20140410

 (…)われわれがここで検証したすべてのことは……われわれが最終的に提示するはずのすべてのことは、映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです……人々がこしらえたさまざまの映像が残っているからです。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

 私がいつもロッセリーニにひきつけられていたのは、彼が一種の論理を……いくらか科学的な論理をもっていたからです。そして私は今でもまだ、そうした論理を身につけていて、自分のシナリオを組み立てるときも、それを役立てています。つまり、状況設定(シチュエーション)を、そこにさまざまの要素をもちこみながらも、その状況設定がもっている論理だけにしたがって展開させようとするわけです。もっとも私は以前は、自分が考え出した要素をもちこむことしかしませんでした。私がここで自分の映画を見直し、どれもできがわるいと思ったのは、どの映画の場合も、私が自分の論理にしたがうだけで、自分が提示しようとした論理にはしたがっていないからです……状況設定を展開させるために、ほかにも提示すべき論理がないかどうかを調べるということをしていないからです。私は状況設定を展開させるすべを知らず、詩的だからとか色彩がきれいだからといった口実のもとに、自分がもちこみたいと思ったものをもちこむことしかしていなかったのです。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)



 寒さのせいで何度も目がさめた。そのたびに太ももをさすってみたりシートに横たえた身体のむきを変えてみたりしたが、その程度で誤摩化しのきくような冷え込みではなく、うつらうつらとしてはおもわず身震いして目をさますというのをしばらく繰りかえしたのち、とうとう古着屋で購入したシャツと着替えのヒートテックを後部座席に投げ出してあったビニール袋の中からとりだして、頼りない毛布のていで上半身にかけた。身をよじって後部座席の荷物に手をのばしたとき、トランクで丸くなっているTを起こしてしまうかもしれないと彼の眠りの浅さを知るものとして一瞬ためらいをおぼえもしたが、知らぬまに寝袋らしいものにくるまってすやすやと心地よさそうに寝息をたてているその姿を目の当たりにした途端、なにじぶんだけちゃっかりあったかくなってやがんだというひがみがたって、気遣いなんてそっちのけでがさごそやった。Tはぴくりとも動かなかった。入眠前に耳栓がどうのこうのいっていたのを思い出した。
 半端な布切れでも暖をとるには十分である。車に出入りするTの気配でとちゅう何度か目をさました記憶はあるが、最終的に身体を起こしたのはおそらく10時ごろだった。車内は蒸し暑く汗ばむほどだった。Tの姿はなかった。おそらく暑さにたえかねておもてに出ているのだろうと推測した。電話をかけると、外にいるとあった。車のキーをTが持っていることを確認だけしてから電話を切り、歯磨き粉と歯ブラシを片手に車外に出た。涼しかった。車内の蒸し暑さも窓をあけて換気しさえすればたちまち解消されたにちがいないが、花粉の侵入によってこちらが苦しむだろうことを見越してTはひとり外に出たのだった。これぞ気遣い!
 公衆便所で用を足し歯をみがいた。便所を出て土産物屋のほうにむけてぶらぶら歩いているとTの姿があったので声をかけた。Tは8時に目覚めたらしかった。ぜったいに眠れないだろうと思っていたにもかかわらずぐっすり熟睡することができたといった。朝方の冷気について触れると、寒さにたえかねて目がさめた、たまたまトランクに寝袋が積まれてあったのでこれ幸いとばかりにくるまったのだといった。この二時間どうしていたのかとたずねると、そのあたりをぶらぶらしていた、むこうのほうにはきもちのいい芝生がある、その先には海がひかえているとあった。土産物屋のほうにはまだ入っていないらしかったので、それじゃあいっちょう冷やかしにいこうといった。土産物屋の一画をしめるお目当ての食堂は11時開店だったが、小鉢に盛られたいくつかの料理がすでにセルフサービス式の陳列棚にならべられているのがみえた。ものすごく美味そうだった。その日の朝に市場に揚げられたものが出されるというのが売りの、およそ職人肌とは無縁らしくみえるおばちゃん連中がほとんどぞんざいにもみえる手つきでガシガシ料理をこしらえては全品信じられない安価で提供している、道の駅にもかかわらずとてもローカルな雰囲気のある食堂で、観光雑誌にも開店と同時に地元民らでにぎわうと紹介されており、そうした諸々の情報を裏打ちするかのように、11時開店14時閉店という営業時間の短さが事実あった。店が開くまでのひとときを物産のところせましと陳列されてある通路をぶらぶらしてやり過ごした。「A」botを作成してくれたFくんにお礼として「いやげもの」(みうらじゅん)のなかでもそこそこの位置にランクインするのではないかとおもわれるうどんのキーホルダーでも送ってやろうなどと軽口をたたいてはふざけあっていた道中であったが、おそろしいことにここにきてじっさいにそのようなキーホルダーを発見するにいたってしまった。しかも釜揚げうどんときつねうどんと素うどんの三種類があるものだから苦笑せざるをえないというか、価格をチェックしてみると各500円とあって、これははっきりいって経済という概念そのものにたいする冒涜なのではないか? こんなクソみたいなものに小学生時分の小遣いを丸ごと費やすことなどできるものか! と憤怒した。ほかにもうどん行脚をするさいに役立つというのが売りの、麺やつゆについてそれぞれ評価する欄のあらためて罫線となって書き込まれてあるニッチな需要を狙いすましたノートや(というよりもむしろ供給が需要をあおりたてるたぐいの商品である、というかうどんブームを持続させてしこたま儲けたい行政側の下心そのものが「おふざけ」の裏に見え隠れする商品である)、蓋にうどんの蝋細工が盛られてある名刺ケース、うどんにちなんだゆるキャラらしきものがプリントされてある消しゴムなどもあった。どれもこれもごくごく小さな笑いをとるためだけに開発されたパーティーグッズのようだった。
