20230420

 疎外はラカンが「強いられた選択」と呼ぶものに関わっている。それは強盗があなたに与えるような選択、すなわち「カネか命か!」というような選択である。カネを保持しようとするなら、あなたはカネと命の両方を失い、そうではなくカネを手放すなら、あなたが取っておくことのできる命(あるいは存在)は少なくなってしまう。なぜなら、あなたはいまや人生のなかで良いものを手にする余裕を少なからず失ってしまったからである(…)。同様に、あなたが何らかのかたちで命を取っておくためには、すなわち何らかの(社会的な動物としての)存在を取っておくためには、意味を生みだすことに従属し(自分自身を他者が話す言語で説明し)、それによって、何らかの命、何らかの存在(動物的な存在)を失うのである。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.250)



 11時半ごろ起きた。二年生の(…)さんから微信が届いていた。ドリアンを食べてみたいですか、と。食べてみたいと答えれば、いまから持っていきますということになるのだろうが、こちらは起き抜けでまだ寝巻きのままであるし、午後は(…)で授業であるから彼女とだらだらやりとりしている暇もない。そういうわけで、ひとまず無視して歯磨きしていたところ、着信があった。これたぶん寮の前まで来ているパターンだなと察した。というか以前もあったことだが、すでにこちらの部屋の扉の前に立っている可能性もある(あれはマジでちょっと誤解を招きかねないのでやめてほしい)。仮にいま部屋の前にいるのだとすれば、物音をたてるわけにはいかない、だから震動し続けるスマホをながめながらしずかにしずかに歯磨きを続けた。その後、あらためて微信が届いた。こちらの部屋の扉のドアノブにビニール袋をぶらさげてある写真。やっぱ部屋の前まで来とったんやんけ! やめてくれ! (…)と(…)のふたりにきみの来訪たびたび目撃されとんねん! というか先学期に一度、封校期間中に彼女がこちらの部屋に差し入れにきたところを(…)が目撃、どうして中国人の学生はほかの寮に出入り可能でおれたち外国人はそれが許されないのだとぶちぎれるさまを見て、(…)先生を怒らせてしまいました、だからもう先生の寮には行かないようにしますというメッセージをよこしたはずだったが、結局あれからも特に変わりなく普通にちょくちょく来よる。(…)さんにはのちほど仕事に集中していたので着信に気づかなかったと適当なメッセージを送っておいた。タッパに入ったドリアンは冷蔵庫に保存。授業中は呪術師に呪いでもかけられたんけみたいな絶望的に退屈そうな表情を浮かべてばかりいるのに、だれよりも頻繁にこうして差し入れを持ってくるのはマジで謎だ。ベイトソンののダブルバインドをちょっと思い出すわ。
 メシは今日も冷食の餃子ですませる。食後のコーヒーを飲み、13時半近くなったところで出発。南門の手前にケッタを停め、先週から変更になったバスの路線にしたがって、体育館前にある停留所のほうに向かう。停留所には例の教員の姿もある。バス停でバスを待っている時点ではまだスマホから中国語版演歌みたいなダサい音楽を鳴らしてはいなかった。
 バスがやってくる。最後尾の席に座る。今日も暑い。最高気温は30度あるかなしかだったが、日差しが強く、サングラスなしでは目がけっこうきつかったと思う。窓をあける。花粉症の薬は飲み続けているが、塗り薬のほうはここ二、三日塗布していない。それでも特に問題なし。ピークは過ぎたのかも。移動中はThe Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。例の教員、やはりバスに乗車した途端、スマホからクソださい音楽を鳴らしはじめた。そしてその音楽にあわせて、ほかでもないスマホをにぎったその手でみずからの腿のあたりを叩き、子どもみたいにリズムをとりはじめる。そのふるまいにまったく遠慮がない、羞恥がない、はばかりも気遅れもない、そもそもの自意識がない。街中でスキップしている少女とほとんど同じだ。そう、さながら幼児のごとく、彼の世界には他者がいないのだ。博士号持ちであるかどうかは知らないが、いずれにせよそれ相応に立派な学歴をおそらくは有しているだろう大学教員が、視野のせまい子どもが自己の内側にこもって享楽するように、スマホを握った手でみずからの腿を打つというお遊戯会みたいな身ぶりでビートを刻み続けている、そのようすに確かな不気味さと目から鱗の落ちるような開放感のないまぜになった複雑な印象をしずかにおぼえる。
 ところで、この人物のことを日記に書くたびに、なんかうってつけのあだ名はないものだろうかとあたまを悩ませていたわけだが、車中でひらめいた。ビート博士にしよう。ビートたけしのイントネーションでビートはかせ。これで水曜日の日記が書きやすくなるな!
