20140424

 彼が森のなかに入ったときには、小鳥たちはまだかろうじて目を覚ましたばかりで、最初のチュンチュンさえずる声が、水面に跳ねるしずくの音みたいに彼の頭上に落ちてくるだけだったが、いまや、オークやブナの木から絶え間なくさまざまなメロディや饒舌な会話が聞こえてきて、まるで市場のなかを歩いているようだった。ロマンには、牛や豚や怯えた猟犬は啼き声や姿勢でそれとわかった――人間とすこしも変わらなかった。動物の表情を見れば、鉤爪が割れてしまったとか喉が渇いたとか言っているのが読みとれた。だが、小鳥の鳴き声だけは大いなる謎で、彼はそれが気にいっていた。
マイケル・オンダーチェ村松潔・訳『ディビザデロ通り』)



 10時にめざましの音でいちどめざめたはずなのだが、ほとんど記憶がない。二度寝しようとおもって携帯のアラームを設定しようとしたのはかすかにおぼえている。あとボタンひとつ押せばセット完了というところで力つき、12時にふたたびめざめると右手が携帯を手にしたまま掛け布団の外にのびていた。投げやりな気分の三度寝、四度寝が続いて、ようやく上体を起こすころにはたしか13時半をすこしまわっていた。寝坊するのではないかという予感は前夜のうちからあるにはあった。ひさしぶりにジョギングをしたそのせいなのかなんなのか、寝床にもぐりこんでから両脚がともにむずむずうずうずしてしびれるようであり、こういうときはたいてい金縛りにあうんだがと思っていると、案の定、入眠しきるまでのあいだに四、五回ほど四肢の自由を奪われることになり、めんどうくさいな、さっさと眠らせてくれと思った。しびれをえいやっと解除するたびごとに姿勢を変えてみたりしたのだけれど、なかなかうまくいかなかった。いちどCさんがそばにいる幻覚をみた。いたんだ、というと、うん、とあって、でもそんなわけない、これは夢だと思ったので、これ夢や、でも会えてよかったととなりで寝そべる彼女に告げると、その途端にしびれがほどけて、右向きに寝転がって話しかけていた身体がじっさいはあおむけに寝転び天井と対面しているのがあきらかになって、でもその視界の中央に掛け布団の外からでたじぶんの右手があった。そしてその手は包丁を握りしめていた。ちがう、夢じゃない、ぜんぶ現実だ、と思った。夢のなかで手にしていたのははさみだった、ゆえに多少の相違はある、しかしやはりつながっているのだ、と後だしの奇妙な確信につらぬかれた。そしてその途端に女の叫び声が耳元でたった。そこでようやくほんとうにめざめた。布団の外にでて、茶をひとくち含んでふたたび床につくと、ようやくくつろぎがおとずれた。翌朝は起床するのに難儀するだろうと入眠まぎわに思った。
 歯を磨きストレッチをしてパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。それから前日分のブログの続きを書いて投稿し、今日付けのものもここまで一息に書きつけた。中国のKさんからメールが届いていたので(結局一時帰国中にどこかで飯を食うという約束はお流れになっていた)、返信した。ブログ会員制になったんだねと暗にパスワードを請求するような文面が含まれていたので、『A』発刊と同時にすべてやめたのだと答えた。中国での生活はなかなか刺激的で楽しいらしかった。いまは田舎町で生活しているけれども、来年にはもうすこし大きな街にある学校のほうに移るかもしれないとあった。Mくんは今後どうするの、とあったので、来年の夏を目処に東京に移ることを以前よりもずっと現実的に考えはじめている、と応じた。このところほんとうによく考えている。地震の懸念にだけ足を引っ張られている。
 すべて片付けると15時半だった。「G」作文にとりかかった。枚数変わらず264枚。ほんの手直しのつもりで古い断片を読みかえしはじめたものの、結局いちから書きなおすことになってしまうというのをもうずっとくりかえしている気がする。良くはなっているのだから別に問題はないのだけれど。作文途中、明日にひかえた熟コンについてYさんに確認メールを送ると、不安と緊張の吐露があったので、こちらも同じですと応じた。なんせふつうじゃない。世界でいちばん頭のおかしい合コンが開催されようとしているのだ。
 19時をまえにして図書館にすべりこみセリーヌUAを返却してジョイ・ディヴィジョンを借りた。スーパーに立ち寄り買い物をし、帰宅してから玄米・あさげ・納豆・冷や奴・レタスと水菜とセロリとトマトのサラダ・茹でたササミのくだらん夕飯をとった。10時間も眠りほうけてしまったためにか、こめかみのあたりを圧するような頭痛があった。過眠のたびにさいなまれる種類のものだった。
 食事を終えると21時前だった。布団のうえに寝転んで『ピストルズ』の続きを読んだ。すると食後のためにかすぐに眠気がやってきた。あれだけ寝ておいてよくもまあ、とうんざりしながら携帯のアラームを設定し20分の仮眠をとった。覚めてからチェアにうつり、二時間ほど読書をすると23時半だった。Kさんからメールの返信があった。こちらの東京生活を支持するとあった。Mくんはどこに住んでもじぶんのペースで何にも乱されずに生活できるよ、と。Kさんは築地で働いていた時代、給料が30万円で社宅の家賃が1万円だったらしいのだけれど、毎月20万円くらい使って遊んでばかりで「何にも積み上げなかった」のだという。おとなしくて物腰のやわからいひとであるのに、ああ見えてけっこうキャバクラやら風俗やら通いまくっていたんだろうかと思った(それはそれでしかしふしぎに納得のできるところはあるけれど)。「A」についてまだ読んでいないけれどぱらぱらっと見た感じ、中上健次のような圧力をおぼえたという感想もあった。日記にせよ小説にせよ「パソコンの文字なのに、筆圧を感じるほど」「過激」と続いた。それから最近毎晩日記をつけるようになったという報告もあった。「この習慣はいいね」とあるのにつづけて「頭の中の整理ができて、変な夢を見なくて済むような気がします」とあるのに、多少不吉なものをおぼえなくもなった。いったい、Kさんはそうしょっちゅう「変な夢を見」るのだろうか? そしてその「変な夢」に悩まされているのか? 返信は以下のとおり。

