20230501

ラカンによれば、自分の認識は他者を通して生まれてくる。この意味において、主体は疎外されており、自分の起源を他者に奪われているのであって、このような他者との同一化に基づいて自我が形成されることを考慮すれば、他者に基礎づけられて成り立っている自分を自分であると思うことは一つの誤認であると言えるだろう。それがパラノイア的認識と言われるものであり、ラカンにおいては自我は錯覚や誤認を司る審級である。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第二章 三項関係および二項関係における分析症例」)



 5月だぜ!
 10時半ごろ起床。二年生の(…)さんから「先生、甘い粽と塩辛い粽、どちらが食べたいですか」という微信が届いている。故郷の手土産として買ってきてくれるらしい。甘いほうをお願いする。彼女からはのちほど边牧の(…)の写真も送られてきた。つるつるのフローリングの上で気持ちよさそうに居眠りしている写真。股関節の弱い犬種であるから足元がすべらないようにところどころなにか敷いてやったほうがいいよと助言する。(…)一年生の(…)くんからはまた旅先の写真が送られてくる。長江。ほとんど海みたいだ。
 身支度を整えて外へ。今日も快晴。気温も30度近い。しかし明日からはまた連日雨降りになる模様。第三食堂に行くが、ハンバーガーの店はやっぱり閉まっている。だったら第四食堂のほうでいいやと思ったが、こちらのハンバーガーの店も今日は閉まっていて、なんでやねん! しかたがないので、西红柿炒鸡蛋面を打包する。
 帰宅して食す。ひとときフリースタイルして遊んだのち、コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。途中、二年生の(…)さんから微信セブンイレブンの写真。デマではなかった、万达周辺にオープンした店舗がやっぱりあるらしい。中に入ってみた? とたずねると、(…)さんから送られてきた写真だという。いっしょに行きましょうのサインかなと思ったが、やるべきことがたくさんあったので、ひとまずこちらからは持ちかけないことにする。
 2023年4月分の記録をまとめる。「実弾(仮)」第四稿の総枚数を400字詰めで換算しなおしてみたところ、とうとう1000枚をオーバーしていた。現在458/1007枚。このペースで加筆が進むとなると、おそらく1100枚を超えるだろう。1111枚のゾロ目でケリつけるか!
 ウェブ各所を巡回し、2022年5月1日づけの記事を読み返す。2020年5月1日が「『青の稲妻』を数年ぶりに視聴して全カットを書き出した日」と記録されている。つまり、「実弾(仮)」を書きはじめて今日で三年ということになる。もっとも、そのうちの半年間、いやそれ以上か、一年近くになるのか、ちょっとおぼえていないが、それ相応の期間は『S』の大詰めに割かれていたわけだが。
 2022年5月1日は当時(…)の三年生だった(…)さんと(…)さんといっしょに韓国料理を食ってから步行街をぶらぶらした日。そのとき交わした会話として「それで(…)が独立して(…)学院になるという話になったのだが、現在(…)の校舎がある一帯は再開発される予定らしい。現時点ですでに大学のそばで大規模な工事がはじまっており、来年ショッピングモールがオープン、周囲には歩行街も敷かれるとのこと」という情報が残されているが、一年経ったいまもまだ(…)は(…)のままであるし、(…)学院としてよそに引越すという具体的な続報も耳にしていない。
 ほか、あれこれ。

 中国の学生たち、やはり日本の学生に比べると圧倒的にホラーに対する免疫がない。『名探偵コナン』すら怖くてひとりで見ることができない(…)くんはちょっと極端な例だが、と思ったがしかし、(…)先生もコナンには確かに怖い話がありますよと以前言っていたし、それに冬休み中ほぼひとりきりの寮で暮らしていたこちらの生活をじぶんにはできないとも言っていた。今日の会話でも出たが、中国のホラー作品は必ずオチとして「すべては実は人間の仕業だった」というのが入る(実はこれは作品内作品でしたみたいなエンドもけっこうあるらしい)。これも非科学的なものを許さぬ社会主義国家の腐った検閲によるものであるわけだが、しかしその結果として幼少期からその手の物語に触れる機会が十分に与えられず免疫が獲得できないため、むしろその手にものに対する恐怖心を育む——それは見方によっては、非科学的なものに対する信仰にほかならないのでは?——ことになってしまっている。これも抑圧したものは回帰するのバリエーションと見ていいだろうか?

 いつのまにか歩行街の入り口に達している。パン屋はすでに通り越してしまったようだ。歩行街に来るのは去年の入国以来はじめてだ。実に連休らしい人出。きらきら光る羽付きのシャトルを空高くに飛ばすおもちゃを売っている老人がいて、ああ、中国の観光地だな、という印象。ぼくあのおもちゃ好きなんだよねというと、中国のネット上では最近この手のおもちゃのことを子どもには幼稚すぎるけれども大学生にはちょうどいいと評する言葉が流行していると(…)さん。歩行街では路上ミュージシャンもけっこういる。中国では割と最近はじまった文化だという。ギターの弾き語りはほとんどおらず、カラオケ音源を流しながらスマホで歌詞を見ながら歌うスタイルが一般的。せめて歌詞くらい覚えておけよと見るたびにいつも思う。あとは配信をしている人間も多数いた。インフルエンサーにならんとして自発的にやっている人間もいるのだろうし、(…)市政府から依頼されて歩行街をPRしている人間もいるのだろう。まじめにやっているのかお笑い路線なのかよくわからないダンスユニットみたいなのもいた(まずまずの美男美女に混じって派手なおばちゃんや上下真っ赤の衣装を着用したスキンヘッドがいる)。三脚にスマホを固定し、輪っか型の照明と向かい合うようにして身振り手振りたっぷりに語りかける配信者たち。テレビの生中継と同じでもちろんその背景に通行人はまぎれこむこともできる。当然悪ふざけする。コーヒーカップを持った手を高々と掲げながら、スマホに向けて語りかける女子の背後を白目を剥いたまま行ったり来たりする。女子ふたり、爆笑。(…)さんにいたっては途中で逃げた。

