20230720

 今日も10時半に自然と目が覚めた。ひとつ訂正しておかなければならない、きのうづけの記事にパソコン用の冷却器が届いたと書き記してしまったが、あれは間違いだ、届いたのは今朝の話だ。起床後、階下に移動してほどなく届いたのだった。
 新四年生の(…)くんから微信。高校時代の友人らと一年はやい卒業旅行として昨日東京に到着した彼であるが、ごみの分別のルールがわからないという。地区によって微妙にルールは異なるよと受けたのち、ホテルに滞在しているのだったらとりあえずペットボトルと瓶と缶だけ別にわけておけばだいじょうぶ、あとは清掃スタッフがやってくれるよと続けると、民宿に泊まっているとの返事。だったらどういう契約になっているのかわからない。
 歯磨きをしてニュースをチェックしたのち、2022年7月17日づけの記事を読み返した。そのまま2013年7月17日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。以下、2013年7月17日づけの記事より。

音楽がすばらしいのは意味と縁を切っているからだろう。すべての芸術は音楽に憧れるっていうのはそういう意味で一理あるわけだけれども、たとえば日本の現代詩とか一時期完全に意味と縁を切ろうとあがいていた時期があるように見えるし、事実、言葉を彫刻や造詣のように扱っていたひとたちもいると思うのだけれどそれっていうのはしかしある意味あこがれの、つまり音楽の土俵にのっかっちゃったみたいなふうにいえなくもないわけで、言葉というものが常に意味との緊張関係において成り立っているものだと、それこそが言葉の戦場であるのだとひらなきなおってそこに新たな、言葉でしか可能でない戦場をきりひらいてみるのがまっとうなやりくちなんではないかと、そういうふうに考えてみるとやはりバルトの偉大さというものが際立つわけであるし、岩田宏とか石原吉郎といった詩人の詩を好むじぶんの趣味もたぶんここにひとつの根拠を認めることができる。

 昼飯は弟のこしらえてくれた盛岡冷麺。父が職場から焼きたてのパンをもらって帰宅したのだが、(…)がなかなか動いてくれない後ろ足にそれでもぐっと力をこめてたちあがって、大好きなパンをもらおうと近くまでてくてくと歩いていくその力強さにちょっと感動した。(…)アパートの大家さんもそうだったが、やっぱりメシを食うやつは強い、食欲があるやつは長生きする、胃腸こそが人間の本体なのだ。
 食後、17日づけの記事を書いて投稿。2022年7月18日づけの記事と2013年7月18日づけの記事の読み返しを経て、そのまま18日づけの記事にも着手する。途中、大分の(…)さんから微信。日本で買った卵の殻が臭いのだがだいじょうぶだろうかというので、殻にひびが入っていないかぎりは問題ない、日本の卵は基本的に賞味期限内であればすべて生で食べることができるほど衛生管理がしっかりしている、茹でたり焼いたりするのであれば賞味期限をオーバーしても問題ないと応じる。そのまましばらくやりとり。(…)さんは入国してちょうど一週間ほどになるのだろうか。仕事は「すっごく忙しい!」とのこと。同僚に中国人はひとりもいない。インターンシップ生は彼女ひとりきり。ただし、日本に五年以上在住しているブータンをはじめとする東南アジア諸国出身の同僚はいるらしい。彼らは「ホテル日本語」を専門的に学んでいたので、会話がかなり達者らしい。気後れしたりさみしい思いをしたりしているのではないかとちょっと心配したが、「みんな優しいです。わからないことがあれば、彼らはみんな私に優しく教えてくれました」という。ちょっと安心。仕事内容は、フロント、レストラン、客室、食器洗いなどなんでもアリとのことで、もうかれこれ四年ほど前になるのか、北海道だったか長野だったかのホテルでインターンシップに参加していた(…)くんが、ベッドメイキングの仕事ばかりやらされているので日本語がいつまでたっても上達しないと不満を口にしていたわけだが、そういう状況には陥っていないようす。同僚の日本人はどうかとたずねると、お年寄りがひとりいるくらいで、別に意地悪なふうではないとのこと。とにかくいまは仕事をおぼえるのが、というよりも仕事で使う専門用語や名詞をおぼえるのが大変らしく、特に和食と洋食の食器の名前をおぼえるのに難儀しているふうだった。とはいえ、彼女の日本語能力についてはこちらはまったく心配していない、一ヶ月もすれば自然と適応して一人前のスタッフになっているだろうし、そのころにはいろいろ余裕も生まれて同僚らと交流したり外に出かけたりもできるだろうと思う。明日は(…)さんの大好きな『もののけ姫』がテレビで放送されるよというと、『君たちはどう生きるか』を映画館で観たいと(…)さんはいった。職場は僻地にあるので、近くに映画館がない。ホテルではときどきジブリの音楽が流れているらしく、仕事中にそれらを耳にすると疲れが吹き飛ぶようですと(…)さんはいった。『君たちはどう生きるか』はいつまで上映されるだろうかというので、最低でも三ヶ月くらいは上映しているんじゃないかな、人気作だしもっと上映延期する可能性もあるよと受けると、田舎でもおなじですかというので、むしろ田舎のほうほど人気作をいつまでも上映しているんではないかなと受けた。それから例によって日本の野菜と果物は高すぎるという話。寮から職場までは毎日自転車で通っているらしいのだが、休日は当然職場には行かない、すると職場の食堂も利用できない、そういうわけで自炊する必要があるのだが、これがなかなかめんどうくさいとのこと。
 作業を中断し、めだかの世話をするためにおもてに出る。きのうこしらえた鉢の水もすっかりカルキの抜けたころなので、全部で15匹いるめだかをだいたい半々にわける。きのうは気づかなかったが、一匹ボウフラみたいに小さな稚魚もいた、というかホテイアオイの根についていた卵が今朝孵ったのかもしれない。水もリセットしたし、夏だし、天気もいいし、これからまたガンガン増えまくるだろう。その前にまずは田んぼでエビをゲットしないと! 鉢には流木も一本ずつセットした(今年の春頃だったか、市街地では広範囲で浸水被害が出るほどの豪雨があったのだが、その際にうちの前にある山から流されてきたものを、母が保管してくれていたのだった)。めだからは突然の環境変化に警戒心がマックスになっているのだろう、餌をやっても水面までなかなかあがってこない。慣れるまであと数日は要するかな。
 18日づけの記事を投稿し、2022年7月19日づけの記事と2013年7月19日づけの記事を読み返した。それからひととき休憩して夕飯。

