20230427

 では、ドゥルーズにとって、他なるものへ生成変化するとはいかなる事態であったのだろうか。それは、他なるものを模倣することではない。他なるものになることは、自分自身でありながら、しかしその構成を分子のレベルから変えることなのだ。

俳優のデ・ニーロはある映画の一場面でカニの「ような」歩き方をしてみせる。しかし、当人の説明によると、これはカニの模倣ではない。映像と、あるいは映像の速度と、カニにかかわる〈何か〉を組み合わせようというのである。そしてわれわれにとって重要な点はここにある。つまり人間が動物に〈なる〉のは、なんらかの手段と要素を使って、動物の微粒子に特有の運動と静止の関係に組み込まれるような微小粒子を放出する場合にかぎられる、あるいは、これも結局は同じことになるが、動物的分子の近傍域に組み込まれるような微小粒子を放出する場合にかぎられるということだ。動物に〈なる〉ためには自分自身も分子になるしかない。いかにも犬らしく吠えるモル状の犬になるのではない。そうではなく、犬のように吠えながら、もし十分な熱意と必然性と構成があれば、そのときは分子状の犬を放出することができるのだ。人間は、自分の属するモル状の種をとりかえるようにして狼になるのではないし、吸血鬼になるのでもない。そうではなく、吸血鬼や狼人間は人間の生成変化である。つまり複数の分子を組み合わせた場合、その分子のあいだにあらわれる近傍の状態であり、放出された微粒子間の運動と静止、速さと遅さの関係である。……(中略)……
 そう、あらゆる生成変化は分子状なのだ。われわれは動物や花や岩石になるが、こういった事象は分子状の集合体であり、〈此性〉であって、われわれ人間の外部で認識され、経験や知識や習慣を動員してはじめてそれと知れるようなモル状の主体や客体ではないのだ。
(同、二三八─二四〇頁)

ここではさきほど述べた『荘子』の想像力が、よりわかりやすい表現で示されている。動物や花や岩になることは、実体レベルでの「モル状の種をとりかえる」のではなく、「分子状」の動物や花や岩に構成を変化させることなのだ。「放出された微粒子間の運動と静止、速さと遅さの関係である」以上、それは微分の次元、もしくは加速度の次元に身を置いて、変化させることだと言ってもよいだろう。
 だが、ドゥルーズは、それには「なんらかの手段と要素」や、「十分な熱意と必然性と構成」が必要であると言う。デ・ニーロの場合は、それは俳優の卓越した技術であることだろう。では、中国人はどうだろうか。ドゥルーズはすでに、壁を通り抜けることのできる中国人についても、そうした「技術=芸術」を認めていた。すなわち、それは「線」の「技術=芸術」である。動物になり、知覚しえぬものになるという、他なるものになることは線によってなのだ。ここで問われているのは、次のような線である。

フランソワ・チャンが明らかにしたところによると、文人画家は相似を追求するのではないし、「幾何学的比例配分」を計算しているわけでもない。文人画家は自然の本質をなす線や運動だけをとりあげて、これを抽出し、ただひたすら「描線」を延長し、重ね合わせていくのだ。ありふれたものになり、〈みんな〉を生成変化に変えるなら、世界の様相を呈し、一個の世界、複数の世界を作ることになるというのは、こうした意味においてである。つまり近傍域を見出し、識別不可能性のゾーンを見出そうというのだ。抽象機械としてのコスモス、そしてこれを実現する具体的なアレンジメントとしての個々の世界。他の線につながって延長され、他の線と結び合うような、一つ、あるいは複数の抽象線へと自分を切り詰めていき、ついには無媒介に、直接的に一つの世界を産み出すこと。そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる。
(同、二五一頁)

線とはつまり、微分の次元を走る、抽象線である。これは、節約するものとしての抽象線であって、まさに「自分を切り詰める」ものである。そして、それはabstractiōの原義を響かせて、引き出すとともに、盗み取ることなのだ。わたしたちは、この抽象線になることで、ようやく、動物にもなり、花にも岩にもなる。ここに来てわかることは、ドゥルーズは、線の「技術=芸術」を有する者を「中国人」と呼んでいたのである。
 この引用箇所にはもう一つ重要なことが述べられている。つまり、他なるものへの生成変化は、単独の現象ではない、ということだ。ドゥルーズは、「わたし」が他なるものに化すことは、同時に、その他なるものがさらに別のものに化すことだと強調していた。

