20140425

 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起そうと努める。私は、出来ることなら京都から逃出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
梶井基次郎檸檬」)



 10時半に起きた。歯を磨くためにおもてにでるとすごく暖かかった。紫外線のきびしさがなんとなく察せられるようなじりじりする日差しをむきだしの手の甲やうなじに感じた。空間はくまなく照らされてあかるく、色調としてはしかしぼんやり黄色味がかっていた。季節が移りゆくと思った。ストレッチをしたのちパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。やや緊張しているじぶんがいた。トラブルの予感にそわそわする心のせいだった。
 一年前の日記の読み直しをおこなった。2013年4月17日付けの記事に記されていた予言がなかなかの的中率だった。

日本には7月の終わりか8月の頭にでもおとずれる。7月の半ばだったらいっしょに祇園祭にでも行くことができるのにと思ったのだが、タイミングが合わなかった。三ヶ月の間タイと日本以外の国にはおとずれないのかとたずねるといまのところその予定はないという。もっともわたしたちがおたがいにうんざりしたなら話は別でしょうけど、そのときはわたしはあなたの部屋を出て行かなければならないでしょうから、というので笑った。予言しておこう。確実にそうなる。宣誓したっていい。一ヶ月の滞在予定らしいが、なんでもかんでもすぐに退屈してしまう強烈に飽き性でわがままで衝動的なあのSがわざわざ日本まで来ておいてひとところに滞在するだけで満足するはずがない。とちゅうで沖縄にでも出かけるんでないかとひそかに踏んでいる。そもそもふたりでずっといられるわけがない。最初の三日で確実にケンカはするだろうし、一週間も経つころにはおたがい顔を見るのも嫌になるくらい険悪になっていることだろう。それはいいすぎかもしれない。一週間は少し早すぎる。二週間だ。二週間経てばbreak upだ。そうするとタイミング的にじぶんも盆にあわせて帰省することができてちょうどいいのだけれど。

 日記の読み直しを終えると13時半だった。次いでちくま文庫梶井基次郎』から抜き書きをした。とちゅうで福岡土産にTからもらったラーメンを作って食べた。めっぽう美味かった。まだまだ時間はあると余裕をかましているうちにいつのまにかの16時半で、急いで準備をして家をでた。
 地下鉄にのって四条烏丸でおりた。そこから待ち合わせ場所の南座前まで歩いてむかった。ジャケットを脱いで片手で抱えながら、シャツに薄手のセーターの二枚きりだったが、歩いているだけで全身から汗の噴き出してくるような陽気だった。家を出る直前になってシャツの下にヒートテックを着用する必要のないことに気づいて脱いだのだったが、これだったらジャケットも持ってくる必要はなかったかもしれないと思った。 ひさしぶりの四条は外国人観光客の姿でごったがえしていた。中国人観光客ばかりでなく、西洋人観光客の姿もかなり目立っていた。桜の季節も終わりを告げたというのにどうしたものかと思った。するどく射しこむというよりはまんべんなく照らすような暮れがけの黄金色がときどき目にしみた。風景がこういう色合いのもとに染めぬかれる季節というものがたしかにあった。去りゆくたびごとに忘れさり、おとずれるたびごとに思い出す、そういうささやかなうつりゆきのしるしをして季節感と呼びならわすのかもしれないと思った。ゴールデンウィークという語が連想に呼びまねかれて唐突に浮かんだ。麦畑の真ん中に突っ立っている子の姿を幻視した。
 到着しましたメールをYさんに入れてから川端通の鴨川を見下ろす位置に突っ立って『今昔物語』を読みすすめた。歩行者信号の青に変わる音色の聞こえるたびに手元から顔をあげ、こちらにむかってくる姿がないものかときょろきょろした。しばらくするとYさんから電話があった。横断歩道を渡ってこっち側に来てくれと、そう指示してみせる彼の姿が対岸の間遠に認めれたので電話を切り、信号の変わったところでそちらに歩いていってどうもどうもお疲れさまですとあいさつをした。Jさんはすでに到着しているといった。あんな感じで、とさしのべられた手の方角をたどると、死ぬほどあやしすぎてここまでいくとかえって職質されることはないだろうと思われるミリタリージャケットにサングラス姿の巨躯があった。開口一番、Mくんなんやおめえその服は、学生みたいやないか、ええ、とあった。いつもやたらこちらの私服をもちあげてくるJさんにしてはめずらしいことだった。シャツにセーターはJさん的にはフォーマルにすぎるのかもしれない。あのピンクのウインドブレーカーやったらよかったんすか、とたずねると、そうや、あれや、あれかっこええのに、あれ着てきたらもうどんな女でもイチコロやで、二ヒヒ! とあった。
 改札をぬけて特急に乗りこんだ。窮屈な車内だった。一駅すぎるとやや空いた。空いた席にJさんが座り、その前と横をふさぐかたちでこちらとYさんがつり革をつかんで立った。仕事はなかなか忙しかったらしく、それ相応に疲れているらしいJさんが腕組みをして目をつむりはじめたところで、さてこれどうしましょうかとYさんと作戦会議をたてはじめた。たてはじめたはいいものの、結局のところJさんがどういうテンションで場に臨むのか(職場でのように楽しく愉快に朗らかな道化をよそおってくれるのか、それともいきなりクールな二枚目をよそおいだすのか)、そうしてそのJさんにたいして女性陣がどのような反応をとることになるのか、それがはっきりとしないかぎりはこちらも手の打ちようがない、とどのつまりは出たとこ勝負しかなかった。こんなにナイーヴな緊張感ひさしぶりですわ、ともらすと、おれも合コンでこんな不安なったことない、とYさんはいった。もう帰りましょかと軽口を叩いてふざけあったり、車窓の外の思いのほか田舎めいた風景をながめたりした(「ここってもう大阪なんですか」「いちおう大阪やね。高校の同級生ここから通ってるやつ多かったわ」「ほんならこの町二度と近づかんときますわ、ヤクザばっかってことでしょ?」)。それからつい先日新聞に掲載されていたけっしてこちらとも無関係というわけではないとある記事のおもてには決してでないであろう真相について話しあった。ひょっとするとこういうことだったんではないかというこちらの推理が的中していたのでびっくりした。この界隈でぶらぶらするのもそろそろ潮時なのかもしれないとも思った。高飛びという意味もこめて東京にうつるのはちょうどいい機会なのかもしれない。
