20230422

 ここで考えなければならないのは、『荘子』の中には、言語への不信とは別に、ある仕方での言語に対する根源的な信があるということである。たとえば、次の箇所を見てみよう。

 そもそも言は吹く風の音ではなく、言には意味があると考えられている。しかし、その言う対象がまだ定まっていないとなると、はたして意味があると言えるのだろうか。意味などないのではないだろうか。また、言は雛の鳴き声と違うと考えているが、はたして区別があるのだろうか。区別などないのではないだろうか。道がどこかに隠れたから、真偽があるのではないだろうか。言がどこかに隠れたから、是非があるのではないだろうか。道がどこかに行ったから、摑まえられなくなったのではないだろうか。言がどこかに行ったから、うまくいかなくなったのではないだろうか。これが、道は小成に隠れ、言は栄華に隠れたということである。こうして儒家墨家の是非が出てきたのであり、一方が非とするものを是とし、是とするものを非とするようになった。非を是、是を非にしている状況に、明察を用いる必要はない。
(『荘子』斉物論篇)

儒家墨家の間には是非の判断の対立があるが、それが生じたのは「道」と「言」が隠れてしまったためである。そのどちらをも認めるような「明」に立って考えると、「道」と「言」が隠れなく現れている場面に戻ることができる。それは、吹く風の音のように、鳥の鳴き声のように、根源的なオラリテ(音)が響き渡っている場面である。ここでは「道」もまた「言」と同様に、そもそもは人の発する声であることを思い出しておこう。人の発する声は、是非の対立という意味の次元で用いられたり、「意」を伝達したりするだけではない。それは、この世界にさんざめく音もしくはノイズと同様に、いわば原‐話し言葉として、意味作用から無関係に響き渡るものでもある。
 この響き渡るオラリテは次のようにも描かれる。

 子綦(しき)が言う。「そもそも大地の吐く息を名づけて、風と言う。風は吹かないこともあるが、風が吹くと穴という穴が激しく声を上げる。君はあのビュウビュウと鳴る音を聞いてはいないか。山の木々を揺らし、百かかえもある大木の穴という穴を鳴らす。鼻のような、口のような、耳のような、枡のような、杯のような、臼のような、池のような、窪みのような穴という穴である。その音は、水がほとばしり、矢がうなり、𠮟り、吸い、叫び、泣き、くぐもり、悲しむようである。前の音がウーッと鳴ると、後の音はゴオッと応えるように鳴る。微風の場合は小さく和し、強風の場合は大きく和する。激しい風が吹き止むと、穴という穴の音も止む。君は木々がざわざわと揺らぎ、そよぐのを目にしてはいないか」。
(『荘子』斉物論篇)

これは斉物論篇の冒頭に置かれた文章であり、「地籟(大地の音)」を活写した箇所である。『荘子』はその「地籟」を挟むように、「人籟(人の出す音)」と「天籟(天の音)」を置いた。天地人のあらゆるレベルにおいて、この世界には音が満ち満ちている。通常、それらの音を人が意識することはない。それらは、いわば「バックグラウンド・ノイズ」だからである。
「意」の伝達を目指すコミュニケーションにとって、耳障りでもあり目障りでもあるのは言語であった。だからこそ、言語を支配し、そこから「意」の伝達を妨げるものを排除しようとしたのである。そこで排除される第一のものが「書き言葉」であったわけだが、オラリテもまた「バックグラウンド・ノイズ」として脇に追いやられていたのである。エマニュエル・レヴィナスとモーリス・メルロ゠ポンティの英訳者として知られるとともに、他者との出会いを哲学的に考え続けている、アルフォンソ・リンギス(一九三三─ )はこう述べている。

 コミュニケーションとは、メッセージを、バックグラウンド・ノイズとそのメッセージに内在するノイズから、引きだすことを意味する。コミュニケーションとは、干渉と混乱にたいする闘いである。それは、背景に押し戻されなければならない無関係で曖昧な信号、そして地方なまり、発音間違い、聞こえてこない発音、口ごもり、咳、叫び、途中で取り消され最後まで語られない言葉、非文法的表現といった、対話者が互いに相手に送る信号に含まれる不快な音と、文字記号の悪筆とにたいする闘いなのである。
(アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』、一〇〇頁)

しかしながら、「意」の伝達を目指すコミュニケーションにとっても、「バックグラウンド・ノイズ」は不可欠である。なぜなら、それなしには、人は決して個別の経験に触れることができないからである。「バックグラウンド・ノイズ」は、その人の、そしてその人が向かい合う存在者の特異性を「命の雑音」として構成している。

 情報を伝達する表現の動因としての私たちは、交換可能な存在である。しかし、私たちの唯一性と無限の識別可能性は、私たちの叫び、つぶやき、笑い、涙、つまり命の雑音のなかに見いだされ、耳にすることができるのである。
(同、一二四頁)