画家や音楽家は動物を模倣するのではない。画家や音楽家が動物に〈なる〉と同時に、動物のほうも、大自然との協調がきわまったところで、自分がなりたいものに〈なる〉のだ。生成変化は常に二つを対にしておこなわれるということ、そして〈なる〉対象も〈なる〉当人と同様に生成変化をとげるということ。これこそ、本質的に流動的で、決して平衡に達することのないブロックをなす要因なのである。
(同、三五〇頁)

「生成変化」において、一つの近傍(近さ)が変化すると、他の近傍(近さ)もまた独立に変化する。そして、その結果、さきほどの引用にあったように、この世界そのものが深く変容するのである。「そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる」。
 こうしたドゥルーズ的な「生成変化」は、荘子の「物化」と見事に照応している。どちらもが、他なるものへの変化によって、この世界の根底的な変容を究極的にイメージしているのである。
中島隆博荘子の哲学』)



 10時ごろ起床。歯磨きをちゃちゃっとすませて第五食堂へ。打包して食す。食後のコーヒー(豆を切らしてしまっているので、おとついの夜から全然うまくないインスタントコーヒーを飲んでいる)を飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。作業中は『Tracks』(空間現代)と『Bringlife the Movie Vol.1 〜Return to Ofuna〜』(bringlife)を流す。どちらの新譜もマジでクソカッコいい。一週間くらいはこの二枚を交互に流し続けるだけで十分だと思う。マジでいい。
 きのうづけの記事にひとつ書き忘れていたのだが、帰国のことを考えると、というのは要するに必要な手続きだったり慣れない旅路であったりのことだが、ちょっとそわそわする。そしてなにより、めんどうくさい。もう夏のあいだはこっちで過ごして、帰国は冬休みだけでもいいんではないかと思うことすらあるのだが、(…)の寿命のことを考えると、さすがにそういうわけにもいかないか。根本的に出不精であるし、腰もフットワークも重いし、環境を変えるのにも強い抵抗をおぼえるし、(生の)時間割が乱されることに多大なストレスをおぼえるし、とどのつまり、とにかく動きたくない人間であるのがじぶんで、これと決めた場所で、これと決めた時間割に即して、これと決めたことだけをずっとやっていたい——そういうかたちの欲望を有しているという自覚はずっと以前からある。にもかかわらず、人生をふりかえってみるに(それはつまり、日々、日記を読み返すということであるが)、全然不動を保つことができていない、わりとあちこちせわしなく動いているという印象も(大きめのスパンで見れば)やはり受ける。でもそれは見方の問題であり、読み書きを中心にする生活というコアを維持するべく(不動の一点)、そのほかのどうでもよろしい周縁(住所および職業など)を動かしているということでしかない。(…)さんと話すたびに、(…)くんはほんとブレないよね、といわれるが、ブレないというよりとにかく動きたくない、別の言い方をすれば、予測誤差による怪我をしたくない、完成された象徴秩序のなかに身を置きたい、退屈に耽溺し、無時間のぬるま湯の中にいたい、そういうことになるのかもしれない。もちろん、老い続けて壊れ続けるこの身体が、うつろい続ける外部環境(世界)が、一見すると準安定状態にあるようにみえるわたしの下部構造をなしているかぎり、そんな夢はかなわないわけだが。
 あと、「実弾(仮)」のことを考えている最中、やっぱり短編作家になりたいなと思った。長いのを書くのはめんどうくさいわ、やっぱり。次々と到来するアイディアが山積みになって、逆にあたまのなかの風通しが悪くなっていく感じがして、それがなかなかうっとうしい。アイディアというものは思い浮かんだそばから使う、そういうテンポの良さでやっていくためには、やっぱり短編作家になるのがいちばんだと思う。オコナーもマンスフィールド梶井基次郎も基本的には短編作家であるし、ムージルも『特性のない男』より『三人の女』のほうが好きだし、ジョイスも『ユリシーズ』や『若い芸術家の肖像』は一度しか読んでいないが、Dublinersなんて翻訳でも原文でも二度か三度ずつは読んでいる。しかもいまは電子書籍があるから、「短編集」ではなく「短編」としてひとつずつパッケージングしてリリースすることができる。長編はもう「実弾(仮)」で最後にして、残りの人生は二ヶ月か三ヶ月ごとに短編をひとつずつリリースする、そういうふうにして生きていきたい。Monthly Hair Stylisticsみたいな感じでガンガンパッケージングしてガンガンリリースしまくるのだ。
