20230502

 「分析において私たちが関わっているのはシニフィカシオン(signification:意味作用)なのです。それ以外のところに準拠枠を求めても無駄骨を折るだけです」(…)。
 シニフィカシオンとは、単純には意味やシニフィエと言うことができるものであり、それはシニフィアンに支えられている。
 「シニフィアンとは、それ自体で何も意味しませんが、あらゆるシニフィカシオンの次元を確実に支えている何かなのです」(…)。
 こうしたシニフィアンとシニフィカシオンの関係について、ラカンは「転移」という言葉がフロイトの『夢判断』の第七章で登場することに注目して、さらに次のように述べる。
 「そこで示されているのは、夢の機能においては或る一つの素材となるシニフィアンに幾つかのシニフィカシオンが重なっているということです」(…)。
 フロイトは分析において、夢、機知、言い間違い、失策行為、反復行動といった無意識の形成物を重視したが、ラカンシニフィアンの水準を強調しながら、やはり無意識の形成物に注目する。こうした着眼点は分析主体が意味づけできないところに注目するということであり、それは彼が意味づけるものや彼の指向性、さらには彼の要求から分析家が一歩脇へ出ることを意味する。つまり、シニフィカシオンの重奏が響くシニフィアンを含んだ無意識の形成物に注目することは、分析家が自我と自我の関係から身を引くことと同義なのである。もっと単純化して言えば、分析家がシニフィアンに注目するということは自らの自我から離れることなのである。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第二章 三項関係および二項関係における分析症例」 p.58-59)



 12時半起床。昨日は寝床に入る直前、以前プレイしたことのあるGrim Questの新作らしいGrim Tidesがリリースされていることに気づき、ベッドにもぐりこんでからそいつをプレイしていたために寝入るのがかなり遅くなってしまった。それで目が覚めたあともまた少しプレイしてしまったのだが(日本語表記のないゲームなので英語の勉強になるというクソみたいな言い訳でついついプレイしてしまう)、このときははやめに切りあげた。二年生の(…)さんから(…)を芝生で遊ばせている写真が届いたので、元気そうでなによりと返信。
 ケッタに乗って(…)へ。食パン三袋購入。阿姨からあんた中国語できんのとたずねられたので、ちょっとだけと応じる。帰路、第四食堂前をのぞいてみたが、やはりハンガーガーの店は閉まっている。連休はたしか今日までで、明日から通常授業開始だったような気がするのだが、スーツケースをガラガラさせながらキャンパス内を歩く姿は全然見かけない。みんな夜にもどってくるのかな。
 帰宅。食パンを一枚だけそのまま食す。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年5月2日づけの記事を読み返す。この日もやっぱり「実弾(資料)」のための資料収集として、2021年の記事を読み返している。以下は2011年12月16日づけの記事。なんべん読んでも狂っとる。ビデオインアメリ大徳寺店でDVDを借りた夜の出来事。

