20140416

 まンず、うすらトンカチのおめえらの、空っぽ頭にようく叩き込んでもらいてえのは、
 と、村長メはさらに音量さ上げて。
 人間どもの天下はもう終わったということだ。ばかな都会人どもはまだ、おらが天下の妄想にとり憑かれて、栄えゆく人間様の世を謳歌し、とめどもねえ自惚れ、傲慢(ゴーマニ)、虚飾(みっともな)、欲望(ドよく)にうつつを抜かしてるようだけんど、ここは違う。人間過疎の、ここは違うぞ。過疎ってことは、人間どもが撤退したってことじゃねえか。むかし大戦争のとき、日本軍はしきりに転進とかなんとかいうて国民の目さごまかそうとしたが、なんのことはねえ、撤退したってことじゃねえか、敗けて遁走(とんずら)したってことじゃねえか。むかしサイパンガダルカナルで起こったことが、いま、ここで再現されてるだけなんだ。農村(むら)を捨てて出ていった連中には、そこんとこが分かっちゃいねえ。都会人どもはほんとうは敗者(ドまけ)なのに、まるで勝者(おかち)みてえに驕りたかぶって、のさばってやがる。この倒錯(ヘンチョコリン)が、世の狂いのもとなんだ。それにくらべて、おらたちは正直なもんだ。いやさ、正直でいかんべよ。敗けたら敗けたで、素直に認めべえじゃあんめえか。そして勝者(おかち)と――真(まこと)の勝者(おかち)は自然だが、ここじゃ猿メらだ――と仲直りして、頭さ下げ――傲慢(ゴーマニ)はいかんぞ、思い上がりは捨てねばな――、奴らに見直してもらい、仲良うしてもろうて、奴らと一緒にしあわせに暮らしていく道ささぐること。な、そういうことじゃねえかえ、大事なことは。
(松下清雄「三つ目のアマンジャク」)



 11時にめざましで起きた。睡眠時間が5時間を切ったとき特有のだるさがあった。半分ねむりながら歯を磨いていると何度となく二度寝の誘惑に駆られもしたが冷や水を顔に浴びれば目もさえるだろうと気張っておもてに出た。そしてじじつそのとおりになった。ストレッチをしたのちパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。
 12時から日記の続きにとりかかった。ひとまず昨夜書きあげていた11日分の記事をざっと見直してから投稿した。そうして10日分の記事についていたコメントに返信した。10日分の記事については書いているこちらとしてもなかなか書き終わらないというかどうして一日分の記事を書くのに丸二日もの時間を要しているのだろう(一歩すすんで二歩さがるの世界!)、なんだかんだでだらだら過ごしてしまっているほかならぬ証左ではないかなどと自問自答していたのであるけれど、計算してみると原稿用紙55枚分もあってこのときほどじぶんが底抜けの阿呆だと思ったことはない。ちょっとした短編の域である。9〜11日の三日間をひとつにまとめたらおそらく文學界に応募することだってできる。いったいじぶんは小説も書かず英語も勉強せずなにをやっているんだろうかとあきれかえった。
 続けざまに12日付けの記事と13日付けの記事も書いて投稿した。14日付けの記事を途中まで書き進めたところで力つきたので、ケッタに乗って買い物に出かけた。15時半だった。下宿を出て路地にでると、前を歩いていた女子中学生の集団が頭上のわりと低い位置を滑空していったカラスを目撃するなり悲鳴をあげた。「きもいきもいきもい!」としきりにくりかえしているその様子をみて、カラスというのははたしてきもい部類の生物なんだろうかと思った。都会の現代っ子にとってはそうなのかもしれない。買い物をすませてケッタでふらふら家路をたどりながら今日中にあと二日分の日記を仕上げねばと考えた。そうしてふと、今週に入ってからのじぶんはまるで過去にとらわれし哀しき老人みたいだと思った。記憶をほりかえしてはそれを刻みつけることばかりに苦心している、というかそれ以外にほとんどなにもしていない。おのれの生涯をおわりなき戦死者の水葬にささげているやつと同じだった。そんなふうな所感をおのずと抱いているのがおかしかった。じぶんの行動をかつて読んだ小説や観た映画の登場人物らと重ねあわせたりひきくらべたりする妄想癖を介して、みずから書きつけたテキストが完全に客体化された瞬間をみた思いだった。