 時間になったところで部屋を出る。厚手のヒートテックにナイロンジャケットでちょうどいい好天。南門のそばにケッタを停めておき、体育館前のバス停へ。今日はビート博士より先にバス停に到着。33番のバスが到着したところで乗り込み、最後尾の座席を陣取る。The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進める。復路もふくめて、"The Young Girl"と"Life of Ma Parker"を読み終わる。Kindleの辞書機能、単語であればまあ問題ないのだが、idiomとなるとほぼどうしようもなく、適当にあたりをつけてググるしかないわけだが、ググるその一手間が(VPNを噛ませる必要もあり)なかなか邪魔くさい。その一手間を無駄にしないためにも、せめてググったidiomだけは(洋書を読みはじめた当初そうしていたように)日記のほうにも記録しておくことにした。こうすれば、(1)ググったとき(2)日記に書いたとき(3)日記を投稿する直前チェックするときの三度にわたってそのidiomの意味を確認することができるし、一年後の読み返しの際にも復習できる。今日はwhat with one thing and anotherという表現を知った。「いろんな事があったので、あれやこれやで、何やかやで、何だかんだで」という意味。「幾つかの理由があるが、その全てについて説明できない時に用いられる表現」とのこと。でも英語圏での説明だと“You say what with one thing and another when you want to explain that the reason you have failed to do something is because you have been very busy:”と微妙に違う感じ。まあええわ、なんでも。だいたいでええねん。
 ビート博士、今日は絶好調やった。バスに乗る前からスマホで音楽を鳴らしていたし、今日の車内はいつもにくらべるとかなり静かだったのだが、その静けさにもまったく遠慮するようすなく、なんだったらいつもよりややボリューム大きめで音楽を鳴らしていたし、スマホを握った手で座席に座ったみずからの腿のあたりを打ってリズムとるその手の動きもかなりでかかった。つい先日の日記で、女子学生が自意識など遠くおよばない多幸感をまといながらスキップするようすを描写して、ビート博士も彼女とおなじなのかもしれないと書いたが、いや、やっぱおなじと言いたくないな。おなじなのかもしれない、論理的にみればたしかにそう、構造的に評価してもやっぱりそう、でもだからといっておなじとは言いたくねーなーおれは! 目にも耳にもやさしくねーんだよ、ビート博士はよ! あと、今日のバスは過去一で通話時の声のでかいおっさんや、たぶんワキガなんだろうがものすごく鉛筆臭いおっさんが途中乗車して、なかなかちょっとしんどかった。ワキガのにおいを嗅ぐたびに、中上健次のどの小説だったか忘れてしまったが、ワキガの女と性交するのも乙なものだみたいな一節があったのを思いだす。
 終点でおりる。売店でミネラルウォーターを買う。お姉さん、今日は日本語で話しかけてこなかった。教室へ。先着していた(…)くんが足元に置いた段ボールを指差してみせるのでのぞきこむと、おどろいたことに、白い子犬が入っている。生後まだ半年にもなっていないだろうか。かなり小さい。縦にした段ボールの底でほとんどぎゅうぎゅう詰め状態になりながら居眠りしている。周囲の女子学生らも寄ってくる。どうしたのかとたずねると、さっき一階で拾ったという。野良犬かどうかわからない。あたまに怪我しているという。見ると、たしかにあたまの一部の毛がハゲており、真っ赤な皮膚がのぞいている。どうするの? 寮では飼えないでしょ? とたずねると、みんなで世話をするという返事(ちなみにこうしたやりとりはすべてスマホの翻訳アプリを介して行われている)。しかし最終的にはクラスメイトの女子ひとりが引き取ることに決めたようだ。中国語のやりとりに耳をかたむけていただけなのでちょっとあやしいが、どうもその子の地元は(…)らしい。であるからこの連休を利用してか、あるいは今日の授業後すぐかわからないが、実家のほうに連れていって世話をすると決めた模様(のちほどウェットティッシュみたいなもので犬の毛を丁寧にふいてやっている動画を(…)さんがモーメンツに投稿していた、どうも彼女が実家に連れていくことに決めたらしかった)。

