20230530

(…)and the large hulking Joy, whose constant outrage had obliterated every expression from her face, would stare just a little to the side of her, her eyes icy blue, with the look of someone who has achieved blindness by an act of will and means to keep it.
(Flannery O’Connor “Good Country People”)



 10時半起床。朝昼兼用で第五食堂の炒面を打包する。食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。シャワーを浴び、鼻うがいをし、白湯を飲む。二年生の(…)くんから微信。コロナに感染したかもしれないという。ルームメイトの(…)くんとそろって昼から頭痛と咳が出はじめたとのこと。のちほどクラスメイトらに確認したところ、午前中の授業はふつうに出席していたらしい。
 第五食堂の一階でミネラルウォーターを買う。ケッタに乗って外国語学院へ。駐輪場のすぐ近くでたばこを吸っている(…)の姿を見かけたので遠くから手をふる。Long time no see! とたがいにあいさつしたあと、I finally got Covidと告げると、Congratulations! という予想通りの反応。もうよくなったんだろうというので、問題ない、熱もたいしたことはなかった、でもいまもまだ嗅覚と味覚がないままだと続けると、ちょっと深刻そうな顔になった。家族はみんな健康かとたずねると、健康だという返事。(…)が二度目の感染をしたという話もあった。しかし今日から仕事に復帰しているという。授業はまだあるのかというので、あると応じる。16週目まであるのかとかさねてたずねてみせるので、そうだと応じたのち、英語学科はそうではないのかとたずねかえすと、12週目だったか14週目だったかで本来終わるらしい。今日は補講とのこと。国際学科のほうの授業は16週目まであるようだ。来学期は日本語学科のクラスがふたつになる、いそがしくなりそうだというと、ほかの日本人教師はいないのかというので、Covid以降かなり多くの日本人が帰国してしまった、しばらく新人が赴任してくることはないだろうと応じた。
 立ち話をしているわれわれのそばを(…)さんが通りすぎる。以前も似たようなことがあった、(…)と廊下で立ち話をしているといつも(…)さんが通りがかる気がする。(…)と別れて教室へ。14時半から二年生の日語基礎写作(二)。連絡のあったふたりのほかに(…)さんも欠席。彼女からはのちほどアラームに気づかず寝坊してしまったという連絡があった。授業前半で「三題噺」の清書、後半で最後の課題「(…)」。学生が作文を書いているあいだにこちらは添削作業。休憩をはさんで16時半から日語会話(三)。期末試験についての資料を配布して説明する。それからあまった時間で、本来は文学の授業でやっている「(…)」をやる。最後の授業なのでほぼゲーム感覚。
 二週間ぶりの授業ということもあり、のどや鼻の調子もいまひとつということもあり、なかなかけっこう疲れた。特に声を張ることができないのはけっこう致命的だ。鼻はまったく詰まっていないのだが、やはりツンとした痛みがあるし、実際にしゃべってみると鼻声になっている。鼻うがいして治すしかない。
 いずれにせよ、これで授業らしい授業は全部終わった。あとはテストだけだ。今学期はほぼ終わったも同然だ。教室を出る。駐輪場でスクーターにのった(…)と軽くあいさつする(「これから味のしない夕飯が待っているよ!」)。第五食堂に立ち寄ってメシを打包して帰宅。モーメンツに先日投稿した「卒業生への手紙」に対して日本留学中の(…)さんから「(…)さんの教え子でない人にとっても素晴らしい文章です。なぜか感動しました!」とコメントがあったので「感動料は1000元になります。今すぐぼくの銀行口座に振り込んでください」と返信。夜には(…)くんから、彼もいちおう元教え子であり、かつ、今年大学院を卒業するという立場だからだろう、文章を読んで思うところがあったらしく、以下のようなメッセージが届いた。

(…)

 ひとつ書き忘れていたが、授業のあいまの休憩時間中、便所の前でたばこを吸っていた(…)先生と立ち話したのだった。彼は今年はじめてスピーチコンテストの指導にあたるわけだが、担当は四年生だという。結局だれが代表になったんですかとたずねると、(…)さんという話。しかし院試組であるわけだし、途中でやっぱりやめますというアレになる可能性もなくはない、そのことを少々心配しているふうだった。
 メシを食ったのち、ひさしぶりに授業をしたからだろうか、猛烈に疲れていたので気絶するように30分ほど眠った。それからシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事を投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年5月30日づけの記事の読み返し。以下、初出は2021月5月30日づけの記事より。

