20230428

 この自由の意味を明白にするために、大宗師篇から最後にもう一つだけ引用しておこう。

 顔回が仲尼(孔子)に尋ねた。「孟孫才は母が死んだ時、泣く仕草はするが涙を流さず、心から悼まず、喪に服しているのに悲しみもしません。こうした三つを欠いているのに、立派な喪であるとして、魯国に名が知られています。もともと、その実がないのに、名を得ているのではないでしょうか。わたしにはどうにも不思議なのです」。
 仲尼が言う。「孟孫氏はそれを尽くしているのだ。知においてより進んでいる。世の人は、簡単に行おうとしてもできないが、彼は簡単に行っている。孟孫氏は生まれるゆえんや死ぬゆえんを知らないし、先に就くのか後に就くのかも知らない。化にしたがって物となり、その知ることのない化を待っているだけなのだ。まさに化そうとする時には、化さないことはわからないし、化していない時には、すでに化したことはわからない。わたしと君は、夢からまだ覚めていないのだ」。
(『荘子』大宗師篇)

中国思想の中で、服喪は重大な争点であり続けてきた。とりわけ儒家にとってはそうであった。ところが、ここでは、孔子顔回を登場させて、悲しみの感情と真誠さを欠いた、孟孫才の服喪を称揚している。孟孫才がなぜ立派であるのかといえば、「生まれるゆえんや死ぬゆえんを知らない」ために、「知ることのない化を待っているだけ」であるからだ。
 ここにあるのは、死を事物のプロセスとして理知的に捉えることでも、すべてをわきまえた上で従容として死に臨むような立派さでもない。孟孫才が示しているのは、能動性に転化することのない極度の受動性なのだ。それは未来を先取りすることなく、未来を不知のままに待つというあり方である。そして、それは過去のゆえんを知ることなく、過去を不知のままにとどめるというあり方である。
 これは一方で、理知的な出来事の把握への抵抗である。「この時」の意味を「クロノス」としての過去と未来に結び付けることで把握してはならない。ここにあるのは意味付けからの解放としての自由である。しかしながら、これは他方で、道徳を欠いた自由である。というのも、未聞の未来へ開かれているとはいえ、過去において生じてしまった、その限りではもはや消すことのできない出来事の過去性を切り捨てることで、過去への責任という契機がまったくないからである。『荘子』においては、暴力(連れ去られた麗姫や、死)に対してそれを反問する道徳的な場面はない。
 過去と未来の非対称性を考えるとき、『荘子』の想定する自由は、あくまでも未聞の未来に到来する出来事に開かれたものであって、過去に生じた出来事に対しては背を向けたものだ。だからこそ、胡適と馮友蘭の相異なる二つの解釈が同時に可能だったのである。つまり、現状を肯定するだけの「達観主義」と、ある種の知を具えた「人間の自由」の称揚という解釈である。
 これはおそらく、『荘子』の毒であり、「物化」の思想の限界であることだろう。それは、過去の時である「あの時」を扱うことのできない、「この時」の思想だからだ。それを道徳なき自由と呼ぶことができるだろう。とはいえ、「物化」の思想は、到来する未来の出来事に自らを開き、「この世界」の変容に賭けるものでもある。それをドゥルーズが、スピノザを通じて、「喜びの倫理」と呼んでいたことを思い出そう。そうすると、『荘子』において問われているのは、過去の出来事に対する悲しみの道徳を退け、未来の出来事に対する「喜びの倫理」に向かう自由ということになる。
中島隆博荘子の哲学』)