 終点でおりる。ビート博士がこちらに先んじて(…)のキャンパスに入る。歩く後ろ姿もやっぱり妙だ。両手をほとんどかわいらしくと形容したくなるほど大きく前後にふると同時に、腰をやたらと左右にひねって歩く。手にしたスマホは顔の高さにかまえている。写真や動画を撮っているのではない。音楽が聞こえやすいように耳に近い位置で固定しているのだ。ショルダーバッグの紐はやっぱり長すぎる。まるで中学に入学後はじめてランドセルではない市販のバッグを使いはじめた少年のようだ。服装もだらしない。毛髪はうすく、顔立ちはちょっと水木しげるの描く登場人物風で、年齢は四十代か五十代か——と、こうして描写を重ねていると、ほとんど怪物やんけみたいな印象すら受ける。
 売店でミネラルウォーターを買う。レジにいるいつものお姉さんが日本語で「こんにちは」と声をかけてきたのでびっくりする。こちらが日本人であることをいつ知ったのだろう? 支払いをすませたあとは「ありがとう」という。まったく予想すらしていなかった出来事だったので、うまく反応できず、にこりと微笑み返すので精一杯。発音がきれいだねと中国語で言えばよかった。来週そうしよう。
 14時半から(…)一年生の日語会話(二)。第17課。先週(…)でやったとき、アクティビティの難易度がやや高いかもしれんぞという反省を得たので、今日はそこのあたりを微調整して再チャレンジしたわけだが、おかげでうまくいった、まったく問題なかった。やったぜ! 授業の前には(…)くんが蜂蜜柚子茶という紙パックのジュースをくれた。なかなかうまかった。一個3元とのこと。連休の予定をきくと、一部の男子学生たちは湖北省へ旅行に行くという。(…)の学生は全員(…)省出身であるし、てっきりみんな帰省するものかと思っていたのだが、案外そうでもないっぽい。農村出身の学生が多いし、両親がそろって出稼ぎしているがゆえに故郷に帰る意味がないということなのかもしれない、それで大学におとなしく残るのかもしれない。(…)くんは寮で『原神』をひたすらプレイ、(…)さんは寮でひたすら小説を読む予定とのこと。

 授業を終えて地獄の便所へ。(…)くんと(…)くんのふたりがいたので、このトイレ本当に汚いよねと話す。バス停へ。(…)さんとたぶん(…)さんだと思う、このクラスは顔と名前がまだまだ半分以上一致していないのでアレなのだが、このふたりはクラスでもトップレベルにやる気のない学生なのでよく目立つ、それで印象に残っていたのだがそのふたりがバス停付近を歩いている。声をかける。どこに行きますかとゆっくりと話しかけるも、伝わらない。このレベルか! しかたないので中国語に切り替えて会話。裏町へミルクティーを買いにいくところだという。
 バスに乗る。移動中はThe Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きの続き。“The Garden Party”を読み終える。前回読んだときよりもずっと面白く感じられた。ちょっとフラナリー・オコナーに通じるものもあるよなと思った。つまり、garden partyのためにたちはたらく人夫らのことをたいそう好ましく思う描写にはじまり、主人公である少女Lauraは金持ちの娘でありながら(母親とは反対に)階級の異なる人物らに対する共感をもっている人物として登場するのだが、同時に、その共感がうすっぺらで浅はかなものでしかないことが終盤であきらかになる。ただし、この「暴露」はオコナーほど容赦なく意地悪なかたちでおとずれはしない、語りはどちらかといえば最後までかよわき少女Lauraに寄り添っているようにみえるし、少女の共感を安っぽい偽善としてjudgeするようなトーンもない(オコナーであれば確実に突き放すだろう)。
