20230425

 このことに関しては、桑子敏雄(一九五一— )が極めて示唆的な議論を展開している。桑子はまず、現代の恵子としてトマス・ネーゲル(一九三七— )を召喚する。

 こうしてネーゲルであれば、荘周に対しては、われわれは魚の感覚器官とはまったく異なった器官によって体験をもつわけだから、われわれのもつ体験から想像する以外には、魚の楽しみを知ることはできない、ということになるであろう。つまり、魚にとって、魚であることがどんなことか、魚が楽しみをもつということがどんなことかを知ることはできない。荘周に魚の楽しみが分かるとすれば、それはせいぜい、魚になったとしたら、どんな楽しみをもつだろうか、ということが荘周に想像できるということなのである。
(桑子敏雄「魚の楽しみを知ること──荘子分析哲学」、『比較思想研究』二二号、二二頁)

これに対して、現代の荘子としての桑子敏雄は、次のように反論する。少し長くなるが重要な議論なので省略せずに引用する。

 では、荘周ならば、ネーゲルの反論に対してどのように答えるだろうか。荘周が魚の楽しみが分かるといったことの真意はどこにあるのだろうか。重要な点は、荘周が濠水のほとりで、そこに泳いでいる魚の楽しみを知ったということであって、魚の心理についての普遍的な知識を得たということではない。荘周の最後のことばの重要性は、そのことを意味している。荘周の認識は、特定の時空の中におかれた身体、その身体に対して一定の関係にある魚との配置の関係を示す。この配置の関係の成立は、まさに濠水のほとりでなければならない。恵施は、「すべての人間とすべての魚の間に気持ちが分かるという関係は成立しない」という普遍的な命題から、「荘周には魚の気持ちは分からない」ということを帰結として導いている。これに対して荘周は、そうした普遍的な命題から魚の気持ちが分かるかどうか、ということを導くことはできないといっているのである。濠水のほとりで知ったということのもつ重要性は、魚の楽しみを知るということが、身体配置をもった体験の中で行われるということを意味している。荘周の反論は具体的事例を普遍命題への反例として挙げているということではない。むしろ、そうした普遍的な知の枠組みで「知る」ということを考えることそれ自体を批判しているのである。
 荘周は魚と環境を共有している。荘周の身体は環境のうちで配置をもっている。濠水のほとりで川を見、魚の泳ぐのを眺めている。その荘周の環境のうちに魚は泳いでいるのである。泳ぐことの快さは、けっして心の中だけで起こる体験ではない。この体験は環境の中で生じる。泳ぐことの快さは、泳ぐ者の身体、それを取り囲む環境としての濠水、その身体のうちで生じる心的状態の全体性のうちで生起する。近代的な客観主義は「快さ」といった感情を内的で主観的な体験としてきた。しかし泳ぐことの快さは、快さを感じる主体と快楽をひき起こす外界との関係によってはじめて生じる出来事である。それを心の内的な体験だけに還元することはできない。
 さらに重要なことは、「泳ぐことの快さ」は、泳ぐ主体とその環境との間だけで成立する関係ではないということである。荘周の立ちあっている環境のなかで、他者が泳ぐということが成立するとき、荘周の身体配置のうちで、他者の身体と環境と身体のうちで生じる心的状態の全体性として、「楽しみ」が成立するのである。それは、他者とその環境に立ち会っている荘周の身体配置のうちで生じる他者の楽しみである。その場に立ち会っているということが身体配置をもつということである。
(同、二二─二三頁)

「泳ぐことの快さ」は、「身体配置をもった体験」において生起するものであって、孤立した心的現象ではない。また、ネーゲルのように、「魚の楽しみ」を、人間もしくは自己の「主観的な」楽しみを想像的に変容したものとしての理解に留めてはならない。桑子は、「魚の楽しみ」を「荘周の身体配置のうちで、他者の身体と環境と身体のうちで生じる心的状態の全体性として」捉えようとする。それは、荘子の「身体配置をもった体験」を通じて捉えられる「他者の楽しみ」に他ならない。
 そうであれば、この「魚の楽しみ」が告げていることが、知覚の明証性とは別の事柄であることがわかるだろう。知覚の明証性は、「主観的な」明証性にすぎず、荘子が「魚の楽しみ」を特定の時空の中で生き生きと知覚したことによって、その経験の切実さを証明するものである。ところが、ここで問われているのは、荘子という「主観」もしくは「自己」が前提される以前の事態である。「自己」があらかじめ存在し、それが魚との間に特定の身体配置を構成し、その上で「魚の楽しみ」を明証的に知ったということではない。そうではなく、「魚の楽しみ」というまったく特異な経験が、「わたし」が魚と濠水において出会う状況で成立したのである。この経験は、「わたし」の経験(しかも身体に深く根差した経験)でありながら、同時に「わたし」をはみ出す経験である(なぜなら「わたし」にとってはまったく受動的な経験であるからである)。
 こうした経験が「わたし」に生じるか生じないかは、誰にもわからない。桑子は言う。

