20230608

 クレーのマス目のデッサンを例に取ると, 縦方向のマス目の系列を「範列(パラディグム)」, 水平方向の連続関係を「連辞(サンタグム)」と考えてみることが出来ます. 実線によりどのマス目を現働化させるかは範列の問題であり, つぎにどのようなかたちが来るかは連辞の問題だからです. そのようにして生まれる図が「言述(パロール)」というわけです.
 言語活動において, 意味が実現するのは, 範列軸・連辞軸にのっとって言語活動が結びつけられ「文」が生み出されたときです. そのとき, 文の意味は, 実現した個々の記号(=形態素)の意味作用のたんなる総和としてではなく, 現働化した一連の記号の相互連関のかたちと不可分な意味, すなわち, その文に固有な《意味=形式》の出来事として生起することになる. つまり今度は, 記号の布置(configuration)という新たな次元があらわれることになるのです.
 ここにおいて, 私たちは, はじめて, 意味の意味に行き当たることになるのです. 「意味」とは, 記号の実現が記号の布置として成立したとき, その記号の布置のかたちと不可分な配置として起こる世界と私たちとの関係づけなのです. 記号活動にとって, 「主体の問題」が提起されるのもじつはこのレヴェルにおいてです. というのも, 記号活動における「いま・ここ・わたし」が組織されるのも, このような文以上の記号実現の次元においてだからです. 「主体」とは, 記号の現働化において実現する「いま・ここ・わたし」の布置により生み出される効果である, と考えてもよいのです. 文以上の記号活動の出来事を言語学では「ディスクール(discours)」と呼びますが, ディスクールが生まれるときには, 言語記号のシステムの全ての活性化と世界の経験とが固有な一致をそのつど実現するのだ, といえるかもしれません. 世界との固有な関係性, つまり意味がそのとき生まれるのです.
 クレーの「歌手のホール」では, マス目のデッサンと同じように縦軸を範列関係に, 横に延びてゆく線を連辞関係に例えて考えることができます. 縦軸の分節の自由なヴァリエーションと横軸の必然的な結びつきによって, 絵自体を構成するかたちの布置は, 「歌手のホール」という世界の経験と固有に一致したディスクールとして実現するのです.
小林康夫・船曵建夫・編『知の論理』より石田英敬「構造とリズム ソシュールvs.クレー」)



夢。砂場にいる。視界の右隅にRPGのフィールド移動時に展開されるようなワールドマップが表示されており、そこからじぶんがこのマップの南西方向ぎりぎりの最果てにいることがわかる。砂場の上にはプロテインの入った袋がひとつ置いてある。じぶんが置いたものである。遠方よりひとりの男がゆっくりとこちらにむけて歩いてくる。日本人であるが、顔が濃い。髭と長髪と顔立ちの彫りの深さからどことなく中東系の雰囲気がある。どことなくキアロスタミ『クローズアップ』の主演人物に似ている。男はにやにやとどことなく白痴めいた笑いを浮かべながら中に砂か石灰のつまった小さなどんごろすのようなものを運んでいる。そうしてそれをプロテインの置かれてある砂場の一画にどさりと投げ落とす。男の意図はこちらの受け狙いである。男はインターネットを活躍の場とする芸人のような存在らしい。本来プロテインが並べられるべき一画にどんごろす、というボケのシュールさがじわじわと浸透しだすも、ひとに褒めてもらうのを待つ白痴の子のようなにやにや笑いがせつなく胸に押し寄せるようなところもあって、感情が一方にふりきることがない。
6時半起床。8時より12時間の奴隷労働。ひさしぶりの満室。かなり忙しかった。(…)が受験生時代に使っていたという英語の熟語集みたいなのを何年か前にもらっていて、今日それをなんとなくペラペラながめていたのだけれど、八割型は頭に入っている感じで、でもそれはあくまでもリーディングでの話であってスピーキングで自由闊達に扱えるかといえばかなりあやしいみたいな、そんな具合だったのだけれど、ただ熟語の使用例として掲載されている短文とかこれひょっとすると瞬間英作文にちょうどいいレベルなんではないかと思われるところがあり、それでひとまずテキストを最初から最後まで通して読んでみて、アリだと思ったらそういう使い方で一冊まるごと潰そうと思った。
帰宅。夕飯はすでに職場ですませてきた。筋トレをしようかと思ったが、腹がいっぱいだったのでパス。風呂場にむかうと大家さんの寝室に明かりのついているのが見えたので部屋に引き返して財布を手にとり、それでずいぶん遅くなってしまったけれど家賃を支払いにいくことにした。ついでに大家さんと30分ほど世間話した。大家さんは今年で95歳になるという。過去の住人の話などもろもろ問わず語りに語るところをうんうんうなずきながら聞いていたのだけれど、なんかやたらと弁護士が多い。むかし奉公に出ていたころ……という切り出しがあり、奉公!と思った。医者のところで世話になっていたらしい。どんな小説を書いてはるんですか、と、腐るほど耳にしてきたこの質問とはいえまさか大家さんの口から発されるとは! という驚きの瞬間もあった。答えあぐねていると、まあわたしみたいな学のないもんにはわかりゃしませんのやろなぁ、あんたさんは学者さんやから、とあって、んなこたぁないっす、ぼくなんていうてみりゃただの貧乏作家っすよ、と応じると、大声で笑い、その後も何度か貧乏作家という言葉を口にしてみたのだけれどそのたびに大家さんは大口を開けて笑って、このひとの笑いのツボはたぶんここにある。途中(…)のことを切り出そうかと思ったが、まだ早い、7月に入ってからでいい、と踏みとどまった。わたしあなたの大家さんに長生きの秘訣をきくわ、と彼女は語っていた。いつの夜だったか、不意に(…)が不慮の事故か何かで死んでしまうという想像にスイッチが入ってしまったことがあった。ちょっと耐えきれそうになかった。