借りるものを借りてさて帰ろうかと駐輪場からケッタを出しかけたところでじぶんのケッタのとなりに駐車してある大型バイクの持ち主とおぼしきおっさんというかおじいさんというか実年齢はおじいさんなのだけれど心意気はおっさんみたいなアレであるのでその心意気を買って以下おっさんと表記することにするけれどそのおっさんがなにやら話しかけてきて、すみませんすみませんと言うものだからてっきりこっちのケッタを出すのに相手のバイクがちょっと妨げになっているのでそれを気にしてわざわざ一声かけてくれてんのかなと思ってふりむくと、あのあなたね、ミュージック、ミュージックに興味ない? と唐突にたずねられた。ああこれはもう絶対おもしろいことになるわとその時点で確信したので長期戦になるのを覚悟して、え、ミュージックって音楽ってことですか、と興味津々に問い直すと、そう音楽、あなた音楽やらない、というのはね、わたしね、曲をね、音楽をね、二曲、二曲いまあるんだけれど、あなたそれやってみない、ギターとか弾いてね、と言うので、え、ていうかなんでそもそも僕なんすか、と重ねて問うと、いや、もう一目見たときにね、このひとだと思ったんですわ、わかるから、もうミュージックやってるでしょ、わかるから、とアパートの下見におとずれたときの大家さんみたいなことを言う。ああ、バンドメンバー募集みたいなことですか、と答えると、いや、バンドとかじゃないんですわ、お兄さんにはね、歌ってくれないかなって、うんお兄さんにね、それでまあわたしはプロデューサーっていうかたちでね、と思ったんだけど、もちろん著作権はこっち持ちなんだけどね、どうかなと思って、そういうふうに考えてるんやけどね、と続けて、どんな音楽なんですか、と問えば、演歌、演歌やね、演歌、と即答し、ちなみにね、曲はね、いまのところ二曲、(ダウンジャケットのポケットに収納されているとおぼしきレコーダーか携帯電話を指し示しながら)これ、これ二曲までやったらふきこめるからね、ひとつはね、「明日は明日の風が吹く」って曲でね、まあこういう感じなんやけど、(※以下、90秒ほど歌唱)、これはね、むかしね、友人がなにかの拍子に口にした言葉でね、このあいだ酒飲んでたときにふと思い出して、それで広辞苑を調べてみたら、ほら、のってる、のってるからそこに、それでこれはもうええ言葉やとね、酒飲みながらね、紙に書いてみたらね、そしたらねあなた、続けてすらすらとね、次の一行が出てきますがなほんと、それで気ィついたらできてますやろ詩が、それでもうこれは歌になるわと、そう思ったんですわ、それでもうひとつ、もう一曲は「薔薇の花」というのでね、(※以下、60秒ほど歌唱。Bメロの歌詞を忘れるというトラブルも!)これはね、四ヶ月前にできた曲でね、きっかけは(※以下、友人宅に遊びにいった際に庭に咲いていた薔薇を刈り取ってくれと頼まれて刈り取ったはいいもののあまりの美しさに捨てられなかったという最近のエピソードが、友人とその奥さん(この奥さんはおっさんのことをとても嫌っているらしい)の声色をそれぞれ小器用に使い分けたうえでたっぷりのジェスチャーとともに演じられる)でね、まあそういう感じですわ、とここでようやくおさまる。いやもうじぶんで歌ったらいいんじゃないですか、そのほうがいいっすよ、歌だって上手じゃないっすか、と言うと、気恥ずかしそうに笑いながら、いやワシこんな指しとるから、とだらんとさげていた左手をつかのまパッと開けてみせて、はっきりは見えなかったのだけれど指が一本緑色っぽくなっていてそのときは痣か何かかなと思ったのだけれどとにかく、こんなんじゃね、(ギター)弾けんから、と続けて、それにね、ワシもう60、60で歌うってのはちょっとな、いまはほれ、大学生とかな、月にいっぺんくらいコンサートできるって言うから、知り合いがね、そやから大学生と仲良くなってね、その子に歌わせればええって、ワシは曲とね、あと詩