20230627

 正午起床。トースト二枚とコーヒーの食事をとりながらきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年6月27日づけの記事を読み返す。「実弾(仮)」第三稿に着手した日らしい。2013年6月27日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。(…)アパートの大家さん相手に夏休み中の(…)滞在の交渉を試みた日。決裂とまではいかないが、暗雲たちこめる結果に終わっている。しかし後日、彼女はじぶんの親族であるという、どう考えても無理のある設定をダメ元でぶっ放してみたところ、大家さんの態度が豹変し、受け入れ体勢が一気に整うのだった。
 「究極中国語」のノルマを片付けると、時刻は16時をまわっていた。二年生らは今日の午後までテストだったらしく、考完! 考完! 放假! 放假! とモーメンツで続々と快哉をあげている。おつかれさん。

 『本気で学ぶ中国語』を小一時間進める。その後、ケッタに乗って(…)へ。食パン三袋購入。おばちゃんからfang4jia1がどうのこうのと言われて、あれ? fang4jia1ってなんだっけ? 聞いたことがあるぞと考えたところで、放假であることを思い出し、そうそう、今日で学生たちは試験が終わりだよ、夏休みだよと応じた。帰国するのかというので、来月の15日に帰ると答える。いつこっちにもどってくるのかというので、8月の22日だったか23日だったかというと、あんた中国語上手になったねという反応。ふだん你好と谢谢とバイバイしか口にしないので、ちょっとびっくりしていたのだと思う。
 第四食堂をのぞいてみる。一部の店は営業しているが、夏休みが正式に開始となる明日以降はどうなるのだろう。そもそも饭卡にチャージできない現状、どのみち自炊をしなければならないのではと思ったが、なんと! 微信での支払いが可能になっていた! だったらもうめんどうな自炊をする必要もないかもしれない、食パンと冷凍餃子と食堂で三食まかなうこともできるのでは?
 帰宅。食す。仮眠とってシャワーを浴びる。あがってストレッチしていると、三年生の(…)くんから着信。卒論用の本を貸してほしいという話かもしれない、電話してくるということはすぐ近くにいるのかもしれないと察したが、風呂あがりだったのでいったん無視することに。のちほど執筆の合間に連絡をとると、やはりこちらの予想通りだった。明日の夕方か夜であればいいよと伝える。
 20時半過ぎから0時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。624/1016枚。シーン32、無事片付く。さすがにある程度稿を重ねているからか、ここはちょっと苦手意識があるんだよなァと気乗りしないシーンでも、実際に読み返しながら手を加えてみると、あれ? けっこうええ感じやん! となることが多い。シーン33も途中まで進めた。ここは作中唯一の長谷村視点。まおまお視点で書くこともできたわけだが、長谷村視点をチョイスした初稿時のじぶんに喝采を送りたい。内面の葛藤などをいろいろ加筆したくなるが、そこはぐっと抑えてひかえめにする。
 懸垂をする。プロテインを飲み、粽子を食し、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックする。『「逆張り」の研究』(綿野恵太)がKindleでリリースされたのでポチる(『「差別はいけない」とみんないうけれど。』は図書館で借りて読んだが、『みんな政治でバカになる』はまだ読んでいない)。なんとなく気になっていたのだ。それでベッドに移動して初見。朝方までかけて半分ほど一気に読んだ。最初はかなりライトなエッセイだなという印象だったのだが、読み進めるうちにどんどんおもしろくなってきたし、なによりところどころ顔をのぞかせる著者の個人的なエピソードであったり(予備校時代の仲間たちの話)、いわゆる「論述」を逸脱する箇所であったりがいい。そういうものがこの本を特別にしていると思う。「論述」を逸脱する箇所というのはたとえば以下のようなくだり。

 この耐えがたさをうまく理屈にするすべがぼくにはないので、大多数の読者にはわからないと思う。ぼくもわかってもらおうと思ってないので、以下の言葉は感性の違いなのだと聞き流してほしいが、資本主義から安心、尊敬、信頼される人間になる耐えがたさとは、あらゆる安心尊敬、信頼がお金に換算されてしまう耐えがたさであり、働く大人の昼ごはんを紹介するテレビ番組が経営者のランチばかりを紹介する耐えがたさであり、社長の手料理を食べさせられる社員の微妙な表情が映し出される耐えがたさであり、世界的なアーティストたちが京都の料亭で会食してこれからは肉食を減らしていこうとうなずき合う耐えがたさであり、大企業の創業者が接待と称して吉野家の牛丼を食べさせることがあたかも美談として語り継がれる耐えがたさであり、この耐えがたさがわからない人間は総じてクソだがなんの屈託もなくソーシャル・ビジネスとか宣う恥知らずがご高説を垂れる耐えがたさであり、新自由主義に抵抗するためにケアする配慮する勇気づけるエンパワーメントする贈与するという利他を説く大学の先生が世に送り出す学生は企業にぴったりの資本主義社会から安心尊敬信頼される人材である耐えがたさであり、毎朝決まった時間に起きて同じ時刻の通勤電車に揺られるがいつ帰れるかはわからない耐えがたさであり、住民税が払えずに給付金が支給日にサシオサエとして引き落とされる耐えがたさであり、行きつけの飲み屋街がタワーマンション開発のために取り壊される耐えがたさであり、年収が足りず保証人もおらず住居が見つからないまま退去の期日が迫る耐えがたさであり、大型トラックが行き交う道路で若い野良猫が轢き殺される耐えがたさであり、精神状態は経済状況に左右されるから患者に障害年金を取得させることが年金療法と精神科医に裏でささやかれお金でうけた傷は結局お金で癒されるしかない耐えがたさであり、このような耐えがたさから逃れることは容易ではなく毎日その耐えがたさのなか糊口をしのがねばならない耐えがたさである。