 食堂の開店までにはまだいくらか時間があったので、芝生のほうに出かけてみることにした(あるいは先に芝生のほうを見てまわって、そのあと土産物屋を冷やかすにいたったのではなかったか?)。芝生のところどころには瀬戸内国際芸術祭とかそのあたりに出品されていたものらしい彫刻作品が設置されていたが、大半はさっぱりだった。犬を走らせたらきっと見栄えのするだろうひろびろとした緑の芝生を、その円周に沿うて整備されてある歩道を無視し中央から突っ切っていくと、やがてやや高台になったところに屋根のあるベンチがみえた。そこに立つと、眼下を走る線路を認めることができた。海はその先だった。見晴らす対岸に山と街を認めることができたことを思うと、あるいは入り江だったのかもしれない。短い堤防の白いコンクリートの路面がこちらからむこうにむけてのびているのが見えた。あそこで釣りでもしてぼんやり一日過ごすことができたらどれだけいいだろうと思った。今年の夏は釣りをしたい。仲良しであつまって半日くらいだらだらしながら堤防に腰かけていたい。海のところどころにはいかだが浮いていた。あれは牡蠣の養殖に用いるものだろうかと思った。左手は大海につらなっているふうだったように記憶しているが、いまひとつ判然としない。そもそも入り江でさえなかったかもしれない。眼下の線路を二両編成の列車が通過すると、おそらく潮風に錆びているだろうレールがギイギイとひどい音をたてた。知らない動物の断末魔のようだった。眼下の線路とそのまたさらに下段に控えてある海とのあいだは背のひくいトタン板によってへだてられていた。目隠しではなかった。潮風からレールや枕木や車体を守るものだろうと見当をつけた。
 芝生の広場から海にむかって左手、花壇のもうけられた斜面をはさんでおりた先にアスレチックの点在している公園のような一画が隣接しているのがみえたので、そちらのほうにおりていくことにした。そこにもいくつかの彫刻作品が無造作に展示されていたが、人目につきにくいこちらのほうが先に目にしたいくつかよりもずっとおもしろく、なかには安易さと対峙してきちんと芸術しているものもあるように思われた。ターザンみたいにロープにぶらさがって器具の端から端に移動してみせるあのなんという名前かよくわからないしおそらく地方によってそれぞれ異なる呼び名をもっているにちがいない遊具があったので、Tと順番に遊んだ。それから平均台のうえを歩いたり雲梯をしたり懸垂をしたりした。それぞれの器具のそばにはそれぞれの器具の効果的な利用法をしめした看板が設置されており、利用法は3段階にレベル分けされていた。レベル3の懸垂は腕と肩と後背筋と腹筋それぞれにひとしく効いてなかなかのものだった。ひととおり運動をしてから土産物屋のほうにひきかえしはじめた。花壇のなかの名前のしらない西洋風の花が色とりどりに咲きみだれているのを目にするとついつい子どものころの癖で昆虫がいないだろうかと目を凝らしてしまう。四月の晴れた午前となればなおさらで、目はおのずとナナホシテントウのあのしたたりおちた血液のような赤をもとめて右往左往してしまう。先日両親と醍醐寺に出かけたさいにも芝生のところどころにカラスノエンドウオオイヌノフグリが咲いているのを目にして、ナナホシテントウがいないだろうかと目を凝らしたのだった。実家の庭先ではこの時期になるとよくナナホシテントウがあらわれた。ナナホシテントウのあの赤と、オオイヌノフグリの藤色と、カラスノエンドウの赤紫というのは、三位一体となってこちらの記憶に春そのものとして装填されている。
 オオイヌノフグリで思い出した。まだ小学校低学年のときだったと思うが、実家の庭先に花をつけはじめたオオイヌノフグリを目の当たりにして、この花の色に見覚えがあると思ったことがあった。そのときはじめて母に花の名を聞いたのだったが、あの藤色、というか水色というべきなのかもしれないがその花の色を地面にしゃがみこんでぼんやりながめながら陽光を頭上から浴びているときにはじめてじぶんのなかで季節というものが腑に落ちた瞬間があったのだった。ものすごくふしぎな感覚だったので、いまでも鮮明におぼえている。あの瞬間たしかにこちらの認識において不可逆な変化があったのだ。しかし具体的にいったいどのような概念を、摂理を、しるしを獲得したというのか? そういわれると返答に窮してしまう。時間? 流転? 反復? あるいはそれまでばらばらの混沌としてただ受け入れていただけであった草花や昆虫の図をはじめて四季の移り変わりという地のうえに置いて理解するにいたったのか? この一件は「G」になりうるだろう。のみならず掘りさげればひとつの短編に結実しさえするかもしれない。
 土産物屋にふたたび足を踏み入れて食堂の前でいまかいまかとぶらぶらしているうちに、おなじく開店待ちらしいひとの姿もちらほらと目につきはじめた。観光客というよりもやはり地元民らしくみえた。やがて開店を告げる声があがった。トレイを手にとり、カウンターに陳列されている小鉢を端から端まで順にながめた。おふくろの手料理みたいな一品また一品だった。カウンターに沿うて移動していくとカマ焼きや天ぷら、それにとれたての魚をさばいたものらしい刺身らがあった。どれもこれも信じられないほどの安価だった。これが居酒屋だったら倍、あるいは三倍四倍の値がついていてもまったくもっておかしくない。われわれのお目当てはむろんハマチの漬け丼であったが、これほどまで美味そうな料理の数々を前にしておきながらどんぶりいっぱいでおわりというのも馬鹿らしいので、おのおの好みの一品をとってシェアしようということになった。Tはハマチのあら煮をとった。大皿に山盛りになって400円かそこらという破格だった。こちらはわかさぎの天ぷらをとった。それに味噌汁を二人前。肝心のハマチの漬け丼にかんしては両者ともに大盛りを注文した(漬け丼だけがセルフではなく注文式になっていた)。席に着いてから漬け丼の運ばれてくるまでのあいだに茶をそそぎ、あら煮を電子レンジで温めた。至福の一瞬がはじまろうとしていた。いただきますをしてから早速わかさぎの天ぷらに頭からがぶりと食いついた。美味かった。冷めているくせにたいそうな味わいだった。次いであら煮をつまんだ。当然のことながらこちらも美味であった( なによりいくらかアラとはいえこの量でこの価格かという驚きが尾をひいていた)。味噌汁をすすった。こちらはわりあいふつうの味だった。魚を食べるにあたってはやはりどうしても赤出しが欲しくなるのだが(というか名古屋文化圏で育ったものとして味噌汁は赤出し以外に考えられない)、合わせですらない純然たる白みそ仕様だった(四国は白みそを好むのだろうか?)。そうこうするうちに丼が運ばれてきた。ぷりっぷりのハマチの刺身がご飯のうえにしきならべられているのに刻み海苔がちらされ中央には生卵がひとつ落とされていた。まずひとくちハマチの刺身だけをかっ喰らった。死ぬほど美味かった。味噌汁を口に含み、さらに一口また一口とかっ喰らった。丼の中央に落とされてあった生卵を崩してからは、ほとんど口もきかずに黙々と、というかガシガシと食い続けた。天ぷらを食いつくし、あら煮をついばみ、味噌汁をのみほした。丼の具をすべてたいらげてあとはご飯三口分ほどとなったところで、少なくともこちらには大皿いっぱいに盛られたあら煮の残りを完食できるだけの余裕など到底ないことに気がついた。残りはすべて鉄の胃袋をもつTにまかせることにして、こちらはすでに若干戦場跡のような惨状をていしているようにもみえる丼の残りものだけを片付けてごちそうさまといくべきだろうと、腹の張り具合からそう判断した。判断したところで、きた。ん? と思った。これはひょっとして、と疑った。疑うそばからまたきた。気のせいではなかった。これは一時的なものではどうやらないらしい、だんだんと周期をせばめつつやってくるようなそんな気が、と考えているうちにもまたきた。