 2013年5月1日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

あのひとはあんなに働いてえらいという言い方があるけれども、こうした言い方にはその前提として、本当は働きたくない、できれば働かずにすませたい、という本音がこめられているようにみえる。あるいはもっとわかりやすいかたちのものとして、あのひとは家族のために身を粉にして働いているだとかじぶんを犠牲にして尽くしているみたいな言い方がある。こうした言い方は、忍耐・我慢・屈従・後悔・殺された欲望の怨嗟を前提することではじめて出てくるものだろう。換言するならば、このような言い方をなんらの抵抗もなく口にできるひとというのは、結局のところ、労働や家庭生活というものにたいして、たとえうわべではどんなきれいごとを口にしていたとしても、本心では絶望に近い感情を覚えているということになる。で、じぶんの知るかぎり、これら「労働」と「家庭」を回避する生活を送っているものをめざとく見つけるなり、ときに酸いも甘いも知る年長者の説教という体裁で、ときに心配の口実を装う慈善家の口調で、しかしながら結局のところケチをつけてみせる類の人種というのは、往々にしてこの手の言説をしきりに口にするものである。要するに、彼らをつきうごかすのは「おまえだけずるい」式の論理でしかないわけだ。自らの労働によろこびを覚えるものならば、自らの家庭に満足を得ているものならば、労働や家庭を語るにあたって、それらとは無縁の生活を送るものにたいして、命令形の言葉で語りかけはしないだろう。ただ、彼らの歓びを気持ちよくすこやかに語るだけのはずだ(そしてその手の言葉というのは受け手にとっても気持ちのいいさっぱりしたものである)。これが、あるいは仕事をしろ、あるいは家庭を持て、というような言説に転じると、まるで話がちがってくる。そこには自らが肩まで浸かって抜け出せなくなっている泥沼に相手をひきずりこもうとする亡者の手口のようなものが見え隠れする。そしてこのひがみ、そねみ、ねたみのどす黒い炎を正当化するのにうってつけの方便として「苦労は買ってでもしろ」という物言いがある(慣用句にはしばしばうすぐらい秘密がたちこめているものだ)。
こういう言い方をするとすぐに早とちりする馬鹿がいてそのたびに辟易するのだが、べつだん働くことが悪いといっているのでもなければ家庭を持つのが悪いといっているのでもない。それらの営みによろこびをおぼえるのであれば、それらの営みを回避する理由などなにひとつない。当然だ。むしろ歓びの在処を無事に探り当てたことにたいして祝杯をあげるべきだ。ただじぶんの場合は幸か不幸か、おそらくは少数派であるというその意味にかぎっていえば不幸なのだろうが、その歓びというのがたまたま「労働」とも「家庭」ともずいぶん隔たった領域でしか獲得できないものとしてあるらしく、そしてそうであるからにはひとまずそのひとけのない辺境にひとり身を落ち着けてみるほかない。その暫定的な帰結としてこの現状があるわけだが、心底では「労働」にも「家庭」にも歓びを覚えていないにもかかわらずそこに歓びがあると自己欺瞞を重ねている一部のヒステリックな人種は、このような経緯を経て営まれているじぶんの生活様式を目にするがいなや、それが自らの欺瞞にさしむけられた攻撃や当てこすり、皮肉や裁きのたぐいであるとの妄念を抱き、その反発から醜い糾弾の矛先をこちらにむけて威勢よくけしかけてくる。これがまったくもってうっとうしい。おまえのコンプレックスを押しつけてくるな、となる。
あるいは頭の悪いバンドマンなどがしばしばサラリーマンは全員クソだだとか結婚したやつはひとりのこらずアホだとかいうようなことを平気で口にしている場面に遭遇することもある。よくよく考えてみるまでもなくわかることだが、この手の連中というのは結局のところ上述したヒステリックな人種をそっくりそのまま裏返しにしただけのドアホにすぎない。そうした自らの安易な立ち位置をしてカウンターカルチャーを気取っているのだから、場合によっては余計にタチが悪いとさえいえるかもしれない。愚の骨頂だ。どぶくさいニヒリズムだ。こいつらにはなにひとつ期待してはいけない。徒党を組んだのち落伍するのが連中の末路である。

 そのまま今日づけの記事をここまで書くと、時刻はすでに17時前だった。作業中はCrackazatの“Good Enough”をくりかえし流していた。

 第五食堂で打包。二階の店、今日は営業していた。帰宅して食す。二年生の(…)くんから「お元気そうで結構ですね」というのはあいさつの言葉であるのかという質問。さらに一年生の(…)さんからはやはり作文コンクールに参加したいという連絡。
 仮眠とる。目が覚めたところで授業準備。日語会話(三)の第32課がようやくかたづく。冬休み中にこしらえたプロトタイプのままであると全然ダメな感じがしたので、構成から大きく変更した。フリースタイルして脳みそ洗浄してからシャワーを浴びる。
 22時半から0時半まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン24はいったんここで終わりとする。詰めようと思えばまだまだ詰めることができそうだが、ここでねばっても麻痺ってモチベーション低下するだけのように思われるので、とっとと先に進むことにする。
 その後はいつものようにトースト食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませて寝床に移動し、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進めて寝た。