 目的地に到着したところで電車をおりた。煙草を吸いたいとYさんがいうと、むこうに広場があるからそこで吸えばいいとJさんが答えた。勝手知ったるようすのJさんにこのあたりにはよく来ていたのかとたずねると、むかしから飲むときはだいたいいつもこの界隈だったのだという返事があり、どこどこのうどん屋がうまいだのどこどこの焼き肉屋が安いだのどこどこの居酒屋で飲んだあとどこどこのホテルにしけこむのがいつものルートだっただの、ずいぶん馴染みらしいようすでいろいろと語ってくれた。広場にはトラックが一台停車しており、その上に巨大なモニターが設置されていた。大阪維新の会の広報らしい映像が延々と流れていた。大学二年生がパワーポイントで作成したような、実績の羅列にやすっぽく感動的なBGMをのせた、どことなく道徳然としてうすらさむくも微温的な、とどのつまりは現代にふさわしいプロパガンダのおもむきがあった(この手の広報物にかぎっていえば右も左も区別のつかないほどそっくりなのはどうしてだろう? 形式の発明に興味がないのか? それとも形式のもたらす効果を見くびっている?)。勤めびとらしいひとびとが煙草をくわえながらぼんやりとそのモニターに視線をそそいでいた。いちように気のない瞳だと思ったが、なかには手持ち無沙汰な喫煙時間のおともというわけでもなさそうな、ひたむきに熱心なまなざしをモニターにそそぐ非喫煙者の姿もあった。Jさんとならんでたち、弧を描くようにしてモニターをとりまく不動の集団とその背後をせわしなく行きかうひとびとの境界線あたりを見極めるような心持ちで周囲をぼんやりとながめわたしていると、人波のなかでひとりの中年女性に話しかけているYさんの姿が目についた。煙草を切らしてしまっていると車内でしきりに漏らしていたことから、おそらく売店の位置でもひとにたずねているのだろうと思ったが、あれが例の女ちゃうんけ、とJさんがいうのに、いいやいくらなんでもあれはないだろうと無意識のうちに足切りしていたらしいその前提がくつがえった。果たしてJさんの予想どおり彼女が(自称)「潮吹きYりん」だった。率直にいって、これはきっついなと思った。Yさん正気かよと神経を疑った。幼少期のいつかに見たおぼえのある顔だという印象がまずたった。習字の先生でもないしピアノの先生でもないし、と習い事の記憶をたどりなおしたが、どれもこれもしっくりこなかった、と、これを書いているいま、世話になっていた保育園にこのひとそっくりな保母さんがいたのではなかったかと天啓のごときひらめきをおぼえもしたが、しかし具体的な顔も名前も出てこない。Yりん(と、屈辱的ではあるが今後は便宜的にそう記述することにする)は小柄だった。どうもどうもと簡単にあいさつだけしてからJさんのほうに視線を送ると、なんでもないような表情を浮かべていたので、こりゃタイプじゃなかったのかなと思った。やがてもうひとりYりんの会社の同僚であることがのちに判明する女性が姿をあらわした。ひとめ見た瞬間、やばいと思った。つまり、目元を重点的にいろどったばっちりメイクと気合の入りまくった勝負服でキメた彼女の姿を目の当たりにした途端、なによりもまずこんなふざけた面子で申し訳ございませんという気持ちがたったのだった。Yりんとはずいぶん年齢のひらきのあることの明白な若い女性で、といってもこちらより年上であることはおそらくまちがいないのだが、だがどの程度年上であるのか、ごくごく素直に受けとるならば三十前半といったところなのだが、しかし奇跡的な若作りに成功した四十路といわれてもああたしかにと奇妙に納得できてしまえるところのある造作のようにも思われ、なかなかあらわれない残るひとりに女性ふたりが電話をかけたりこそこそ相談しあったりしている隙をみてYさんに、あのひといくつくらいっすかね、なんか見極めむつかしい感じちゃいます、とたずねてみると、いちおうおれとそう変わらんとはきいとるけども、ああ見えて五十とかあったりしてな、という返答があったので、そうなんすよね、なんかそういわれたらいわれたですごい納得できてしまえるかもしれんとタイプっすよねと、とまさしくそのとおりとばかりに相槌を打ってみせると、いやいやそれはでもないやろ、とあって、どうやらYさんは冗談でそういってみせただけらしかったが、目元のあたりにすこし蒸発した叔母の雰囲気があったそのためにか、その叔母の実年齢をどうにも投影してしまうところがこちらにはあるようだった(そしてそのためにこちらの第一印象は率直にいってかんばしいものではなかった)。いずれにせよ必殺の面白エピソードとして後の世に語り継ぐにはいくらなんでもパンチの足りなさすぎるごくごくふつうにきれいに着飾った女性である。しばらく雑踏のなかで五人立ちつくしたまま最後のひとりがやって来るのを待つ時間があった。会話という会話はほとんどなく、いくらか気詰まりなひとときだった。YりんだけがときおりYさんにむけてなにやら釈明の言葉を口にし、そのたびごとにYさんは後ろ手を組んだまま耳だけを小柄な彼女の口元によせてみせ、そこにはたしかにある種の親密さがあった。Sちゃん(とのちに自己紹介の場でその名の判明するところの彼女)はやや手持ち無沙汰そうに、そうしていくらかそわそわしたようすで、到着の遅れている友人のやってくるだろう方角に顔をむけたまま、男性陣三人のそろっているこちらにはあまり目をむけようとはしなかった。Jさんのほうを見ると相変わらずの無表情で口元をへの字に結んだまま、こちらと目があってもほんのすこしだけ眉毛をくいっとあげてみせる程度の反応の薄さで、これはひょっとするとJさんぜんぜんしゃべんないパターンじゃないのかと、きたるべき個室のしずまりがちなひとときを思うとはやくも変な汗がにじみそうになった。Sちゃんの後ろ姿や横顔をぼんやりながめながら、この子と寝ることになったらどうだろうかとふと思った。それはそれで別段かまいやしないが、しかしまだ見ぬもうひとりにたいする執拗な期待感はいなめなかった。そのひとりがとうとう姿をあらわした。子豚のように丸っこくのっぺりとした、小柄でハスキーな声の持ち主だった。遅くなってすみませーんという声にいえいえぜんぜんいいすよと応じるこちらの肩の力が途端にぬけた。下心はいっさい払拭してかまわない、あとは面白エピソードの獲得に傾注しようと、そこでようやく腹がすわった。
 予約してあった居酒屋はすぐそこだった。往路の車内ではYさんを真ん中にすえて両端にじぶんとJさんが陣取るという布陣でのぞもうと話し合っていたにもかかわらず、Yさんが個室のいちばん壁際にさっそうと腰を落ち着けたのではてなと思って女性陣の布陣に目をむけてみると、おなじ壁際、Yさんの対面にあたる位置にSちゃんの姿があったので、おい!!!! と思った。主役はJさんとかなんとかいっておきながらそんなの放ったらかしで早速ターゲット狙い撃ちかよと思いながらそのとなりにじぶんが腰をおろし、いちばん通路側にJさんが続いた。そのJさんの対面にはYりんが着席し、三人目の女(以下Yちゃんとする)が女性陣の中央、つまりじぶんの対面についた。
 布陣がととのった。瓶ビールが運ばれるまでにいくらか時間があった。Yりんがあからさまに不機嫌な表情を浮べているのが目についた。その表情を目の当たりにした途端、Yさんが壁際の席に移動したのはSちゃんと接近するためというよりはむしろYりんと離れるためなんでないか(あるいはYりんとJさんを接近させるためなんではないか)とひらめいた。だれかが自己紹介でもしたほうがいいんじゃないのといった。するとYさんが、とりあえず飲み物がそろうまで待ちましょう、と応じた。待つのはいいが、しかしそれまでのひとときを互いの名前も素性もしれぬままどう過ごしたらいいんだと思っていると、まあそちら側すれば聞きたいことだらけのならびでしょうけれど、とJさんの存在をほのめかしながら一つ目の笑いを軽くとったので、おーやっぱり場慣れしてんなーと思った。若い女性ふたりはまだまだ萎縮しているようだったのでここはひとつおれがやるかと使命感をふるいたたせ、Yさんの言葉を受けるかたちでなにやら茶化したことを口にするなどして適当に場をつないだ。ようやく瓶ビールの運ばれてきたところで、対面に位置するもの同士でグラスに中身を注ぎあった。MくんビールはやばいんちゃうのとYさんがいうので、とりあえず最初の一口はまあかたちだけでもと応じた。お酒飲めないんですかと最初の質問があったので、まったくだめなんですよと答えつつ、グラスの底3cmにも満たない程度注いでもらったところで、ああもうこのへんで、これ以上は致死量っす、と制した。こちらが注ぐ側にまわると、じゃあわたしは半分ぐらいでとあったので、いわれたとおりの量を注いだ。そうしてみんなでかんぱーいといいながらグラスをカチコンした。ちょっと多めの唾液ぐらいの量のビールを飲みほし、そうしてふっと息をついた。いくら空きっ腹であるとはいえ、さすがにこの分量だったらまったく問題ないだろうとそのときは考えていた。