おもわず、やばいかも、と洩らした。怪訝そうな顔つきでこちらに目をやるTにむけて、ちょっとこれやばい、気持ち悪い、気絶のパターンかも、と続けるこちらの脳裡ではすでに疑念は確信へと鋳直されていた。そこからはよくおぼえていない。激烈というほかない吐き気の襲来にそなえてひとまずキャスケットを脱ぎさり眼鏡をはずし、目の前の食い残しをテーブルの片端によせて顔をふせた。ほどなくして脂汗が全身からにじみではじめた。するとそこからは早かった。生きているのが苦痛でしかたのなくなるほどの強烈な吐き気、悪心、不快感、それにめまいが加わった。いまがどこにあるのかわからない混乱と混沌の万華鏡のめまぐるしい回転の渦中にあって、誠実なまでに執拗な吐き気だけがただただゆるぎなくいわば失調の北極星としてそこにあり、波打つような苦しさのなかでときおりおとずれる息継ぎの一瞬にだけ、おれはいま気絶しようとしているという俯瞰がさえわたった。息も荒く吐きながら、とにかく過ぎ去るのを待つほかなかったが、待つにしてもそもそもの時間感覚が狂っている。気をぬけばいまここの自明すら喪失しかねない浮遊感のなかでもみくちゃにされているこちらの故障した感覚からすれば、顔をふせてからほんの数秒後のことに思えたが、あとでTにきいてみたところじっさいは数分はあったという不透明ないっときののち、おいだいじょうぶかとゆさぶられる肩があった。ゆさぶらないでくれと強く思いながらそれを口にすることもできず、ただなんとかして顔をあげてみせたが、Tによるとそのときこちらの目は完全にイってしまっておりどこにも焦点が結ばれていなかったという。顔面蒼白で顔中汗だらけである。いったいどうすればいいのか対処に困っているTをまえにして、便所に行くと告げた。告げはしたものの食堂をぬけて公衆便所まで歩いてたどれる気がしなかった。だからといってこのままテーブルに突っ伏しているだけではなにも回復しない。とにかく変化をまねきよせなければならない。そうしてその変化にたいして身体がどのような反応をとるのかを調査し、じぶんがいまいったいどのような種類の不調にあるのか見極めなければならない。それになによりいつでも吐くことのできる状況に身をおいておいたほうが安全だ。すくなくとも食堂にいてはならない。そういう考えからどうにかこうにかして席を立ってみせた。立った瞬間やはりこれは無理だろうと思った。まともに歩けそうにない。でも歩かないわけにはいかない。なんたることだ! 荷物を置き去りにしたままふらふらと歩みだし、食堂に設置されたテーブルや手すりをつたいながら建物の入り口にむけて道のりをたどりはじめると、だんだんと視界がちらつきせばまり、画素数のいちじるしく低下していくのがわかった。ブラックアウトもホワイトアウトも過去に体験したことはある。しかしこのとき体験するにいたったのはグレーアウトであった。というかそんな語あるのかよとおもっていま検索してみたところブラックにせよホワイトにせよグレーにせよどうもこれらの語の正確な定義とじぶんのそれが食い違っているみたいでどうしたものかと思うのだけれども、そんなのはまあどうでもいい、要するに色の問題だ、目の前が真っ暗になるか、真っ白になるか、それとも(こんな表現が許されるのであれば)真っ灰色になるかの違いである。もともと立ちくらみのけっこうひどい体質で、長時間書き物をしていてたちあがると目の前がくらっとなってあわてて柱につかまるとか壁にもたれるとかあるいは畳や布団のうえに倒れこむとか、起き抜けなんかにも似たようなことはあってわりあい頻繁であるというかほぼ毎日なのだけれど、そういうときはただ視野がふにゃふにゃに、それこそバキの世界で猛者と猛者が対峙したときに空間がぐにゃりと変形するあれみたいな感じになってゆるく回転しそれに応じてよろめきたおれるみたいな、そういうのがいちばん身近なこの手の体験であるのだけれど、しかしこの場合はじっさいに失神するところまでいくことはないし吐き気をおぼえることも滅多にない。今度のはそれとはまったくの別物で、たとえば図書館やレンタルビデオ屋で本やDVDを物色するのにしゃがみこんで陳列棚の下段をあさっていてしばらく、次にとなりの棚の最上段へと目をうつすために足をのばすと視界が一気に白く遠ざかっていっていっしゅん気が遠くなりそうになる、まるで真正面から強烈なライトを浴びせられたかのように視界が真っ白になってその真っ白のところどころに銀色の光がチカチカまたたいて平衡をたもっていられなくなる、そういうこともやはりまたわりと頻繁にあるのだけれど、それのもっとずっとやばくて強烈で長時間にわたる視野の失調が今回のもので、ここで倒れたらだめだここで倒れたらだめだと気こそ張っているとはいえ一歩すすむごとにみるみるうちに視界が白く遠ざかりせばまっていって、足取りもまたガンガンに酩酊したときのようにおぼつかなくそんなつもりなどないのに身体は壁にぶつかるし両手はぶらぶらと揺れるし、もちろんその間吐き気はといえばおさまるどころか蓄積されてつのるばかりの尋常ならぬ苦しさで、せめて外で吐こう、芝生で倒れようとなぜか強迫観念のようにそればかり考えてどうにか食堂をぬけたのだけれど、そこから土産物の陳列されてあるコーナーをぬけて自動ドアを経由しおもてにでるまでのわずか数メートルのあいだ、ついに視界が完全にきかなくなるという未踏の域にさしかかることになった。真っ黒に遮蔽されたわけでもなければ真っ白に遠のいたわけでもなく、ただ灰色にのっぺりと塗りこめられただけの視界、妖怪ぬりかべに顔面をめりこませてでもいるかのように近くて厚くて奥行きのないべた塗りの灰色がそこにあって、あまりにも無機質で均質な灰色であるそのためにほとんどデジタルな質感さえおぼえたのだけれど、たとえばペイントでもイラストレーターでもフォトショップでもギンプでもいいのだけれどそれらのソフトを用いて灰色で画面一色をべた塗りしてみせたそのような灰色、そのような灰色によって完全に視界が奪われてしまい、なにかとてつもなくやばい事態がいまじぶんの身体におこっていると思った。思いながらも建物の外へと気ばかりが急いて、けれどそもそもの視界がきかないのだからどこに足をすすめればいいのかまったくもってわからない。なんとなくこちらのほうに入り口があったはずだとおもわれる方向にむけて歩みを進めていくそのそばからこちらの身体にぶつかってフロアに落下する物産の感触があったりもするのだけれどとてもかまっていられない、ただただ両手をキョンシーのように前にさしだしながら杖をなくした盲人のように歩いていると右手の指先につめたいものが触れて、それが自動ドアのガラスであることに気づいたのでたちどまり、その表面を指先でなぞっていくとふいにとぎれて宙を切る。ここだと思った。