20230623

 11時過ぎに夢にうながされるようにして目が覚めたがその夢の内容はまったくおぼえとらん。粽子四つ食し、コーヒー飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年6月23日づけの記事を読み返す。2013年6月23日づけの記事(22日の内容も含む)も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。23日は(…)さんと(…)さんと(…)と(…)さん((…)さんの足)と鴨川や田んぼでシマドジョウを捕まえた日。その後、(…)さん宅で酒を飲んだり(…)を吸ったりして過ごしたのだが、別れ際にこちらと(…)さんが乱闘、いま思えばけっこうまずかったんではないか、真夜中であったし仮に近隣住民が警察に通報していたら全員まとめてパクられていたんではないか。しかしこちらの記憶がたしかであれば、この件がきっかけとなって、こちらの職場での扱いが変わった、それまで猫をかぶっていたことが同僚らにバレたわけであるが、それが結果的に、チンピラ上がりとヤクザ上がりばかりの同僚らからは評価されるきっかけになった、「なんやあいつただの大卒かと思っとったらこっち側の人間かい」みたいな空気の変化をバリバリに感じたのだ。(…)さんからは「おまえみたいに耳にデカい穴あいとるやつ最初からふつうちゃうと思とるわ」と一蹴されたが。

 「究極中国語」をぶつくさ進める。17時前になったところで第四食堂へ。窓口で饭卡にチャージするつもりだったが、うすうすそんな予感がしていた、閉まっていた。連休中だからではない。期末テスト期間中だからでもない。張り紙によれば、大学が取引先の銀行を変更するためにうんぬんかんぬんとある。たぶんシステムを組み直す必要があるのだろう。銀行の変更については以前(…)からそんな話があった。いまのところは別になにをどうしろとも言われていないわけだが、もしかしたらあらたに銀行口座を開設したり、饭卡を新調したりする必要も今後あるのかもしれない。そうなったらめんどい。
 第五食堂へ。二階はすでに封鎖されている。営業は一階のみ。しかたないので一階の店で打包するが、ぼちぼち自炊を再開するタイミングかもしれない、帰国までの三週間はまたタジン鍋の日々だ。
 帰宅。食す。仮眠をとるためにベッドに移動し、『あのこは貴族』(山内マリコ)の続きを読み進めるも、冴えてしまって二度寝どころではなかったので、そのまま活動再開することに。『あのこは貴族』の続きを読んでしまいたい気分だったので、日曜日の習慣を前借りする格好でスタバへ。夜には気温が21度まで低下するとの予報だったので、服装をどうしたもんかと迷ったが、ふだんあまり着たり穿いたりしていないやつだけでコーデしてみようという気分になり、結果、もう四、五年前に日本の古着屋で買った、迷彩柄に重ねてダサい虎の顔があちこちにプリントされているチープなナイロンジャケットを白のTシャツの上にはおり、下は(…)さんから譲りうけた、一見するとデニムっぽいのだけれども実際はストレッチのきいた素材の、たぶんユニクロのものだと思うパンツをあわせた。ラルフ・ローレンのブレスレットもつける。上から下まで全然ふだん使っていないアイテムだったのでちょっと新鮮な気分。
 それで万达にあるスタバへ。往路はあるかなしかの雨降りだったが、広場に到着するころにはほぼ降りやんでおり、クソデカいボリュームで音楽を流しながら广场舞しているおばちゃんおじちゃんの姿も健在だった。金曜日の夜ということもあってか、スタバの店内はほぼ満席。レジ近くの丸テーブルが偶然空いたのでそこに陣取る。美式咖啡を飲みながら『あのこは貴族』(山内マリコ)を最後まで読み進める。「第二章 外部(ある地方都市と女子の運命)」で、地方都市のあれこれが東京と対比的に描写されるのだろうなと楽しみにしていたが、そのあたりはもう『ここは退屈迎えに来て』をはじめとする過去作でやりきったという手応えがあったのだろう、ここではむしろ地方都市出身の若い女性が東京でどう暮らしていくかのほうに主眼が置かれており、「実弾(仮)」のネタ採集も兼ねての読書だったのでそこはちょっと残念だったが(とはいえ、「正月ということもあって街に人出はあったが、歩道を歩く人よりも車の方が多いのは相変わらずだ。なにしろ道を歩いているだけで、知らずに目立っている。信号を渡るときは車に乗る人が、高みの見物よろしく通行人を眺めている視線を感じた。」というマジで共感しかおぼえない田舎あるあるがさらりと書きつけられているあたり、やっぱりすごいのだ)、それはそれとして、小説としてやはりおもしろく読んだ。