 わたしがここでいう身体配置の上に立つ認識は、もちろん普遍性を主張するものではない。濠水の上に立っても、魚の楽しみの分からない人間はいくらでもいるし、釣られる魚の苦しみを分からずに、釣りの楽しみにふける人間のほうがはるかに多いのである。かといってこの認識は、魚の認識の不可能性を反証する個別的なものとして普遍に対立しているわけではない。
(同、二四頁)

濠水で魚を目にしたとしても、それにまったく触発されずに通り過ぎることはよくあることだし、あるいは魚を、釣ってみたい客体だと思うだけで、「魚の楽しみ」に思いを馳せることなどないかもしれない。したがって、「魚の楽しみ」を経験するというのはまったく特異な事態なのだ。それは「自己」の経験の固有性を確認するのではなく、ある特定の状況において、「他者の楽しみ」としての「魚の楽しみ」に出会ってしまい、出会うことで「わたし」が特異な「わたし」として成立したということである。ここにあるのは根源的な受動性の経験である。「わたし」自体が、「他者の楽しみ」に受動的に触発されて成立したのである。
 別の言い方をすれば、「魚の楽しみ」の経験が示しているのは、「わたし」と魚が濠水において、ある近さ(近傍)の関係に入ったということである。それは、〈今・ここ〉で現前する知覚の能動的な明証性ではなく、その手前で生じる一種の「秘密」である。それは、「わたし」が、泳ぐ魚とともに、「魚の楽しみ」を感じてしまう一つのこの世界に属してしまったという「秘密」である。知覚の明証性は、受動性が垣間見せるこの世界が成立した後にのみ可能となる。
中島隆博荘子の哲学』)



 11時半起床。朝昼兼用で第五食堂の炒面を打包。厨房のおっちゃんが先着していた学生の注文を聞き間違えていたらしく、炒饭を用意しなければならないところ、あやまって方便面を炒めたやつをこしらえてしまい、それがひと皿無駄になってしまっていたようだが、代わりにあれをもらってもよかったかなと思った。けっこう美味そうだったし。
 食す。コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書く。時間になったところで寮を出る。今日は暑くもなく寒くもなく、さらに雨降りでもないという、(…)に住んでいる人間が年に数度しか味わうことのできない、完璧な好天の一日。第五食堂一階の売店でミネラルウォーターを買って外国語学院へ。教室に入るなり、(…)さんから、先生かっこいいね! と言われる。サングラスをかけていたからだ。
 14時半から(…)二年生の日語基礎写作(二)。最初に「食レポ」がまだ終わっていない三人の発表をしてもらう。(…)さん、(…)さん、(…)さんの三人。このなかでは(…)さんが一番かなと予想していたのだが、思っていた以上にうーんという感じだった。発音もよくないし、PPTに表示されている文章も間違いだらけだし、漢字の読みもかなりあやしい。発表が終わったところで、残り時間を利用して「(…)」。時間が足りないかと思って駆け足で説明したのだが、むしろ時間があまった、もっとゆっくりやってよかった。
 休憩時間中は男子学生らとまったり雑談。連休中は彼女と旅行に出かけると以前言っていた(…)くんであるが、電車の切符を買うことができなかったので、計画が流れたという。コロナ明けということもあり、この連休中にあちこち旅行する中国人は多そうだ。しかしぼちぼち二度目の感染をする人間も増えてくる頃合いだろう。この連休が案外きっかけになるかもしれない。中国人は昼寝の習慣がみんなあるよねという話にもなる。小学生のときは昼休憩のたびにいったんうちにもどる、そこでメシを食うだけではなく昼寝もする、さらにちゃんと昼寝をしたかどうか親がプリントにサインする必要もあるというので、そこまで重視されているのかと驚いた(しかし学生も社会人もみんな昼寝するというのはかなり良い習慣だと思う)。話を聞いていた(…)さんが、大連ではそうでなかったと途中で割り込んできた。大連では日本の小学校とほぼ同じ。つまり、昼食後は長い休み時間があり、そのあいだ子どもたちは外で遊ぶとのこと。その(…)さんとは金曜日にメシを食いにいく約束になっているわけだが、ひとつすばらしいニュースをきいた。ほかでもないその金曜日に万达でセブンイレブンが開店するらしい。以前(…)先生から近々友阿にセブンイレブンが開店すると聞かされたわけだが、そっちの店舗はすでに営業を開始しているとのこと。金曜日は食後セブンイレブンで買い物しようと約束した。めちゃくちゃ混雑しているだろうが!
 続けて日語会話(三)。第31課。アクティビティはぼちぼち盛りあがるわけだが、その事前準備として用意しておいた文型の基礎練習があまりに簡単すぎた。この段階でももう少し歯応えのあるものを用意しておいたほうがいい。修正事項として教案用のファイルにメモ。来学期改善する。
 あと、三年生以降の授業はたぶん担当しないということも今日はじめて学生らに伝えた。以前は三年生の授業も四年生の授業も担当していたわけだが、(…)の授業もあるし一年生の前期から会話の授業をするようになったという変更もあるし、おそらく今後は会話と作文の授業専属としてやっていくことになるのだろう。以前(…)先生からそういう話もにおわされたことがあるし。
 寮にもどる。第五食堂で打包する。帰宅して食す。20分ほど仮眠をとるつもりだったが、信じられないことに、目が覚めたら23時半をまわっていた。ひさしぶりにやっちまったなという感じ。しゃあない。シャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年4月25日づけの記事を読み返す。「「実弾(仮)」を書くにあたって、やっぱり(…)時代の日記を読み返したほうがいいのかもしれないなと思った。とんでもない分量になることは間違いないのだが、それでも出勤日だけをピックアップして斜め読みするだけであれば、どうにかなるかもしれない。」というわけで、当時の日記の読み返しをはじめている(「(…)で面接を受けた日は2012年9月15日らしい。なので、ここから日記をざっと読み返していくことにしたい」)。ある意味ではこれがきっかけとなり、10年前の記事の読み返しというあらたな習慣が今年からはじまりを告げたともいえるわけだ。「(…)時代の日記」の読み返しにはたぶん、あと三年くらいはかかると思うのだが、ときどき考える、「実弾(仮)」もあせらずそのスパンで手直しを続ければいいのではないか、三年かけて当時の日記を読み返しながら、まるで盆栽を手入れするような気持ちで、カタカタカタカタゆっくりやっていけばいいのではないか。
 それから、以下のくだり。きのうづけの記事に書いたできごととそっくり。また一年越しのシンクロ。