外につながってひらかれてあるらしいその宙にむけておそるおそる歩みをかさねていくと、すずしい外気の吹き込みが脂汗でひっついた前髪と額をはがしにかかる快さがあり、と同時に鮮度のよいその空気によって厚く上塗りされていた灰色の絵の具がぼろぼろとはがれ落ちていくようにして次第に視界のひらけていく感じがし、たとえばYouTubeなんかで試聴中の映像がPCの不具合からか回線の重さからかとにかくバグって灰色っぽく崩れることがあると思うけれどもそのときたいてい画面上には灰色のべた塗りだけではなく赤とも青とも緑とも黄色ともつかぬ糸くずのような線描がちらちらしている、ちょうどそんな具合にこちらの視界でもやはりまたちらちらする光の三原色めいた線描がはがれ落ちていく灰色のむこうがわでのたうちまわるみみずのように動きだし走りつつあって、どうやら峠は越えたらしい、灰色だったはずの視界もちょうど自動ドアをぬけて建物のおもてにはっきりと身をおいたあたりからしだいに白く薄らぎはじめ、まもなく激しい逆光のために画面の大半が白飛びした写真のような視界のなかに身をおくことになったのだけれども、そのような光かがやくまぶしい白さのなかにあっても例の線描だけはしぶとく残っていて、それが芝生と石畳の境界線、芝生につきささった毒キノコに注意の看板、ぜんぜんよいとはおもえない石の彫刻作品の輪郭線をなぞっているらしいことに気づいたところで、ああ大丈夫だ、たぶんあとはもう回復する一方だと、先におぼえた安堵の予感が確信に更新され、まだまだまともに機能していない視界と平衡感覚のなかでそれでもおおいに安堵した。歩くにつれてしだいに白飛びした世界のなかに色彩が復調していき、どうにかして公衆便所のそばにまでたどりついたときには吐き気もまたおさまりつつあった。公衆便所の入り口付近にあった縁石に尻餅をついて腰かけてはあはあと肩で息をしているとだんだんと汗のひいていく感じがあっていれちがいに寒気がたちはじめ、もう大丈夫だ、これでもう地獄はおわりだと、そのようにして回復の道のりを内向きのまなざしで慎重に見守っているところに頭上からかかる声があり、見あげれば老年の女性二人組だった。どういう表情をかたちづくるべきなのかわからず戸惑っているような顔つきを浮かべながらこちらをのぞきこむがいなや、開口一番、救急車を呼んだほうがいいかとあった。いやもうだいじょうぶです、さっきまでちょっとえらいしんどかったんすけど、もうおさまりましたから、ときどきあることだなんです、とあわてて応じると、ものすごくふらふらになって歩いているし顔色は真っ青だし大丈夫なのだろうかと遠目に心配していたのだとあって、いまだってやっぱりたいへんな顔色をしている、やはり救急車を呼んだほうがいいんでないかと念押ししてみせる。いや峠は越したんでだいじょうぶです、ちょくちょくあることですから、ほんとだいじょうぶなんで、と、そう応じながらも、こんなことがちょくちょくあってはたまったもんじゃないなと思った。
 もうたちあがってもだいじょうぶだろうとおもわれたところでトイレにいき鏡を見てみると真っ青どころではない真っ白な、血の気のない表情といえばまさしくこれだろうという蝋人形のような血色のわるさに出くわした。悪い夢のようだった。クインケ浮腫のせいでくちびるが信じられないほど腫れあがっているのを起き抜けの洗面台で認めた数年前、生まれてはじめて「これは夢ではないのか?」というほとんど慣用句と化してあるおきまりのフレーズを強烈なリアリティをともなって内心つぶやいたことがあったのだが、そのときとよく似た信じられなさをおぼえた。たとえば街を歩いていてたまたますれちがったひとがこの顔色だったら確実に二度見するだろうとおもわれる、そういうありえなさ、ありえない顔色だったのだ。
 ふらふらする身体と汗のひくにつれてますます冷えはじめた四肢をひきずって食堂にもどるとすでにTの姿はなかった。車のほうに戻ってみると運転席に腰かけている人影がみえたので助手席に乗りこみ、もうだいじょうぶです、ご心配おかけしました、と詫びを入れた。経験的にピークを乗り越えさえすれば回復は早い、もう出発してもだいじょうぶだと思うというこちらを制止し、たのむからもうすこし休憩してくれとTはいった。外の空気が回復を促進してくれる気がしたので、このさい花粉はうっちゃっておくことにして、芝生の広場のほうに歩いていってそこにあるベンチのひとつにあおむけに寝転がり安静にすごすことにした。脱いだ帽子を顔の上にのせて日光をさえぎり、ベンチの端の丸く半円状にえぐれているところに後頭部をのせてうたた寝をした。しばらくうとうとしたところでこの直射日光はかえって身体に悪いのではないかと思われたので、場所を変えることにした。上体を起こすと胃の腑のあたりにわだかまるものの気配があった。たちあがって元来たほうにむけて歩きはじめると、数メートルもいかないうちにふたたび例の吐き気、めまい、胸の悪さ、発汗のきざしがきたし、ピークを越えたはずなのにどうしてだと焦りながらひとまず土産物屋の壁面に沿うて周囲の道路よりいちだん高く設えられてあるコンクリートの土台の、ちょうど室外機が置かれてあるそばの日陰になった一画に恥も外聞もなく身を横たえた。そこにちょうど車をおりてこちらのようすをうかがいに来たTがあらわれたので、ごめん、またはじまった、やばいわ、ちょっと待って、とすでに視界の朦朧としているなかで告げると、「ええ!?」 と、心配の度を越してほとんど怪訝に響くような声でTは小さく叫んで、もうこわいわ、ほんま勘弁して、としきりにくりかえしながらこちらのようすをおそるおそるうかがうふうに目を見開いてみせた。日陰のコンクリートは冷たかった。いくらか体調のましになったところで日向に体をさらしてひきつづき身を横たえた。Tは日陰の一画にとどまったままこちらの横たわってあるコンクリートの地続き上に直接尻餅をついてスマートフォンをいじくっていた。8時から起床していることを考えるとこの道の駅にすでに4時間以上こちらの都合で彼を拘束していることになる、そのことを思うと申し訳なくてしかたなかった。過去にもこういうことが何度となくあったような気がした。ひるがえって じぶんがいずれ死ぬときもやはりこういうシチュエーションなのかもしれないと思った。遺言としてたくす原稿はあるだろうかと朦朧とした頭のなかで考えた。手元に保存してあるテキストファイルは煮るなり焼くなり好きにしてくださいとごっそりAさんにゆだねて(たとえばじぶんの書きつけたテキストだけを素材に短いコラージュを作成して追悼小説にしてくださいという感傷的で自己愛に満ちた発想がそのとき奔出した)、以前のブログのパスワードはFくんにわたして(彼がいちばんくりかえし熱心に読んでくれていたにちがいないから)、身の回りの品々はTと弟にそっくりそのままくれてやればいいかなどと思った。
 しばらくうとうとし続けた。もうだいじょうぶかもしれないといって身を起こそうとするたびに、たのむからもうちょい寝てくれとTに制されるというのを何度かくりかえした。ようやくふたりそろって車にもどるころには13時をまわっていたのではないか。灰色の視界の経験について語ると、もうあんたとどっか出かけるんこわいわ、ほんまいやや、と真顔でいわれた。目の前で気絶されてみ、クッソあせるで、どうしたらええかわからんしな、ほんっまこわい!
