20140417

 報いだな。報復だな。裁きだな。そったらこと、おら、てんから信じちゃいねぇ。この世のことは、すべて一回こっきり。未来には一切、貸し借りなしよ。ただ、死者に対してだけは、はなしは別で……。
(松下清雄「三つ目のアマンジャク」)

 ……運命にはとことん抗わねばならねぇが、自分自身が運命になってはこれは不可(いか)ん。
(松下清雄「三つ目のアマンジャク」)



 8時半に起きた。芯の太い眠気がこめかみのあたりにわだかまっていた。歯磨きをして顔を洗い部屋にもどってストレッチをした。パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとったのち、前日付けの日記の続きを書いて投稿した。それからたまっていた日記の読み返しをおこなった。マルティン・ブーバー『忘我の告白』に以下のような一節があったのだけれど、《太陽にして眼》という表現は磯崎憲一郎の元ネタっぽい。『特性のない男』は『忘我の告白』から引っぱりまくってきているし、磯崎憲一郎の初期作品(最近のは知らない)はムージルから引っぱりまくってきている。

 けれども、魂それ自体から起こって、魂のなかでなにかと接触したりなにかに抑制されるというようなことなく、みずからの独自性においてのみ育つ体験もある。それは営為のかなたで生じてみずからを完成するのである。他者から自由に、他者には立ち入れないものとして。それは養われる必要がないし、いかなる毒の作用もこの体験にまではおよばない。この体験のなかにある魂はみずからの内部にあり、自分自身をもち、自分自身を――際限なく――体験するのである。この魂がみずからを一体なるものとして体験するのは、もはや、それが世界のひとつの事物にすっかり自己を集中させたということによるのではなく、それがみずからのうちにすっかり自己を埋め、みずからの根底にまですっかり沈潜したからなのであり、このときそれは同時に種子であり外皮であり、太陽にして眼、盃にして飲みものなのである。このようなもっとも内的な体験こそ、ギリシャ人たちが忘我(脱自)すなわち、出てゆくことと名づけたものである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)

 12時前だった。懸垂と腹筋をして筋肉を痛めつけた。それから米をといで炊飯器のスイッチを入れた。ヨーグルトとバナナの間食をとったところで12時半、そこから15時まで英語の勉強をした。食材はたっぷりあるし買い出しにでかける必要はないと思っていたのが、納豆・冷や奴・もずくというオールスターが軒並み不在であることに後になって気づいた。いまさら買い出しに出かけるのも面倒だったので、玄米の卵かけご飯・水菜とトマトのサラダ・茹でたササミで夕飯をすませた。
 17時だった。17時半にめざましをセットして寝床にもぐりこんだ。そうしてめざめると18時半だった。またもや消灯していた。のみならず目覚まし時計を布団から手の届く範囲内に設置してしまっていた。いったい何度おなじあやまちをくりかせば気がすむのか。人間、この愚かでまぬけな反省知らずの被造物よ!
 シャワーを浴びてストレッチをした。それから喫茶店に出かけた。20時過ぎから23時まで滞在して『ルネッサンス 経験の条件』の残りを片付けて澤野雅樹『ドゥルーズを「活用」する!』を読みはじめた。とちゅうでYさんから連絡があり、来週の金曜日に熟コンの正式に開催される運びになったことが告げられた。やばい予感しかしない!
 帰宅してから大量に仕入れたばかりのパンの耳をかじりながら友人知人のTwitterをひとつずつチェックしているときにふと、ていうか閲覧専用みたいなアレでアカウントを作成してそこのホーム画面でチェックするようにしたほうがいろいろと便利なんではないかと、そう思われたのでさっそく実行に移してみた。移してみたはいいもののホーム画面で未読のつぶやきを下から上にスクロールしていくこの感じはこの感じであんまり快適でなくてどうしたものかと思っているところにNくんの新着つぶやきがとどいたのでちょろちょろっと会話してみた。なるほど、楽しい!
 2時ごろまでKath Bloomをおともに山内マリコここは退屈迎えに来て』とマイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』の抜き書きをした。山内マリコは「わたしたちがすごかった栄光の話」だけでなく「アメリカ人とリセエンヌ」の最後もすごくいい。オスカーのくだりとか最高に感動する。あとこれもたぶん「わたしたちがすごかった栄光の話」だったように思うのだけれどファスト風土を構成する施設・店舗・建物の固有名を羅列していくくだりがあって、で、そのなかにスタバやドトールが入っていたものだからスタバやドトールのない町に生まれ育ったこちらとしてはこれはショックだった。地元を出て十年になるいまでもスタバやドトールは都会の象徴としてしぶとく位置づけられてある。『ディビザデロ通り』を抜き書きしていると、これは初読の印象よりはすぐれた小説だったんかもしれないと少し思った。抜き書きした部分を読んでいてとくにそう思ったわけではないのだけれど、抜き書きしているあいだじゅうこの小説に一貫して持続していた透明で上品な感傷のトーンみたいなものがくりかえし波打ち寄せてきて、クープがボコられるシーンの迫力であったりとかイカサマポーカーで勝利し監視カメラにむけて勝ちどきをあげてみせるシーンのひやひやであったりとか、それから名前を忘れてしまったけれどよその土地で成功した片目の男がいまは人妻となったむかしの恋仲の貧しい女性のもとをおとずれる夜のシーンとか(その女性が片目の男と十数年ぶりにならんでテーブルに腰かけるときに彼の見えるほうの目のとなりがじぶんの特等席だったことを思いかえすくだりとかけっこうじいんとくる)、いろいろよみがえってきて、なかなかせつなくなってしまった。
 そうしてそんなせつなさをぶちこわすような暴走をまたツイッター上でくりひろげてしまった! ツイッターは日記のように一日一回の投稿式ではなくて連投しようとおもえばどこまでも連投できてしまえるその設計上なんでもかんでも書き散らかしたいこちらの欲望をおおいにそそるからすごく危険な気がする。いっしゅんで中毒になってしまいそうですごくこわい!