 読者を納得させる理屈が思いつかないので、わからなければ感性が違うんだと聞き流してほしいのだが、「盗人にも三分の理」と言うときの三分の理みたいなものにどうしてもひかれてしまう。遊び人、怠け者、ならず者、不届きもの、タダノリする奴、フリーライダー、ごまかすひと、一貫性がないひと、恩知らず、だらしないやつ、起きられないやつ、座ってられないやつ、働かないやつ、すぐ怒るやつ、すねるやつ、勉強できないひと、粗暴なやつ、モラルがないやつ、努力しないひと、反省しないひと、損得勘定のないやつ、借金を踏み倒すやつ、他人の話をまったく聞かないやつ、逃げるやつ、誠実さがないひと、でたらめをいうひと、不審者……みたいな社会から安心、尊敬、信頼されないひとにどうしてもひかれてしまう。資本主義の恩恵を受けているにもかかわらず資本主義は耐えがたいといい出すクズも好きだし、自分の意見が通らないとなると議論のアリーナ自体をぶっ壊そうとするやつも、まあダメだとは思うけどちょっとひかれる。

 それまでの議論の積み重ねをいったんぶったぎって挿入される言葉の羅列。いや、これはこれでかならずしもぶったぎっているとはいえない、むしろ地続きであるといえるのだが、ただそれを地続きであるととらえることのできる「感性」の持ち主とそうでないひとがいるという話だろう。こうした記述が、突然、「論述」のなかにあらわれる。ちょっとおおげさな比較になるかもしれないが、南方熊楠はたしかクソまじめな論文のなかに近隣住民の悪口をまぜこんでいたりクソみたいな下ネタをぶちこんでいたりしたという話を聞いたことがある、あるいはドゥルーズガタリ千のプラトー』の論文ともエッセイともつかないただただテクストとしかいいようのないスタイルでもいいのだが、そういう自由さが本来書き物には可能なんだよなということを、一見するとそこまで過激なスタイルをとっていないようにみえるこの『「逆張り」の研究』の、上に引いたある意味ではわかりやすい「逸脱」以外の箇所からもたびたび感じとることがあり、「研究」の一語を関した書き物であるにもかかわらずまさにその「研究」の一語のもとにひとが見るもの(論理性、客観性、エビデンス、統計……)のそれこそ逆を張るような記述——それはもしかすると「文学」の一語のもとにたばねることができるのかもしれないが——がさしはさまれていて、というのはいくらなんでもうまく言おうといいすぎか。もういいや。
 ちなみに、上にひいた二つ目の引用は以下のように続いている。

 誤解しないでほしいのは、いわゆるヤクザといった「アウトロー」にはあまり興味がないのだ。日本で一番大きなヤクザの山口組トップが、実際に暴力を使うこともあるから「暴力団」という名称は認めたものの、「反社」(反社会的集団)と呼ばれることをすごく嫌がったという話がある。裏社会を仕切っている点で、あくまでも社会の一員として貢献しているわけである。しかも、そういう集団は表の社会に対抗しようとして、社会の悪いところだけを煮詰めたような、もう一つの社会を作ってしまう。オレオレ詐欺の集団にはノルマやタイムカードがあったり、「ブラック企業」顔負けの会社組織となる。

 そして著者は「表と裏のどちらの社会からも安心、尊敬、信頼されない人々、本当の意味で反社的なひとに興味があるわけだ」と続けるわけだが、ここを読んでいるときにふと、そっか、じぶんが(…)の面々に対して抱いていたきわめて複雑な、一般的な用法とはかけ離れているのだろうがなぜか「愛」と名付けたくなるアンビバレントな感情も、たぶん彼らが「本当の意味で反社的なひと」だったからなんだろうなと思った。ガチガチのヤクザである本社の人間とはほぼ関係を築くことはなかったが、本人らが望んだところできっとヤクザにすらなれなかっただろう虚言症の(…)さんやアル中の(…)さん、ヤクザになったもののすぐに事件を起こして刑務所行きになって破門された(…)さんらとは、トラブルを起こしつつもなぜかうまくやれていたし、プライベートでまでしょっちゅう付き合う仲になっていた、それはつまり彼らが「本当の意味で反社的なひと」であり、こちらにはなぜかそういうひとたちにひかれる性分が——そして同時に、そういうひとたちをひきよせる性分が——あったということなのだろう。享楽の問題なのかもしれない。これも広い意味での「辺境」だろうか? 「人材」の時代の「辺境」に住まう——あるいは、追いやられている——「本当の意味で反社的なひと」。なぜ、じぶんは気づけばいつも「辺境」にこだわってしまっているのか。