも似ていないそれが最高にクールだった。その居酒屋がラーメン専門店としていちど出直すことになり、店も引っ越しして、それをきっかけにだんだんと足が遠ざかっていってここ数年はまったくおとずれていなかったのだけれど、そこにひさしぶりにおとずれてみようじゃないかということに車内で決まった。そこの大将はラーメンのみならずラーメンを盛るための器もじぶんで捏ねて焼いてするほどの凝りに凝った探求型の人間で、スープのマイナーチェンジもしょっちゅうあったのだけれど、居酒屋時代にはおでんやら寿司やら創作料理やらもあってそのどれもが信じられないほどの高水準でべらぼうに美味くしかも安価で、店を去るまぎわにたびたびお土産におでんの売れ残りをただで持たせてくれたりしたし、地元からSを呼びよせたうえでTとKとこちらの四人で忘年会と称してどか食いしまくったときにもいろいろサービスしてくれた記憶もある。まだ大阪の芸大に進学するまえのFともいっしょにしばしば出かけたものだった。当時ははてなでブログをはじめたばっかりのころで、たしか「無修正成長記録」というタイトルでやっていたころだと思うけれども、日記上でくだんの居酒屋の実名をあげて賞賛しまくっていたところ、そこの大将がたまたまこちらのブログを発見するにいたったらしく、それでいてシャイというか不器用なひとであるからこちらが店をおとずれたときにではなくなぜかKがひとりで店をおとずれたときに、Tちゃんも小説がんばって書いてるみたいやしな、と、教えてもいないこちらの呼び名と営みについていきなり切り出してきたこともあった(とKからあとで聞かされた)。まだ食べログのない時代だった。そのKを引き連れてほかにじぶんとTとSの四人でラーメン専門店となったせまいカウンター席だけの店舗をおとずれたとき、もう四年も五年も以前のことになると思うのだけれど、ことコミュニケーションにかんしてはなかなかに不器用な大将にむけておなじく不器用なKがひさしぶりの来店となったことを詫びるつもりで口にしたじつにまわりくどくまだるっこしいすっとんきょうな言葉にたいして、大将のほうは大将のほうでやはりどこかすっとんきょうな、聞き方によってはほとんど悪意の発露のようにも解釈可能な返答をよこしてみせて、それを境にふたりのあいだに変な空気が流れだしその空気に汚染されるかたちでこちらも気まずい思いを味わうことになったその結果、なんとなく足が遠のいて店に通わなくなったというのがより正確な没交渉の経緯であるのだけれど、あれから幾星霜、とにかくひさびさの来店ということに今夜はなったわけであるけれど、ただTにかんしてはつい先日、職場の同僚らとオープンしたばかりの二号店をおとずれたばかりらしかった。その二号店の厨房にあの大将は数年前となんらかわったようすもなくたっていたらしい。「あんたって気づいとった?」「いや、気づいとらんやろ」「むかしやもんな」「えらいむかしや」
 大将のいる二号店は定休日らしかったので一号店のほうに出かけた。うちっぱなしのコンクリートのフロアがさむざむしいせまいカウンター席だけの店内は当時のままだった。ただ神棚だけが豪勢になっていた。厨房では見知らぬ中年の男女が立ち働いていた。ラーメンもまた見知らぬものに変貌していた。たまたまふらりとたちよった店でこれが出てきたらおそらく当たりだろう、けれどかつての味を知るものとしてはうらぎられたという感想をいだかざるをえない、そうしたたぐいの変貌を遂げていた。ショックだった。そもそも魚介ベースだったスープが完全に豚一辺倒になってしまっていたのがまずいけなかった。大将のいる二号店のほうでもこの系統の味に転じていたのだとTはため息をつきながらささやいた。店を去るまぎわ、厨房のふたりに大将の消息について少したずねた。居酒屋時代にたびたびお世話になっていて、酒ものめないのにみんなでラーメンをごちそうになって、というと、あの当時のお客さんがきてくれたらきっと大将よろこびますよ、二号店のほうにも顔を出してあげてください、とあった。
 コインパーキングから車を出した。京都を出るまえに古着屋に立ち寄った。ねずみ屋敷から隔離病棟アパートに越すさいにKの運転する軽トラでダンボールいっぱいの衣服を運んで売り払った店舗だった。シマウマのワッペンが胸ポケットにほどこされた白と水色のツートーンカラーの薄手のシャツをいちまい買った。Tは靴を三足も買っていた。よい買い物だった。店を出ると、いよいよ長いドライブのはじまりだった。ドライブ用に作成するはずだったプレイリスト「香川」にはたった五曲しか入っていなかった。これからプレイリストを作成するぞというところでTがやってきたそのために未完成での出発を余儀なくされたのだった(もっとはやいうちに支度すべきだった、旅行というやつはいつもこうなのだ!)。未完成のままのそれを、しかし車内ではくりかえし聴いた。Cut Copy「Walking in the Sky」→2Pac Feat. Yaki Kadafi「Soon As I Get Home」→Arto Lindsay「Jardim Da Alma」→FISHMANS「あの娘が眠ってる」→漢 Feat. MAKI The Magic「紫煙」という流れだった。
 京都、大阪、神戸と順繰りにたどった。カーナビを見ていると神戸には異常にココストアが多いという事実があきらかになった。意外な発見だった。コンビニにたちよっておにぎりとコーヒーとシゲキックスを買った。そこはココストアではなかった。トランクケースをガラガラさせている女の子がひとりで店に入っていくのを見た。こんな真夜中にこんな街はずれでどういうことだろうと思った。神戸のとある一画ではいまが桜の満開だった。