 豪華なgarden partyを開催する富裕層であるLaura一家と、そのparty当日に事故で大黒柱を亡くした労働者階級の一家の葬式とが、前半と後半にそれぞれ対比的に設置されている構成については、象徴的なものと現実的なものの対比として読むこともできる。つまり、象徴的なものをブルジョワに、現実的なものをプロレタリアートに、それぞれ重ねあわせて考えるアナロジカルな道筋がひらかれている、と(もちろん、このような見立て自体はきわめて凡庸なので、その見立てに即した上で細部を拾いあげてつなげるという作業が必要になるだろうが)。法と儀礼の場であるpartyとそうしたものによっては覆い隠すことのできない生身の死。葬儀の場にももちろん法と儀礼は存在するのだが、Lauraは場違いなドレスコードと手土産を片手にそこをおとずれるし、夫をなくして途方に暮れている未亡人は客人の来訪にまともに対応することができずその非礼を別の身内が詫びることになる。つまり、そこでは見せかけの法が部分的に失効している。さらに遺体と対面することになったLauraは、その遺体から死者の世界にあってはドレスコードもクソもないということを幻聴のようにして聞き知り、そこがまさしく法外な場であることを悟る。また、迎えにやってきた兄Laurieを前にして泣き出すクライマックスのシーンでは、どうしたのだとたずねる彼に対して、《“Isn’t life,' she stammered, 'isn't life—‘ But what life was she couldn't explain.》と言語の臨界点に達する。
 興味深かったのは、Lauraが遺体の安置されている部屋を逃げるようにして立ち去るまぎわ、そこが法外の場であるという認識を得つつも、自分が場違いな帽子をかぶっていることを声に出して詫びる箇所。仮にこの作品について精神分析的な批評、というのはつまり、精神分析的な見立てに即した読解を進めつつ、最終的にそうした精神分析的知を突破する一点を名指すという営み——それこそがパス以降の精神分析を小説の読解に応用するもっともオーセンティックな方法だろう——という意味だが、そうしたものを書くのだとすれば、このLauraの一言がフックになりそう。法外の場にあってなお違法を詫びるということ——なるほど、法外と違法という概念をペアとして持ち出すこともできるのか。

 終点のひとつ手前、(…)楼の前でおりる。バスの路線が変更したことを知らないようすの女子学生がそこから乗り込もうとするのに、このバスは(…)のほうには行かない、そっち行きのバスに乗りたいのであれば対岸のバス停のほうに行け、と運転手がいう。あの女子学生らは先週の私。
 (…)で食パンを買う。この店のおばちゃんは基本的にみんな愛想がよく、こちらにたいして非常に親切に接してくれるのだが、なかでもとりわけ愛想のいいおばちゃんがいて、このおばちゃんの口にする好的はすごくかわいい。haoのところでためてdaで跳ねるようにリズミカルに声を高くする。これまで何度も似たようなことを書いてきたが、くりかえしをおそれていては日記など書けないし、むしろ似たようなことばかりをその都度なんどもなんどもくりかえし書きつけるからこそ日記なのだというひらきなおりをもって堂々と書きたいのだが、こういうチェーン店に勤めるおばちゃんたちがこちらに対して一種特別親切に接してくれるのは、やっぱり外国人がめずらしい田舎だからだよなと思う。都市部であれば、こんなふうなお客様待遇でニコニコ接してくれないよな、と。母国の料理であったり母国の人間とのコミュニケーションであったりを特別欲するわけでもないこちらのような人間は、やっぱり都市部に出ずにこうして片田舎にひっこんでいるほうがいろいろ都合がいいのかもしれない。この町は気楽だ。言語の壁が介在するがゆえに表面的で儀礼的な会話より深いところで交わることのできる相手がほとんどいない。だれともろくに意思疎通できないからこそ得られるタイプの自由というものがたしかにある。