 14時半から(…)一年生の日語会話(二)。第18課。挙手制のゲームはいまひとつ盛りあがりにくいという反省が(…)の授業で得られていたので、アクティビティの内容は変更。けっこう盛りあがった。あらかじめ用意しておいた「生き物」の名前を各グループに与えたうえで、グループ間でおたがいに「〜できますか」と質問させる、そしてその質問に対する返事をヒントにして他のグループの「生き物」がなんであるかを推理させるという簡単なゲームであるのだが、この手のゲームではたびたびやるように、「生き物」のなかに動物の名前だけではなくこちらの名前もまぜておいた、さらに(…)くんの名前もまぜておいたのだが、これがなかなか好感触だった、ネタバラシの瞬間、ちょっとこれまでになかったような爆笑の渦が巻き起こった((…)くんも満更でないようす)。連休中の予定について、一部の男子学生は湖北省に旅行に行くという話を先週の時点ですでに聞いていたのだが、具体的には(…)くんと(…)くんのふたりだけで行くらしい。あ、このふたりはコンビなんだな、とちょっと意外に思った。旅程は三日間。
 授業を終える。バスに乗る。移動中は書見。祖母らしき女性に連れられた小さな男の子が窓の外をながめながら、目に見えるものをひとつずつ言葉にしていく、その舌足らずな中国語がほんとうにかわいい。バスの車内でやかましくかまびすしくやりとりするおばちゃんらの中国語にはいまだに辟易する瞬間もあるが、幼児の口にする中国語の響きは本当にかわいらしいといつも思う。四声がもたらす抑揚のおかげだろう。二年生の(…)さんから明日は正午に第三食堂前で集合しましょうとの連絡。了解。

 体育館前でおりる。(…)楼の快递でコーヒー豆を回収する。寮の前でスクーターに乗った(…)とすれちがう。帰宅してひととき休憩したのち、17時をまわったところで第五食堂に向かうためにふたたび部屋を出る。一階でスクーターを停めている(…)にふたたび遭遇する。そばには(…)もいる。白のTシャツの上にNO IDのクソ派手なナイロンジャケットをはおっていたのだが、それについてbrightですごくいいじゃないかと(…)がいうので、psychedelicでしょうと応じてにやりと笑う((…)はLSD大麻が大好物なのだ)。
 打包して食す。2022年4月27日づけの記事を読み返す。この日も「実弾(仮)」の資料収集のために過去日記を読み返している。以下は2013年1月15日づけの記事。