 アラームは10時に設定してあったのだが、それよりはやく目が覚めた。最近そういうことが多い、というかほとんど毎日のようにアラームよりはやく目が覚める、それも7時間未満の睡眠でそうなるので、これが老化ってやつなのかもしれん。小便も近くなった。
 歯磨きと洗顔。正午に第三食堂前で待ち合わせすることになっていたが、腹になにもいれないままだとしんどいだろうから、食パンを一枚だけトーストせずそのまま食った。それから(…)先生に微信を送る。例年四月中にスピーチコンテストの校内予選を開催しているはずなのだが、今年はいまだになんの通知もない、開催予定が授業日とかぶった場合はその日の授業は休講ということになるので(補講の必要もない)、こちらとしてはせめていつ予選を開催するかだけでも知っておきたい(それによって授業準備のスケジュールが変わってくる)。それで今年の予選はいつ開催するのか決まったのだろうかとたずねたわけだが、まだ決まっていないという返信がすぐに届いた。曰く、指導教師をやりたがる人間がいない、そのせいで具体的なスケジュールを決めることができずにいるとのこと。例によって中国語でのやりとりであるのでいろいろはっきりしないのだが、大学側が今年から授業時間の算出方法を変更したとかなんとか、コンテスト本番で受賞にいたらなかった場合はスピーチの指導時間が担当教諭の授業時間としてカウントされないかもしれないとかなんとか、そもそもここで語られている仕組みについてまったく知らんのでよくわからんのだがとにかく、大意としては、指導教師をすることのメリットみたいなものがなくなるおそれがある、しかるがゆえに現状だれも手をあげないみたいな状態らしい。そりゃそうなるわ。とはいえ、こちらの指導料はきちんと出るという。ということは外国語学院の予算の都合なのかもしれない(こちらの所属は国際交流処なので)。あるいはずっと以前、何年前か忘れたが、スピーチコンテストの指導に当たった教師は、スピーチ用の授業の給料とは別に、将来的な出世に必要な点数みたいなものがもらえるみたいな話を(…)先生から聞いたおぼえがあるのだが(なんらかのイベントに参加したり、なんらかのコンテストで表彰されたりするたびにもらえる点数があり、それがある程度たまると、講師から助教授、助教授から教授みたいにランクアップすることができる仕組みみたいなものがあるという話だったと思う)、その点数がスピーチコンテストに参加してももらえなくなるかもしれないということなのかもしれない。あと、そのような点数だけではなく、別枠のボーナスもあるみたいな話を聞いたおぼえがあるようなないような気がするのだが、いずれにせよ、それ(ら)は中国人教師だけが獲得することのできる賞与であったはずで、だからこちらには直接関係のないことである。しかしこのままほかの教員がだれも指導をやりたがらず、結果、こちらが週二でやるみたいな話になったら、これはなかなか鬱陶しい。
 時間になったところで寮を出る。薄手のヒートテックの上に黒シャツを着てスカーフを巻く。下はジーンズ。ちょっと肌寒いかなと思ったが、ちょうどいいくらいだった。午前の授業を終えて食堂や寮に向かう学生らに混じってキャンパスを歩く。女子寮へ。寮の前にはすでに(…)さんと(…)さんのコンビがいる。のみならず、(…)さんもいて、あ、そういう組み合わせなんだ、と少しびっくりする。(…)さんがいて(…)さんがいないのは意外だなと思ったが、(…)さんによれば、(…)さんは連休中(…)に遊びに来ている彼氏と一緒に過ごす予定らしい。なるほど。(…)さんはいつもどおりだったが、(…)さんはめずらしくメイクをしていたし、(…)さんにいたってはこれまで見たことのない服を着ていて(ダメージ加工のされたパンキッシュな黒のスキニーパンツに、やはりどことなくパンキッシュなジャケットを羽織っている)、おお、思っていたよりずっとしっかりしたお出かけなのかなと思った。
 万达までは滴滴で呼んだ車に乗っていくという。そういうわけで南門まで歩く。途中、一年生の(…)さんとすれちがう(のちほど、彼女は東北出身の学生だよとおなじ東北人の(…)さんに伝えた)。午前中は(…)先生の授業だったという。いちばん大切な基礎日本語の授業だったのに、(…)さんはずっとスマホをいじっていました! と(…)さんが告発の口調でいうので、(…)さんもやる気があるのかないのかよくわからんふしぎな子だなと思った。(…)さんから先日、(…)さんは寮でいつも夜の11時まで勉強しているという意外な一面を聞かされたばかりなのだが、肝心の(…)先生の授業をちゃんと聞いていないというのはちょっともったいない。その(…)さんは(…)省出身であるにもかかわらず連休中は大学にとどまるとのこと。理由はわからないが、のちほど故郷まではバスで片道四時間かかるという話を聞いたので(電車も通っていない農村らしい)、それでめんどうくさくなったのかもしれない。大連の(…)さんは当然帰らない(そういうわけでふたりは連休中いっしょにたくさん遊ぶ約束をしているとのこと)。(…)さんは明日帰るとのこと。
 (…)さんから日本語の試験についての話がある。6月末に専門四級試験があるわけだが、それとは別に、日本語を専攻していない学生でも受けることのできる日本語の試験があり(JLPTではない、たぶん専門四級試験とおなじ中国国内でのみ通じる資格だと思う)、それは専門試験と比較すると当然簡単なわけだが、たぶん力試しということなのだろう、受けるかどうか迷っているというので、きみには必要ないよ、四級試験とN1だけで十分だよと言った。
 南門の外に出る。スーツケースをひいた学生らであたりは大混雑している。セブンイレブンの営業開始日であるから万达も混雑するかもしれないと思っていたわけだが、ほとんどの学生はこうして故郷に帰るわけであるし、たぶん今日の万达はそれほど混雑していないはずだと(…)さんがいう。(…)さんが呼んだ車がほどなくしてやってくる。乗りこむ。助手席に(…)さん。運転席の後ろに(…)さん、真ん中にこちら、右に(…)さん。車内ではクラスメイトの恋愛話。(…)さんの恋人を見たことはあるかと(…)さんにたずねると、あるという返事。かっこいい? とかさねてたずねると、苦笑しながら一般般という。(…)さんの彼氏はかっこよかったよと告げると、蜜雪冰城でアルバイトしていますというので、そうそうと受ける。ほかに恋人がいる女子学生は(…)さん、(…)さん、(…)さん。去年破局した(…)さんと(…)くんのふたりは最近ちょっと関係があやしいという。いちおうただの友人に戻ったということになっているが、それでもやっぱり……みたいなところがあるらしい。まあそりゃそうやわな。ちなみに(…)さんは最近とてもまじめに勉強しているらしい。スピーチコンテストにも参加する気でいるというので、そういえばたしかに授業中やけに視線を感じるなとここ最近思っていたのだが、そうか、そういう心境の変化があったのかと納得した。彼女に対しては会話も作文もこれまでほぼ最低に近い点数をつけてきているわけだが、いまから必死にやればぎりぎり間に合わないこともないだろう。いっぽう元恋人の(…)くんは連日「クラブ」に通っているとのこと。
