20230418

 ラカンはおそらく、読者に、ストア派の哲学者クリュシッポスが示したような態度で振る舞って欲しいのだ。彼は個人教師に「私にいくつか教義を与えてください、そうすれば私はそれらを支える論証を見つけましょう」と言ったのである。ラカンセミネール第11巻の後記(英訳には収録されていない)で言っていることを考えてみよう。「あなたはこの書きもの[stécriture]を理解しない。そうであるなら、より結構なことだ。あなたは、それを説明する理由を与えられることになるのだから」(253〔『四基本概念』 379頁〕)。“Stécriture”という語は、“cette〔この〕”の俗語発音である“ste”と“écriture〔書きもの〕”にもとづいた造語であり、“sténographie〔速記〕”と“écriture”を圧縮した語として捉えることもできる。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.245)



 11時過ぎ起床。(…)一年生の(…)さんから微信。28日(金)の補講として明日19日に行う日語会話(二)について、いつもと同じ教室を確保することができたという報告。了解。二年生の(…)くんからは「少し頭が痛くて熱が出てきました」ので授業を休むという連絡。さらに彼と同じクラスの(…)さんからも微信。今日の授業でおこなう「食レポ」は何人くらい発表する予定なのかというので、15人くらいを想定しているけれどもひとりひとりの発表時間が長くなるかもしれないと応じると、二週で終わるだろうかというので、そのあたりは臨機応変に対応する、別に三週にわたってもかまわないし写作の授業を発表に当ててもいいと答える。
 おもてはけっこうな雨降り。食堂まで出かけるのがクソうっとうしかったのでメシは冷食の餃子ですませることに。(…)一年生の(…)さんから大量の犬猫写真が送られてくる。週末にクラスメートと一緒に(…)公園へ出かけたという。(…)公園というのは人工的に砂を敷いてビーチ風にしている湖岸沿いの公園のことだろうか? 直接おとずれたことはないが、存在は認知しているし、そばを通りがかったこともある。
 「[翻訳]デジタルネイチャーに向けて:オブジェクト指向記述の普遍的相互作用のためのLLMMにおけるチューリングマシンオブジェクトと言語オブジェクト間のギャップの橋渡し」というnoteの記事(https://note.com/glpgs_pr/n/n5f901364035f)に目を通す。「落合陽一准教授が主宰するデジタルネイチャー研究室から発表された最新論文を翻訳!」とのこと。なにができるようになったかというよりも、なにをしようとしているかの部分が、界隈にうといこともあっておもしろく感じられた。

私たちの住む世界は、生物と無生物の豊かで複雑なモザイクのようなもので、すべてが複雑に絡み合い、無数の方法でつながっています。人類の歴史の中で、私たちはこれらの物体を理解し、操作することで、自分の欲求や欲望を満たそうと努めてきました。人間が世界と関わりを持つ最も基本的な方法の1つは、観察した対象や現象に名前を付け、分類し、記述する行為です。
このような概念的な実体を「言語的対象」(LO)と呼び、人間の言語によって表現され伝達されます。これらの言語的対象物に名前を付け、整理するプロセスは、コミュニケーションを円滑にするだけでなく、現実に対する理解を構造化し、より効果的に現実と関わる力を与えてくれます。これらの言語オブジェクトのコレクションは、私たちが辞書として知っているものにまとめられ、私たちの共有知識のためのリポジトリとして、人間の言語と経験の進化し続けるタペストリーの証として機能しています。
コンピューティング、特にオブジェクト指向プログラミング言語OOP)の進化は、現実世界のオブジェクトを表現し、対話する能力に革命をもたらしました [14, 18]。複雑なシステムのモデリングやシミュレーションにおけるOOPの威力は否定できませんが、現実世界とデジタルオブジェクトの間の変換は、依然として困難で、労力と知識を必要とするタスクであり、人間の努力と専門知識を大いに必要とします。PythonJavaなどのOOP言語では、Turing Machine Objects(TMO)と呼ばれる、データや手続きをカプセル化して抽象化、カプセル化、継承、多態性を促進する構成体を定義することができます。しかし、デジタル世界と物理世界の間でシームレスな相互作用や操作を実現するためには、これらのTMOと人間の知覚によるLOの間のギャップを埋めるさらなる研究が必要です。