 いよいよ自己紹介のときだった。Yりんから順番に時計回りということにおのずとなった。大トリのJさんがどう出るかとハラハラしながらYりんが「見てもらえばわかると思いますけどほかのふたりとだいぶ歳は離れています」というのを聞いた。ついでYちゃんが自身のフルネームを口にし、下の名前にちゃん付けで呼んでくれたらいいというようなことをいった。完膚なきまでの右にならえでSちゃんが同様のことを口にした。男性陣の番だった。Yさんがやはりフルネームを述べたのち、なんと呼んでくれてもいいというようなことをいった。ぼくはYさんって呼んでますけどねと隣からいらん茶々を入れると、SちゃんとYちゃんが顔を近づけあって、わたしたちはRちゃんってよく聞いてるからねといってうなずきあった(YりんはYさんのことを下の名前でRちゃんと呼ぶ)。それを見て、当然といえば当然であるけれども、YりんとYさんの関係についてはふたりとも頭に入っているのだなと思った。Yりんがあらかじめふたりに「Rちゃん」には手出し無用と禁じている可能性だってなきにしもあらずである。そうであるとした場合、ひとりは手出し厳禁、そしてもうひとりはおじいちゃん(Jさんの年齢についてはあらかじめ先方に伝えてあった)、まともなのがいるとすればあとひとりというこの見込みのないギャンブルにこのふたりはよくも賭けてみる気になったものだと妙な感心をした。こちらの番がまわってきたので例のごとくフルネームを述べたのち、まあMくんって呼ばれるのがいちばん慣れてますとこちらが続けると、いよいよ大トリのJさんだった。謎の一人称「ぼく」と謎の標準語訛りでフルネームを述べたのち、「まあみんなからはJって呼ばれてますわ」と口にしたまさにその瞬間に「失礼しまーす」と声がして最初の食べ物が運ばれてきたので、Jさんのこういう天才的な間の悪さに慣れているこちらとYさんはゲラゲラ声をあげて笑った。女性陣は最初きょとんとしたようすだったが、似たような事故が何度も生じるにつれて笑いどころとその意味がだんだんと腑に落ちていったようで、終盤では笑いの生ずるタイミングが完全にこちらと同期した。そしてそのたびごとにかわされる共犯的な目配せが(主にこちらとSちゃんとのあいだに)あった。Yりんはそうでもなかった。世代的な問題なのかどうかはわからないが、彼女にはこのような間の悪さがもたらすたぐいの滑稽を理解し消化するだけの回路を鍛えられていないらしくみえた。
 居酒屋での出来事を時系列順に語ることができるのはしかしここまでである。まことにもって信じられない話ではあるが、カエルの小便にも満たないあの量のビールにもかかわらず、場にいたほかのだれよりもはやく酔いがまわってしまったのだった。ちょっとずつ酔っぱらってきている、胃の腑も熱ければ顔も火照っている、という程度でおさまっていればよかった。酒の力を借りてある程度大胆不敵になっておいたほうがきたるべきトラブルや気詰まりや大事故にも対処しやすいだろうという目算もあった。それがしだいに呼吸の浅さにつながり、やがて食欲の減退、というかこれ以上あぶらっぽいものを身体に入れるとやばいんでないかというかすかな嘔吐のきざしに転じていった。そうしたこちらの顔色の変化と口数の減少にいちはやく勘づいたYさんの手により、お冷やと烏龍茶がすばやく注文された。ジンジャエールの残りはとりあげられた。炭酸は酔いのめぐりをうながすらしかった。まもなく水と烏龍茶が運ばれてきた。飲んだ。飲みほすとすぐに今度はグラスではなくジョッキで烏龍茶を運ぶようにとYさんが店員さんにたのんだ。それも飲んだ。飲んで飲んで飲みまくってそれでとにかく小便をしまくるのがベストだとぼうっとする頭で考えた。ゆえにそれから約二時間、食べ物にはほとんど手をつけずただひたすら烏龍茶を飲みつづけた。便所には三回も立った。(ごくごくわずかではあるものの)気分の悪さを感じたのは、おそらくほんの十分程度にすぎなかっただろう。食事に手をつけるのをやめにして烏龍茶をがぶ飲みしては小便に立ってとくりかえしているうちに、酔いのもたらす陽気さだけがのこった。油断してはしゃいでいるうちにあやうい方向に転じそうになることはその後も何度かあったが、そのたびごとに口数を減らして背後の壁にもたれかかりウーロン茶をごくごく飲むことで体力を回復させ、そしてまたべらべらしゃべってわいわいはしゃぐというのをくりかえしているだけの二時間だったように思いかえされる。順を追っていっさいがっさいを記述することはかなわない。どの段階で酔いがまわりはじめたかも定かでない。思い出すがままに書いてみることにする。
 自己紹介がひととおり終ったその直後のタイミングであったかもしれないが、「女性に年齢をたずねるのは失礼かもしれませんが」と前置きをおきながらもYさんがいきなり踏みこんだ質問をした瞬間があった。その問いを受けてますます不機嫌な表情を浮かべるYりんと先の自己紹介とおなじ順番で年齢を口にさせようとするYさんのサディスティックな笑みから、この問いの真意はYさんの加虐趣味にからみついてあると悟った。Yりんが正直に彼女の年齢を口にしたのかどうかはおぼえていない。なぜなら彼女の年齢などとっくの以前より聞き知っておりいまさら目新しくもなんともなかったからだ。SちゃんがYさんと同い年であることを表明すると、Yさんはじぶんの年齢を直接口にはせずにただ、昭和57年生まれ? とだけたずねた(お水の世界で働くひとのテクニック!)。そのSちゃんよりもYちゃんはひとつ年下だといった。つまりYさんSちゃんは今年32歳、Yちゃんは31歳、そうして最年少のじぶんが29歳というわけだった(ちなみにYりんは六十代にちかい五十代、Jさんは七十代に近い六十代である)。あるいは年齢の話題になったその流れからであったかもしれないが、各自の結婚歴も判明した。Yりんはバツイチの既婚者(前夫とのあいだに一男あり)、Yちゃんは未婚、Sちゃんはバツイチの独身者(前夫とのあいだに一男あり)だった。男性陣はといえばYさんとじぶんはむろん未婚、Jさんはバツ2(なぜかJさんはこれを「バツ・トゥー」と発音する)の子無しである。Jさんの結婚歴といえば、たしか場のまだそれほど温まっていない段階であったような気がするのだけれど、二人目の奥さんであるところのフィリピン人女性とは結婚生活二年半だか三年半だかのあいだに「夜の生活」は二度しかしていないという事実をとつぜんぶちまけた一幕もあった(だが、はたしてあれはほんとうに「場のまだそれほど温まっていない段階」だったろうか? 少なくともこちらはすでになかなかけっこうほろ酔いの域にあった気がする、なぜならそのエピソードを受けたSちゃんYちゃんが「一年に一回ですね!」と笑って応じたのにかぶせるかたちで、「記念日や!記念日や!」「Jさんのカレンダーではその二日は祝日扱いになっとるんすよ!」「海の日ってあるやないすか? こないだWikipediaで知ったんすけどあれ元はJさんが奥さんと寝た記念日にもうけられたもんなんすよ!」などとクソしょうもないネタをたたみかけた記憶があるから……)。