 本州から淡路島へ、そうして淡路島から四国へとわたるどでかい橋は有料だったが、それ以外はすべてナビにしたがってがらがらの下道を走りつづけた。高速ぜんぜんなくてもいけるな、とTはいくらか感動したようにつぶやいた。交通費のおおいに浮いたのはこちらとしてもありがたかった。高架橋の下をはしっているとき、この巨大な建造物が94年の大震災時には崩落したのかと思うとぞっとした。大学の同級生にはあの震災で兄を亡くした同級生がいた。彼女は在日朝鮮人で卒業後に韓国にわたりそこで出会った男と結婚した。卒業して数年経ったころ、Pとその当時PがつきあっていたSとじぶんの三人で彼女の実家をおとずれ、生まれたばかりの赤子と対面させてもらったことがあった。そこに遅れて仕事帰りの元カノがあらわれたのだった。動揺のあまりほとんど口をきくことができなかったのをよくおぼえている。別れてからたしか一年ちょっと、決断のむずかしさが微妙に尾をひいている時期ではあった。韓国風の家庭料理のご相伴にあずかりながらオモニ相手に延々と映画の話をしつづけた。たしか彼女のアボジが映画配給の仕事にたずさわっていたという流れからだった。なにかの拍子にキアロスタミの名前をあげた記憶がある。ふすまいちまいへだてた隣室で授乳をすませた彼女がこちらにやってくるなり、Iくんいつからそんなにおしゃべりになったの、と目を見張ってこちらに問うてみせた一幕もあった。
 有名な神戸の夜景を、橋をわたる車のリアガラス越しにながめた。それより前にかあとにか、駐車場のすみに観覧車のあるパーキングエリア「淡路ハイウェイオアシス」にたちよった。フードコートで飯を食うべきかどうか迷ったあげく結局食わず、かわりに淡路島産の牛乳でこしらえたという値の張るアイスクリームと安価なコーヒー牛乳を買って車内で飲み食いした。これらふたつとも二年半前におなじこの場所で買って飲み食いしたものだった。Tにはちょっとした懐古趣味があるので(くわえてわれわれは小学生からの同級生であり共有する記憶もおおいので)、ふたりで見知った地に出かけるとなるとたいていこのようにおなじ道のりおなじ行為おなじ営みをなぞることになる場合が多い。最初の夜は車中泊でいいとして二日目はどこに宿泊するか、高松についたら適当な宿をさがそうとTはいったが、おそらくは前回とおなじカプセルホテルになるだろうとひそかに踏んでいた(そして事実そのとおりになった)。
 車内ではむろん助手席のじぶんが延々としゃべりたおした。 先日東京にでかけたTがHくんからきいた言葉として「Tさんマジでしゃべりすぎっすよあのひと、むちゃくちゃしゃべる、で、しゃべるだけしゃべっといていきなり寝ちゃうんすよ、あれ相当ひどいっす」(大意)というのを紹介されたのだが、しかしこれはそのままHくん自身にもあてはめるのではないか? そう疑義をていすると、両方ともいっしょや、かわらへん、というジャッジが下った。しかしながらこうしていま夜のドライブ中に交わした対話を思い出しながら書きつけようといちおう努力してはいるのだが、具体的な細部がまったくもって浮かんでこない。つまり、きわめてどうでもいい話ばかり交わしたということだろう。どうでもいい話をするのはけっこう得意なほうである。Tが京都に滞在していた最初の時期、二十代はじめのころによくAのおさがりの改造車にのって夜中の京都をドライブしたものだった。車の運転しんどないの、とたずねると、別にそれほどえらくはないな、とあり、運転好きやもんなあんた、と応じると、運転っていうかさ、こうやってあんたとふたりで好きな音楽かけながらまじめな話したりすんのがすげえいいんやって、とあった。そのことをとても鮮明におぼえている。
 淡路島の海沿いを走りながらこれ津波がきたらいっぱつだなと思った。Fの大学の同級生に淡路島出身の鬱病の男の子がいて、Fはいちど彼の実家に遊びにいったことがあり、夏で、海で泳いでいたらしいのだけれど、もともとそれほど泳ぎの得意でないところにくわえて波のそこそこ荒れてあった日の海だから溺れてしまって、水のなかでもがきながらああもうこれは駄目だと、もういいやと、そのようにして死を受け入れた瞬間のようなものがたしかにあったのだと、ほかの海水浴客の投げこんでくれた浮き輪につかまることに成功してぎりぎり九死に一生を得たFはその後何度かそのエピソードをくりかえし語ってみせた。そのことを、かつて「Z」に書いたこともある。
 高松市内に入ってしばらく、見覚えのある道の駅に到着したところで車中泊を決行することにした。「源平の里むれ」という道の駅で、やはり二年半前におとずれた施設であった。そのときに食べそびれた食堂名物であるところのハマチの漬けどんぶりを今回こそは食すことにしようと決めたのはたしかハイウェイオアシスの売店で旅行雑誌をぺらぺらめくっていたさいにこの道の駅について記載されたページにぶつかったからだった。食堂の営業は11時からだった。自動販売機でミネラルウォーターを購入して花粉症の薬を飲み、助手席のシートを倒して目をつむった。ダッシュボードのうえには鼻セレブが一箱あった。神戸のコンビニで購入したものだった。Tはトランクに横たわり猫のようにまるくなった。まだおもてははっきりと暗い時間帯だったように思う。