20230419

 セミネール第19巻で彼はこう述べている。「私は、あなた方が自分の仕事に取り組むために、[私が言うことの]意味があまり簡単に分からないようにしている」(…)
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.247)



 11時ごろ起床。クソ暑い中食堂まで出るのがやはりめんどうなので今日も冷食の餃子で朝昼兼用のメシをすませる。コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書く。途中、(…)先生から微信。ローソンのみならずとうとうセブンイレブンまで(…)に進出したという報告。友阿のなかに出店するらしい。これは学生らとのぞきにいくしかねーな!
 14時半から(…)一年生の日語会話(二)。28日の分の補講。第18課。ひさしぶりにちょっとがっかりした。これまで何度か同様の愚痴を書いたことがあると思うのだが、なぜ学生らはゲームを「楽しむ」ことを目的とせず、(手段を選ばず)「勝つ」ことを目的とするのか? 第18課は「できます/できません」といったクソ簡単な内容であるので、前半でちゃちゃっと基礎練習だけやったのち、後半でいつものようにがっつりゲームをすることにしたのだが、学生をA〜Gのグループに分ける、ルーレットアプリでランダムに選出した1〜30までの数字を各グループに三つずつ与える、各グループは自グループの数字を秘密にしたままグループ外の学生らに向けて「〜できますか」と質問する、その質問に対して「できます」という学生は挙手する、挙手した学生の数と与えられた数字の誤差を負債とする、全グループ三回ずつ質問をして負債のもっとも少なかったグループの勝利、ぴたり賞が出た場合は負債が0にリセットされる——と、だいたいにしてそのようなルールでやるわけだが、たとえば、学生らは序盤から「女子寮に入ることができますか」という質問をする。大学では女子寮に男子学生が入ることは許されないし、男子寮に女子学生が入ることも許されない。しかるがゆえにこの質問は実質「あなたは女性ですか」と問うているにひとしい。これはこれでゲームの規則に対するある種の知的なハッキングであるとしてその場はひとまず良しとしたのだが、するとそのあとに「男子寮に入ることができますか」という同様の質問を他のグループが投げたり、「あなたの名前を日本語でチョウと読むことができますか」みたいな質問が続いたりして、いや予想ではなくてもうそれ答えありきじゃんみたいな、どのグループもそういうハッキング系の質問ばかり考えようとする泥仕合に突入、しかもそういう小狡い質問を考えるのには時間がかかるので、結果的にテンポがやたらと悪くなって空気もダレる、さらにいえばほかのグループの質問をちゃんと聞いていなかったり、ほかのグループの質問に対して正直に挙手しようとしなかったりする学生までいて、こういうところなんだよなァとひさびさに心底げんなりした。来週の(…)の授業では質問をリアルタイムで考えさせるのではなく、事前に10分ほど時間をもうけてあらかじめ考えさせておくというふうにルールを改訂しようと思うのだが、こういうふうに外側からいちいち規則や設定をギチギチに固めておかないと、すぐにその隙間をついて利益を得ようとする、ハッキングして勝ち抜けしようとする。明文化せずとも常識としてアウトであるとわかる行為を暗黙のうちにつつしむことで成立するいとなみを楽しみ合おうとするのではなく、その楽しみすら半脱法的な裏ワザでもって独占しようとする——と書いていて思うのだが、大文字の他者が機能していないんだよな。神話の原父殺害に対する罪悪感を共有するのではなくみずからがなんの罪もおそれもなく次の原父になろうとするというか(神経症的主体として去勢されていない)、〈法〉に対するハッキングという次元でいえば倒錯的ふるまいということになるんだろうが、いずれにせよ、大文字の他者が失調しているという点では変わりない。
 それにしてもコテコテの偏見やステレオタイプに即した中国人像みたいなものを学生らは本当にたびたび地でゆく。そして彼女らのこういう発想やふるまいは、もちろん、テストや資格試験におけるカンニング率の異常な高さとも無関係ではない。いわゆる「ずるい中国人」像みたいな偏見やステレオタイプにはもちろん警戒すべきだし、すぐにそういうものをもちだす人間に対しては強い反感を持つが、それでも実際にこの地で生活をしていると、そういうイメージがまったくもって根も葉もないものだとは決していいきれないというみずからの歯切れの悪さを日に日に自覚せざるをえなくなる。だからといってそれを「民族性」だの「国民性」だの「血」だのという本質主義的なファクターと見なして叩く連中がクソであることは疑いないが。むしろ、この社会の不平等、不合理、縁故主義の蔓延、弱肉強食的な切り捨ての様相を知れば知るほど、性根が(言葉は悪いが)こすっからく構築されざるをえない(そうしないと生きていけない)事情に同情するし、そうした社会でプラティカルにすり減らされつづけていく若い学生の姿を目の当たりにしてしんどい気持ちにもなる。
 寮にもどる。ひとときベッドでダレる。17時をまわったところで第五食堂で打包。帰宅して食したのち、ベッドに移動して仮眠。ひさびさに後味の悪い授業になってしまったので気分がくさくさしており、目が覚めたあともすぐに活動に移ることができず、YouTubeで延々とどうでもよろしい怪談やむかしの心霊番組を視聴したりした。なにしとんねん! いじけかたがおかしいやろ!
 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチをし、コーヒーを二杯たてつづけに飲み、明日の授業で使用する資料を印刷したり学習委員に微信で送ったりする。それからきのうづけの記事を投稿し、2022年4月19日づけの記事を読み返す。この日も学生らと長々と夜歩きしている。以前も書いたが、「実弾(仮)」の次はこの封校期間中の夜歩きを短い小説にしたいんだよな。ロシアがウクライナに侵攻し、新型コロナウイルスが上海などの大都市で猛威をふるっている時期に、どちらの出来事とも(少なくとも表面的には)ほぼ無関係をよそおい、平生を平生として営んでいる日々のこと。「実弾(仮)」が震災と(少なくとも表面的には)無関係に不謹慎に生きる連中の話であるように。
 2013年4月19日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

 私たちはキリストの肢体、キリストは私たちの肢体である(コリント前一二・二七参照)。そしてもっとも貧しき者であるこの私の手がキリストであり、私の足もキリストである。そして私が、このもっとも貧しき者がキリストの手であり、キリストの足である。私は動かす、手を――またキリストを。というのは、彼はまったく私の手なのだから。きみは理解せねばならない、神性とは分たれていないものであるのを。私は足を動かす――それは彼のように輝く。私が神を冒涜しているなどとは言わないで、このことを保証してほしい。そしてきみをそのようにさせたキリストに向って祈るがいい。というのは、きみもまた、もし欲するならば、彼の肢体になるだろうから。そして私たちすべての者のあらゆる肢体はキリストの肢体になり、キリストは私たちの肢体になり、そして彼はあらゆる醜いもの、不格好なものを彼の神性の壮麗と名誉で飾って美しく、形よきものにするだろう。そして私たちはみなともに神になり、神と親密に合一し、いかなる汚点をも私たちの体に認めることなく、キリストの完全なる体にまったく似たものとなって、だれもがみなまったきキリストをもつだろう。というのは、一者は、多とはなっても、分たれずに一者であり続けるからだ。しかも、あらゆる部分がみなまったきキリストなのである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「新神学者シメオン」)

 それから今日づけの記事も一気呵成にここまで書くと、時刻は23時半だった。

 トーストを二枚食した。ジャンプ+の更新をチェックしたのち、「架空の伝記」の添削をいくらかすすめる。懸垂し、プロテインを飲み、歯磨きをすませたのち、2時になったところで寝床に移動。The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読んで就寝。