 自転車を回収して寮にもどる。自転車と荷物だけ置いて第五食堂に行く。打包して戻る。寮の入り口で髭もじゃのアフリカ人留学生とばったりすれちがう。Hi! とひとこと挨拶する。メシを食う。仮眠はとらず、冷蔵庫に入れておいたドリアンを取り出す。冷蔵庫の中は強烈にくさくなっていた。とびらをしばらく開けっぱなしにして換気扇をつける。ドリアンを食す。めちゃくちゃ濃厚で、ふしぎな味。でもなにかに似ている、この濃厚さを因数分解していけば既知の味に行き着くぞという予感がする。それでひらめいたのだが、アレだ、ラムレーズンのアイスクリームをめちゃくちゃ濃厚にしたような味なのだ。ちょっとアルコールっぽさもある。この比喩、ドリアンを食べたことのあるひとならちょっと共感してくれるんではないかと思う。においはマジできついのだが、臭豆腐とおなじで、実際に口にしてみるとそれほど気にならない、そして味も悪くない、というかこの濃厚な味にまだ舌が慣れていないだけで、二回三回と食べるうちに好物になるかもしれんぞというポテンシャルすら感じる。味の説明に困るという経験はけっこうひさしぶりだ(十年前に京都のきちんとしたお茶屋に併設されているお茶専門のカフェで飲んだ本物の抹茶以来かもしれん、あれもなかなか形容しづらい味だった)。しかし食後のげっぷまでくさくなるのはマジで勘弁してほしい。ふと思ったんだが、たとえば日本人がデートの前ににんにくを食うのをひかえるように、中国人もやっぱりそういう場面ではドリアンを食うのはひかえるみたいなアレがあったりするんだろうか? ちなみにこちらの知るかぎり、中国人はデート前だからといって特ににんにくをひかえるようなことはしない。
 (…)さんにお礼の微信を送ってから授業準備。明日の日語会話(一)に備えて第19課の資料を詰める。片付いたところでシャワー浴びる。入浴後はエアコンをいれた。ここ数日、マジで暑すぎる。しかし予報によれば、明後日土曜日には最高気温がまた11度まで下がるらしい。わけわからん。お天道さん、もうちょい仕事しろよ。(…)時代のおれでももうちょいマシやったぞ。
 コーヒーをいれる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年4月20日づけの記事の読み返し。(…)での授業中の様子として「途中、屋外に直接接している廊下のすぐ先にある木のこずえに集まった野鳥がアホみたいにうるさく騒ぎはじめたので、廊下に出ていって「うるせえ! 馬鹿!」と怒鳴ってやった。野鳥はびびって逃げた。学生は爆笑していた」とあったので、ワギャンやねえかと思った。
 それから、きのうづけの記事にもまさしく書いたばかりであるが、次の小説の素案。

(…)ウクライナや上海の惨状を片手間にチェックしながら中国の学生と夜キャンパス内を散歩するだけの小説を書いてみるのもいいかもしれない。いわば「実弾(仮)」に続く「無関心シリーズ」の第二弾というかたちになるのだと思うが。戦争と疫病の世界で、デリケートな話題であることにくわえて言語の壁も存在するため、そこには触れずにただただ幼稚な会話をくりひろげるだけの、日本語教師と中国人学生による、恋愛要素のまったくないリチャード・リンクレイター『ビフォア・サンライズ』みたいな——と、書いたところで気づいたのだが、そっか、岡田利規の『三月の5日間』ってそういうことだったのか。

 2013年4月20日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。以下の『忘我の告白』のくだり、同一性という概念を扱うからにはそもそもの根源的な差異が前提されているはずだという現代思想的な論理とちょっと似ている。信仰を問うからにはそもそもの根源的な不信が前提されているはずだ、と。