 そのJさんとあらかじめ念入りにたてていた「歯医者作戦」は見事に失敗に終った。たしかYちゃんだったと思うけれどもこちら三人の関係を問うてきたので、じぶんとJさんは職場の同僚であると応じたその流れから、これもやはりまた場の温まってはいない頃合いではあったものの、しかし自然にいくとしたらもうここしかないだろうと察せられたのでかなり思いきって、「でもJさんは先生ですからね」と二の矢を継いだのだった。すると「先生って、なんの先生です?」というシミュレーション通りの完璧な前ふりが返ってきたので、ここぞとばかりにJさんが歯のほとんどない大口をあけてにこっと笑いながら「歯医者です!」とかましてみたところ、「ええー! そうなんですかー!」という女性陣のクソ素直で無垢で純粋な反応があり、見事なまでな爆死を遂げたのだった。あのー、これ、いちおうもう二週間くらい前から練りに練りまくった作戦やったんですけど、と申し訳なさそうに漏らしてみせると、Yさんがこらえきれないとばかりにゲラゲラ笑いはじめた(帰りの車内で開催された反省会の場でも「なんであそこ大阪人のくせしてまともに受け止めんねん!」とYさんは肩を揺らしてみせた)。作戦は失敗した。ミッションインコンプリート。ただし、収穫がなかったわけではない。その一件があって以降、基本的にこちらが冗談や軽口ばかり口にする阿呆であることのしっかり伝わったという手応えがあった。つまり、これは笑っていいところなのかどうかと相手にためらわせるそのような要素をすべて除去するために必要な下ごしらえのようなものだったと、先の「歯医者」の一件を総括してみせることもできるわけである。イニシエーションには痛みがともなう。然り。
 Jさんはとんでもないペースでビールを飲みつづけた。Yさんもめずらしくビールばかり飲んでいた。Yりんは途中で白ワインを頼んだ。Yちゃんは梅酒ロック、Sちゃんはカシスなんちゃらを頼んだ。こちらはただひたすら解毒剤を摂取するかのごとき様相でウーロン茶ばかり飲みつづけた。いちどSちゃんがトイレに立ったとき、個室の入り口にある鴨居で頭をごつんとぶつけた。すごい音がしたのでびっくりした。SちゃんはそのままYりんといっしょに出ていき、あとにYちゃんだけが取り残された。Yさんがすいませんね女性ひとりでとあやまると、いえいえぜんぜん大丈夫ですぅと返事があった。Yちゃんは相槌の打ちかたひとつとっても場慣れしている感があった。ぽっちゃりした女芸人で109の販売員のモノマネをするひとがいたと思うけれど、あのひとのあのモノマネを地でいくような、ちょっと作為の鼻につきすぎるような身ぶり手ぶり、抑揚たっぷりの口調とことさら前のめりな相槌の打ちかたとツッコミの数々があり、周囲の流れをぶったぎってひとり見当違いな話題に猪突猛進するJさんにもひるまず積極的に(さながらベビーシッターか介護福祉士のごとく)相手どってくれたので、そういう意味ではこれ以上この場にふさわしいうってつけの子もいないだろうと思われた。Sちゃんが頭をぶつけたのと同じ鴨居にYさんも頭をごつんとぶつけた(これはたしかおひらき間近のころだった)。個室とはいえ廊下と部屋をさえぎるのは一本いっぽんのあいだにたっぷりと間隔のもうけられた格子のみで、着席してわりとまもないころに、なんかここあんまり個室って感じしなーい、とYりんが漏らしたこともあった。外の喧噪がまるっと入ってくる分、片耳の利かないJさんにこれはなかなかの逆境だろうなと思った。
 いちどYさんが女性陣に説教らしきものを垂れる一幕があった。なんでこの段階で、とおどろいた記憶があるので、わりとはじまってまもないときのことだったように思う。Yさんは女性陣がたがいに気を遣いすぎていると指摘した。YりんとSちゃんは職場の同僚であり気心のそれ相応には知れた仲であるらしかったが、YりんとYちゃんは初対面である(YちゃんはSちゃんのツレということだった)。そういう距離のむずかしさと年齢の差が邪魔をしてかなかなか積極的になってくれない若い女性陣ふたりにたいする発破ともとれたが、Yりんと若いふたりのあいだに気遣いの壁があるというようなことを暗に、というかわりとはっきりにおわせて指弾するような口調でもあったことを思うと、あるいはこれもまたYさんの加虐趣味の発露にすぎなかったのかもしれない。いずれにせよこの時点でなんとなく、Yさんは若いふたり含めてこの面子にはもうまったく興味がないんだろうと思った(しかしこれは見込み違いであったことがのちに判明する)。気を遣いすぎているといわれてそれじゃあ気遣いなしでとその場で唐突にスイッチを切り替えることのできる人間などいるわけでもなし、Yさんのこの発言はあきらかに女性陣をさらなる混乱と戸惑いにおとしいれるものでしかないと思われたので、なにかのきっかけに話題をうまく転じて彼女らに助け舟を出したはずなのだが、それがどういう話題だったのかはよくおぼえていない。そのようなYさんの指摘をまたもやみずからにたいする駄目出しと受けとり深刻そうな顔つきを浮べていたYりんが、おのれの無自覚な表情にはっとして気づいた途端、痴れ者をよそおっていきなりYちゃんにもたれかかりその胸をもみしだきはじめる一幕もあった。するとSちゃんはふたりからやや離れるようにして片腕で胸をかばいながらますます壁際に身を寄せ、その身ぶりの暗に示唆するところをきっかけとしてはじめてSちゃんってたぶんそんなに胸ないなとひそかに思いもしたのだった。
 気を遣いすぎていると指摘したその流れでYさんはわれわれ男性陣のほうに手をむけながら、うちらは年齢もバラバラやけどさっきから見てもらったらわかるとおりフランクやからと声を張った。じじつJさんが荒唐無稽な発言をするたびごとにこちらが辛辣なツッコミをいれるなり小馬鹿にしたような発言を漏らすなりするという、職場ではおなじみの流れをこの場でもとりおこなっていたため、フランクはフランク、というか多分にいきすぎているところもあるように傍目にはみえたかもしれない。Jさんはさっきからふざけたことばっかいってるようにみえるかもしれませんけど、でもこのひとすごいひと、すごい経歴の持ち主なんですよ、ちょっと言いにくいですけど、というので、あかん! Yさんあきません! それ以上は駄目っす! と制した(そしてその瞬間、若いふたりの表情がいっしゅん曇った。ちなみにYりんだけはJさんの前科と事件についてはすでに知っている)。いやでも、ほんと義理人情には堅いひとですからね、とYさんはまだまだJさんをもちあげるのをやめようとしないらしいようすだったので、とりあえず壁にもたれかかりながらうんうんととなりでしずかにうなずくというていでいくことにしたのだけれど、次いで、Mくん、この子ぼくの年下です、年下やけどぼくはね、この男をむちゃくちゃ尊敬してます、この子むっちゃくちゃ頭いいから、と言い出したので、やばいやばいと思っていると、案の定、Mくんは小説家でうんぬんとはじまったので、これまた厄介な話題に触れてくれたなーと思った。どっからどう見ても文学などとは無縁な三人組である。しかしこう紹介された以上は彼女たちのほうでもどんな小説書いてるんですかと興味もない質問を口にせざるをえないだろうし、こちらもこちらでどうせまともに話したところで伝わるわけでもなし(というかそもそも伝える言葉をもたない)この難題をいかにしてそれっぽい落としどころに着地させてみせるかに心を砕かなければならない。つまりこの話題は双方ともに気乗りしないものでありながら儀礼上とりかわさなければならないというきわめて退屈で窮屈な様相をおびることになる。もうこの話題はいいじゃないすかと早々ときりあげようとすればそれはそれで先方に「文学に理解のない人間」として見なされているという不快感を与えかねないし、かといってもろもろ微に入り細にわたって説明すれば退屈きわまりないひとり語りに尽きてしまう。