 万达で車をおりる。広場には例によって仮設ステージが設けられている。連休中にまた素人のカラオケコンテストみたいなものをやるのかもしれない。ステージとは別に、あれはなんなんだろう、小屋とか屋台とかそういうものだろうか、よくわからない建造物も大量に組み立てられつつあって、あれも連休中のイベントに使用するのだろうか? しかし一時的なイベントのために設けるにしては、なかなかけっこう大がかりなブツにみえたので、イベント後にも使用するスペースなのかもしれない。
 中に入る。エスカレーターで四階にあがる。店に入る。四川料理の店。けっこう前からある店舗だが、来店するのははじめて。かなりせまい。すべての座席が基本的にふたりがけで、われわれ四人に与えられたのも小さな円卓ひとつのみ。これはなかなか窮屈だなと思いながら着席すると、右となりから「先生!」と声をかけられる。三年生の(…)さんが見知らぬ女子学生といっしょにいる。おー! ひさしぶりー! となる。先生だいじょうぶ? ここの料理はとても辛い! ぜんぶ辛い! というので、後輩たちが辛くないものもあると言いましたからと受けて、二年生の三人を紹介する。大学院試験の準備はがんばっているかとたずねると、がんばっているという返事。しかし連休中は湖北省に旅行に行くつもりだというので、えー? だいじょうぶ? とからかってやると、Relax! という返事。
 注文は三人にほぼ任せる。こちらと(…)さんは辛くない麺。なんという名前か忘れてしまったが、まぜそばみたいなやつで、(…)さんがいうには四川人はよくこれを朝ごはんとして食すということ。なかなかうまかった。(…)さんはおなじまぜそばっぽいやつでも唐辛子とパクチーが山盛りのっかった激辛のやつ。(…)さんは真っ赤なスープに餃子みたいなやつが入っているやつで見るからにやばそうだったが、全然辛くないという。バケモンや。で、それらとは別に、シェアするものとして、広東省の料理みたいな甘く味付けした鴨肉と(しかしれっきとした四川料理らしい)、火鍋の店でなんども食ったことがある豚肉の細い唐揚げみたいなやつと、俵型に揚げた餅に黒蜜をかけて食べるやつ。それからやはり有名な四川料理だという、柏餅みたいに葉っぱにくるんだ白い餅のなかにしょっぱい肉か野菜かなんかわからんもんが入っているやつと、薬膳スープのツボみたいなやつに入った白菜のスープ(いちばんうまかったのはこのスープだった)。会計は120元。学生らは強烈に遠慮したが、こちらが半分もった。量は少なかったが、起きてまだまもないこちらにはちょうどよろしい。
 ちなみに万达でセブンイレブンが開店するというのはデマであったことがこのとき判明した。ショック!
 食後はモール内をぶらぶらする。(…)さんがクレーンゲームをやりたいという。(…)さん曰く、(…)さんはクレーンゲームにマジで目がなく、万达や后街に出かけるたびに必ずといっていいほどクレーンゲームをするらしい。で、ゲームセンターに行くのかなと思ったが、そうではなかった、各階にかなり小ぶりのクレーンゲームが七台か八台ずつ並べて設置されている一画があり、(…)さんの目当てはそれだった。結論だけ先に書いてしまうと、(…)さんは四階のクレーンゲームにも三階のクレーンゲームにも二階のクレーンゲームにもチャレンジした。そしてけっこうな数の景品をゲットしていた。赤い熊の人形と、顔のでかいウルトラマンのフィギュアと、顔の小さいウルトラマンのフィギュアと、あとひとつかふたつあったはずだが、ちょっと失念してしまった、いずれにせよ見るからにチープなものばかりで、こんなもんほんまにほしいんけ? と疑問に思う代物ばかりだったが、いや、クレーンゲームはあくまでもゲームを楽しむものであって景品はしょせんおまけでしかないわけか? クレーンゲームをプレイするためには専用のメダルが必要。メダルは販売機で購入可能。QRコードを読み取って支払いすると、その額に応じた分のメダルが出てくるのだが、1枚につき1元だった(ただし、20元まとめて支払えば24枚出てくる)。プレイ1回につきメダル2枚が必要。つまり、1プレイにつき40円であるわけで、景品の安っぽさを踏まえて考えると、まあ妥当な価格設定か。こちらもせっかくなので、二階のクレーンゲームだったか三階のクレーンゲームだったか忘れたが、バッタモンのにおいがぷんぷんするピカチュウとポチ太をゲットするために10元分だけプレイしてみたが、箸にも棒にもかからへんかった。クレーンゲームに熱中しているときの(…)さんはなかなかすごかった。あとちょっと! というところでメダルが切れると、マジでなんの躊躇もなくメダルを追加購入するその熱狂ぶりが、ちょっとギャンブル依存症を思わせるくらいアレだった。金の使い方から察するに、実家はけっこう裕福なほうかもしれない、少なくとも(…)省の農村出身の学生でこういうふうな遊び方をする子を見たことはない。
 クレーンゲームエリア間を移動する道中、(…)さんと(…)さんのリクエストで服屋にも立ち寄った。学生と万达をぶらぶらすることはしょっちゅうあるが、服屋に寄りたいというリクエストを受けたのははじめて。こちらは当然服屋が好きであるし、女子学生といっしょであればレディースでいまどんなものが売り出されているのかもチェックしやすい。メンズの商品は壊滅的だった、こんなにデザインがダサくて、こんなにシルエットが適当で、こんなに生地がやすっぽい服があるのか? というレベル。マジでパジャマとしてすら欲しくない。なのですぐさま女子らに合流した。基本的にレディースもやっぱりダサいものばかりだったが、Tシャツのなかには、あ、これだったら着れるなというデザインのものがひとつかふたつあった(ただしそれらはへそ出し前提で裾のみじかくカットされたものだったが)。(…)さんはちょっとロリータ服っぽいやつに興味があるようす(しかし恥ずかしくて着る勇気がないようだ)。(…)さんはやっぱりパンキッシュなものが好きらしく、黒いTシャツの襟元に穴が複数あいており、そこにものすごくやすっぽいシルバーアクセサリーもどき——土産物屋に売っているドラゴンの巻きついている剣のキーホルダーを思い出す——が通されている、強烈にダサい一品に興味をもっているようだった。行ったことがないのでわからんが、たぶんしまむらにもこんなにダサい服は売っていないのではないか? しかしそういうダサい服をかっこいいとかかわいいとかいって目をキラキラさせながらながめている学生の姿を見るのはけっこう好きだ。男子学生がウルトラマン仮面ライダーのグッズをやっぱり目をキラキラさせながらながめているときも同様。こちらはそんなもの全然ほしくないし、もちろん彼女らと同じ年頃の大学生だったころにも欲しいと思ったことはなかったわけだが、だからといってそういうものに目をかがやかせている学生らのそのかがやきを否定する権利はこちらにない。それに、そうしたかがやき、きらめき、まばゆさ、そうしたもろもろがおりかさなって内側から放たれる黄金色の多幸感は、見るこちらにもいくらかなりと伝染するものなのだ、見るこちらの気分もよくしてくれるものなのだ。多幸をお裾分けしてもらっておいて、それを小馬鹿にするのも筋が通らん。