 「第三章 邂逅(女同士の義理、結婚、連鎖)」については、「三人の女」(ムージル)が一同に会して語り合う場面に、最初、ちょっと違和感をおぼえてしまった。それまではある程度丁寧に描写されていた心理のひだのようなものが、ここではかなりひかえめになり、シスターフッド的な連帯が成立するにいたるまでの過程が、ちょっとご都合主義的に運びすぎているのではないかという印象を感じたのだ。小説の構成上、仮にこの三人のあいだに連帯関係が結ばれるにいたる過程を、第一章や第二章と同じテンポ同じ密度で描くとなると、それだけで独立した一章がおそらく必要になるだろう。そういう紙幅の都合があったからこそ、この「邂逅」はあらかじめ用意しておいた言葉を小説のなかにやや強引に挿入するかたちで処理することにしたのではないか、ありていにいえば(現代文の試験における)「作者の気持ち」みたいなものをそのままごろりと差し出すことでよしとせざるをえなかったのではないか(こうした違和感については、『メガネと放蕩娘』でもたびたび感じた、というか『メガネと放蕩娘』はわりと全編通して、最初から決め打ちしているような風通しの悪さがあり、小説的な細部のなまなましさに欠けていると感じられた)。ただし、婚約したばかりの女(華子)とその婚約者と十年ほどセフレだった女(美紀)とふたりの女の媒介者である女(逸子)らのあいだで、ほとんどトントン拍子に築かれていくかのようみえるそのような連帯に対して、ここはちょっとリアリティに欠けるのではないか、描写やエピソードの厚みがないので説得力にとぼしいのではないかとするこうした違和感そのものが、そもそも作中における「もしかしたら男の人って、女同士に、あんまり仲良くしてほしくないのかもしれないね。だって女同士で仲良くされたら、自分たちのことはそっちのけにされちゃうから。それって彼らにしてみれば、面白くないことなんでしょ」というセリフでもって先取りして批判されていると読むこともできる。その読みに即した場合、こちらは自分がまぎれもない男であること痛感せざるをえない(難しい立場に置かれた三人の「女」がそうやすやすと連帯できるかという疑問を抱くこと自体が典型的な「男」の身ぶりである、と)。
 仮に三人の女の連帯がむすばれてほどなくこの小説が終わりを迎えていたのだとすれば(この「邂逅」が第三章における大団円であり中心であるとすれば)、こちらはやはりこの第三章を第一章や第二章とおなじように評価することはできなかったと思うし、急ぎ足でまとめにかかっている、「出来事」や「描写」を圧倒的に塗りつぶす「意味」による息苦しさを感じるという判断をやはり下していたと思うのだが(とはいえ、くりかえしになるが、そうした評価そのものがすでに作中で先取りして批判されているという読み筋は確実にある!)、小説はしかしその後、ギアをチェンジしたかのように一気に加速しはじめる。華子の結婚式→結婚生活→離婚→離婚後の暮らし→元夫との再会という出来事が、それまでとはあきらかに異なるペースでびゅんびゅん語られていくその加速度に即して読んでいくと、第三章の中心としてそこを読むのであればどうしても作為が気になってしまう連帯の場面も、それがその後の加速度的な展開にともない脱中心化されていくにつれて、次第に瑕疵とはみえなくなっていくのだ。そして、加速する展開のなかで語られていく、東京の中心に生まれ東京の中心を出ることなく育つエスタブリッシュな一族も結局地元の閉鎖的な世界で一生を過ごすという地方都市のマイルドヤンキーらと構図としては同じであるという認識や、そしてそのような人間がこの国の中枢を牛耳る政治家の大半であるという真っ当かつ堂々たる指摘が続く。ここはすばらしい、特にここで批判の矛先が世襲政治家にまでリーチしたのはすごいと思う。華子や幸一郎という人物が、一見するとはなやかにみえるが、というか実際にはなやかな暮らしを送っているのは事実であるのだが、田舎を一度も出たことのないマイルドヤンキーらと同様、ごくごくせまくかぎられた世界でしか生きておらず、「他者」との遭遇もほぼ経験したことのないまずしい人生を送っていることが指摘されたうえで、そのような言ってみれば無知な人物こそが国の舵取りをおこなっているのだという認識が語られる。第一章および第二章で、華子や幸一郎の生まれ育った環境というものが圧倒的なディテールとともに描かれていたからこそ、このくだりはなかなかすさまじい説得力をもってせまってくるのだ。喝采