 回復した、もう大丈夫だ、とくりかえしておきながらも、じつをいうとまだかすかに胃の腑のあたりにあやしくわだかまるものがあった。だがこれ以上ここでだらだらと道草しているわけにもいくまい。Tがスマートフォンで調べてくれたところによると、血管迷走神経性失神とかいうのが今回の症状に該当するかもしれないらしかった (いま調べてみるとたしかに飯をどか食いすることによって生じることも「稀に」あるという)。起き抜けからアスレチックコースで身体を動かしたのもあるいは無関係ではないかもしれない(中学時代、朝から急な上り坂を自転車でAと競争してのぼったりすると、朝のホームルーム中に今回のと似たような症状に見舞われるということが何度かあった)。いずれにせよ失神と相性のよい身体である。飯はとても食えそうにないというと、とんでもない量のあら煮をひとりでたいらげるはめになったTも同様らしかった。ゆえにひとまず風呂にでも入りにいこうかとなった。湯を浴びてこざっぱりすれば、いまだ本調子ではない、体感的には本来の七割程度のパフォーマンスしか発揮できていないようにおもわれるこの身体もすっかり回復してくれるのではないかと期待してのことだったが、同時にまた入浴の影響で血圧が上下した結果みたび失神の危機に見舞われるのではないかという懸念もあった。
 Tがスマートフォンで見つけた最寄りの銭湯にむけてナビを設定し車を出した。ひさびさの出発だった。どれくらいの距離を走ったのであったか、どういう道のりをたどったのであったか、車内でいかなる会話を交わしたのであったか、ふしぎとさっぱりおぼえていない。最寄りの銭湯をわざわざ検索したくらいであるのだから、もちろん遠くはなかったはずであるのだが、道の駅を出てから銭湯に到着するまでの記憶が完全にブランクになっている。かといって眠っていたわけでもないことは確かではあるのだけれど。目的地の銭湯は老人ホームでこそないもののなにやら福祉施設めいた建物に併設されているものだった。 他県ナンバーの観光客がわざわざ立ち寄るような場所ではぜったいにないようにおもわれたが、それでも駐車場には観光バスらしきものが一台停車していたし、なかに入ってみると○○団体様と書き記されてあるブラックボードがたてられてもあったので、あるいは近隣諸県の老人会ご一行などが年に一度の旅行のさいに利用する、そのようなたぐいの宿泊施設だったのかもしれない。
 券売機で入浴券とタオル券を購入し、受付に腰かけている女性に手渡した。脱衣場にはわれわれのほかにふたりほど老人の姿があった。浴場にもやはりまた老人の人影がふたつほどあった。予想通りじつになんでもない浴場だった。ぱっとしない風景を大窓越しにのぞむことのできるひろい浴槽がひとつと、ひとひとり浸かるのがやっとなジャグジーと水風呂がそれぞれひとつ、たったそれだけの施設だった。血圧の変化に気をつけながらおそるおそる湯を浴びた。ざっと身体を洗ってから湯につかった。浴槽の湯はぬるかった。ことこの体調にあってはむしろありがたい設定温度ではあった。のぼせるまえに湯を出ていったん身体を冷まし、それからジャグジーに移動した。ほんの数分経ったところでふたたび身体が熱をもちはじめたので今日はもう無理しないほうがいいだろうと判断し、こんなにすぐにあがってしまうのでは入浴料がもったいないけれどといちまつの名残惜しさをおぼえながらシャワーでぬるめの水を浴びて身体を冷やし、脱衣場にもどった。Tはこちらより先に湯を出てすでに着替えをすませていた。いつ銭湯にいってもかならずやつのほうがこちらより先に音をあげるのだった。たっぷりとした疲れをかかえこみながら身体を拭き、服を着て、ドライヤーで髪を乾かした。ヒートテック+白シャツ+薄手のアーガイル模様のセーターという東京に出かけたときとおなじ出で立ちだったのだが、湯上がりの室内とあってはさすがにヒートテック一枚で十分であったし、ジャストサイズのシャツとセーターに身体をしめつけられるのもよくないと思ったのでそれらを小脇に抱えるようにして脱衣場を出た。受付をぬけた先には雑魚寝のできる広間があった。通路よりいちだん高くなったところに敷かれた畳何十畳分ものスペースのうえに等間隔に座卓がならべられていた。食事をとるための空間でないことはどことなくちらかってみえる殺風景な装いからしてもたしかで、座卓のまえに点在する座布団にもどこか投げやりな感じがつきまとっていた。寝ていくか、とTがたずねるので、そうしようか、と応じた。広間のいちばん端にある座卓のまえに陣取ってみると、ベビーベッドのような収納箱が壁際に設置されているのが目につき、なかには座布団が大量につめこまれていた、そのとなりには枕もあった、とどのつまりはどうぞ雑魚寝をしてくださいというわけだった。そのさらにとなりには書架といえぬ書架があった。下段には週刊誌、上段にはワゴンセールで適当につかみ取りしてきたような歴史小説や新書のたぐいが二十冊程度適当にならべられていた。だれかが片付けるのをわすれて置きっぱなしにされていた座布団が四つほどあったのでそれを身体の下に敷き、高い天井にむけてあおむけに寝転がった。気持ちよかった。座卓をはさんだむこうでTも寝転がった。おなじように寝転がっている老人の姿がひとつだけあったほかに利用者の姿は見られなかった。館内放送では昭和のベストヒットソングみたいなクソくだらなさすぎて逆にアバンギャルドな楽曲ばかりがたてつづけに流れていた。しばらくすると石原裕次郎とかあのあたりの世代特有の鼻声めいた男性の歌声が流れはじめたが、信じられないほど下手くそで、台詞ではなく歌が棒読みというのもおかしな話ではあるけれど本当に棒読みの大根歌手というほかない水準で、その棒読み大根歌手でもそれ相応に歌いこなせるようにとおそらくはこしらえられたらしい音程の振れ幅がほとんどないクソみたいな楽曲だったにもかかわらずそれさえもぎりぎりにあやうい歌声であるのにくわえて死ぬほどださい歌詞(夏の旅行で渋滞に車がつかまってしまったけれどこれも旅行の醍醐味さ的な空疎きわまりないクソみたいな所感がふぬけた口調で歌われる奇蹟のだささ!)だったものだからこの当時の日本の大衆文化は腐っていた、これにくらべるとコンビニに入ったときによくかかっている耳の腐るようなEXILEのクソバラードのほうがずっとずっとマシではないかと思った。脱衣場では大根歌手の楽曲ではなく、ひとむかしまえに流行ったおさかな天国やロンブーの田村淳がやっていたもずくの歌につらなる食品マーケティング系の歌ばかりがなぜか流れていて、そのなかでも納豆をごり押しする楽曲がひたすらくだらなかった。