その間隙を縫う最善の一線を見極めるべく相手の顔色をうかがいながら、おそらくこれまですでに百回以上はくりかえしてきたであろう純文学と大衆小説の違いや新人賞というシステムについてのクソ適当な説明をしつつ、ここだと思ったところで、まあ信じられんほどの鳴かず飛ばずですけどもね、と大口をあけて笑ってみせ、それをきっかけに貧乏エピソードへと力ずくでなだれこんで危険な話題から身をもぎはなすといういつものパターンで切りぬけた。で、このままついでにもう言っちまうかというアレから、ぜんぜん働いてないからぜんぜん収入のないことまでたてつづけに暴露した。これをしてしまうとそんなやつが婚期まっただ中にあるわれわれの集まりに来るんじゃねえよと若い女性陣に不快感を与えてしまいかねないところがあったので(彼女たちの今夜の集まりが最初から見込みもクソもないまったくの徒労であったという感想を抱かせてしまうのはたいへん申し訳ないという後ろめたさはつねにあった)、言うべきか言わないべきか、かなり迷うところはあったのだけれど、話の流れ上やむなく切りだした。するとJさんが、この男はね、ぜんぜん働きませんけどね、こっち(といってペンで宙になにやら書きつけるジェスチャーをする)とこっち(小指を立てる)はめっぽう強いでっせ、といきなり言いだしたので爆笑した。なんせね、外人ひいひいいわせるさかい、と全長50mにもわたる尾ひれをつけて好き勝手いうのに、YさんはYさんで、そうそう英語ぺらぺらやからね、それでまあえらいべっぴんのね、ブロンドで色の白いまあきれいな子とつきあっとって、すごいからね、モテまくりやから、と当の本人の顔などいちども目にしたことないにもかかわらずあれこれいって(だがしかしパーイで撮影したSとのツーショット写真を見せたことはあったかもしれない)、こちらはJさんやYさんみたいに、というか職場の同僚たちみたいに手放しのヨイショのうえにドヤ顔で開きなおって鼻の穴をでかくすることができるほど厚顔無恥ではないためにたいそう居心地がわるく、いったいどうやってきりぬけたのであったかよくおぼえていないのだけれど、と、たしかこのあたりを境にYりんがことあるごとにこちらにむけてMくんは頭よすぎると思うーだの賢すぎるーだのあからさまなヨイショを開始しだし、Yさんに冷たくあしらわれたのをきっかけに鞍替えをもくろんでいるのはあきらかななアプローチの連続で(「Mくんは肉食系?」「わたし草食系男子ってだめやと思う」「わたしむかし文学少女だったんですよぉ」)、この時点ではたしか酔いもかなりさめていたはずなのだけれど、相手にするのがかなり面倒だったのでまだまだ酔いのぬけていないふりをして脱力した返事の免罪符とさせてもらった(しかしあとになってJさんがいうところには「あのオバハンな、あいつ最初からMくん目当てや、じぶんと話すときだけ目ぇとろーんとさせて、そいであのしゃべりかたや!」とのことで、それはたしかにそうだったかもしれないと着席してまもない段階でこちらのピアスについてふれ、あまったるい口調でなにやらのべつまくなしにしゃべりかけてきた事実から思わないでもないが、そういうアプローチのことごとくを空気の読めないJさんがぜんぶぶった切ってくれたのはじつに痛快だった)。
 酒が進むにつれてJさんの口数が増えていった。昭和の芸能人や歌手のモノマネをしてみせたり古いテレビコマーシャルのキャッチフレーズを口にしてみせたり、だれも拾えない球を投げることにかけては超一流の本領をこの席でもやはりまた遺憾なく発揮しつづけた。面白かったのはやはり世代が近いということもあってか、職場ではだれしもがはてなとなるその言葉のひとつひとつにYりんがしっかり反応しときにはドツボにすら入っていたということで、そのたびごとに「やったねJさん! ここすごいキャッチャーおるよ! ぜんぶ拾ってくれる! ぜんぶストライク! これでようやくメジャーリーガーや!」とこちらが茶化しにかかるという一連のパターンがいつのまにか完成していた。あげくのはてには、「けっこう毛だらけ」とJさんが例のごとく口にしたのを受けた若いSちゃんが「猫はいだらけ、ですか?」とおそるおそる口にしたのを目の当たりにして「やるねえ君ィ!!!!」とスーパーコンボゲージがマックス状態になってしまったJさんが、事前の作戦会議でそれだけはしてはならないとYさんから強く言い聞かせられていたはずの禁じ手こと「小ばなし」を披露しますと言い出し、その宣誓の時点でじぶんとYさんはもう苦笑を通りこしての爆笑であとはもう野となれ山となれだったのだけれど、むかしね、あるところにね、散髪屋さんがおったんですわ、散髪ってのはあれ、そのー、髪を切るね、いまでいうヘヤーなんとか、その散髪屋さんがね、ある男が店にきて、そいで拳銃でバーン、バーン、バーン、と、ここまで話したところでYちゃんが身を乗り出すようにして「三発撃たれたんですね!」とかぶせるようにして口にすると、まさかオチを先取りされるとは思ってもなかったらしいJさんが文字どおり開いた口がふさがらないという表情を浮べたまま完全にしずまりかえってしまい、これには死ぬほど笑った。一座がどかんと沸いた。「歯医者」のくだりとならぶこの夜のJさんの白眉だった。
 居酒屋には時間制限があった。こちらが三度目の便所にたっているあいだにラストオーダーとなり、最後のいっぱいを飲み終えるころには個室の利用制限二時間に達したという通告があった。Yさんに金額をたずねると、Mくんはのまないから3000円でいいとあった。誕生日も近いことであるしYさんの分は持つつもりだと行きの車内で伝えてあったのだけれど、ここでもういちど同じことをいうと、そうなるともうややこしくなるからいいよとあって、でもそういうわけにもいかないからとりあえず8000円渡した。するとYさんがJさんとごにょごにょやったあげくさっと席をたってひとりレジのほうにいってしまった(Yさんが鴨居で頭をぶつけたのはたしかこのときだった)。そのあとをYりんが追おうとするのをYさんが制した。どうやら女性陣の分はJさんといっしょに元々持つつもりでいたらしかった。ほっとした。この面子との会合に(Yりんはまだしも)本気で臨んでいるようだったふたりに金を支払わせるのはどうにもしのびなかったのだ。
 店を出て駅のほうにむかう階段をおりようという段になって、YりんとJさんの年長者ふたりの口から二軒目の話がでた。こちらとしては終電にさえ間に合えばどちらに転んでも構わなかったが、若い女性ふたりはたぶん帰りたいんではないかと察せられるところがあったので、どうしたもんかという表情を浮べているとその表情をなんらかのかたちに解釈したらしいYさんが、でもまあMくんあした朝早いしねえ、というので、まあ早いっちゃあ早いですねと応じた。Mくん決めてよ、といきなりふられたので、なーんでぼくなんすかととぼけていると、そいじゃあね、ちょっとカラオケ行きましょか、とJさんが言い出した。するとこちらの右となりにいた若い女性陣が、ええー……カラオケはちょっと……とこぼすのが聞こえたので、Jさんカラオケはちょっと嫌やって、と告げると、じゃあコーヒー飲もう、Mくんいいでしょ、もう一軒コーヒーだけでも飲んでいかへん、とYりんがこちらににじりより腕を組もうとしてきたので、ほんならまあまあコーヒーだけいきますかと先陣をきるかたちでそっと腕をふりきって階段をおりだした。後ろからついてきたYさんが、Mくんだいじょうぶ、とそっと耳打ちするようにいうのに、ぼくは終電さえ間に合うんならぜんぜんいいっすよ、と小声で応じた。懸念は若い女性ふたりだった。彼女らはたぶん帰りたくてしかたないんではないか?