 14時半から西院二年生の日語基礎写作(二)。今日は気温が多少下がるふうだったし、寮を出るころには小雨になっていたものの午前中にたっぷり降りもしたし、それほど暑くはないだろうと思ってエアリズムにつるつるの黒シャツを着てスカーフをネクタイ風にむすんで出かけたのだが、教室の中はめちゃくちゃ蒸し暑かった。そういうわけで教壇に立って声をはりあげているあいだ、めちゃくちゃ汗を掻いた。課題は「架空の伝記」。「導入」として昨日用意した資料を用いて、残雪、夏目漱石ジョン・ケージ、こちらの略歴を紹介。こちらの高校時代の写真は鉄板。学生ら、だいたいみんな爆笑する。学生らが作文を書いているあいだはThe Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きをちょっと読み進める。
 続けて日語会話(三)。「食レポ」第一回。(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くん、(…)さん、(…)くん、(…)さん、(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くんの12人。正確にいうならば、12番目の(…)くんの発表中に終業時刻になり、コンピューターが強制的にシャットダウンになってしまったかたち(みんな爆笑した)。(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くんの四人は満点をつけても問題なし(予想通り!)。(…)さん、(…)さん、(…)くんはまず基礎能力が高い。この三人に比べると(…)さんはやや劣るが、彼女はやる気が非常にあり、実際、発表はひとり3分以上であればよいと事前に告げてあったにもかかわらず10分以上教壇に立ち続けたし、PPTもめちゃくちゃ力が入っていた。すばらしい。(…)くんは予想どおり全然だめ。自分で用意した文章もそもそもろくに読めないので、あらかじめそういう協定をむすんでいたのだろうが、最前列に座っている男子学生を教師のごとく指名し、スクリーンに映し出されている文章を読むように指示するなどしていて、なんでほんなとこだけ機知が働くねん。(…)くんもダメ。発表時間が唯一三分を切った。(…)くんは基礎能力はめちゃくちゃ高いはずなのに、というかペーパーテストの内容だけであれば(…)さんに匹敵するレベルだと思うんだが、だからこそなんだろう、課題だのテストだのになると余裕をかます癖があり、必然的に良い結果を出すことができずに終わることになる。慢心だ。あとは単純にアウトプットが弱い。
 しかしこういう発表形式の授業をやってみてあらためて思ったのだが、中国の学生たちって本当にずっとスマホをいじっているよなと思う。教師が教壇で話しているにもかかわらずスマホをいじりつづける学生が相当数いるのにはもう慣れたが(この仕事をはじめたばかりのとき、マジかこれ! とびっくりしたものだったし、じぶんの授業がそんなにまずいのだろうかと凹みもしたわけだったが、のちほど同業者らの経験談が寄せられているウェブサイトで、授業中のスマホいじりとカンニングの多さについて経験者のほぼ全員が触れているのを見て、あ、そういうものなんだなと受け入れるようになった)、クラスメイトの発表中も、もっといえばふだんコンビで行動している相棒の発表中ですら、ろくにその話を聞かずスマホをいじりつづけている学生が少なからずいて、ああいうのってそれがきっかけで揉めたりしないんだろうかといつも不思議に思う。最前列に着席している学生らにしても、じぶんたちとそれほど関係の深くない学生の発表時には、発表している学生のその目の前で堂々とスマホをいじっているわけで、たとえば日本語能力のめちゃくちゃ低い発表者の発表をつまらないと感じるのは仕方ないにしても、だからといって堂々とはばかりなく黙殺する、そこにはとんでもない飛躍があるでしょうとこちらなどは思うのだが、どうも中国人社会ではそうでもないようなんだよな、こういう場面には授業外でも本当にしょっちゅう出くわす。コロナ前の話だが、スピーチコンテストの練習がはじまってほどないころ、参加者と指導教師が会議室に集められて、そこで外国語学院のお偉いさんの訓示を聞く形式的な会議があったのだが、おなじテーブルのぐるりを囲んだその席上でお偉いさんの女性教授があれこれずっとなにやら口にしつづけるその正面に座っている(…)先生がテーブルの上に置いたスマホを堂々といじっていたり、あるいは学生らが机の下に隠したスマホをやはりいじっていたりするそのようすを見て、ある程度人数のいる場で、木を隠すなら森の中ではないけれども頭数にまぎれて内職をするのであればまだ理解できる、しかしそのときはおなじ机にお偉いさんとコンテストに参加する学生三名、指導教員としてこちらと(…)さんと(…)先生と(…)先生だけが同席しているという状況だったわけで、え? このシチュエーションで内職すんの? マジで? と心底びっくりしたのだった。これもこの国でたびたび感じる「他者」の不在に通ずる現象かもしれん。
 教室を出る。最近の夜食は餃子やラーメンばかりだったが、やっぱ食パン食いたいわとなったので、(…)に立ち寄る。店の阿姨から、あんた最近全然見なかったけど! とさっそく指摘される。食パン三袋買って寮にもどる。入り口で(…)と(…)にばったりでくわす。How are you? とたずねると、(…)は浮かないようす。インフルエンザにかかったという。それで今日、本来は(…)が授業を担当しているはずの教室がもぬけの空だったのかと思う。自転車だけ寮に停めて第五食堂に向かう。寮のすぐそばに停めてある車の後部座席の窓がひらき、中から(…)がふたたび声をかけてくる。ふたりの車なのだろう。運転席には(…)がのっている。病院には行ったのかとたずねると、行ったという返事。
 第五食堂で打包して帰宅。(…)から微信が届いている。最近、教師や学生のあいだでインフルエンザが流行しているので気をつけるように、と。ところでそのメッセージのなかで(…)は、because spring is kind of the season of influenzaといっていたのだが、ほんまけ? インフルエンザがいちばん流行するのは風邪とおなじで冬やろ? それとも中国では、というと主語がでかすぎるから(…)省ではと言い換えるが、インフルエンザは春に流行しやすいというアレがあったりするのだろうか? というかインフルエンザということになっているけれども、時期的にぼちぼち二度目のコロナ感染をするひとびとが出てきてもおかしくないわけだし、その可能性もなくはないのでは?
 メシ食う。ベッドに移動して30分ほど寝る。コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。2022年4月18日づけの記事を読み返す。「実弾(仮)」の初稿があがった日らしい。まだ一年しか経っていないのか。ちょっと意外。