 あるとき彼は語った、「神をたいへんはっきりと観たため、あらゆる信仰を失ってしまった、ひとりの人間を私は知っています」と。
 別のあるときに、アンドレア修道士が彼に語った、「あなたは神がある幻のなかであなたから信仰を取りあげてしまわれた、と言っておられるが、もしよろしければ、あなたには希望があるのかどうか、私に言っていただきたい。」彼は答えた、「信仰のないものがどうして希望をもったりなどできましょう?」アンドレア修道士は彼に言った、「あなたは永遠の生命をあなたが得られるだろうという希望をおもちではないのですかな?」彼は答えた「あなたは神が、もしそれが神のみ心であれば、永遠の生命の印をお与えになることができるということを信じてはおられないのかな?」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「アッシージのエギディウス」)

 それから職場でのできごととして以下のような記録が残されている。

土日祝と出勤日なのでGWは暦どおりにいくと27〜29日と三連勤したのち三日休みをはさんで3〜6日と四連勤というとんでもないハードスケジュールでこれほんと耐えることができるんだろうかと心配になるというか今日も(…)さんから早いところ(…)さんにたのんでシフトを代わってもらうことだ、おまえがそんなスケジュールになど耐えられるわけがないのだから、どうせまた壊れることになるのはわかりきっているのだ、だからきちんと(…)さんにたのんで休ませてもらえ、あした朝いちで(…)さんに電話するのだ、いいな?と発破をかけられた。(…)さん(…)さん(…)さんからも同様の進言を受けたというか、このひとたちにいたっては二ヶ月くらい前からたびたび、(…)くんGWだいじょうぶか?耐えられるか?またイーッ!てならへんか?キレへんか?(…)さんにたのんで代わってもらいな、などと子をあやすふた親のごとく声をかけていただいて、クソ世間様からしばしばバッシングされがちなじぶんと労働とのむずかしくこじれてしまった関係を気づけばこうまで無条件に受け入れてくれているこの職場この同僚の寛容さにちょっと感動をおぼえる。おまえがここを辞めると言い出したときはどうしたものかと思った、あんなにも思いつめた真顔で金はいらない時間が欲しいと目の前でいわれてみろ、もうなんもいえないぞ、ほんきで途方に暮れる、と(…)さんにいまさらながら当時のことを蒸し返されたりもした。貯金がなくなるまでは働くつもりなどないと語るこちらの言葉を受けて、ああこいつ本気だ、もう死ぬ気なんだ、とおもったのだという。

 (…)さんにしても(…)さんにしても、じぶんたちも若いころはぷらぷらしていただろうに、そのぷらぷらに多少拍車がかかっているだけのこちらに対してはやたらと当たりがきつく、やれちゃんと仕事をしろ、やれちゃんと自活しろと、マジで四六時中クソやかましかったわけだが(親から学費出してもろたうえでぷらぷらしとったような人間がなにをいっちょまえに語ってくれとんねんと当時のこちらはそのたびにイライラしたものだが)、(…)の同僚たちはそもそもが生活破綻者ばかりだったので、こちらが週に二日しか働かないとか家賃一万円代のやばい下宿暮らしをしているとかエコフードばかり食っているとかそのくせ(…)だけは一丁前に吸うとか、そういうあれこれに対してまったく口うるさく言うことがなかったし、上に引いたようにむしろこいつはもうこういう人間なんだからそれでいいじゃないかとあっさり受け入れてくれていた、そういうふところのでかさみたいなものはあったよなと思う。だからなんだかんだでこちらも、まともな神経の人間であれば裸足で逃げだすようなあの狂った環境に、ある種の居心地の良さといってさしつかえないものを感じていたのだろう。