 目についた一軒に入った。お客様何名様ですかとたずねる女性店員の質問を耳のわるいJさんが完全に無視してどかどかと奥に入っていくので、おもわず吹き出してしまった。六人ですとこちらが告げると、奥にグループ席がございますとあった。女性陣は三人ともトイレに出かけていた。y軸を基準として反転したL字型のソファがグループ席だった。北野武の映画にでてくるラウンジみたいだと思った。反転L字の下辺と長辺の交差点のそばにひとつ、それから長辺の中央やや上寄りにひとつ、それぞれ小さいテーブルが設けられていた。これどういう配置で座るんですか、とたずねると、ばらばらに座ろうとJさんが言い出した。たしかにそれやと女性陣の好意がはかれますもんねとYさんが受けたのを聞いて、あれYさんもしかしてやる気まんまんなの、と思った。反転L字の下辺にじぶんが、長辺の中央にJさんが、長辺の先端付近のテーブルをはさんだむこうの丸椅子にYさんが腰かけた。Oさんどうです、だれがいちばんお気に召しましたか、とYさんがたずねると、う〜ん、あの子持ちの娘はええね、という返事があったので、Yさんとそろってかなり大声で「ええっ!?」と叫んでしまった。日頃から熟女がいちばん、若い女は駄目だと公言してはばからないJさんのことであるし、三人のなかでもっとも今風できれいに着飾っていたSちゃんはJさんの好みでは決してないだろうとおもわれていたのが、とんだ勘違いだった。Yりんはだめなのかと重荷を押しつけたくてしかたないようすのYさんがたずねると、ありゃーもうあかん、Mくんのことしか見とらへん、あれはもう完全にMくん目当てや、見とれよ、あれぜったいそっち座るぞ、とあったので、ちょっとぼくとなりに来られたらけっこう困りますわ、苦手ですあのひと、といった。そういう話をしながら、トイレに長々とひきこもっている女性陣らも同様の会話をおそらく交わしているんだろうなと思った。
 やがて女性陣がもどってきた。先頭はYりんだった。やばいと思ってソファの左端にじりじりと移動した。そうすることによってじぶんの隣席は右隣だけとなる。しかしその右隣にいたる道筋はテーブルとJさんによってふさがれている。これだったらよほどの大胆さがないかぎり先頭を歩く人間がここに着席することはできないだろうというとっさのたくらみだった。案の定、Yりんは反転L字の長辺先端、ちょうどテーブルをはさんでYさんと対面する位置に腰をおろした。多少の無理を押してでもこちらに来るかもしれないという懸念があったのでほっとした(あるいはなじられてばかりであったYさんとの関係の復元をもとめて彼の近場に陣取ったのかもしれないが)。次いでYちゃんがこちらとJさんのあいだに割って入った。JさんとYりんのあいだにおおきなスペースがあったので、のこるSちゃんはそちらにむかうだろうと踏んでいたが、予想に反してほとんどスペースのないこちらの左となりに着席しようとしたので、「マジで!?」と思いながらJさんに頼んで席をつめてもらった。それからふと、男女男女男女と交代交代にならぶのが二軒目のルールみたいなものなのかもしれないということに思いいたり、おのれの自意識を若干恥じた。場慣れしていない男の安っぽい発想だったとひそかに自嘲した。
 飲み物を各自オーダーした。酔いのずいぶん抜けたとはいえまだまだふわふわするところはあったのでコーヒーを飲んで利尿作用をうながしとにかく小便をするのが得策だと思った。YさんがYりんと対面でなにやら深刻そうなトーンで話し合っているのがみえた。席の並び的にも二軒目という文脈的にもおそらくみんなで共通の話をするという雰囲気ではないのだろうと察し、となればこの両隣のふたりを実質的にじぶんがひとりで相手取らなければならないわけだと、どちらかというと深刻そうなふたりのほうに注意をひかれてあるらしいJさんの気配と、そのJさんとやや間を空けてこちらよりに腰かけているYちゃんの位置取りから判断した。最初のきっかけはたしかYちゃんだった。語学の話題をふられていろいろと答えているうちに彼女がK-POP経由で韓国語に興味をもちはじめていることがあきらかになったので、読み書きではなくしゃべりが主体ならやはり発音勉強はおろそかにできない、じぶんが発音できない音を人間はきちんと聞き分けることができないとどこかで仕入れた知識を披露した。そこからタイ・カンボジアでの面白エピソードや、引っ越し遍歴と各住居それぞれにまつわる面白貧乏エピソードを矢継ぎ早に披露した。人見知りすることのない性格にくわえて初対面の人間を相手どるには具合のよい面白エピソードのたくわえもたくさんあるので、こういう場をしのぐのはむずかしくなかった。とにかく出し惜しみせずにしゃべり倒した。女性を口説くテクニックのひとつとしてしばしば相手にしゃべらせるというのがあるけれども、次があるとも到底おもえぬこちら側の面子であるしふたり同時の相手であるしで、とりあえず戦略もクソもないいつもどおりのじぶんでだらだらべらべら馬鹿なことばかりしゃべるという方針を採ったのだった。だらだらべらべらしゃべっているじぶんが知らぬうちにため口であることに気づいたときがあった。ああまだ酔っぱらってるんだなと思った。最年少で、両隣の女性はまだまだ敬語の抜けきらない感じであるのに、ひとりだけ胸襟を開きすぎている感じだった。小説の話をふられたので、まあいつかあたるかもしれんしねなどと適当に答えていると、でもお金のためにやってるんじゃないんですよねとYちゃんがいきなり口にしたのでやや面食らった。そういう考えをそれほど親しくないひとを相手に開陳するのはどことなく気がひけた。ただの青くささとしてしか受け取ってもらえないだろうことは自明である、というか、生活水準よりも執筆時間の確保のほうを優先しているといったってそういうこちらの考えを真正面から文字通りに受けとってくれるひとなどいないし、いたとしてもやはり多少気取りのこめられた発言にすぎないのだろうと侮られるのがオチであることを知っている程度には世の中の酸いも甘いもかみわけた二十九年であるので、たとえそれが場をつなぐための一時しのぎのような一言にすぎないとわかっていても、それにたいしてイエスと応じるだけでたやすく自尊心の満足をおぼえることができるその効果を見越したうえでのいわゆる「男をたてる」戦略に基づくありがちな問いかけにすぎないとわかっていても、やはり多少はうろたえ、おちゃらけたトーンから地をのぞかせてしまう危険な瞬間というものがあった。じぶんほど書くことにとりつかれてある人間などぜったいにいないという意識がひさかたぶりに前景化した。前景化することのひさしくなかったほどの当然としてそれはこちらの内奥の奥の奥、光のささぬ確信の域に常日頃は黙しておさまっているのだった。確信や信仰の域に多弁のつけいる余地はない。
 コーヒーのおかわりはいかがでしょうかと前髪の薄くなった若いウエイターがたずねにやってきたのでお願いした。お願いしてから、ひょっとしてこれはあやまりだったかもしれない、ふたりはとっくに帰りたがっているのかもしれないと思った。こちらのおしゃべりに笑ってみせたり相槌を打ってみせたりそういうのにもいい加減疲れているのかもしれない。ふとYさんのほうに目を見遣った。シリアスな表情をしたYさんと、その目線の先でテーブルに片肘をつき煙草を指先でもてあましながら、絶望的な表情を机上に落として微動だにしないYりんの姿があった。なにこれ……と思った。若い女性ふたりも尋常ならざる空気に気づいたらしかった。なんかむこうお通夜みたいになってる、とぽつりと漏らしてみせると、こっちともうぜんぜん空気ちがいますもんね、とSちゃんが苦笑しながらいった。「あっこのテーブルあたりをさかいになんか国境あるね」「けっこうはっきり、ね」「それもすごい時差ある」「こっち昼でむこう夜みたいな(笑)」「そうそう(笑)」するとまだ国境の向こう側に近いほうのYちゃんが、なんかすごい話してました、というので、ちょいちょい聞こえてたんですか、とたずねると、うんちょいちょい、とあった。それから例のいくらかわざとらしい明るさと抑揚で、もう知らんふりしましょ知らんふり、と続けたので、オーケーなにも見てないことにします、と応じた。そういう流れからであったか、話がだんだんと裏話の暴露みたいなほうに傾きつつあったので、JさんやYりんのならぶコンパの絵面というものにたいする興味本位から数合わせもかねて今回参加するにいたった経緯などを話してしまったのだけれど、しかしこれはこれでやはりいくらか無礼であったかもしれないとシラフのいまなら思う。