、詩だけ書いてそれを提供する、それやからこうやってね、ワシ大学生の知り合いとかおらんからね、いやひとりもおらんことないですよ、おるにはおるけど、ほれ、こっちのほう(と言いながらギターを弾く仕草をしてみせる)できる大学生ってのがね、残念ながらおらんもんで、それでお兄さんどうかなって思ってね、お兄さん大学生? と問うので、や、もう卒業してフリーターっす、と答えると、そう、まあそんな感じでね、こうやってね、声をかけてるんやけどね、若い子のほうが、ほら、テレビにも出れるし、と言うので、なんでテレビ出たいんすか、と果敢につっこんでみると、とたんに顔色が変わって、そりゃワシ、テレビに出れると思ってるから! それくらいええ曲作ってるから! とよくわからんタイミングで若干キレ気味に言うので、ていうかね、そもそもぼくがあなたの立場やったらそこまでええ曲作っときながらひとに歌わすなんてこと絶対しないっすけどね、ほんなもんじぶんで歌いますよ、だいたいなんすかそのテレビどうのこうのって、若いの使わな駄目みたいなこと言うたの誰か知りませんけど、なんすかそれ、そいつ、ちょけとんすかねそいつ、ほんなもんいちいち耳貸しとってどうすんですか、ほんなもん知ったこっちゃないってくらいの心意気ないと駄目ですよそもそも、だいたい指がどうのとか年齢がどうのってなに逃げ腰になっとんすか、芸術ってのはアレっしょ、おもくそフェアな舞台でしょほんなん、年齢もクソもないっすよ、あのーあれあれ、ジャンゴ・ラインハルトみたいなひとやっておるんすから、ほんなもん関係ないっすわ、いっさい関係ない、しょうもない連中の言うことなんて耳貸す必要ないですよそんなの、クソ喰らえですよ、なにおとなしく言うこと聞いとんすか、ぼくやったら唾吐きかけたりますよほんと、ねえ、もっと突っ張ってくださいよ、だいたいテレビ出とんがええもんとは限らんでしょそもそも、いやほんとぼくの好きなミュージシャンなんてだれもテレビ出とりませんよ、と適当にホラを吹いてみると、いや! いや! いや、どうもすんまへん! あなたの言うとおり! やっぱりあなたはね、ほかと違う! 芸術家やと思うてたんですわ! そりゃ見たらわかる、もう一目見たらそれくらいのこと、ワシらくらいの年齢になるとね、わかるもんですから! 一目見たらわかる! だから声かけさせてもろたんですわ! とあって、とりあえずこの調子で今日交わした会話を書きつづけるとほんと原稿用紙50枚とかになりかねないので以下は端折って書くけれど、そのおっさんの本職は彫り師だった。脛を見せてもらったけれどびっしり蓮の花かなんかが咲いていた。指の痣と見えたのはたぶん彫り物で、あとたぶん小指がなかった。突っ込んでみると、いや不義理をしてもうてね、若いころはほんと酒癖が悪くてね、と照れていた(やくざもんにもっと突っ張れとか説教してしまったじぶんがはずかCが後の祭り!)。高校一年のときだか英語の授業中に弁当を食べていたところ教師に注意されたので腹がたって手近にあった何かをぶんなげてそれで退学になって、育ての親にもうこれ以上の面倒は見れんから働きなさいと親族の経営する会社を紹介されてそこで電気工事かなにかの仕事を数年して、徹夜で工事が当り前だったとか関西電力の偉いさんに袖の下がどうのとか面白いエピソードもいくつかあったのだけれどとにかく色々あって親方相手にぶちきれて喧嘩ふっかけたところボコボコにされて(ここで大笑いすると、いや、でもその後数年してからもう一回挑んだからね、出てこーい言うても出てこやへんもんやから窓ガラスぜんぶ蹴破ってね、それでそのときはまあ、勝ちましたわ、おかげで留置所で一泊しましたけど、でもね、そっからまた十数年経ってからね、ワシ酒おごりましたわ、わざわざ神戸まで会いにいってね、筋だけは通しましたわ、と激烈な反論があった)、それでそのあとはなんだったけな、友人五人で同居生活してたこやき屋経営したりキャバレーのボーイをしたり、でもどんな仕事も続かなくてどうしようというときに銭湯でやくざを見かけて、その刺青を目にしたときにじぶんにはこれしかないと思って彫り師の門を叩いたとかなんとか、結局師匠のもとで修行をしていた期間は一年にも満たず(「不義理をしてもうてね、不義理を!」)