 続けて、雑貨屋にも立ち寄る。中国のキャラクターグッズに混ざって、ウルトラマンティガポケモンやコナンのグッズがちょくちょく陳列されている(おなじみの面々! こいつらのグッズはマジで中国の端から端まであふれかえっていると思う)。サンリオのグッズもちらほら見る。中国ではキティちゃんよりもマイメロクロミのほうが人気がある気がする、マジでどこやかやで見かけるのだ。ちなみに「マイメロ」および「クロミ」という名前を知ったのは今日が初めて(さっきググった)。はじめて見たのがいつだったかおぼえていないが、あまりに中国で見かけるものだから最初は中国のキャラだと思っていた、しかしのちほどサンリオのキャラであることを知って(学生に教えられたのだったかもしれない)、しかし名前を調べるきっかけもないまま今日までいたってしまった格好(「白うさぎ」と「悪人面した黒うさぎ」と便宜的に認識していた)。
 大量のキーホルダーを見る。そのうちのひとつ、人間なのかクマなのかウサギなのかよくわからんシルエットの、金属製の表面が虹色に塗り分けられているブツがあって、あ、なかなかサイケデリックだなと手にとってみたところ、わたしは以前これを買いましたと(…)さんが言う。しかし買ったその当日に(…)さんが手落としてしまい、地面に落下して粉々に砕けてしまったというので、クソ笑った。(…)さんはおわびに別のおもちゃをプレゼントしたらしい。
 サングラスを見る。髪飾りを見て、ピアスを見て、指輪を見る。どれもこれも廉価品。日本であれば中学生、いや小学生が買うようなほとんどおもちゃみたいなアクセサリーであるが、三人とも真剣に検分する。(…)さんはかんざしを一本を買うことに決めた模様(それとは別に、中国風の扇子も買っていた)。(…)さんも髪留めだの指輪だのを前にしてなにやら長く悩んでいたが、結局なにを買ったのかは知らない。(…)さんは推奨年齢が小学校低学年くらいのシールを買っていた。かわいい女の子の全身像のシールがあり、その上に洋服のシールを重ねて貼ることでいろいろ着せ替えできるという趣向のもの。(…)さんはそういう子どもみたいなシールが大好きらしく、しょっちゅうその手のものを買っているとのこと。
 外国産のお菓子を集めたコーナーもあった。(…)さんといっしょにパッケージにでたらめな日本語を印刷している中国産の菓子をひとしきりチェックする。どうして日本語が使われているのかわからないという彼女の言葉に、そうか、日本産イコール良いものという図式もこの世代からは薄れていくのだろうな、共通認識ではなくなっていくのだろうなとふと思った。自動車にしても家電にしても日本産の凋落はすでにまぬがれえない現実と化しているわけであるし、made in Japanがなによりのキャッチコピーとして機能していた時代を知らない世代が今後社会の大勢をしめていくにつれて、こうした偽日本産の商品もどんどん減っていくことだろう。もちろんそうした趨勢には、若い世代の愛国ブーム——といえばちょっと聞こえがいいかもしれないが、端的にいえば、度の過ぎたナショナリズムだ——も大きく後押しすることだろう。淘宝で商品を検索していても、やたらと国潮という文字を見かける。(…)さんはクレヨンしんちゃんチョコビを買った。お菓子のなかにアニメのワンシーンを切り取った小さなカードが入っているやつ。
 店を出る。このタイミングではなかったかもしれない、四川料理の店を出た直後のことだったかもしれないが、(…)さんがパン屋に立ち寄りたいといった。で、立ち寄ったそのパン屋で、シーチキンみたいな鮭フレークみたいなやつがふりかけられているパン(中国のパン屋でかならず見かける)を彼女は買ったのだが、なぜか買ったばかりのそいつをこちらに手渡そうとした。遠慮したのだが、受け取れ受け取れとしつこくいうので、これあんまり好きちゃうねんけどなと内心ひそかに思いつついただいた。オンラインおみくじの景品かなにかで当たったやつをくれたのかなと推測したが、もしかしたらメシ代をこちらが多めにもったそのお返しという意味かもしれない。
 (…)さんが(…)でミルクティーを飲みたいというので一階へ移動。店の入り口で試飲の小さな紙コップをもらってひさしぶりに飲んでみたが、やはりなかなかうまかった。それで、たまにはコーヒー以外のものも飲むかというわけで、学生らとそろってひさびさにオーダーすることに。ここのミルクティーはほかの店とちがってちゃんと茶葉の味がするのがいい。
 おもてはいつ降ってきてもおかしくない空模様。散歩というわけにはいかない、しかし学校にもどるにははやすぎるというわけで、H&Mをのぞいてみることに。学生らをレディースコーナーに置き去りにして、まずはメンズコーナーをのぞく。白黒ストライプのイージパンツにあわせているセーターとほぼおなじ配色のTシャツ(黒、緑、カーキ)を見つけたので、あれ? ということは夏用の白黒ストライプのパンツを買ってこれと合わせるのもアリじゃないか? となる。要検討。しかしそれ以外にはめぼしいものはなし。
 学生らにまじってレディースコーナーをチェックする。(…)さんが白と水色のスカートを試着する。前にスリットが入っているので、本人は最初ちょっと抵抗を感じているようだったが、ほかのふたりがよく似合っているとうけあったので、セールで80元になっていたこともあって購入することに。(…)さん、ふだんスカートを穿いているイメージはなかったのだが、(…)さんによれば、街に出て遊ぶときはよく穿くらしい。化粧をするときとしないときの差なんかもそうだが、やっぱり学生らのあいだには明確に「お出かけ」とそうでないときの区別があるっぽい。
 さらにユニクロにもはしごする。ジャンプ漫画(『ワンピース』『ナルト』『ブリーチ』『スパイファミリー』)、『名探偵コナン』、ほかマリオやマイメロなどのTシャツがあり、例によって学生らが食いつく。コナンが灰原哀にじぶんのめがねをかけさせている場面がフロントに印刷されたTシャツが売っていたのだが、それを見て学生らがぶーぶー文句をいうので、そういえばコナンの最新映画でこのふたりがいい感じになるみたいなアレがあって中国の熱烈なコナンファンがめちゃくちゃ怒り狂って炎上みたいな話があったなと思い出した。しかし三人のなかでもっとも熱烈なコナンファンである(…)さん曰く、蘭姉ちゃんは新一とカップルです、だからこのふたりはカップルでも問題ありません、とのこと。あと、葛飾北斎歌川広重の浮世絵を印刷したTシャツを見つけた(…)さんが、先生これを着てくださいと笑いながらいうので、ぼくがこれ着て中国を歩いていたらなんか本当に馬鹿な日本人みたいでしょといった。みんな笑った。(…)さんは歌川国芳のがしゃどくろのやつがちょっと欲しいといった。やっぱりそういう趣味なんだな。
 ユニクロのとなりにある子ども用のゲーセンがリニューアルオープンしていたのでそこものぞく。ここには大きなクレーンゲームもあったが、(…)さんは興味がないという。大きいクレーンゲームは景品をとるのがむずかしいから嫌らしい。リニューアル前にもあった金魚すくい用の水槽も以前と同様見つかったが、たぶんそこにいる金魚が大きくなりすぎたのだろう、鯉くらいのサイズになった個体だけ別の水槽で飼育されていた。水槽の近くの壁際にはマッサージチェアが十台ほど並んでおり、老人らがみんな居眠りしていた。たぶん孫をここに遊びに連れてきた保護者たちだろう。学生らは最初銃で敵を撃つタイプのゲームをするつもりだったらしいが、値段があまりにも高いといって結局やめた。