それで(…)さんと他にもちょろちょろっとしたことを話したりしたのだけれど、その過程で(…)さんの奥さんが東野圭吾だかの小説を読んでつまらないと騒ぎ出した、どうしてだとたずねるとこのひとには社会経験がない、社会を知らないから書くものが退屈なのだと言い出したというエピソードが紹介され、だから(…)くんもある程度は社会との接点を持っていたほうがいいと思うよ、やっぱり読者ってのは大半が勤め人であるのだし勤め人である読書の心に響くのはやっぱり社会を知っているひとの書いた小説だと思うよという話があったのだけれど、そもそもじぶんには別段ひとの心を打ちたいという欲望がないし遊んで暮らせる金さえあるなら別に一生作品を発表などしなくてもよいとわりと本気で考えている。それに社会経験と創作を結びつけるごくごく一般論的なこの手の論理にはいくつもの誤謬があって、ひとつはそもそも小説イコールじぶんの社会経験をそのまま表現するものではないという点で、これは要するに小説というものを作家の主張をがなりたてるための道具やメッセージを媒介する手段すなわち「意味」の箱みたいなものととらえる小説観のちまたにおけるしぶとい残存にほかならないわけだけれど、形式と技術の更新と開発と洗練に興味があるじぶんのような趣味嗜好を持つ人間の書くものは彼らのいう意味におけるその社会的経験とやらと直接的にかかわることはほとんどない、芸術ってのはつきつめていえば美術にしろ音楽にしろ文学にしろフォルムの問題に帰するものだ。それにそもそも彼らのいう社会経験とはいったい何を指し示す概念であるのかという疑問があって、ここからが第二の誤謬にたいする指摘になるわけだけれど、たとえば無職で毎日だらだら過ごしているのらくら者や自室の扉を閉ざして交通を遮断するひきこもりは彼らなりの社会を生きているのではないか、それらもやはりまた社会の一端ではないのかという違和感がじぶんにはあり、要するに「一般社会」に出たことがないから教師や公務員には非常識な人間が多いとする典型的なバッシングがはらみもつ愚かしさと同じ構図にたいする疑義をここで表明しているわけだけれど、それじゃあ学校は、教室は、職員室は社会ではないのか、あるいは病室は、手術室は、診察室は、学会発表の場は社会ではないのかと、そう言いたくなる気持ちがこの手の論理に出くわすたびにじぶんにはむらむらとわいてくるのであり、「一般社会」に所属する身であると自称する者たちだって結局はそれぞれが固有の社会に属しているだけなのであって一般社会などというものは実在しない、そんなものは幻想にすぎない、彼らが世間や一般社会を持ち出して何かを語るときそれはイコール彼ら自身の意見にすぎない、彼らはただ世間や社会という大義の威容を借りたいだけである、掲げた看板の巨大さの陰に隠れたいだけであるという太宰治が数十年前にとっくに指摘していた論法のとおりに愚かしくも彼らはふるまい、そしてそのふるまいにいっさいの疑念を抱かない事実がじぶんにはおそろしくてたまらない。多数決制のもたらした弊害の端的な一例がここに結実している。さまざまな職を転々としてきたひとの体験も、たったひとつの職場で一生を過ごしたひとの体験も、そのはらみもつ豊かさはまったく同値であるというかむしろここでは原理的に構造的に平等であると表現したほうがいいのかもしれないけれど、たとえば知れば知るほど豊かになるとはかぎらず無知であるがゆえにこそ可能な豊かさというものがあることをわれわれは子供の描く絵を介して何度も確認している。カスパー・ハウザーを経由して発見された認識の不思議は彼の非社会的どころか非人間的な長年の体験がうみだした残酷な結晶であるし、ヘンリー・ダーガーのつくりだす独創的なコラージュにおける男性器をもった少女という実に印象的なキャラクターにしたところでそれは生涯女性の裸体を目にしたことがなかった彼の貧しさ=豊かさに由来している。だからたとえば本ばかり読んでいては人間が貧しくなる、実生活においてなまの人間に触れなければならない、と頭の悪そうな一般論を頭の悪そうなドヤ顔で語ってみせる連中もやはり大いなる誤謬を犯しているのであり、体験という共通単位に還元した果てにおいては読書も労働も研究もセックスも制作も犯罪も家庭の営みもひきこもりの徹底もこれすべてみな有無をいわせず原理的に等しいものであるし、豊かさと貧しさは数量的なバラエティに依存するものではない。だいたい知れば知るほど、得れば得るほど、見れば見るほど豊かになるというその考え方というのはいかにも悪しき資本主義にふさわしいのではないか。無知と切断とによって生み出される数々の歪曲、奇形、偏見、不完全さにこそ、むしろ魂は宿るのだ。

 2013年4月27日づけの記事も読み返して、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

 人間は誇りを学ばねばならないが、誇らしくあってはいけない。怒りを知らねばならないが、怒ってはいけない。人間はあらゆる歓びをもって苦行することができる。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「ハシド派の人びとについて」)

 それから今日づけの記事も途中まで書いて入浴。あがってストレッチ。21時から23時まで『本気で学ぶ中国語』。第17課を終える。懸垂し、プロテインを飲んでトースト二枚を食し、歯磨きをすませたのちベッドに移動し、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。"Marriage à la Mode”を読み終わる。この短編もやっぱり何度読んでもいいな。すばらしいと思う。妻が夫からのラブレターに一瞬だけ気持ちが揺れるところのリアリティがすごい、あそこがあるから単なる寝取られ話にならない。読んでいて、そこにさしかかると、ああ……とため息をつくしかなくなる。Saul Bellowの“Seize the Day”の終盤なんかもそうだが、ひとの気持ちがすみわたる一瞬みたいなものを書きとめることができたら、こういうタイプの小説としては少なくとも勝ちだなと思う。