あとは独学だということだった。それでだいたい面白い話も聞かせてもらったし小一時間も屋外で突っ立ったままでいたものだからいい加減冷えてきたしそろそろお開きかなと思っていると、最後にええこと、ええこと教えましょか、最後にええこと、ええことでっせ、とどんだけ期待させんだよみたいな前フリをするので、ええぜひ、と応じると、あのね、と秘密を打ち明ける口調で言いながらほとんどキスができるくらいのパーソナルスペースガン無視な距離にまでこちらに接近したうえで、あのね、おてんとさんはみんな見てる、みんな見てるで、と口にしたあげくほとんど神々しいくらい満面のドヤ顔をしてみせて、で、なんかこのあといきなり守護神の話みたいなスピリチュアルな方向に話が急展開し、神社における二礼二拍手一礼の作法だとか神棚の作り方とか塩の盛り方とかそういう諸々をレクチャーされたのだけれどその前にアレだ、たしかじぶんが寅年だみたいなことを言い出して、寅年の守護神は文殊菩薩なのだけれどその文殊菩薩広辞苑で調べてみたところ釈迦のガーディアン(大意)みたいなことが書いてあり、ところで寅年の前後にあたる子年と丑年、それに卯年と辰年はそれぞれのペアにつきひとりずつ別のなんとか菩薩が守護神でそれらをやっぱり広辞苑で調べてみたところ、どちらの菩薩も「文殊菩薩とともに」釈迦を守るとかなんとかそういう書き方がしてあったものだから文殊菩薩やべえじゃん、超えらいさんじゃんとなって、それでじぶんの周囲の家族や友人知人の干支を調べてみるとなんとみんながみんな子年か丑年か卯年か辰年だったのだ! みたいな、だいたいそんなふうな話がくりひろげられたのだけれどこちらとしてはただおれの干支をきいてくれるなとその一念ばかりで、というのもこちらの干支はしょせんは文殊菩薩の脇役にすぎないなんとか菩薩を守護神とする丑だからなのだけれど、ま、案の定そこのところをたずねられたので、いやもうあんま言いたくないっすけど見事に丑ですね、と言うと、もう見たことのないようなすっごいしたり顔が出た。あとこれも別れ際だったように思うけれど、右目の下にほくろがあると異性から言い寄られるタイプ(「宮沢りえとかそうでっしゃろ?」)、左目の下にあると逆に言い寄るタイプらしいのだけれど、ワシは言い寄るほうなんやけどね、もういい加減言い寄られたい、言い寄られたいからね、ほれ、ここにほくろあるやろ、これね、ワシじぶんで刺青いれたったんですわ、とか言ってたのがクソ面白かった。効果はどうですか、とたずねてみたところ、さっぱりや、と歯切れの良い返事があったのがまた可笑しくてふたりしてゲラゲラ笑い、ほんならぼくもまあさびしなってきたらじぶんでペンかなんか突き刺してほくろ作りますわ、と言うと、とたんにきびしい顔つきになり、いやあかん、そんな簡単にするもんやないで、ワシなんかもうこの年やからアレやけど、ほんと一変するから、あんまり簡単にするもんやないで、となぜかいきなりたしなめるような感じになって、その態度というのがいかにもおふざけも軽口いいけどここはきっちり一線画すべき領域だぜ小僧みたいな格好つけたアレだったもんだから、なにいってんだこの煩悩のかたまりが、と思った。それで最後にかたく握手してバイナラした。菩薩さまの名前を口にするときや念じるときは必ず菩薩さまというふうに「さま」まできっちりつけること、呼び捨てもさん付けも駄目だと最後に忠告をくれたのだけれど、当のおっさん、ついさっきまで文殊菩薩文殊菩薩と呼び捨てにしまくりだったし、じぶんの守護神以外の菩薩については完全に名前失念していたりもした。

