20230424

 ところで、「物化」において、まずはそれぞれの境遇(「これ」)において絶対的に自足するべきだと言った場合、一見すると、それは自同者(自己に同一の同じもの)の閉域を形成するように見える。それがなぜ、他の物になり、別の世界(「あれ」)を構成しうるのだろうか。今までの議論を振り返りながら説明してみたい。
 超越論的原理としての「道」が基礎づける意味の宇宙に、「物化」という変容は穴を穿っていった。それは、「このわたし」が「このわたし」のままでありながら、しかし全く別の他の物になることで、本質の同一性が崩されるからである。しかも、万物流転を超越的な視点から見るという従来の「斉同」観においては、「物化」は「この世界」における諸アバター(変身)でしかなかったのに対し、「物化」の中に「このわたし」だけでなく「この世界」までもが変容するラディカルな可能性を見るとすると、超越論的原理としての「道」そのものが変化するとまで言えるだろう。
 しかし、それはそうだとしても、変容した他の物において、「このわたし」と「この世界」が新たに編成される以上、それは、他者と他の世界には結局のところ開かれておらず、内容を変えただけの自同者の閉域にすぎないのではないか。
 この問いを考えるために、『荘子』における他者問題についてここでは論じていく。それは、「物化」の考えをより深く理解させてくれることだろう。その手掛かりとして、『荘子』秋水篇の最後にある「魚の楽しみ」をめぐる恵子と荘子との論争を取り上げよう。わずか一〇〇字余りの断片ではあるが、本書の冒頭で触れた湯川秀樹もまた、この問題に関心を持っていた。この論争は、遥か遠く近代的な知の限界にまで響いているのである。
中島隆博荘子の哲学』)



 11時過ぎに起床。一年生の(…)くんから明日17時から一緒にメシを食わないかという誘い。(…)くんも一緒にというのだが、明日は18時過ぎまで授業があるので、これは断る。(…)くんからも微信。院試の匿名審査の結果が出た、と。無事合格したらしい。しかも審査員ふたりの評価のうち、ひとりは優がついていたというので、一流大学の修士論文であるにもかかわらずあのクオリティでそれなりの評価がもらえるのかとちょっと驚いた。これで(…)くんは晴れて就職。しかし結局彼から報酬をもらっていない。たぶん支払うという申し出を彼自身忘れているのだろう。ワシの1000元……。
 第三食堂へ。プリペイドカードに300元チャージして、海老のハンバーガーと牛肉のハンバーガーを打包。今日もやっぱり寒い。コートが必要。しかし予報によると、明日以降ふたたび20度以上の日々になるようだ。帰宅して食す。コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。2022年4月24日づけの記事を読み返し、2013年4月24日づけの記事も読み返して、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

 神のためにある、あるいは神のなかにあるというような愛は私の求めるものではない。こうした《ため》という言葉、《なか》という言葉を私は観ることができない。というのも、それらは私と神のあいだにあるようなひとつのものを暗示しているからである。このようなものをしかし純粋で澄んだ愛は堪えることができない。そしてこの愛の純粋と澄明は神自身のように偉大であるので、神の所有するものとなりえない。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「カテリーナ・ダ・ジェノーヴァ」)

 それから今日づけの記事もここまで書くと、時刻は14時半だった。

 授業準備。明日の日語基礎写作(二)と日語会話(三)で使用する資料を詰めて印刷。すんだところで、ずいぶんひさしぶりになるが、フローリングに掃除機をかける。大量のほこり。ひどい。よくこんなになるまで放っておいたなと思う。掃除はどうしても好きになれない。炊事も洗濯もさして面倒とは思わないのだが、掃除だけはどうしたって面倒だ。数ヶ月に一度、大掃除をするだけであれば、別にそれほど問題ない。でも三日に一度、あるいは一週間に一度、必ず部屋の掃除をしろと言われたら、ふざけんなとなる。リゾートでメイクとしてピンチヒッターで仕事するのはけっこう好きだったが。
 第五食堂近くの文具屋へ。シャンプー、歯磨き粉、ゴミ袋、シャーペンを買う。そのまま食堂でメシを打包。帰路、白いヘッドホンを装着した女子がひとり前からやってきたが、こちらの姿に気づいてるにもかかわらず遠慮のない笑顔を満面に浮かべ、ダンスでもするみたいに手をおおきくふりながら歩き、ついにはスキップをしながらこちらのかたわらを通りすぎていく、そのようすをながめながら、すごいな、あんなふうに自意識が消し飛ぶほどの多幸感に(シラフのまま)包まれることが今後の人生でいったい何度あるのかな、あれこそ若さの特権だよなと思った。いや、そうでもないか。バス乗車中のビート博士だって、言ってみれば、あの少女とおなじということになるのか。だったらじぶんが今後、あんなふうに多幸的かつ痴呆的にふるまうようになる可能性も、いちおうなくはないわけか?
 帰宅して食す。モーメンツにはや二ヶ月ほど投稿していないことに気づき(学生らと最低でも一ヶ月に一度は投稿すると約束したにもかかわらず!)、だったらひさしぶりにクソコラでもこしらえるかというわけで、きのう学生らに教えてもらった泰裤辣の男性歌手の顔にじぶんの顔をGIMPで合成し、「みなさん、泰裤辣ですか? ぼくは泰裤辣です」という文言とともに投稿しておいた。のちほどチェックしていたら、100件以上いいねがついていて、卒業生の手紙をのせたときより多いやねえかと思った。しかし、(…)の老板までいいねしていたのには笑った。これはネタになる。明日の授業で紹介しよう。

 ベッドに移動してThe Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。"Mr and Mrs Dove”読了する。Anneに求婚を断られたReginaldがその場を去ろうとするも、後味の悪い別れ方をしたくないAnneから執拗に呼びかけられて、最後の最後で結局ふたたび彼女のもとにもどるというクライマックスの展開だけですばらしい。普通はそんなふうな展開にしない(フラれたReginaldはその場を立ち去り、ふたりはまさに後味の悪い別れ方をすることになるだろう)。しかしこの展開を目にすると、このReginaldという人物を造形するほかのどのような要素よりも、最後のこのシーンが彼の性格や性質を雄弁に物語っているように感じられる。
 仮眠はとらない。シャワーを浴び、ストレッチをし、21時から0時過ぎまで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン24の続き。やっぱり集中力が散漫になる。このシーンにもう飽きている。
 腹筋。プロテインを飲み、トーストを食し、歯磨きをすませ、1時半には寝床に移動する。The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読んで就寝。