 あと、(…)さんについて「パチンコは結局敗北に終わったらしい。アカシックレコードチャネリングしてグッドラックを引き寄せる企みは失敗におわったということだ」という記述が残されていた。パラフレーズすると、(…)さんにはなぜか(…)を打った状態でパチンコに行くと必ず勝てるという思い込みがあり、というのもはじめて(…)でパキパキになった日にパチンコで大勝ちしたという経験があったかららしいのだが、それで(…)さんからブツをひいてきてもらってはそのたびごとにパチンコに行っていたのだった、で、こちらの記憶によれば、(…)さん経由でブツを得た初回はその思い込みどおりにマジで大勝ちしたものの、二回目、三回目は全然そんなことなかったという経緯だったはずで、だからこの日の日記に記録されているのは初回ではないということになる。
 作業中、(…)さんと卒業生の(…)くんから微信。(…)くん、最近なんかやたらと連絡がくるが、くだらない内容であることは間違いないわけで、今日はなんなんだよと思いながらスマホを見ると、「先生、俺DTから卒業した」というメッセージ。うるせえバカ! 外見も中身もマジでオーク系男子であり、かつ、あの心の広い(…)先生から「(…)くんはちょっと他人の気持ちを汲み取れないところがあるから……」との苦言を引き出すほどの奸賊である(…)くんのことなので(相手の女の子があきらかにそういうタイプではないにもかかわらずレストランで公開告白したり、それに失敗したあとも次はレストランではなくもっと大きな広場で公開告白しますとこちらの反対にもかかわらず意気込んでいたりするほどにはバカで空気が読めず、さらに英語学科の女子はフェニミズムにかぶれているから好きじゃないと堂々と言ってのけたうえで、日本語をAVの物語パートで毎日学習していると豪語するという、どうしようもないドアホ)、恋人ができたというわけではないはずだと思いつつもいちおう「とうとう彼女ができたの?」とたずねると「キャバ嬢です」との返事。風俗ということだろう。「きみもいよいよ(…)省のおじさんらしくなったな」と、清明節に会った(…)さんや(…)さんが金と女の話ばかり延々としていたのをふりかえりながらいうと、「なんか罪がありました。」「心から」「他人の体は一時間150げん、なんか資本主義みたい。このキャバ嬢は今19歳だぞ。」「俺は化け物が?」とあったので、どっからどう見てもバケモンやろがと思いつつ、「もうそういうお店に行くのはやめておきな。癖になって抜け出せなくなるよ。」とだけ答えておいた。
 (…)さんからはボーダーコリーの(…)についての報告。病気で死にかけていたらしい。ジステンパーウイルスにかかって半月ほど入院していたというので、ワクチンは射っていなかったのかとたずねると、彼女に(…)を売りつけた相手がワクチン接種済みと嘘をついていたらしい。(…)さん曰く、中国ではよくあること。おかげで(…)は半月間入院、治療費に20000元かかったというので、は? マジで? とクソびびった。その額を支払うことができるという時点で、彼女の実家はやっぱりうちの平均的な学生にくらべて裕福なのかなと思うわけだが、その金というのはもともと(…)さんがこの夏休みに日本に旅行するために貯めていたものだという(だから旅行はキャンセルということになるだろう)。ジステンパーウイルスの生存率は10%、治癒したとしても後遺症が残るケースもある、にもかかわらず(…)は無事生き残ったというので、それはたいしたもんだなァと思った。感染症であるし治療もむずかしいとあって動物病院もなかなか受け入れてくれず、10軒電話してようやく1軒受け入れてくれたという感じで、(…)さんは休みのたびに故郷に帰って見舞いにいっていたらしい。さらにスタッフに許可をもらって病院に寝泊りまでしていたらしく、これには病院側もこんな申し出ははじめてだと驚いていたという。