 気がつけばまた眠りほうけていた。道の駅でずっと居眠りしていたにもかかわらずこうまでぐっすり眠ることができるのかという深いレベルの睡眠だった。目がさめて、あおむけのままぼんやりと天井をながめながら、ここは信じられないくらい居心地のよい空間だと思った。Tのほうをみるとめずらしいくらいぐっすりと寝息をたてているのが目についた。利用者の老婆が座布団をかかえてTの頭ののせられてある畳のそばをどしどしと歩いていったが、それでも目覚めなかった。これはほとんど奇蹟といっていいような光景だった。昨夜の車中泊といい、Tの眠りもまた常日頃とはことなる域にあるらしいのがよくわかった。小腹が空いているのを感じた。その途端おのれの体調が完全回復しているのを悟った。入浴と睡眠の力は偉大だった。
 畳に寝転がったまま『ルネッサンス 経験の条件』の続きを読みはじめた。左手の座卓をはさんだむこうにはTが横たわっていたが、右手の座卓をはさんだむこうには老夫婦が一組、ほとんどあられもないといっていいほど親密な距離で寄り添い眠りこけていた。そこからさらに三つか四つ座卓をはさんだむこうでは中年女性が、こちらは横たわることなくただ壁にもたれて両足をのばした状態で雑誌かなにかに目を落としていた。ときどきこういう穏やかさに出くわすことがあった。時間の流れまでもがあたりいったいにただよううたた寝の気だるさにまきこまれてとどこおりだす、そんな穏やかさに。
 しばらく本を読み進めているとTが身体を起こした。めずらしいくらい熟睡しているようにみえた、ひとの足音にもかまわず眠りこけているようだったと告げると、ここまでたっぷりと熟睡してしまっては今晩はきっと寝付くことができないと、夜を先取りして生ずるいくらかの後悔と思ってもみなかった快眠の歓びとがごっちゃになった声色の返事があった。身体を起こし座布団と枕をかたづけて廊下におり、施設入り口付近に置かれた調度品をぼんやりと検分したのちおもてに出た。観光バスの姿はすでになくなっていた。そのバスの車体のしたに一匹の野良猫がいたのを、ここに到着した直後にTが指摘したのだった。駐車場のわきにもうけられた畑には農作業着を着せられた案山子がたっていた。遠目にながめると人間と区別がつかなかった。
 ふたりとも小腹が空いていた。時刻も夕飯時ではあった。オレンジ色をしたまんまるの夕陽が空にかかっていてまぶしかった。二年半前にもやはりおとずれたうどん店の山田家に向かうことにした。ここは前回、パーキングエリアでの車中泊明けにたどりついた朝の高松市内の旅館の浴場でいちばん風呂を浴びたのち、車内で仮眠をとっているTをのこしてひとりで海岸線を歩いているときに見かけた工事現場のおっさんと世間話を交わしているときに教えてもらったうどんの有名店だった。たしかあの年は四国に巨大な台風がおとずれて甚大な被害をおよぼし、おっさんの現場もまたその台風の爪痕を修復するためのものだったはずだ。京都から来たと告げると、それまでいちども耳にしたことのない訛りで京都からはちょくちょく観光客がやってくるのだとあって、おすすめのうどん屋さんはどこかないかとたずねると、観光だったら山田家あたりがいいんでないか、議員さんなんかもよく利用しているし、もっともわたしら地元民なんかはセルフの安いところでばばばっとすませるもんだが、と暗に、というかもろ率直に、よそものならあそこにでもいっておけばいいんじゃないか的なうどんの素人にたいする軽蔑を隠さぬ回答があって、それがたいそうおもしろかったのでその山田家へむかうことにしたのであったが、激ウマだった、こんなにうまいうどんなど食ったことはないというレベルだった、その記憶がとても鮮明に残っていたために今度の旅行でもやはりおとずれるべきだろうと、これはTが計画をたてると同時にかためていた方針でもまたあった。ナビにしたがって車を走らせているとだんだんと四方の空をさえぎりとりかこむ山のかたちが変形しだし、やがて切り崩されて鋭角的にそびえたったりところどころはげたりしている不完全に畸形めいた姿が目につきはじめた。庵治町というのはつまるところ石材で有名な地域で、たしか日本の石材の大半がこの町から産出されているはずだった。夕飯時であるし混雑しているかもしれないとTがいうので、地元民はだれも行かないくらいの勢いであのおっさんも語っていたことであるし案外空いてるんじゃないのか、しかしこれで駐車場に香川ナンバーの車がみっしり停まっていたらあのおっさんを嘘つき認定しなければならない、などとふざけているうちにすれちがう電信柱の広告スペースがひとつのこさず(ほんとうにひとつのこさずだ!)山田家のオレンジ色のチラシによって占拠されているテリトリーにさしかかった。坂道をのぼっていくとやがてナビが目的地付近に到着しましたと告げた。18時を過ぎていた。信じられないことに駐車場はがらがらだった。座敷に通してもらうと、われわれ以外に客の姿はひとりもなかった。本当に地元民はここには来ないのだ、もっとローカルで美味くて安い秘密を店を知っているのだと、Tとささやきあった。ただの釜揚げうどんでは心もとないので天ぷら入りのを注文しようとするとTに制止された。曰く、Tの関与した過去三度にわたるこちらの失神の現場には共通項としてつねに天ぷらがあるとのことだった(くら寿司の天ぷら×2、わかさぎの天ぷら×1)。夜は夜でまたどこかに繰りだしてなにか食べる可能性もたしかにあることであるし、ここはおたがいふつうに釜揚げうどんで落ち着けばいいんでないかということになった。運ばれてきたものに薬味をすべてぶっかけたのち、ゆっくり食えよ! とにかくゆっくり食え! とこちらににらみをきかせるTの命令におとなしく従うことにして、麺を一本ずつすすった。美味かった。美味かったが、前回おとずれたときよりも味のおとっているような気がした。トッピングで生卵を落としてもらったのだが、おそらくこいつがいけなかったのだろう。つゆのとんがった味がたまごのまろやかさによって殺されてしまうのだった。指摘すると、Tもまったく同じことを考えていたといった。汁ごとすべてたいらげてから茶を飲み、席を立った。Fくんへの贈り物としてここのうどんを買うのもアリかもしれないと考えたが、香川にいってうどんをお土産にするというのもいかにもひねりがないようにおもわれたのでやめておくことにした。