 万达の外へ出る。ちょうど雨が降り出す。いったん瑞幸咖啡の店内に避難する。(…)さんが滴滴で車を呼ぶ。店内にただようコーヒーの香りに脳味噌が刺激される。今日はまだコーヒーをいっぱいも飲んでいない。
 車がじきに到着する。学生らは車をまず外国人寮に近い北門付近につけ、その後女子寮に近い南門にまわるように運転手に伝えるつもりだったようだが、無駄に金がかかるだろうしこちらも南門側でおりるよと伝える。歩くにしてもたいした距離ではない。大半の学生らは歩くことを好まない。ちょっとした距離であってもタクシーを利用しようとする。そうしたふるまいを目の当たりにするたびに地元を思い出す。車社会の田舎では徒歩で十分足らずの道のりだろうと歩かず車で移動する。京都での暮らしに慣れたこちらが一度、帰省中に弟のケッタを借りて片道15分程度の図書館に向かおうとしたところ、そんな遠くまでなぜわざわざ自転車で! と父も母も驚いたことがあった。
 移動中、助手席の(…)さんが運転席の後ろに座っているこちらに向けて、先生今日はhappyでしたか? とたずねる。ひさしぶりにいろいろお店を見ることができて楽しかったよ、でもいちばんhappyだったのはゲームをたくさんした(…)さんだねと受ける。これまでにクレーンゲームで手に入れた景品はすべて寮にあるらしいが、それらは夏休みに帰省した際、甥にあげるのだという。ちなみに顔のでかいウルトラマンのフィギュアについては、(…)さんにプレゼントされた。
 南門で車をおりる。出発したときと同様、門付近にはやっぱりスーツケースをガラガラさせている学生らが大量にいる。われわれの乗ってきた車に入れ違いで乗りこむ男子学生もいる。タクシーは今日、商売大繁盛だろう。
 女子寮に向けて歩く。雨はあるかなしか。ほかのふたりが先生とあまり話さなかったと(…)さんが発破をかける。こちらとしてはまあまあおしゃべりしたなという印象だったのだが、そりゃあペラペラの(…)さんとくらべたら発言量に差が出るのはしかたない。旅行に行きますかというので、連休中? とたずねると、そうではないというので、機会があればいろいろ行きたいと思っている、でも宅男なのでじぶんひとりでは出かける気になれない、学生から誘われることがあったらついていくかもしれないと応じると、大連に来てくださいという。たしかに大連で海鮮類を腹いっぱい食べたら幸せだろうなと思う(彼女が「食レポ」で紹介してくれた故郷の料理はマジでクソうまそうだった)。内モンゴルもいいですよというので、行ったことがあるのとたずねると、ありますという返事。馬に乗ったり弓矢を射ったりしたという。だれだったか忘れたが、以前、やっぱり内モンゴルをおとずれた学生が、ヤギの乳かなにかを飲んだと言っていたなと思い出す。(…)さんと(…)さんのふたりは連休中ずっと大学にいる。先生もし暇だったらまた散歩しましょうというので、いつでも連絡して、ぼくはずっと寮にいると思うからと受ける。
 女子寮前に到着する。すぐにお別れとならず、そのまま三十分ほど立ち話を続ける。三人とも彼氏がいない(三人とも異性愛者であるはず)。(…)さんと(…)さんのふたりはアイドルが好き。特に(…)さんはスマホでずっとアイドルの写真や動画ばかり見ている、それも半裸のものばかり見ていると(…)さんが指摘するので、あーそういうタイプの学生はみんな卒業まで彼氏ができないねと茶化す。(…)さん曰く、男友達はいちおうたくさんいるのだが、大半はゲイだとのこと。(…)さんはちょっと不良っぽい男が好きなのだという。なるほど、それであのパンキッシュなファッションなのだな。
 クラスメイトたちの話になる。(…)くんは彼女と別れましたかというので、別れたよと応じると、どうして先生は知っているんですかという。冬休み中に彼本人から聞いたからと応じる。クラスで恋人がいる男子学生はこれで(…)くんと(…)くんのみ。(…)くんは実家が相当金持ちらしい。父親が工場を経営しているという。だから卒業後はその仕事を継ぐことになるかもしれず、そうだとすれば結婚もはやいだろうという。なるほど。(…)くんもすぐ結婚するかもしれないと三人はいう。なぜなら彼女との関係が非常にいいから。(…)くんが授業を受けているあいだ、彼女はたとえ授業がないときであっても外国語学院の空き教室で自習しながら待機し、休み時間のあいだに顔を合わせるのが習慣になっているというので、えげつないな、そんな四六時中いっしょやないとあかんのか、しんどすぎるやろ、と内心ひそかに思った。
 われわれが立ち話しているあいだ、数えきれないほど多くの学生がそばを通りすぎていった。そしてその都度軽く言葉を交わしたのだが、いまおもえば不思議なことに、三年生はひとりもいなかった。二年生はまず(…)さんを見かけた。となりには見慣れない女子学生がいたが、おそらく英語学科の友人だろう。これから映画館に行くという。どうしてスピーチコンテストに参加することにしたのかとたずねると、大学院を目指すことに決めたからという返事があり、あ、そうなんだ、となった。
 (…)さんも見かけた。相棒の(…)さんはおらず(たぶん彼氏と一緒にいるのだろう)、ひとりで行動中。彼女の故郷はたしか江西省江蘇省だったはずだが、故郷に帰らないのかとたずねると、帰らないという返事。どうしてという質問には、太远了とのこと。
 それから大量の一年生たち。どうもこの時間帯から授業があったらしく、教室に向かうために寮の外に出てくるそのタイミングで次から次へと顔を合わすかたちになった。おぼえているかぎり羅列すると、(…)さんと相棒の女子学生(誰か忘れた、もしかしたら(…)くんの彼女である(…)さんだったかもしれない)、(…)さん(彼女は勉強は嫌いだけどスケボーが大好きだよと伝える)、(…)さんと(…)さん(ふたりはいつもペアで行動している)、(…)さん(金髪になっている)と(…)さんとほかルームメイトとおぼしき学生たち、(…)さん(彼女は東北人だよと(…)さんに伝えると、彼女はとてもかっこいいですねという返事)、(…)さん(毛先を緑色に染めたようだったので、不良! 不良! とからかう)。
 一年生全体の印象として、(…)さんは、みんなおしゃれだ、かわいい子が多いと思うといった。ふだん一年生と交流する機会はない。先日会議かなにかの現場ではじめて一年生を見たのだが、漢字四文字の名前の男の子がすごくあかるかったというので、(…)くんだねと受けた。それから班長の女の子がすごく厳しくみえたという話もあったのだが、一年生の班長はだれだったっけ? こちらと直接かかわりのある各クラスの学習委員についてははっきりだれであるか認識しているのだが、班長はよく知らない。(…)さんかな?
 あと、一年生の(…)さんが、(…)さんの高校時代の同級生だという話もあった(ただし、クラスは別だった)。(…)さんは一年浪人してうちに入学したらしい。浪人して入学した学生の話も最近よく聞く。こちらが赴任した当初はそんな学生いなかったと思うのだが(単純に知らなかっただけかもしれないが)、なんだかんだで一本大学に格上げされた影響だろうか、省外の学生もたいそう増えてきたわけであるし、それにともなって浪人して入学する学生も微増しつつあるんではないかと気がしないでもない。だからうちの学生の学力自体は以前と比べて微妙に底上げされているのだろう。ちなみに(…)さんは声がすごくかわいいという評判で、授業中に彼女が発言するたびに、男子学生たちがざわざわしていたというのだが、声といえばむしろ(…)さんの相棒である(…)さんのほうがとんでもないアニメ声として印象に残っている。
 (…)さんが忙しくしているという話にもなる。班長でもなく学習委員でもなく、なんというんだっけ、忘れちまったが三大役職のひとつについている彼女であるが、その役職に指示を出す事務室の教員がかなり厳しいらしい。書類の必要上、(…)先生のサインが必要になる場面がたくさんある、しかし今学期(…)先生はたいそう忙しくしている、しかるがゆえになかなかサインを得ることができない、そこで彼女が代筆しようとするのだが、それではダメだ、本人のものを必ずもらってこいと厳しく言われるのだという。ギターサークルでもイベントの準備が大変だったようだからというと、(…)さんもギターサークルに所属しているという意外な情報。しかし活動にはほぼ参加していないとのこと。
 立ち話を切りあげて去る。歩いて寮にもどる。帰宅後、(…)さんから微信が届いていることに気づく。緑色の毛先について、不良! 不良! と茶化した件について、「せんせい!ふりょうではありません!」「かっこいいです!」というので、冗談だよ、先輩たちもかっこいいと言っていたよと返信。それからきのうづけの記事の続きを書く。
 第五食堂で夕飯を打包する。食し、コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回する。(…)くんが手書きの日記を写真に撮って投稿しているのを見て、五所純子がむかしやっていたブログを思い出した。日めくりカレンダーをベースにしたコラージュと手書きの文章。めちゃくちゃ達筆で、なんだったらいままでに目にしたことのある手書きの文字であれがいちばん好きだったかもしれない、もともとこちらには手書きの文字フェチみたいなところがあるのだが、線の太さといい文字の傾きといい、ほんとうにずっとながめていたくなるような筆跡だった。文章もよかった。公開ブログという性質上、言葉を濁して書かなければならない事柄も当然あり、そういう箇所について「隠喩の嵐」という表現を使っていたのが印象に残っている。『スカトロジー・フルーツ』も『薬を食う女たち』もどちらもすごくいい本。
 2022年4月28日づけの記事を読み返す。この日もやはり「実弾(仮)」資料収集のため、震災前後の日記を集中的に読み返している。以下は2011年3月18日づけの記事より。