それでちょっと思ったのだが、(…)さんが授業中にたびたび絶望的に退屈そうな表情を浮かべていたり居眠りしていたりしたのは、こういう心労であったり肉体的疲労であったりが積み重なっていたという事情もあったのかもしれない。しかしこちらとしてはちょっと嬉しかった、いや嬉しかったという表現はちょっとおかしいかもしれないが、以前彼女から(…)を飼いはじめたという話を聞いたときは、全然事前の準備や心構えなどができておらず、知識もなく、本当にただの思いつきで飼いはじめたみたいな、責任感のクソほどもないアレのようにきこえたので、ちょっと心配だったしなんだったらイライラしてもいたのだが、今日こうした経緯をきいて、ああよかった、彼女が飼い主であれば(…)も大事にしてもらえるなと安心したのだった。うちの学生のなかには、在学中に思いつきで猫を飼いはじめるのはいいものの、その後ろくに世話をせず、卒業後も邪魔とばかりにすぐに他人にゆずってしまったりする、そういう人間がちょくちょくいたりして、こちらはわりとけっこうイライラしていた。
 こうしたやりとりを、きのうづけの記事の続きを書いたり読み返したりしながら続けていたのだが、あらためて思った、やっぱり作業中に微信やLINEでやりとりすんのはかなりうっとうしい。思春期をメールのやりとりをして育った世代やからかもしれんが、チャットのテンポにはどうしても慣れん、チャットってメールとは違ってそのつくりが基本的にスマホにしがみつきっぱなしになるようになっとる、メールみたいに送信と受信のあいだに大きな断絶があるがゆえにその断絶を利用してほかの作業を進めるということがなかなかできん(「ながら仕事」がむずかしい)、それがこちらにとってはかなりストレスなのだ、おれの時間を横奪りすんなという気分になるのだ。いや、微信やLINEをメールのようなテンポで使用すればええやろという話なのかもしれない、実際こちらはそうしている、しかしメールであれば通常一通ごとにターン交代となる、カフカの手紙みたいに相手からの返信が届いていないうちに二通目、三通目と連続で送るようなことは普通はない(カフカはそういう意味でまあまあ気持ち悪いしうっとうしい)、しかし微信やLINEであると連チャンで三つ、四つ、五つとメッセージが届く。あれが急かされているみたいですごく嫌なのだ。こちらは基本的にどんな相手であっても、倦怠期のカップルくらいのだるーいペースでやりとりするのがちょうどいいのだが(日記のこの段落を書き終わったら返信、本のこの章を読み終わったら返信、みたいな)、微信で学生とやりとりする際にはどうしてもそういうペースにもっていくことができない。こっちの若い学生とやりとりしていて思うんやが、どうもやっぱりチャットするときはスマホにしがみつきっぱなしという感じがする、ながら仕事ではなくいったんやりとりに集中するみたいなかたちになっとるんちゃうかという印象を受けるんやが、それでいえば日本はどうなんやろ? そもそも日本の若者は連絡ツールとしてLINEは使わない、友人らとのコンタクトにもInstagramを使うみたいな話をどこかで見聞きしたおぼえがあるんやが。このままmixifacebookinstagramもぜーんぶ手を出さんまま一生を終えるんやろか。ブログだけはたぶん(非公開分を含めれば)日本でもトップレベルの利用頻度というか、これまでにいったい何千万字、いや下手すれば一億字以上になるんか、とにかくアホみたいにカタカタやってきたわけやが。ブログジャンキーやね。
 今日づけの記事も途中まで書く。作業中はずっとHualun(花伦)を流していた。23時半になったところで作業を中断。マジで時間がない。日記の分量も減らすことに成功しつつあるはずやのに、なんでや、なんでこんな時間あらへんねん。トースト二枚を食し、「架空の伝記」の添削の残りを片付け、腹筋を酷使する。プロテインを飲み、歯磨きをすませ、ベッドに移動して就寝。