 21時半から23時半まで「実弾(仮)」執筆。自室で執筆するのはひさしぶりかもしれない。プラス7枚で計865枚。初稿、一応最後まで書き終わった。最後のシーン、もう一度だけ確認しておきたいので、あがったとは言い切れないのだが、いやしかし、このあっけない感じ、肩透かしを食ったような感じ、これこそまさに初稿があがったときのあのいつもの感じだよなと思う。最後はちょっとおもしろい終わり方になった気がする。FF10についての会話。

 この「おもしろい終わり方」は結局ボツになった。「FF10についての会話」を交わすシーンはあるのだが、その続きにもうひとつ、第二稿の段階だったか第三稿の段階だったかで、別のシーンを追加したのだ。
 2013年4月18日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

「(…)私は愛にとらえられていながら、だれを自分が愛しているのかわからない。私は忠実でも不実でもない。私はいったいだれなのか? 私は自分で私自身の愛のことがわからない。私は愛に満ちた心をもち、が同時にその心は愛のために虚ろなのだ」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「フェリード=エド=ディーン・アッタール」)

 あなたのもつすべてを火のなかへ投げこむがよい、靴にいたるまで。なにひとつあなたのもつものがなくなったら、屍衣にさえ思いを向けずに裸で火のなかへ身を投じるがよい……。
 あなたの内部のものが断念のなかでひとつに集められたなら、そのときあなたは善と悪との彼方にいるだろう。善も悪もあなたにとって存在しなくなるだろうとき、あなたははじめて愛するだろう、そしてあなたはついに、愛のわざである救いにふさわしくなるであろう……。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「フェリード=エド=ディーン・アッタール」)

 浴室に移動してシャワーを浴びる。ストレッチをし、コーヒーをいれ、明日の補講に必要な資料をUSBメモリにぶちこみ、学生らのグループチャットで補講についてのリマインドをし、それから今日づけの記事もここまで一気に書いた。ひとつ大事なことを書き忘れていた、授業中に労働節の分の補講について(…)さんから聞いたのだった。連休は29日(土)から3日(水)までだったと思うのだが、例年、補講は一日分しかやらない。土曜日と日曜日は基本的に授業がないので、今年の場合であれば、月、火、水のいずれかの曜日の分の補講をすることになるだろうと事前に予測していた。そしてこちらは月と水には授業がないので、そのどちらかの曜日の補講ということになれば、実質補講なしですませることができる、そうなることをおおいに期待していたわけだが、今年の補講は火曜日の分になったという。つまり、日語基礎写作(二)と日語会話(三)の補講をする必要があるということだ。簡単にいえば、こちらは連休の恩恵をいっさい受けないということだ。今年は清明節もそうであったが、祝日にあたる日にもともと授業が入っていない、こういうことばかり続いている。こんなに運の悪いことがあるだろうかと愕然とする、というかふつうにめちゃくちゃイライラする。しかも補講は次の日曜日、すなわち、23日にあるらしくて、いやいや普通に準備やばいやん、作文の添削急がな間にあわんやんというアレで、なんでこんなことになんねん! クッソいらつくわ! この話を(…)さんから聞かされたときは、授業中だったわけだが、教壇でふつうに両手で頭を抱えてもだえくるしんだし、クソ! ファック! ファック! ファック! と我慢できずに吠えまくった。学生らはゲラゲラ笑っていたが、彼女らは彼女らで、火曜日は一週間でいちばん忙しい日、午前も午後もみっちり授業のある曜日なので、なんでよりによってその日の補講をしなければならないんだよとげんなりしているに違いない。マジで今学期はツイていない。というかたしかこれは政府主導の経済対策的なアレが原因やったと思うんやが、赴任した当時よりも清明節も労働節も国慶節も嫌がらせかっちゅうくらい連休が短くなったんよな。これマジでやめてほしい。中国人は働きすぎや。

 夜食はトースト二枚。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、1時から3時前まで『本気で学ぶ中国語』。第16課がようやく終わった。1課につき6周まわすと決めてやりはじめた最初の課が片付いた格好。毎日はできんが、コツコツ進める。書き物が詰まっとるときの気分転換にもなる。
 ベッドに移動し、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進めて就寝。表題作の“The Garden Party”って、これまでの印象としては、うまいところもあるけれども全体的にはちょっとぬるいよなというアレだったのだが、今回再読してみると、子どもの表象がやっぱりすごく上手くて、あ、これはいいかなり作品かもしれん、と思った(まだ半分ほどしか読んどらんが)。