こういう状況下にあって芸術の無力を嘆く発言をよく目にし耳にしするが、率直にいって、何言ってんだこいつという気持ちになる。きっとこれまで芸術についてなんにも考えてこなかったんだろうなと思う。そのくせなにをいっぱしに芸術家ぶってんだかと腹立たしくもなる。飢えた子供の前で文学にいったい何ができるというのか、という問いをたてたサルトルはただのアホだ。飢えた子供に何かができるのは食料を手にしているひとだけだ。そんなことはわかりきっている。別に芸術にはなにもできないといっているのではない。そんなことは断じてない。芸術によってしか対応することのできない種類の事態というものはたしかにある(そうでなければ、〈意味〉や〈役割〉や〈価値〉が圧倒的に幅をきかせるこの社会にあっていまだなお芸術というきわめて胡散臭いなにものかが淘汰されることなく粛々とその営みを続けていることの説明がつかない)。ただ、それがたまたま〈飢えた子供〉という、直接的で具体的で即効性のある〈解決〉を要請するタイプの事態ではないというだけの話だ。そしてまた、未曾有のスケールで発生したこの〈飢えた子供〉的事態が、二次的三次的様相を帯びるにつれてまったく別の種類の事態へと変貌したり、まったく別の種類の事態を呼び寄せたりするという展開は大いに考えられることだ。そうした事態の中にはあるいは芸術によってしか対処することのできない種類のものもあるかもしれない。だから、それらの事態がはっきりとしたかたちをとってあらわれるきたるべき日にむけて芸術家はいまこの瞬間も迷いなく芸術するべきだし、むしろそれこそをすべきだろう。馬鹿げた問いに萎縮する必要はない。〈飢えた子供〉に食料を差し出すことのできるひとたちをできる範囲内で支援したら、愚図愚図泣き言なんていうのはやめて、あとはそれぞれの持ち場に戻り、それぞれの事態に備えてただちに営みを再開すべきだ(その支援に「芸術家として」のぞむ必要などいささかもない。そんなつまらない面子にこだわる連中だけが「芸術の無力」に耽溺している)。これはなにも芸術にかぎった話などではない。