 店を出て車を走らせてしばらく、またしてもいつのまにか眠ってしまっていた。食後のたびごとに猛烈な眠気に見舞われる体質であるとはいえいくらなんでもあんまりである。停車する気配に目をさますと、車窓越しにのぞむ屋外はすでに真っ暗だった。Tがちょうど運転席からおりようとしていたのでどこに行くつもりかとたずねると、古着屋があったから立ち寄ったのだといった。むろん同行しないわけがなかった。古着屋というよりは郊外によくあるタイプの書籍からCDからゲームソフトからフィギュアから衣類からなにもかもを大量にとりそろえているたぐいの巨大なリサイクルショップだった。なんとなく中古CDコーナーをのぞいていると、チボ・マットのアルバムが300円であったので小躍りした。そこから300円縛りで宝探しをはじめることにし、結果、中世聖歌の収録されているものとあとひとつカナダ出身のはじめて名前を目にするアーティストのものをジャケ買いした。もうひとつジャケ買いしたくなる300円があったが、そちらはTに買わせた。ワープレコード移籍後のイーノのアルバムもあったが、こちらは価値をしる店員の手によって値札がつけられていたので放置した。それから衣類コーナーを探索した。ほとんど冷やかしのつもりだったのが、いつのまにか春物を真剣に検分しているじぶんがいた。とどのつまりはすばらしい品揃えだったというわけである。われわれの地元とさほどかわらぬこのクソ田舎の片隅にまさかこれほどまで豊富な品々があるとはと驚きを禁じえなかった。あるいは片田舎だからこそ可能な品揃えなのかもしれなかった。つまり古着を買い取ってくれる店舗が近隣ではここにしかないそのために必然的に豊富かつ優良な在庫がかたちづくられることになるのではないか。ひととおり衣類を検分したあとはズボンを試着しているTを置いてひとり書籍コーナーのある二階にむかった。漫画もラノベトレーディングカードもフィギュアもたくさんあったが、純文学は圧倒的に乏しかった。一時間以上滞在しておきながら結局双方ともに中古CDを数点購入しただけで店を出ることになったが、しかしふしぎに充実した気持ちがあった、よいものを見たという感触があった。車にもどってからさっそくCDを流してみると、Tに買わせた300円のほうはどことなくジプシー音楽っぽいインストものでなかなかにぎやかに楽しいやつだったので、まあ当たりだった(Hくんの好きななんとかいう民族音楽バンドにすこし似ていた気がする)。こちらの購入したカナダ人アーティストのものは低音ばかりがバカスカきいたエレクトロなロックという感じのもので、いってみればゼロ年代に大量生産&大量消費されたポストロックとエレクトロニカの最大公約数みたいなかんじでぜんぜん好きになれなかった。おめあてのチボ・マットを試聴しようという段になってカーステが馬鹿になってしまったのでがっかりした。
 車を出してしばらくするとPからメールが届いた。本文はなく、画像が四枚添付されていた。ダウンロードしてみると予想どおり結婚式のようすの写真、というか銀色のスーツに身を包んだPとウェディングドレスのかわいい奥さんとのツーショット写真がずらりと表示された(そのうちの一枚はツーショットではなく、夜の東京タワーを背景にしてアイドル顔負けの笑みを浮かべるかわいい奥さんのプレミア写真だった)。Tにみせると、熊田曜子に似ているとの感想があった。納得した。たしかに若いときの熊田曜子をおもわせるところのあるべっぴんさんだった。
 二年半前にも宿泊したカプセルホテルにむかった。当のホテル自体はすぐに見つかったのだが、そのホテルと提携している料金の安いコインパーキングがなかなか見つからなかった。前回もたしかそうだった。さんざん探しまわったあげく、結局見つけることができなかったのだった。カーナビとスマホを駆使してあたりをつけるのだが、そのことごとくがどういうわけかはずれる。今回も同様だった。 Tはいつしかイライラしはじめていた。うろうろするうちに当のホテルの場所さえ見失ってしまったときには、たえきれぬとばかりに怒声を張りあげてみせさえした。こちらはといえば再三にわたる眠気をこのときもやはりまた感じていたが、イライラしている人間の目の前でうとうとするのもためらわれたので、どうにかこうにか気張って眠らないようにと別の意味で必死であった。さんざんうろうろしたあげくようやく目当ての駐車場を遠目に発見するにいたったが、そこにいたるまでの路地がことごとく一方通行であるために車を運びようがないとTは吐き捨てるようにいった。そうして結局そことは別の駐車場、つまりはホテルに隣接してあるコインパーキングに車を停めることになった。
 カプセルホテルは雑居ビルの四階より上にあった。一泊3000円、マイナスイオンルームだと3300円と券売機にはあり、いまどきマイナスイオンみたいなトンデモにだまされる馬鹿などいるのかよという話ではあるが、しかし300円高いその分だけ利用者の少ない可能性があったので騒音を避ける意味でそちらに泊まることにした。受付にはおっさんがひとりいた。二年半前に見かけた韓国人か中国人かの女の子はいなかった。片田舎の繁華街にあるカプセルホテルの夜フロントで働く異国の若い女の子というシチュエーションにしびれるところがあってここを舞台に胸のヒリヒリするような小説を書きたいと考えたかつての記憶がよみがえった。二年半前とかつての旅行の日時をおぼえているのはここのロッカールームで風呂上がりにTのスマホを借りてWさんからいただいた「A」の感想メール(「多和田葉子以来の傑作の受賞作になる」!)を興奮しながら読んだ記憶が鮮明にのこっているからで、「A」を脱稿したのが2011年10月、脱稿してすぐにAさんに原稿を送信し、そのAさん経由でWさんにも原稿を送ることになったのはわりとすぐだったはずなので、香川をおとずれたのはやはり2011年の10月から11月のあいだだということになる。