 荷物を回収後、パン屋で食パン二袋購入。そういえば、往路でこのパン屋付近を通りがかったとき、前からやってきたおばちゃんがまったく遠慮のない大きな歌声でオペラみたいな歌をうたっていたのだが、あの自意識のなさはちょっとすごいと思う。これと近いことかもしれないが、大学に戻ったあと、そのまま印刷屋にいって先ほど自宅で印刷したものを34枚ずつコピーしてもらったのだが、積み重なった日本語のプリントを見た周囲の学生(客)が、こちらの許可も得ずにそのプリントをぺらぺらめくりはじめて、それも一組や二組ではなく店に来る客来る客がそうだったから、これも日本だったら絶対にありえない光景だよなと思った。

 あと、この日の夜は(…)さんになかば呼び出される格好で、彼女の飼い犬である(…)と散歩している。で、そのときに、博士号をとるために日本に渡るという話を聞かされている。
 2013年4月25日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

(…)私には、他の人たちのようにこの世界のわざをなすことができないからには、自分がもはやこの世界の者でないように思われるのだ。そう、私が他の人びとのすることとして見るすべての行為は私をかき乱すのだが、なぜなら、私は彼らと同じようには行為しないし、またこの私自身がかつてやるのをつねとしていたようにも行為しないからである。私は自分が地上のさまざまな事物からすっかり、しかももっとも大きくこの私のものから遠ざかっているのを感じるのだが、そのような私にはたんに眼にしただけでも、それらもろもろのものに堪えられないほどである。そして私はもろもろの事物に対して言うのである、私を歩んでゆくままにさせてほしい、なぜといって、私はおまえのことを心配したり記憶したりしないのだから、おまえは私にとって存在しないにもひとしいのだから、と。私は働くことができない、歩くことができない、立っていることができない、語ることができないのであって、これらすべては私に、無用な、そして世界にとって余計なものののように思われるのだ。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「カテリーナ・ダ・ジェノーヴァ」)

 その後、トースト二枚を食し、ジャンプ+の更新をチェックし、今日づけの記事もここまで書きすすめると、時刻は2時半だった。

 ベッドに移動。たっぷり夕寝してしまったし、どうなるもんかなと思っていたが、スマホで情報収集しながら「実弾(仮)」についてあれこれ考えているうちに眠ってしまった。