 2011年4月6日づけの記事。

芸術というものはトランプでいうところのジョーカーのようなものだ。その場を支配しているゲームの規則次第で神にも悪魔にも化ける。だから、芸術それ自体に普遍的な効果があるわけではないし、絶対的な役割を担わされているわけでもない。そもそもゲームによってはジョーカーを排除することではじめてプレイが可能になるものも少なくない。肝心なのは「いまここ」を支配しているゲームの種類とその規則の見極めということになるだろう。だが、「いまここ」でプレイされているゲームの正体や規則というものが事後的にしか判明しないのがこの世界のありようというものだ。ここに芸術というもののはらみもつ価値の不確かさ、うさんくささのようなものの起源がある。あるいはこう言い換えたほうが的確かもしれない。ゲームの進行と同時に刻一刻とそのルールが変容しつづけていくという、子供の遊びめいた営みこそがほかならぬ「世界」のありようなのだ、と。それだからたとえ一時的に場からジョーカーが排除されることがあったとしても、決してそのカード自体を捨ててしまったりなくしてしまったりしないようにしなければならない。継続こそが芸術にたずさわるもののとるべきふるまいであり、その力を保つための方法だということができる。プレイを続けるうちにまた新たなルールが付け加わることもあれば、廃止されることもあるだろう。ジョーカーが文字通りの切り札としてその特権性をまばゆく発揮する瞬間は必ずおとずれるし、現にこれまでもおとずれてきたはずだ(ただし、そうした瞬間というのはたいていの場合、はっきりそれとして認識できるかたちであらわれはしないのかもしれないが)。

 2011年5月5日づけの記事。「安倍公房の評価が妥当かどうかはわからない。もう長らく読んでいないので」との補足付きで引かれている。

読書。『カフカ・セレクション<3>』より『変身』。朝起きたら虫になってましたとか言いながらぜんぜん焦るようでもなくそんなことはさておきとでもいわんばかりの態度で延々と仕事の愚痴をたれはじめる冒頭のモノローグからしておかしい。この時点でもうカフカが始まっている。グレゴール・ザムザ当人にしろ、その家族にしろ、職場の支配人にしろ、「変身」という事実にたいして誰も「なぜ」と問わない。だからここでは「変身」は一種の前提であり、「掟」であり、「ゲームの規則」だといえる(「変身」したザムザの姿を前にした支配人が過度におびえてみせるのは、じぶんよりも強固な絶対的支配力を有する「掟」が受肉した当のものを目の前にしたからだともいえる)。ここではみながみな「変身」を所与の条件として受け入れている。外在的なよりどころともいうべき「意味」に頼ることなく、「掟」がもたらす状況だけが設定されてあり、その設定を開始点にして小説はあくまでも内在的に進行する。その結果として、『変身』はいかなる「意味」(=読み)も受け入れるし、いかなる「意味」(=読み)からもはみだすことになる。上述したように「変身」したザムザを「掟」そのものの体現として読みすすめることもできるだろうし、妹の通過儀礼の話とも、父と息子の衝突の話とも読める。読めはするが、そのどれもがきわめておさまり悪くあることに注意しなければならない。さまざまな角度からの読み方がすべてぴたりとおさまってくれるいわゆる「多義的な小説」とカフカの小説とが決定的に異なるのはこのおさまりの悪さだろう。「多義的な小説」の魅力がその入り口の多さにあるのに対し、カフカの小説の魅力は入り口とほぼ同数の出口を有している点にある。核心に行き当たることはなく、およそありとあらゆる読みの体当たりは肩透かしを食らったようにすっぽりと抜けてしまうのだ。
仮に登場人物のだれかひとりでも「なぜ」と問うていたら、「変身」という事実はたちまち「意味」をおびることになり、それはカフカではなくむしろ安部公房となっていたはずだ。有無をいわさず「なぜ」を禁止する「掟」に支配されたなかで進行するゲームによってもたらされる夢の論理の感触は、その無根拠さに耐えきれず「掟」の成り立ちに合理的な説明をあたえてしまう(そして「意味」の余白を設けてしまう)ほとんど小心者的といってもいい安部公房の凡庸さの中には決して見られない(だからカフカ安部公房はまったくもって似ても似つかない作家だといえる)。目覚めたら虫になっていたという冒頭からはじまる小説はカフカが書かなくともいずれは誰かが書いただろう。けれど、事態の理由付けや根拠付けや意味付けがされぬまま、公式に数字が代入されるようにして出来事だけが直線的に発展していくタイプの小説はやっぱりカフカがいなければはじまらなかったのかもしれないという気がする(こう書いていると、黒沢清カフカの正統な後継者であるような気がしてくる)。

 以下は、公開ブログとは別につけていた非公開ブログに残されていた断片群より。

「沈黙とはなにか」とわたしがたずねて以降、その男は一度も口を開かなかった。
(2011年5月11日づけの記事)

孤独はなぜ地下室として表象されるのか。暗く、狭く、肌寒い一室として。日当りのよい広場のような孤独もあるだろう。そこでは花が咲く。鳥が鳴く。蝶が舞う。そしてときおり視線が交わる。孤独の気ままさのままに。
(2011年5月19日づけの記事)

意味とは、ひとつの利益である。そこには搾取が介在する。
(2011年5月20日づけの記事)

祈りの効用――圧倒的な伝染力。ひとりが祈る。それを見た隣人が祈る。そのまた隣人が祈る。祈りが地表を覆えば、世界中のひとびとが目を閉じる目撃者のいない一瞬が生まれるだろう。その一瞬を利用して世界は姿を変える。そのことを誰にも教えてはならない。変化の瞬間を目撃しようとしてひとびとが目を閉じなくなるからだ。世界は姿を変えなくなるだろう。そして世界が姿を変えなくなるということは、世界の一部たるひとびとが目撃者としての態度をあらためる機会もまた失われるということである。時空の袋小路はそこにある。われわれはどこにも向かうことができない。
(2011年5月21日づけの記事)