ここでリンギスの極めて荘子的な表現を見てみよう。

O・メシアンは『クロノクロミー』で、自分が所有する、鳥の歌声を録音した膨大なテープに含まれるジャングルの鳥たちがだした膨大な数の信号を、音楽、リズム、ハーモニー、メロディーにしたのではない。私たちは『クロノクロミー』で、シンバル、ベル、ブロック、パイプといった金属の音、マホガニー、オーク、竹といった木の音、弦、ドラムといった動物の皮の音、はたきの繊維の音、つる、樹脂、分泌液の音が、無数の鳥類が立てる野生の狂喜の騒音に変わるのを耳にするのである。そして私たちがそれを耳にするとき、その音は再び私たち自身の音へと変貌する。
 というのも、私たちもまた、伝達するものをバックグラウンド・ノイズとともに伝達し、バックグラウンド・ノイズを伝達するからである。コミュニケーションが成立するのは、大地、海洋、大空の脈動が、私たちの体内で捉えられ、凝縮され、広げられ、つぎに私たちの体内から解放され、そのこだまが風と海とともに戻ってくるのを耳にするときなのである。
(同、一三〇頁)

「バックグラウンド・ノイズ」こそが、コミュニケーションの可能性の条件であった。ただし、それは、透明なコミュニケーションにとっては不可能性の条件でもあることだろう。その「バックグラウンド・ノイズ」は「私たちの体内で捉えられ、凝縮され、広げられ、つぎに私たちの体内から解放され」る循環にある。『荘子』の表現によって言い直せば、「地籟」において風が穴という穴を鳴らすように、それらの音は単独では存在していない。音は一種の「信号」として他の音と谺(こだま)しあい、孤独ではないこと、見捨てられてはいないことを告げている。
 そうであれば、『荘子』においても、風の音や雛の鳴き声にも似て、あるいは木々のざわめきや穴という穴がはき出す音にも似て、「道」や「言」という、ある根源的で共鳴しあうオラリテ(音)が想定され、それに対する信が表明されていると言うことができるだろう。このことをイメージするために、やはり鳥の声に耳を傾けた現代音楽家武満徹の言葉を聴いておこう。

 異った声が限りなく谺しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動しつづけている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである。……(中略)……
 この地上で聞かれる音のすべては、異った波長の集積で成立っている。波長の集積のぐあい、あるいは強さの度合いといったことが、その音の独自な響きをつくりだしている。そして、そこに集っている波長は、相互に物理学的な信号の役割を果すのだが、このことはたいへん暗示的なことに思われる。信号としての波長は、他の波長を全く別の新しい振動に変えてしまうが、信号もまた元の波長のままではいない。私は、これを単に物理的な相乗効果としてだけ考えたくはない。他を変え、また自己を変えるということは、〈運動〉の原則ではないか。
武満徹「暗い河の流れに」、小沼純一編『武満徹 エッセイ選──言葉の海へ』、二八〇─二八一頁)

「異った声が限りなく谺しあう世界」では、音が他の音に谺することで、「他を変え、また自己を変える」。『荘子』に描かれたオラリテの次元もまた、まさしくこのような音の〈運動〉である。それは、決して孤立したものではなく、他なるものへと連絡することで響き渡るのである。
 そして、こうした響き渡る〈運動〉としての音を聞き取ることのできる人を『荘子』は聖人や真人と呼び、理想化していった。とはいえ、たとえ聖人や真人であっても、こうした音を聞くことは決して容易ではない。たとえば、鳥の声はどうだろうか。再び武満の言葉を聴こう。

 ある時、私は次の仕事の準備のために、鳥の声を収録したテープをきいた。オッシロスコープにあらわれる波形の美しさに見ほれていると、瞬間的に立ちあらわれてはすぐに消えてしまう微妙な波形を、私の耳がとらえていないのに気づいた。テープの速度を二分の一に、なお四分の一に落としてみる。われわれは実際よりも四オクターブ低いピッチで鳥の声をきくことができる。そうすると小さな愛らしいツグミは、巨大な魔物のように大きな音でホルンを吹いた。私は見失いがちだったその微妙な波形をとらえて口に出してうたってみた。そして、やっとその化け物ではない愛らしいツグミを理解することができて、いっそう親密な気持ちを持つのだった。が、その時から私の仕事の進行は、はかばかしくなくなった。もちろん、私は人間と鳥との生物学的な差異をここで問題にする気はない。けれど、鳥たちの充実した歌を、私は四分の一のスピードでしか完全に理解することはできなかった。とすると、私は音楽家として、現在の四倍の努力をしなければ、鳥のようにはうたえないことになる。また、仮にそうしたとして、あんなに美しく充実した歌がうたえるものだろうか……。
武満徹「虫 鳥 音楽」、同、二四〇頁)