 しかし金曜夜のスタバにはできればもう行きたくない。とにかくやかましい。レジに並びながら電話しているおっさんがいたのだが、いったいどうしてあそこまで声を張りあげる必要があるのか、本当に理解できない。電話越しの通話であるのに、店の端からもういっぽうの端にまで届くようなボリュームで話すのだ。こちらのそばの円卓には男性二人組が着席していた。途中でKindleから顔をあげてそちらを見ると、ある意味クラシックといってもいいようなベア系のゲイカップルだった。(…)ではあまり見かけないタイプ。めずらしい。
 書見をはじめる前、二年生と三年生のグループチャットにそれぞれ、明日の四級試験がんばってね! 応援しています! 的な激励を送っておいたのだが、二年生の(…)くんからすぐに「来年も応援してください」という反応がとどいたので、これには笑った。あきらめるのがはやすぎる。
 帰宅。咸蛋を食す。シャワーを浴び、ストレッチをし、トースト二枚を食し、今日づけの記事の続きを書く。中断後、懸垂し、プロテインを飲み、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェック。Kindle早川書房電子書籍50%セールが開催中であるという情報をゲットしたので、『異常論文』(樋口恭介・編)、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(フィリップ・K・ディック浅倉久志・訳)、『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック山形浩生・訳)をポチった。『異常論文』はもともと一時帰国後に紙の本を買うつもりだったのだが、セールでこれだけ安くなっているのであれば電子書籍でもいいやと買ったかたち。もちろん「無断と土」(鈴木一平+山本浩貴)目当て。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』は保坂和志が選書で挙げていたのをおぼえている。『ヴァリス』は新訳が出たときに、伝説のあの作品がついに! みたいな盛り上がり方をしていたので、ちょっと気になっていた。フィリップ・K・ディックの英語はそれほど難しくないという話を聞いたことがあるのだが、SF用語や神秘主義用語や造語だって頻出するだろうし、時空がズタズタに切り裂かれるような内容をはたしてこちらの英語力で追うことができるかどうかもかなりあやしいと思うので、まずは翻訳で読んでみることにした。おもしろかったら原文でも読みなおす。ディックの作品自体は(…)でバイトしていた頃、というとつまり10年以上前ということになるんだろうが、図書館で借りた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』一冊を読んだことがあるだけ。三冊ポチったついでにたぶん三年か四年ほど放置しているほしいものリストをのぞいてみたのだが、『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)もセール対象で値引きされていたので、これもポチった。しかしこの本、2011年発売だったのか。12年間も手元の図書リストに入ったままになっていたことになる。まあ、それを言い出せば、おなじ図書リストに記録されたまま10年以上手付かずになっている本なんていくらでもあるわけだが。人生、有限。しゃあないわな。
 ベッドに移動後、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(フィリップ・K・ディック浅倉久志・訳)をちょっとだけ読んで就寝。序盤ですでにめちゃくちゃおもしろい。