 さらに10年前の日記、すなわち、2013年4月28日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。以下のくだり、マジでクソ笑った。

メダカが水草に卵を産みつけているのだけれど(…)さんがいうにはこの卵はたぶん孵らないだろうとのことで、というのもこれまでに何度も自宅の水瓶でメダカの卵を孵化させることに成功している(…)さんでも見たことのないような黒ずみを卵がおびはじめているからで、これはたぶんカビがはえてきてるんじゃないだろうかという。お腹のぷくぷくになっているメダカがほかにもまだ二匹いるので卵をうみつけるための水草を増やす必要があるのだけれど、(…)さんは今月すでにガスを止められている。(…)くん200円ばかしくれへんかマジで、とめずらしく金をせびてみせるものだから、回らない寿司を15000円分おごってもらった恩もあることであるし、はいよっと手渡した。これで水草がふたつ買えるらしい。そのあと(…)さんは客室で100円玉をひろった。これでみっつ買える。寿司おごってもらったあの晩の帰り道にコンビニで(…)さんのツレってひとと出くわした記憶があるんすけどあのひとっていったい何やってるひとなんですか、とたずねると、ぜんぜん知らへんという返事があって、そもそもはパチンコ屋で知り合った仲なのだという。となりの席にすわったやつがな、チラチラチラチラこっち見てくるもんやからな、腹ァ立ってきておまえ何をチラチラ見とんじゃボケが言うたったんや、それがあいつや、そっからなんかしらんけどときどき飲みに行くようになったんや、ほんのときどきやけどな、とあり、いくつくらいのひとなんですかね、と問うと、(…)さんのちょっと上ちごたかな、とあって、ええたしかぼくのふたつ上やったと思います、と(…)さんがいい、お名前は?とこちらがたずねるが早いか(…)さんがいきなり吹き出すものだからはてなと思っていると、いやおれあいつの名前知らんのや、出会ったとき金髪やったから金髪って呼んでる、携帯も金髪で登録してあるわ、という返事。たがいの職業をよく知らない、そういう間柄の付き合いというものは世の中に往々にしてあるものらしいと最近知りつつあるところなのだけれど、名前も知らないままにそれなりの年月と頻度を保ちながら交際を続けているというのはさすがに聞いたことがない。(…)さんも金髪さんとは二度ほど会ったことがあるらしいのだけれど、名前がわからないものだから会話の糸口をつかむのにとても苦労したという。(…)さんは金髪さんのことをもちろん金髪と呼ぶのだけれど当の金髪さんからはおにいちゃんと呼ばれているらしい。金髪さんは一時期トラック運転手をしていた。金髪さんは腰に爆弾を抱えている。金髪さんは父子そろってパチンコ狂いである。金髪さんの父親もまた(…)さんとはパチンコ仲間として面識がある。金髪さんは(…)さんの友人知人の集う飲み会にも出席したことがあるがそのときも終始金髪呼ばわりだった。コンビニで偶然に遭遇した晩はじぶんも(…)さんもベロッベロだったこともあって、金髪さんは95%の困惑に5%の恐怖をスパイスしたような表情を浮かべていた。あのひとちょっと気弱そうでしたね、というと、気ぃ弱いから金髪にしていかつい格好しとるんやあいつは、という返事があった。ちなみにくだんのコンビニの店長さんとも(…)さんは知り合いなのだという。店がオープンしたばかりのころに煙草を買いに出かけたところ、(…)さんの愛飲している商品だけが在庫切れで店になく、ちょっとこれどういうことやとなった(…)さんがバイトの子に店長呼べとかなんとか言いつけて、それで出てきた店長におまえちょっとよそのコンビニ行っておれの煙草買うてこいやとむちゃぶりしたことをきっかけにして近づきになったのだという。

昆虫にまつわるくだりを談笑しているときであったか、(…)さんの服役中の友人にひとりとてもひどい痔をわずらっているひとがいて、痛みのあまり労働どころか日常生活すらままならない。かといって頼みこめば治療をほどこしてくれるような環境でもない。よほど痛みが耐えがたかったのか、面接に来ていた家族にまで延々と痔にまつわる愚痴をもらす苦痛きわまりない日々をおくっていたらしいのだけれど、あるとき面接にやってきたお祖母さんであったかに、痔にはなめくじがきくのだと教えられた。わらにもすがる思いだったそのひとは、とりあえず運動場でなめくじを採集し、(…)さんの小指くらいある大きなものを見つけると、それをお祖母さんにいわれたとおり肛門につっこんだ。するとおそろしいことに、あれほどひどかった痔があっというまに完治してしまったのだという。そのひとの肛門の惨状については(…)さん自身肉眼でたっぷりながめたことがあるらしいのだが、なめくじによって完治したあとの肛門はそれはそれはきれいなものになっていたという。

 記事の読み返しがすんだところで、あたまがちょっとくらくらした。一年前もまったくおなじ現象が生じたのをおぼえているが、長い時間過去にひたっていたために、いま現在のじぶんの足元がぐらぐらする、地盤が不確かになる、いま(…)にいる37歳の自分が嘘のように思われる、そういうちょっとあやしい心地に見舞われたのだ。
 時刻は20時だった。シャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れ、そのまま今日づけの記事にもとりかかったが、これは当然長くなる。WPも切れつつあるのがわかったので、0時になったところで中断、残りは明日のじぶんにお願いすることにしてそれ以上はカタカタやらず、(…)さんにもらったあまりうまくないパンを食い、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックした。その後はなぜかYouTubeにあがっている適当なビートにあわせてなんちゃってフリースタイルをしたり(しかしこれをするとあたまのなかに詰まっていた言葉がいったん流れさってすっきりするみたいな効能がある気がする、自動筆記で長文を書くときとはまた違ったすっきり感)、『本気で学ぶ中国語』をちょっとだけ進めたりした。
 その後、寝床に移動し、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進めて就寝。