 以下は2011年12月18日づけの記事より。当時のバイト先であるAV店での一幕。

ちょくちょく見かけるような気もするおっさんというよりはおじいさんよりのお客さんから大学生かとたずねられた。もう卒業してフリーターをしていると答えると、諦念まじりの渋みある苦笑をふっと浮かべ、きみたち若い世代はこれから大変だ、それもこれもわれわれのせいかもしれないが、日本人もめっきり駄目になってしまった、と若干標準語じみたニュアンスで口にしてみせる。日本だけじゃなくてなんか世界的にキナ臭いですね昨今、どうにも嫌な感じがします、と受けてみると、悪徳が蔓延してしまっているんだよ、こうなれば世界はもう終わりさ、滅亡だよ、と言い、ふっと息を漏らしたのち、それじゃあと小さく片手をあげて去っていった。ちなみにそのひとが購入していったのは桃太郎映像の人気シリーズ「酔わせて犯る!」の最新作である。あ、悪徳の蔓延……。

 それから、2011年12月21日づけの記事より。

サルトルのクソみたいな問い掛けに代表される文学の無力さみたいなアレとは別の文脈で、とても素朴に芸術にはなんの力も影響力もないみたいなことを口にするひとがときどきいるけれども、んなわけないだろ、とやはり素朴に思わざるをえない。ちょっと周囲を見渡してみれば、小説でも映画でも絵画でも漫画でもアニメでも音楽でもなんでもいいけれど、でっかく大雑把にひとまず「芸術」と括れるようなあれこれを(その量や質はどうであれ)生産するなり消費するなりすることにうつつをぬかして人生を棒にふっているようなひとたちなんて無数にいる。これだけ多くの感染者を出しているものに力がないとか、いったい何を見てそんなふうに思うのか。ひとひとりの人生を狂わすだけの力を秘めたものに対して無力であると断じることができるわけなどない。
千人に読まれた書物があるとする。千人のうち九百九十九人は「無事」にその一冊を読了することができたものの、残るひとりはあえなく感染してしまった。熱にあてられてしまった。おおいにかぶれてしまった。それまでの人生計画をぜんぶほっぽり出しておれは小説家になると愚直な大志を抱きはじめてしまった、とする。「たった千分の一」では断乎としてない。感染のもたらす不可逆性、とりかえしのつかなさを思えば、千分の一というこの数字はかなりおそろしいものだろう。「芸術の瀕死」なんていうのは幻想であって、むしろこの旺盛な繁殖力、尋常ならざる感染力のほうにひとは畏怖の念を覚えるべきだ。

 そのまま10年前の記事、すなわち、2013年5月2日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

関係の数だけ顔が増えていくという原理を前提として(じぶん探しの旅という紋切り型は「本当のじぶんの探究」ではなく「あたらしいじぶんの獲得」として読解すると正当性をおびる)、さて、いまこうやって対面しているあなたとわたしの関係と、あした別々の場所でたとえば電話しているあなたとわたしの関係は別物で、となるとごくごく素朴に同じものである(とされている)あなたとわたしの関係も、決してあなたをあなたとして束ねるのが無理であるように、わたしをわたしとして束ねるのが無理であるように、ひとつの関係として束ねるのは無理であり、たとえあなたとわたしだけしかいない無菌世界であっても、あなたもわたしも無数に無限にあらたな顔を獲得していくことになる。そしてもちろんこの世界は無菌ではない。時があり、記憶があり、歴史があり、文化があり、環境があり、文脈があり、教義があり、あなたとわたし以外の無数の存在があり、風は吹き、水は流れ、大地は腐り、炎はかたちを変え、それら刻一刻と更新されていく包括的なこの世界そのものの微細で巨大な流動性の影響を受けないわけにはいかぬものとして、やはりまたあなたがいて、わたしもいる。あなたの中にはあなたをとりまくすべての環境とあなたにいたるあらゆる因果律が内包されており、わたしの中にはわたしをとりまくすべての環境とわたしにいたるあらゆる因果律が内包されており、ゆえに「あなた」といま呼びかけたあなたとは呼びかけた瞬間の世界そのものの横顔であり、「わたし」といま呼びかけたわたしもまた呼びかけた瞬間の世界そのものの横顔である。いまや関係の数だけ顔があるのではない。任意の瞬間の数だけ顔があることになる。すべて世界の横顔。すべて。ひとしく。
たとえば、こういう話を英語でするのはむずかしいだろうなと思った。譬喩でも使わなければやってられない。けれど譬喩には精度の粗さという致命的な弱点がある。譬喩とは換言であるのだから。そして換言には(原理として!)誤差がつきものなのだから。むろん、その誤差を増殖させて収拾をつかなくさせていくところにテクストの快楽がある。それもまた疑いない。バルトならきっとそう言うだろう。