 いつしかJさんが国境の向こう側からこちら側に移動し、Yちゃんをつかまえてなにやらおしゃべりをはじめていた。裏話の帰結としてこちらがなんかすんませんこんな面子でとSちゃん相手に小声でもらすと、いえいえなんかもうふつうに生きてたら聞けない話たくさん聞かせてもらったんでという返事があり、そこでとりあえずひとつ区切りのついたような感触があったものだから、はー、とわざとらしいため息をついたのち、もう帰りたいわ、とすべてに決着をつける暴露の極地ともいうべくぶっちゃけ爆弾を投下したのだけれど、すると、「ね、ちょっとここ抜け出して別のとこにいきたい、みたいな」というおもわせぶりな返事があり、ごく率直にいって、これにはクラっときた。合コンにおける悩殺フレーズの典型としてしばしば取りざたされる「ぬけだしちゃおっか」がまさかここまで強烈な破壊力をもっているとは! 思いもしなかったタイミングでの思いもしなかった発言という効果もあって、この瞬間、蒸発した叔母に似ているかもしれないという先の印象はあとかたもなく砕けちり、パーソナルスペースを侵犯する間近さに顔をつきあわせておしゃべりを交わしているのはいまやくしゃっと笑うそのたびにのぞくかすかな目尻の皺がかえって健康的でなまめかしいひとりのべっぴんさんでしかなかった。居酒屋の時点で、さらなる正確さを期して先の記述を引用するならば「終盤では笑いの生ずるタイミングが完全にこちらと同期した。そしてそのたびごとにかわされる共犯的な目配せが(主にこちらとSちゃんとのあいだに)あった」時点で、このひとなんか感じいいな、きれいだな、色っぽいな、じつにお近づきになりたいものである! という心の傾きの感じられないこともなかったのであるけれど、Yさんが狙っているんではないかと察せられるところがあったり翌日には仕事を控えているという事情があったり、そしてなによりもあまりに本気な感じのする彼女の身なりにたいして動物園にでも出かけるつもりで(これはしばしばYさんと共有しあった比喩である)ノコノコやってきてしまったこちらの動機の不純さの、そのギャップに由来する後ろめたさのせいで固められていたはずの自制がしかし彼女のひとことにより一瞬にして弾け飛んでしまったような、そしてその弾け飛んでしまったところのものが天気雨のようにきらめきながら頭上からふりそそぎだしたかのような、恋のはじまり特有のあのキラキラした多幸感に気づけば見舞われていた。明日が仕事でなければホテル代くらいこちらがぜんぶつ持つというものを! そこから先はSちゃんとマンツーマンでひたすらしゃべりあった。いつのまにかふたりともため口だった。Yちゃんには悪いけれどもJさんの相手をしてもらうことにして、そうして国境の向こう側のふたりには目を向けないことにして、とりかわされる話題ではなくふたりで話題をとりかわしているその事実がみるみるうちに共有されてなんらかの高ぶりに溶けこんでいくあの明白にふたりきりなひとときをすごした(ふたりがふたりであることをもっとも強く感じるのは多数の席にありながら二者間のコミュニケーションをとっているときである、孤独が人波のなかでこそその鋭さをもっとも冴えわたらせるように!)。Sちゃんはこちらの地元を社員旅行でおとずれたことがあるといった。だけれどおぼえている内容といえばそれくらいのものだ。あとはたぶんほんとうになんでもない話を、おそらくは秘密を共有してはそのたびごとにわれわれとかれらの線引きをすることの官能に酔いしれるかたちで、たとえば国境の向こう側の沈鬱について小声でひそひそやったり、Jさんという規格外の爆弾をまるで卓越した水商売の女性のように見事にあやつり処理しているYちゃんを横目でながめたりしながら、ただひたすらくすくす笑いあったり、含意するところたっぷりの微笑と目配せを送りあったりした。なんてエロいんだろう!!!!
 いちどSちゃんがトイレに立った。それと同時にYちゃんがJさんから解放されたようだったので、だいじょうぶですか、とわけのわからない気遣いをした。むこうすごい空気になってますね、というので、これどう帰るタイミング切り出したらいいんすかね、とかまをかけてみると、腕時計をさっとながめたのち、「じゃあ……行きますか! みたいな感じで?」といって笑うので、この子はたぶんほんとうに帰りたがっているなと判断した。これ以上彼女に負担をかけるのも悪い気がしたので、Sちゃんが戻ってきたところでYさんにむけて、Yさんそろそろ行きましょうか、ぼくちょっと仕事あるし、と切りだした。Jさんが先にたって会計をすませたので、女性の分を各自一杯ずつおごるとして、それにくわえてYさんの分はこちらが担うと決めてあったので、計四杯分でだいたい2000円と計算してJさんに渡そうとしたところ万札しかなかったので、あしたまた職場で渡しますねと耳打ちした。
 店のおもてに出るとYりんがこちらににじりより腕をとりながら、Mくんも一カ月後来てねぇと甘い声でいった。居酒屋の時点でどういう話題からだったか、クラブやディスコの話になったときだったように思うけれども、Jさんがまた来月にでもみんなで踊りにいこうと、それ切りだすにはちょっとはやすぎるんじゃないのというタイミングでいったことがあった。若い女性陣がまずまちがいなく社交辞令でいきましょういきましょうと応じたのに反して、Yりんだけは本気で行きたがっているようで、じっさい喫茶店から出ていよいよ別れぎわというタイミングで念押しするように約束を蒸しかえしたのだった。Mくんぜったい来てね、というのに、はいはいいきますいきます、と棒読みで応じると、どっと沸いた。もーぜったい来ないじゃん! とYりんが甘えるように口にした。駅にむかうエスカレーターに足をかけたところでYりんがまたしても腕を組もうとするそぶりを見せたので、靴ひもに手をやるそぶりで回避した。
 最初に待ち合わせた例の広場にいくと大阪維新の会のPR映像が流れているモニターをのせたトラックはすでになく、かわりに若い金髪の大道芸人が低音のきいた音楽にあわせてバスケットボールをつかってトリッキーなわざの数々を披露していた。どんなもんだろうとおもって大道芸人をとりかこむひとの輪のなかにふらふらっと寄っていってながめていると、あとからSちゃんYちゃんのふたりがやってきてこちらのとなりについた。そうして三人でしばらく手拍子をとったり笑ったりしているとズボンのポケットのなかの携帯がふるえて、出るとYさんだった。いまどこにおんの、といわれたので、大道芸見てます、と答えた。電話を切ってからSちゃんYちゃんのふたりにむけて、呼ばれたんでそろそろ行きますね、と告げた。今日はどうもありがとうございました、すごく楽しかったです、あと、なんかもういろいろごめんなさい、ほんますんません、と続けると、いえいえこちらのほうこそ、なんかあんなんでごめんなさい、と暗にYりんのことをほのめかす陳謝があり、それで二組そろって笑いあって一区切り、それじゃあ行きます、どうもありがとうございました、おやすみなさい、と別れのあいさつをして改札のほうにむかった。YさんJさんYりんの三人は切符売り場の前に立ちつくしていた。なにしてたの、と再度Yさんがたずねるのに、大道芸見てました、とまた答えた。エスカレーターに乗りこむとYりんがまたもやなにしてたのと問うので、いやいやだから大道芸見てました、と応じた。そこではじめて、どうもじぶんだけ抜け駆けして彼女らと次の約束をとりつけたり電話番号を交換したりしたんでないかと疑われているらしいということに思いいたった。
 駅のホームにたったところでYりんは何度も二人に電話をかけた。彼女らはわれわれとは異なる路線に乗車予定だったが、大道芸を見ているうちに終電を逃してしまうんでないかとYりんは心配しているらしかった。女性陣のうちYりんだけがわれわれと同じ路線に乗ることについては喫茶店でSちゃんの口よりすでに知らされていた。絶望的な表情を浮べて押し黙ってしまっているYりんの姿を遠目にながめながら、あの、帰りの電車とかだいじょうぶ、とこちらがささやくと、あ、まだ時間あるんでだいじょうぶ、と口にしたあと、こちらの意図を正確に読みなおし、わたしたち別々の電車だから、とあったのだった。でもたぶんあとでLINEは来ると思います、それもけっこう重たいやつが(笑)