すごく暖かくていい日和だったのをおぼえている(あるいはあの暖かさをおもうと11月ではなかったかもしれない、ふたりに送ったのは推敲前の初稿だったかもしれない、そうだ、そんな気がしてきた、初稿を完成させてから原稿を寝かせている期間を利用して旅行に出かけたんでなかったか、そうして帰宅してからふたたび推敲に着手し月末締めの「群像」に応募したのでは? そうだ、そのとおりだ! 思い出した! Aさんからの返信に決定稿もまた読ませてほしいとあったのだった!)。カプセルルームに入るとわれわれのほかに利用者のいないことが判明したので大喜びした。前回はそれ相応の混雑っぷりで夜中にひとりの酔っぱらいがなかなかおもしろいすっとんきょうな独り言をもらしながら部屋に入ってきたこともあったのだった。
 荷物の一部をカプセルのなかにつっこんでおいてふたたびおもてに出た。もう一食ここでなにか食べておかなければ今日を終えることはできなかった。飲屋街を抜けて見覚えのある商店街に出た。この筋沿いに食堂が軒を連ねているはずだったが、道なりに歩いているうちに見覚えのあるはずの商店街がしだいに見覚えのない商店街へと姿を変えていき、ついにはルイヴィトンやらコーチやらのショップがたちならぶハイソサエティなストリートに出てしまった。こんなところ以前はあっただろうかいやないと反語的感想を洩らしあいながらふたたび先の飲屋街にもどると、路上に立つあやしげな男たちから次々と呼びこみがかかった。そのたびごとに無視したり、ぺこりと一礼したり、それよりいま腹が減っとるんでねと応じたり、今日気絶したばっかやしそんな元気ありまへんわとこぼしたりした。前回おとずれた骨付き鶏肉とうどんの双方を安価で食すことのできる屋台がつぶれてしまっているらしいことを確認するころにはけっこうな時間になってしまっており、軒をつらねる食堂も半分ほどはシャッターをおろしはじめていたので、とりあえず目についたうどん屋があればなんでもいいからそこに入ってみることにしようという方針のもとぶらぶらと散策を続けた。やがて商店街筋からやや離れた一画、暖簾のむこうから暖色系のあかりの漏れてくる店舗が目に入ったので、そこで手を打つことに決めた。店内の引き戸に手をかけて中に入った途端、背広姿に埋めつくされたテーブル席のにぎやかな話し声にむかえられた。つまりは飲み屋をわたりあるいたあとの〆におとずれるタイプの店なのだった。じじつこの店のおすすめは(いくらか脂っこく味の濃い)カレーうどんであった。カウンター席についてTはおすすめのカレーチーズうどんを、こちらを昼間の出来事を考慮してあっさりとした梅うどんを注文した。美味かった。これは当たりの部類に入るなと言いあった。
 店をあとにしてからコンビニに立ち寄った。先のうどん屋には美味そうなおでんもまたあったのだが、なんとなく注文しそびれてしまったその埋め合わせにコンビニでおでんを買いたいとTが言いだしたのだった。こちらもこちらで肉っ気のない食事に物足りないところがあったので(骨つき鶏肉をもとめてはしごしようというこちらの提案は気絶の懸念から却下された)、コンビニで甘いものとコーヒーとサンドイッチ(パンのあいだにはさまれているハム程度の肉っ気ならオーケーという許可が出た)を購入し、パクつきながらホテルまでの道のりを歩いた。夜になるといくらか冷えはじめるのは前日同様だった。エレベーターに乗ってホテルのフロントにいきチケットを渡して鍵を受けとり、ふたたびエレベーターに乗りこんで今度はカプセルルームにいきそこでおのおののカプセルのなかに荷物を突っ込んだ。そうしてまたもやエレベーターに乗り込むとフロントのあるのと同じ階にあるロッカールームにいってそこで備えつきのパジャマに着替え、またしてもエレベーターをのりつないで(どこにいくにしてもとにかくエレベーターに乗り込まなければならないやっかいな構造なのだ!)上階の浴室にむかった。浴室もやはりまた貸し切りだった。ここの浴室はかなり居心地がよく、前回おとずれたときなども香川に到着した最初の朝に利用した海沿いにある旅館のやたらと入浴料の張る風呂場などよりもこっちのほうがよっぽどいいなどと言い合ったものだったが、今回も今回でなにがそこまでいいのかわからないがとにかく居心地がよく、というかおそらくジャグジーの浴槽がとてもひろくかつ泡の勢いが半端無くすさまじいそのためであるように思われるのだけれど、湯の温度もやはりまたちょうどいい案配のそこに四肢をのばしてゆっくりたっぷり浸かりながら深夜放送のよくわからないドラマの馬鹿馬鹿しい画面をぼんやり目で追っていると奇妙なまでの多幸感をおぼえた。最高だなと思った。十時間前には失神して苦しんでいたとはとうてい思えなかった。おなじ一日として処理せよというほうがどだい無理な話だった。
 風呂からあがり体重をはかるとやはり58キロだった。60キロに達したあの数日はいったいなんだったのだろうと思った。Tは73キロもあった。過去最高記録までもうあと1キロにまでせまっているらしく、腹の肉を寄せてつかんでみせてはやべえやべえと口にしていた。カプセルルームにもどり翌朝は9時起床でとひとまず約束し、隣接したおのおのと繭に閉じこもった。横になってテレビをつけてみると、堂本剛が生放送で視聴者からのお悩み相談に答えるという番組が放映されていた。堂本剛を見るのとか五六年ぶりなんではないかと思われるのだが、このひとも年相応の顔つきになってきつつあるなとしみじみ時の流れを感じた。花粉症の薬を飲み、テレビをザッピングしたあと、とくに観るべき番組などないように思われたので消灯した。道の駅に停めた車のなかで四五時間眠り、気絶したあとに屋外で二時間弱、湯上がりに座敷で一時間、そうして移動中の車内でほとんどしょっちゅううつらうつらしていたにもかかわらず、繭に引っ込んでから三十分とたたぬうちにまたもやたやすく眠りに落ちた。そうして翌朝9時まで、部屋を行き来するスタッフの足音でぼんやりと意識の浮上する夢うつつの域に幾度かさしかかった朝方のほかは夢も見ずに死んだように眠りこけていた。どうかしている!