 夕飯は第五食堂で打包。食ったあとは仮眠をとらず、Grim Tidesをついついプレイしてしまう。一時間ほどプレイしたところで、いやこんなもんするためにある連休ちゃうやろ! となって切りあげる。で、全然そんな気分ではなかったのだが、あたまを切り替えるためにYouTubeで適当なビートを流してフリースタイルをやりはじめたところ、すぐに気持ちよくなってしまい、それで結局電気を消した状態で小一時間ひとりでべらべらやり続けたし、その過程でどうせ時間を無駄遣いするのであればやっぱこっちのほうがいいわというわけでGrim Tidesもアンインストールしてしまった。フリースタイルって最初の10分くらいがいちばん調子がよくて、30分を超えるとさすがにもうだらけてくるというか、言葉もやせほそってくるし、噛んだり詰まったり言い間違えたりする頻度も上昇するのだけど、そういうぐだぐだな状態におちいっているときにふと、あ、これってもしかしたら精神分析の代替手段になりえるかもしれんなと思った。知を想定された主体が不在の場であれば、どれだけ言葉を吐きだし連ねたところで意味などないのかもしれんが、それでもビートやリズムという外圧によって無理やり絞り出されることになる言葉には、その意外性とその凡庸さの両面において、あとになってほかでもないその言葉を口にしたこちら自身に、なんであんなこと言ったんや? と戸惑わせるものがときどきあるのだ。疲れが蓄積し、言葉が痩せほそり、それでも無理やり絞りださなければならないから絞りだした言葉が、ときどき自分をつまずかせるものであったりする——その言葉をたとえば無意識のあらわれであるとあえて俗流に解釈する前提に立つとき、フリースタイルという形式そのものが自身の無意識をあらわにする場であるという認識が成立するとともに、その場こそがほかでもない知を想定された主体として機能しはじめ(「この場はわたしの無意識の媒介となる」という思い込み=転移の出現)、アクロバティックな分析空間がたちあがる、そう言ってみることはできないだろうか? 楽曲の単位が(短時間)セッションを模し、小節が切れ目を模し、うまくつなげることができずどもるだけになってしまった箇所が、セッションを終えたあともなお残る秘密の暗示として、その後の時間を喉に刺さった小骨のように不愉快に刺激し続ける。
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。四年生の(…)くんから卒論の一部をチェックしてほしいと微信が届く。コーヒーを淹れ、今日づけの記事を記事をここまで書く。

 時刻は22時半前だった。(…)くんからの依頼をちゃちゃっと片付ける。それから日語基礎写作(二)の添削。全員分を終えると1時になっている。(…)さんだけ未提出だったので、事情を問う微信を送っておく。授業態度のあまりよろしくない彼女のことであるし、意図して清書をサボったのではないかという疑念もなくはない。そうだとすれば、ここらで一発注意しておいたほうがいい。
 懸垂する。ジャンプ+の更新をチェックし、プロテインを飲み、トースト二枚食す。歯磨きをすませて寝床に移動するつもりだったが、寝る前にちょっとだけやるつもりだったフリースタイルが結局また小一時間続いてしまう。あかん。気持ち良すぎる。ずっとやってまう。
 寝床に移動。福間健二の訃報に触れる。先月26日に亡くなったらしい。なんといったって「きのう生まれたわけじゃない」のひとだ。映画作家としての福間健二の作品に触れたことはないが、詩集は何冊か読んでいる(『きみたちは美人だ 21 poems』、『秋の理由』、『侵入し、通過してゆく my favorite things』)。現代詩文庫に主として収録されている、血生臭いイメージが饒舌に羅列されている作品群よりも、たぶんそれより後の時代のものということになると思うのだが、平易に切りつめられた言葉が隠喩の体系を作りそうで作らない、見取り図が結ばれかけるそのぎりぎりのところで思いがけない言葉が配置されるせいでご破算になってしまう、意味との不思議な距離の取り方が達成されている作品が好きだった(それに影響を受けてふたつみっつそういう詩を書いたこともある)。マイケル・オンダーチェの訳書は結局まだ読んでいない。
 上の段落を書いている最中、はじめて知ったのだが、平易の読みって「へいえき」じゃなくて「へいい」なのか! ずっと「へいえき」って口にし続けてきたんやが!