よくよく考えたらいきなり「教師」ですもんね。たしかに簡単な話じゃないと思います。でもきっと現地の「生活」に慣れることができたように、「教師」もいつのまにか板についていくものじゃないでしょうか。Kさん、なんかどんな環境でもひょうひょうとして馴染んでしまいそうなところがあるから。
中上健次っぽいっていう印象、ネット上のレビューにも似たような感想がありました。とくに意識はしていなかったんですけれども、指摘されてみるとじぶんでもけっこうひざをうつところがあったりしておもしろいです。少なくとも「文圧」(という言葉はおそらく存在しませんが)にたいする希求には似たようなものを感じますね。その「圧」がいかなる動機に基づき、なにを撃つべく込められてあるのか、それはまた別問題でしょうけれど。
日記を書きはじめると、日記に書くべき素材がどこかに落ちていないかと観察の目をこらすようになり(少々貧乏くさい話ではありますが)、それをきっかけに生活の細部にたいする感受性がとぎすまされていくようなところがあると思います。だから日記を書くというのは、微視的にみれば、よくいわれるように一日をふりかえって反省するという事後的ないとなみになるんでしょうけれど、続ければ続けるほど、むしろこれからおとずれる出来事をどう感じどうとらえどのようにすくいあげていくのか、そのための事前準備や訓練という大局的な視野のもとにおさまる営為としてとらえかえすことできるようになると思いますし、そのようなフィードバックのための回路が構築されてからこそがむしろ、日記の本領であるんでないかと思います。ですからぜひ、手書きであろうなんであろうと、毎日書きつづけることをおすすめします。じぶんの書きつけた文によって書きつけるじぶんが更新されていく、自己完結した独自のシステムのなかに身を置いてみるのは、きっとなかなか得がたい体験ですよ。
それでは!

 メールの返信を終えてから風呂場に出向いた。シャワーを浴びている途中、きのうタジン鍋の蓋を玄関におとして割ってしまったことをTwitterでつぶやいておきながらブログに書き記しわすれていることに気づいて、妙に腹が立った。Twitterのせいでブログが邪魔されていると思った。じじつここ数日分の記事はなんとなく怠惰だ。じぶんはなにものか? 小説家だ。それも異常なくらい書く欲求にとり憑かれてあるそのような小説家だ。だらだらながながと夕飯の献立から思索の破片、小説の構想から職場のトラブルなど、あれもこれもすべてごちゃまぜにぶちまけることのできるメディアこそが必要なのだ。それはなにか? ブログだ。Twitterではない。アカウントがあれば一括でみんなのつぶやきをチェックできる利点があるとはいえ、そもそもそんなにフォローしているひとがいるわけではないしみんなそんなにつぶやくわけでもないし、これだったら作文中たとえば麻痺ってきて息抜きが必要なときなんかに、ブックマークしてある各アカウントを手動でチェックするみたいな以前のやりかたのほうがずっと効率的で賢いんでないかと思った。ゆえにアカウントを削除することに決めた。
 風呂からあがり部屋にもどってからYouTubeで『ニーアレプリカント』の分岐エンディングをすべて視聴した。プレイもしていないゲームのエンディングを視聴するとはなんたることかというアレだが、どのような世界観でどのような設定がつくりこまれどのような謎のこめられてあるゲームなのか、すでにある程度把握してはいるのでなるほどなと思った。「強くてニューゲーム」という分岐エンディングのあるゲームにおなじみの便宜がそのまま二周目の物語の悲劇を演出するのに一役買っている点や、主人公の存在(他者のなかの記憶ふくめて)とひきかえに仲間の命を救うという選択肢がそのままセーブデータの消去につながるというあたり、RPGの「制度」にたいしてクリティカルでいいなと思った。
 それからここまでブログを書いた。書き終わると3時半だった。あした出かけるのがだんだん面倒くさく、というかほとんど憂鬱になってきた。一生語り継ぐことのできるほど濃密なエピソードの獲得にいたればいいのだけれど、Yさんの懸念同様、とにかくJさんがどうでるのかそれが心配でならない。とにかくパクられることなく無事京都にもどってこれることを祈る一心である。『ピストルズ』をおともに4時半消灯。