 玄米・納豆・冷や奴・もずく・なすの浅漬け・レタスとトマトのサラダ・茹でたささみのしょうもない夕飯をかっ喰らった。それから布団に横たわり山内マリコ『ここは退屈迎えにきて』を最後まで読み進めた。全篇通して「椎名くん」がハブになっている構成もよかったし、なにより14日付けの記事にも書きつけてあるとおり、メタファーではないそれそのものとしての具体的な「ファスト風土」をリアリズムの手つきでここまでするどく高い精度でえぐりとっているのがよかった。最後に収録されている「十六歳はセックスの齢」だけは新人賞受賞作だけあってほかとおおいにおもむきがことなる。「ファスト風土」に照準のしぼられているわけでもなく(おそらくこの作品を書きつけた時点では作者はまだあたらしい領野を開拓することのできる可能性のここにあることに気づいていなかったのではないか? あるいは「女による女のためのR-18文学賞」という賞の方向性からずれすぎないように意図的にセーブしただけなのかもしれないが)、夢の扱いかたなどもどこか「文学」的にすぎる。むろんこのような「文学」性はいっさい必要ないし、作者もそのことをはっきり自覚しているようにもおもわれる(ほかの作品にはこのような「文学」的下心は認められないから)。同様に「地方都市のタラ・リピンスキー」における安い人称トリックのようなものもまったく必要ないだろう。そういうものをすべて排したところでぜひ今後も書きつづけてほしい(新作『アズミ・ハルコは行方不明』のあらすじなんかを見ているとちょっとした懸念のないこともないが、ひょっとするとデビュー作よりもずっとうまく「文学」とおりあいをつけているんでないかという気もまたする)。ただひとつ気になったのは収録されている作品の大半が「出戻り」の立ち位置からの語りとなっているところであり(これはじっさいに語り手が「出戻り」であるかどうかをいっているのではない)、この小説の語り手はみなみずからの生まれ育った故郷であるところの「ファスト風土」文化圏について批判的に、皮肉っぽく、とどのつまりはその「外」から(あるいはその「外」との対比関係を介して)語っている。そしてそのように皮肉っぽくときに辛辣なふうにさえみえる語りの距離感をもっともあらわにするものとして、たとえば三人称で書かれているにもかかわらずまるで目の前でくりひろげられている光景を高みの見物するような距離感で(おなじ位置にあるだれかにむけて)語りきかせているようなふしぎな印象をもたらす語りの「やがて哀しき女の子」があったりする(ここでの語りは三人称のていをとりながらもその実態は「外」に身を置く無名の傍観者による「一人称の距離感」をはっきりと保持している)。ゆえにこの作家の今後進むべき方向として、たとえば皮肉っぽく批判的なこの「外」からの語りを「内」にもちこんでみせることができるのかどうかというおそるべき無理難題、とどのつまりは 「椎名くん」の一人称で書くという挑戦がある、そういってみることもできるだろう。
 20分程度の仮眠をとった。ものすごく浅い眠りだったが、しかしこれくらいがちょうどいいのかもしれない。仮眠をとるときはやはり部屋の電気は点けっぱなしくらいのほうがいい。でないとじぶんの体質ではすぐに深いところに落ち込んでしまう、その結果起床するのに難儀することになる。
 19時半からふたたび日記の続きを書きはじめた。Fくんから無事にうどんが届いたとメールがあった。気絶予防策というか自律神経をもうすこし整えるために時間割に瞑想とか自律神経訓練法とかあの手のものを取り入れたほうがいいのかもしれないと思った。14日付けの記事を書き終えて投稿したところで腕立て伏せをし、ストレッチをしてからジョギングに出かけた。序盤で左脇腹が痛み、後半で右脇腹が痛んだ。途中ですこし歩きもしたが、プレイリスト「香川」をおともに(長)を完走した。入浴してからストレッチし、コンビニでお茶とおにぎりふたつを購入してつまみながら15日付けの日記を書きはじめた。とちゅうYouTube小沢健二がいいともに出演している動画を視聴した。歌、やっぱりあんまりうまくないけど、すごくいいなと思った。15日付けの記事を完成させて投稿したところで布団にもぐりこみ、『今昔物語』をひとつふたつ読み進めたところで消灯した。2時半だった。
 上の記事、「14日付けの記事にも書きつけてあるとおり」とあったその次の次の段落で「14日付けの記事を書き終えて投稿したところで」とある、日記の遅延がもたらすところのこの記述上の混乱がちょっとおもしろい。