鳥の声を聴き、鳥のように歌うには、「現在の四倍の努力をしなければ」ならない。それでも、『荘子』が目指したのはこうした聞き方なのだ。オラリテの次元に達し、「道」を聞くためには、何か大いなる努力が必要である。それは、わたしに根底的な変容を迫るような努力である。他者を通じて、わたしが他なるものにならなければならないのだ。
中島隆博荘子の哲学』)



 朝方に一度目が覚めた。小便をし、口をすすぎ、白湯を飲み、見たばかりの夢をスマホに記録し、二度寝。次に目が覚めると12時半をまわっており、ひさしぶりに爆睡した、腰に痛みをおぼえるほど寝まくった。
 夢の記憶。実家の浴室で風呂に入っている。排水溝にたばこが一本落ちている。あがって居間に向かうと、母と兄(認識上はニート時代)と三年生の(…)くんがいる。(…)くんはなぜか金髪で、その髪も濡れている。たばこも彼が吸ったものなのだろうと思い、浴室に吸い殻を捨てるのはやめろと注意する。(…)くんは心ここにあらずの状態で返事をする。母によれば、彼の手の指はひどく膿んでおり、そのため指の第一関節のあたりにはさみで切れ目をいれて膿を出す必要があるのだという。場面が転換し、(…)くんとおなじ処置をする必要のある匿名的な女子学生といっしょに、(…)の外国語学院と日本の中学ないしは高校の校舎とが微妙に混ざりあった空間を歩いている。女子学生のほうは医者に麻酔を打ってもらったうえで処置してもらうつもりだという。費用をたずねると、たしか200元か300元で、それほど高くもない。校舎の廊下を抜け、そのままホールのような一画に入る。ホールにはすでにほかの学生らが着席している。遅れて入ってきたわれわれの関係をからかうような声がときおり聞こえる。そしてこちらもそんなひやかしに対してまんざらでもない甘酸っぱさを感じている。ホールの椅子には着席せず、控室のような倉庫のような部屋にひとりで向かう。部屋の奥には実物大の階段の模型がある。全部で十段にも満たない、真っ白なもの。最上段はひとが三人ほど立つことのできるスペースになっているのだが、そこにB’zの二人がいる(認識上はB’zなのだが、たぶん現実のこちらがB’zのふたりの姿をよく記憶していないからだろう、ふたりともぼんやりとしたイメージでしかない)。階段の最上段に立ったふたりはこちらの姿に気づくなり、放送がはじまる! みたいなことをジェスチャーで訴える。階段の下段にはビデオカメラを構えているスタッフがいる。どうやら生放送らしい。そうこうするうちに音楽にあわせてB’zのふたりが階段をおりはじめる。口パクしているそのようすをながめながら、カメラに映らない場所に隠れようとして、テレビ番組で使うセットらしい巨大な扉の裏に隠れるが、ハリボテでしかないその扉に触れた瞬間、それまで自立していた扉が倒れそうになる。倒れてしまっては生放送中のトラブル発生ということになるので、あわててその扉を抱き抱えるが、そのせいでカメラの端っこにじぶんの姿が映りこんでしまう。いちど映りこんでしまったのであれば、もうあとはどうでもいいやとなる。B’zのふたりもトラブルをむしろよろこんでいるようだったので、堂々とカメラの前に出ていき、三人でめちゃくちゃに踊りまくったり、セットを破壊しまくったり、天井に備えつけられている監視カメラにジャンプして顔を近づけたりする。
 なんでこの夢を記録する必要があると早朝のじぶんは判断したんや? 歯磨きし、ニュースをチェックし、ストレッチをする。食堂に出向くのがだるいので朝食兼昼食はトースト二枚ですませる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年4月22日づけの記事を読み返す。当時二年生だった(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんが寮に遊びに来た日。みんなで餃子を作って食っている。彼女らが去ったあと、「部屋が人間くさかったので、窓を全開にした。若い女の子が8人もいたのに、あまったるいようなにおいが一切しないというのもなかなかすごい。整髪料も化粧品も香水も柔軟剤もまったく使っていないからだろう」とあり、そういえばそうだよな、これもやっぱり片田舎の大学だからなんだろうなと思った。(…)さんも先日、(…)の女子学生の印象として、ずいぶん素朴だ、都市部の学生や金持ちのバカ息子やバカ娘が通う私立学校の学生らはもっと派手にメイクして着飾っていると言っていた。そういえば、高校のとき、女子学生が大半を占める文系クラスの教室は常に甘ったるいにおいがしているのに対して、男子学生が大半を占める理系クラスの教室は常におかしなにおいがこもっており、特に夏場の体育の授業のあとなどは最悪で、だから理系クラスの学生はしばしば「鼻がバグる!」と言いながら文系クラスの教室に避難してくることがあった。
 それから、一年前のいまごろはちょうど中国のネット上で、「四月之声」が出まわりはじめた時期らしい。(…)さんがモーメンツに投稿していたとの記録が残っている(翌日には当局の検閲によって削除されるわけだが)。
 以下は2021年4月22日づけの記事の孫引き。