 Yりんの電話にSちゃんは出なかった。電話に出ないということはおそらくもう電車に乗ったのだろうとなだめて、ちょうどそのときすべりこんできた終電にのりこんだ。はじめて体験する満員電車だった。東京でPらと飲み食いしてからHくん宅にもどる終電に乗ったときもなかなかのものだったが、あのときはそれでもまだおしくらまんじゅうではなかった。しかし今度のはなかなかえげつなかった。これが週末の終電かと思った。立錐の余地もないとはまさしくこのことだった。 頭二つ分とびぬけてでかいJさんの肩に手をかけてつり革代わりにしていると、むこう向きだった身体をわざわざこちらに向きなおしてみせるので、密着の度合いからいってまるでいまからキスでも始めそうになるような距離感になってしまい、なんでこっち向きなおんねん! とつっこんだ。するとYさんが大声で笑った。Yさんはずいぶん酔っぱらっているようだった。あいかわらず顔には出ないが、居酒屋を出た時点で足元がふらつくほどだったらしく、ここまで酔っぱらったのはひさしぶりだと続けた。次の駅で乗客の半分ほどがおりた。その乗客のなかにはYりんの姿もあった。とても元気のないようすで、じゃあねと甘えた声をもらして出ていった。ひとのそこそこ空いたところでようやくYさんのそばに移動し、いったいなにがあったんすか、とたずねると、いやいやちょっといじめたっただけ、腹立ってな、とあった。いまひとつはっきりしないところも多々あったが、前夫と別れたさいにむこうにのこしてきた長男といまさら会いたいと嘆いてみせる彼女にたいして、おまえみたいなオカンに子どもが会いたがるか、みたいなことをいったらしかった。それが単なるYさんの加虐趣味によるものなのか、あるいは妾腹であるところのみずからの出自と照らし合わせて思うところがあったためなのかはよくわからなかった(ちなみにその長男というのはちょうどYさんと同い年らしい)。途中からその会話にJさんが加わり、JさんはYさんみたいにひどい言い方はしないけれども、彼の波瀾万丈な人生とそこから得られた教訓をもとにしてものすごく真っ当な説教を教え諭すように垂れたらしい(その内容についてYさんは「酒が入っているせいもあったけれど途中でほんとうに泣きそうになった」といった)。しかしMくんよ、おめえモテモテやったやないけ、とJさんがいうので、いやいやあの空気まのあたりにしたらこっちにしか来れんでしょふつう、と応ずると、え、そんなに空気悪いようにみえたん? とYさんが驚き顔でいうので、やっぱYさんしこたま酔っぱらってたんだなと思った。なんかおれすごい感じ悪いやん、というので、いやいやそういうふうには受け取ってませんよきっと、といちおうフォローした。そやけどもこれ来月が楽しみやね、とJさんがいうので、まあまあがんばってくださいね、と他人事のようにいうと、Mくんぜんぜん来る気あらへんやん、と笑いながらYさんがいうので、ぼくうんぬんのまえにそもそもあのふたり来ないっしょ、と答えると、いやでもMくん来るっていうんやったらたぶん来るやろー、だいぶ盛り上がってたやん、おれ正直びっくりしたわ、初対面の女性ふたり相手にあそこまで間もたすのってなかなか大変やで、とお水のプロから太鼓判をいただいたので、ふんふんと鼻が高くなった。それにしてもあの子持ちの子はべっぴんやったね、とJさんがいうので、Yさんとそろってうんうんとうなずいた。Mくんなんかええ感じにはなったん、とYさんに問われたので、いちおうJさんには聞こえない程度に声をひそめて事実をそのまま伝えると、マジでー! うわー! もうぜったい行けるでそれ! とあったのだけれど、その声の感じからしてやはりYさんもあわよくばSちゃんとと思っていたらしいと見当がついた。Jさん来月はYりんといっしょに踊ってそのままホテル誘ったらええんちゃいますの、と水をむけてみると、いやーでもあれMくんのことしか見とらんかったで、とまたあったので、でもちょっとやさしくしたらきっとクラっといくタイプですよあのひと、とじぶんのことは棚にあげて助言した。Mくんは母性本能くすぐるタイプやからなー、ちょっとずるいわー、とYさんがいうので、しょっちゅう気絶するところとかっすか、と応じると、そこちゃうわ! とあって、またひとしきり笑った。みんなそれ相応に陽気になっていた。行きの車内で(主にこちらとYさんが)かなりナーバスになっていたその分、終ってみれば想像以上に三者三様に楽しみ満喫することのできた会合として印象されており、いやー楽しかったねーおもしろかったねーと話し合った。それからYさんが仲介するかたちでJさんとYりんがふたりきりで会うことのできる場をセッティングしようという段取りになった。媚薬のたぐいを一滴、と来るべきデート当日の予定にJさんがさりげなく最低の一言をまぎれこませてみせたのに、最低人間! 極悪! もういっかい務めてこい! とYさんとそろって爆笑しながら罵倒しまくった。それから公共の場ではとても披露するわけにはいけない数々のあれやこれを酔いにまかせておのおの口にした。まったくもって最低最悪の一団だった!
 まずYさんがおりた。ついでしばらくしたところでJさんがおりた。最初Jさんといっしょにそこでおりるつもりだったのだけれど、終点まで乗ったほうが下宿に近いという助言があったので従うことにした(あいかわらずじぶんの頭のなかには地図が入っていない)。終電でおりると空気が生暖かかった。タクシーに乗ろうとしたけれども駅の出口がちょうどごくごく小規模なタクシーロータリーから横断歩道をわたった対岸にあったのでわざわざそちらに戻るのもなんとなくためらわれ、歩きながら途中で拾えばいいかとおもっておなじ終電からおりてそれぞれの家路をたどる酔漢らのまばらな人影にまざってゆっくりした歩調で鴨川に架かる橋をわたった。橋上を吹きながれるやわらかに厚みのある夜風が酔いのさめた頬に心地よかった。真っ暗闇の眼下にそれでもぼんやりと見分けられないこともない人影めいたのがいくつか点在しており、そこから笑い声や話し声やギターの音のたつのが隣村でのできごとのような距離感で聞こえてきて、こういうのがいいんだ、こういう瞬間だけがすごくいとおしいのだ、と何度も思った。こういうたぐいのいとおしさ、この感じがいいというときのこの感じにかつてポエジーという言葉をあてはめて乱用していたことを、ひさかたぶりに脳裏に浮かんだ当の言葉から遡行するかたちで思いかえした。夏にむかって進んでいる季節のその進行方向と速度を実感するなんらかのできごとが、あるいはじぶんがポエジーという言葉でいいあらわそうとしているなにかの正体なのかもしれないと唐突に思いもした。
 酔いがさめるにつれて空腹がきざした。ファミリーマートにたちよってココナッツ風味のジュースとおにぎりをふたつ購入した。レジにはちょっとした行列ができていた。そのすべてがおなじ終電からおりた乗客らしかった。店を出てまもなく、そこがいぜん散歩中におとずれたことのある一画であることに気づいた。下宿まではあと20分程度だろうと、すでに駅から10分ほど歩いていたその時点で見当をつけた。歩いて帰ろうと思った。この夜気を堪能せずにおわるのはあまりにもったいなかった。前回の散歩のさいに見つけたちいさな商店街が目に入ったので真っ暗闇のそこを抜けることにした。途中で一軒だけ明かりのともっているせまい登り階段の入り口があった。バーらしかった。完全消灯の商店街の一画でここだけあやしい赤いあかりをともしているのをながめていると、なんとなく秘密基地の雰囲気があった。こういうのこそ隠れ家的なんちゃらというんでないかとおもった。ジョイントをまわし喫みしている光景がぼんやり浮かんだ。みじかい商店街をぬけてから住宅街を道なりにぼんやりと歩いた。途中から後をつけてくる足音があった。角を折れても折れてもつけてくるので、気持ちの悪いやつだと思った。女性の一人歩きの心細さがなんとなく想像された。住宅街を縫い進むうちにどこからともなくオペラが聞こえてきた。0時をまわってなおこの大音量で音楽を流している非常識な家があるのかとおもって周囲を見回しながら歩いているとやがてガレージにとめられた一台の乗用車が目についた。運転席のモニターが青々とした光をおびて浮かびあがっているそこがどうやら音の源らしかった。人影を認めることはできなかったが、しかしシートの倒されていることはまちがいなかった。家族らの寝静まる家をでてガレージのなかの車内でひとり大好きなオペラを聴きながら寝そべり目を閉じている男の図を幻視した。
 結局ジャケットは最後の最後まで腕にかかえたままだった。帰宅してからすぐにシャワーを浴び、早い翌朝にそなえて『今昔物語』を片手にすぐに寝床にもぐりこんだ。ひととたくさんおしゃべりした日はきまって(そのおしゃべりの内容ではなく)声の調子のようなものがランダムに頭のなかで(というよりほとんど耳元で、まるで鼓膜に刻印された記憶がよみがえるように)再生されるような幻聴めいたひとときに悩まされて眠れないのだが、今夜はなぜかそれがなかった。かわりにSちゃんのくしゃっとした笑顔が何度も頭をよぎった。目尻の小皺がすごくかわいかった。