熊谷 今日のまず最初のテーマ「切断」に関して、綾屋さんの『発達障害当事者研究』ではどんなことが語られているのか、ここで改めてご説明しましょう。
 この本の最初のほうで、「したい性」という造語が出てきます。何々がしたい、というときの「したい」です。そして、「したい性」は「します性」という言葉と対比して使われます。
「します」も、「したい」も、どちらも「意志」というカテゴリーに含まれるかもしれません。何かをする、したいと思う。そしてその意志が立ち上がったあとに、実際に行う。おそらく、多くの人が「意志」と呼んでいるものを、綾屋さんはハイレゾリューション(高解像度)で記述します。
 簡単に言うと、意志とは皮膚の内側からやってくる数多の情報と、皮膚の外側から入ってくる数多の情報を無理やりまとめ上げたものだというのが綾屋さんのモデルです。意識に残っているかどうかはともかく、私たちは内側からも外側からもたくさんの情報を得つづけています。例えば、胃袋が今ギュッと鳴ったとか、心臓がドキッとしたとか、息がハアハアと少し荒くなったとか、これらは皮膚の内側からの情報です。それに対して、目の前にコップがあるとか、おいしそうなカツ丼があるとか、外から入ってくる情報もたくさんあります。
 そして、内側からの情報も外側からの情報も、単に情報としてあるわけでなく、こちらに向けて、さまざまな行為を促してきます。前回も少しご説明しましたが、このような行為を促してくる情報を、アフォーダンスと言います。それらの情報は内側からも外側からも自分の好意をせき立てるものとして入ってくる。そのときに、各々の情報が同じ行為をせき立ててくれていればいいのですが、そうとは限らない。互いに矛盾する場合もある。胃袋が「何かがっつりしたものを食べたい」と主張してくる。でも喉は「さっぱり飲み込みやすいものがほしい」と促してくる。そして目の前にはトンカツしかない。さて、どうする?
 そんなふうに、内側からも外側からも流れこんでくる大量の分子的なアフォーダンスはしばしばお互いに、矛盾する。綾屋さんは、その矛盾した情報あるいはアフォーダンスの海のなかにいるようなものだと思います。そうすると、「こうしたい」という意志がなかなかまとめ上がらない。つまり、モル的な「意志」が立ち上がっていくそのプロセスが、非常にゆっくりとしているわけです。立ち上がらないわけではないが、時間がかかる。
 例えば、何か食べたいという「したい性」が立ち上がるまでに、丸二食、食事を抜くことになってしまって、ようやくそれが立ち上がったときには、比喩ではなく、空腹感で倒れる寸前だったりするんだと。これは、國分さんが分子的、モル的と説明されたことを、アフォーダンス、意志で記述し直したと言えるのではないでしょうか。「でも考えてみると」と、彼女は言います。いわゆる、健常者と言われている人たちが、「あまりにも、うっかりしているじゃないか」。すぐに意志をまとめ上げてしまっているように見える、と。「空腹感って、そんなに簡単にまとめ上がるの?」と疑問を提起しています。
 もしかしたら、ここで言われている「うっかり」ということこそが、「切断」の別名なのかもしれません。いわゆる健常者は、あえて切断しているわけではなく、うっかり、つまり意識しないうちに情報の一部を切断している。実際は、きわめて大量の、かつお互い矛盾するようなアフォーダンスがあるわけですが、いつのまにかそれが取捨選択され、まとめ上げられて、モル的な意志が生成されている。しかしいっぽうで、ある人々にとっては、その生成は容易なことではなく、そのことにとても時間がかかってしまうということです。
 もう一つの「します性」について説明しましょう。これがいわば、綾屋さんの「切断戦略」なのですが、自分の内側からの情報や外側からの情報を切断するために、規則を決めておく。例えば、何曜日の何時何分からは、身体がなんと言おうと、状況がどうだろうと、決めたことをすることに「します」。それを「意志」と呼ぶかどうかはともかくとして、規則によって身体内外のアフォーダンスを切断して、とにかく、行為を選択する。「したい性」がなかなかまとめ上がらないことの代わりに、自分で規則を設けて、そのとおりに自分を動かす。これを「します性」という言葉で表しています。
 自閉症の人に対して、「こだわりが強い」と言われることがよくあります。しかし、それは、もしかすると、この「します性」で動くことに対して言われているのかもしれない。そして、「します性」で決めたとおりにことが運ばなかったときには、ご本人は非常に混乱しやすいのです。それらに対して、健常といわれる人が、「こだわりが強い」と記述しているだけなのではないか。全員ではないかもしれませんが、自閉症と呼ばれている人たちのなかにそのような傾向があるのではないか。
 先ほど國分さんがおっしゃられたことに重ねると、自閉症と呼ばれる人々のなかに、身体内外から入ってくる大量の分子的なアフォーダンスが意識に上ってしまう場合がある。これはある意味で、切断が起きておらず、意志が立ち上がっていない中動態的な状態です。しかし綾屋さんは、すでにご紹介したとおり、このようなアフォーダンスのすり合わせ過程がすべて意識に上ることは、決して楽なことではなく、膨大な情報のすり合わせとまとめ上げの作業に時間がかかってしまって身動きが取れなくなるような日常を過ごしているのだ、と言っています。
 それに対し、なぜなのかはよくわからないけれど、定型発達者、いわゆる健常者はその一部始終が意識に上らないようにできているらしい。言い換えると健常者というのは、モル的な行為の決断が分子的なアフォーダンスのすり合わせによって生成したという自覚さえもないまま、それがあたかも何もないところから生まれたように感じることができるのではないか。このことは國分さんが前回おっしゃられた「無からの創造」を少し想起させるようにも思います。
國分(…)スピノザが意志について述べていることが参考になるかもしれません。スピノザは自由な意志は存在しないと言う。けれどもスピノザは人間が主観的に意志という能力を感じていることは否定してはいないんです。
熊谷 錯覚かもしれないわけですけれども、たしかに感じてはいますものね。
國分 ええ、そうです。人間は自分では意志を感じる。それはある意味では意志が「うっかり」生成するものだからだと言えるかもしれません。頭のなかで、いろいろな演算が行われて、その結果が意識に上ってきます。意識には結果しかわからない。その諸々の結果をうっかりまとめ上げてしまうことで意志を感じられるようになる。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.205-211)

 それから2013年5月30日づけの記事を読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。今日づけの記事も一気呵成にここまで書くと、時刻は23時半前だった。作業中はきのうに引き続き、辻田絢菜の《セーブ・ポイント》をずっと流していた。この曲はマジでいい。

 鼻うがいをし、トーストを食し、ジャンプ+の更新をチェックした。そうして歯磨きをすませたのち、ベッドに移動し、Bliss and Other Stories(Katherine Mansfield)と『ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村愛子)の続きを読み進めて就寝。