(…)「死への欲動」というのは、文字通り、死へと向かっていく欲動ですが、そういう「欲動」を生命体である人間がどうして抱くのか、生命は快楽を求めているのではないか、という疑問がすぐに生じてきますね。フロイトによると、生命を持つということは生命を維持するための緊張を常に強いられることです。現代思想的に言い換えると、生命は常に何かを欠如している状態にあります。だから、有機体はその緊張・興奮を限りなくゼロに近づけ、楽になることを目指します。これは、最終的には無に戻ること、すなわち死です。それが「死への欲動」です。人間の中では、この「死への欲動=タナトス」と、生に留まって、快楽を得ようとする「生への欲動=エロス」が常に対立しています。命に関わる強い衝撃を受けた時、その時の記憶が反復的にフラッシュバックしてくるのは、「死への欲動」の働きだとされます。
 ドゥルーズガタリは、「死への欲動」のようなまとまった欲動があって、それが「生への欲動」と鬩ぎ合うことでバランスが取れている、という見方をするのではなく、元々バラバラの運動をしていただろう諸「機械」が、私たちという統一体の中の各器官に割り振られ、部分対象=部品としての決まった役割を担い続けることに無理があって、もう一度バラバラになろうとする傾向が私たちの体を構成する機械たちにある、という見方をしているわけです。「身体」を、各器官が有機的に統合された一つの生命体と見れば、母の子宮から外に「生まれる」ということは、新生であり解放ですが、諸「機械」の連合体と見れば、身体だという堅い檻の中の独房に閉じ込められるようなものです。
仲正昌樹ドゥルーズガタリ<アンチ・オイディプス>入門講義』)

二つ目の引用を参照すれば、死の欲動(享楽)とは、なかば力ずくで成立させられている象徴秩序が瓦解する傾向であると理解できる。元来バラバラの断片である出来事(現実的なもの)が、系譜(父の名)と経験(予測誤差の体系)による出来合いの象徴秩序による歯止めを突き破ろうとする力。象徴秩序の不完全さのあらわれとしての死の欲動

 上の内容について、一年後の記事では「この場合の「系譜(父の名)」とは「経験」が最大公約数的に社会化されたものであると考えればいい(その最たるものとして「言語」がある)。」と補足している。このあたりのまとめはなかなかいいな。明瞭だ。

 今日づけの記事もここまで書いたところで授業準備。日語会話(三)の第31課の教案を詰める。17時になったところで中断。第五食堂で打包。食後は仮眠をとらずそのままデスクに向かう。日記用のテキストファイルに残されている古いメモ書きになんとなく目を通していたら、京都にいたころ、(…)がこしらえたビートにあわせて作った(…)さんをディスりまくるリリックが出てきたので、YouTubeにある適当なビートにあわせて歌いながらゲラゲラ笑った。
 二年生の(…)さんから微信。ステージの写真。ギターサークルのイベントらしい。19時からはじまるというメッセージ付きだったが、ここで返信すると、いまから会場まで来てくださいという話になりかねないので、いったん無視。シャワーを浴びる。ストレッチをし、コーヒーを淹れ、「実弾(仮)」第四稿執筆。19時半から23時まで。引き続きシーン24。会話を加筆する。かなり良い感じになってきた。ここは作中最長シーンにする。
 作業の途中、麻痺ってきたタイミングで(…)さんに微信。前回彼女と瑞幸咖啡でだべったとき、サークルのイベント準備でたいそう忙しいと聞いていたが、当のイベント自体は7月にあると言っていなかったか? だから準備をするだけしてイベントそのものには(そのころにはインターンシップで日本にいるので)参加できないという話ではなかったかと思ったのだが、そうではなかったらしい、たぶん彼女は4月(しがつ)と言おうとしたもののあやまって7月(しちがつ)と言ってしまったのだろう。(…)さんはダンスサークルに所属しているらしい女子らがステージでセクシーなダンスをする動画をこちらに送った。「これ、先生大好き」というので「これから毎日10回ずつこの動画を見ます!」と返信すると「先生は変態です」とのこと。
 懸垂。プロテインを飲み、トースト二枚を食し、ジャンプ+の更新をチェック。歯磨きをすませ、0時半から2時半まで『本気で学ぶ中国語』。その後ベッドに移動し、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進めて就寝。