 (…)を連れて(…)にドライブ。(…)橋の下近くに車を停める。先着している白い小型犬とおっさんの姿が広場にある。いつも犬を放し飼いさせているけったいなおっさんだと母がいう。(…)は車からおりるなりうんこをした。その後、補助具をあらためて装着して歩き出したが、駐車場の周辺をほんのちょっとぶらぶらして小便しただけで、それ以上動かなくなってしまった。母はボーダーコリーのイラストが蓋に印刷された小さな缶を持っていた((…)のところにもらったものだという)。中にはこまぎれにしたお菓子が入っている。それで釣るかたちで(…)をもう少し歩かせようとしたが、(…)はかたくなだった。疲れているのかもしれない、足が痛いのかもしれない、もう帰ろうかとなった。それで車の停めてある箇所に引き返しかけたのだが、(…)は突然、法面に設けられている階段のほうにむけて歩き出した。階段をあがった先は堤になっており、駐車場が設けられている。そこから小型犬を連れた女性がおりてくるのがみえた。(…)ちゃんや、と母がいった。(…)と仲良しのポメラニアンである。(…)は耳が悪い、だからさすがに(…)ちゃんの足音や鳴き声を聞きつけたということはないのだろうが、それでもふだんの散歩中には近づこうとしない階段のほうにみずから近づいた、だから(…)ちゃんの気配に感づいていたのだろう、おそらくにおいで(…)ちゃんが近くにいると気づいていたのだろう。(…)ちゃんは(…)と顔をあわせるといつもケツの穴に顔を挿入しようとしているのではないかといういきおいで尻のにおいを嗅ぎにくる。ポメラニアンであるにもかかわらずきゃんきゃんきゃんきゃん吠えることもなく、こちら相手にもいつも親しげに目をキラキラさせながら寄ってくるのだが、二年ぶりの再会であってもそのあたりの特徴は変わらない。もう帰ってきたんやねと飼い主の女性はいった(おそらく六十代くらいだろう)。こちらが日頃中国で働いていることを母は(…)で出会って顔見知りになった犬の飼い主らにも告げているのだった。もうこのままずっとこっちおんのというので、来月にはまたむこうにもどります、夏休み中だけの帰国なんでと応じた。そうこうするうちに旦那さんのほうも姿をあらわした。旦那さんのほうは印象にのこっている。日焼けした顔に四角いめがね、ワークキャップにベストという、どこからどう見ても釣り人にしかみえない格好を年中しているのだ。それに顔立ちがどことなく、(…)の常連客だった変態のおっさんに似ているので、というかコロナで実家待機を余儀なくされていたあの当時、(…)だったか(…)だったかではじめて出会ったさいに本人ではないかと疑ったほどだったのだが、その旦那さんが、ひさしぶりやねとこちらに向けていった。こっちおるあいだにお母さん孝行せなあかんでと続けるのに、このひとおれのこと何歳くらいだと思っているんだろうと思った。真っ白でふわふわの毛をしたスピッツを連れた中年男性も姿をあらわした。のちほど確認したところ、両親はこの犬を見るのははじめてとのことだったが、(…)ちゃんとは顔見知りのようだった。たしか(…)くんという名前だったと思う。すでにへばってその場に伏せていた(…)に近づこうとしたが、(…)はそのたびに小さくうなった。(…)は犬の好き嫌いがかなりはげしいらしかった。(…)や(…)ちゃんのような小型犬であれば問題ないのだが、中型犬よりも大きな犬が相手であると、こんなふうにうなることが多いという。(…)ちゃんも(…)くんも6歳だった。どちらも実年齢よりずっと若くみえた、2歳といわれても十分通じる、人間の50代や60代もひとむかし前とくらべるとマジで異常に若いが(サザエさんの波平なんて54歳らしい、あれが当時の50代の一般的なイメージだったのだ!)、犬も最近の子たちは本当に若い。それから白い小型犬を連れた中年女性ふたり組もやってきた。トイプードルにしては大きいと母が声をかけると、トイプードルみたいにトリミングしてもらっているだけで実はミニチュアシュナウザーなのだという返事があった。このミニチュアシュナウザーはそのときそこにいたほかの犬とはみんな初対面らしかった。すぐに去ってしまったので名前や年齢は不明。あとは、ハンドサインのジジイも見かけた。二年前は雑種犬を二匹連れていたが、一匹はもう死んでしまったらしい。ジジイもとっくに死んでいてもおかしくない年にみえるが、この二年間無事に生き延びたわけだ。母は顔見知りの飼い主らにでくわすたびに、最近(…)ちゃんを見ましたかとたずねた。みんな口をそろえて最近は見ていないと答えた。これだけ暑い時期であるし、散歩の時間帯を変更しているか、散歩そのものを避けているのかもしれないといった。
 帰宅。ソファでまた30分ほど寝た。風呂に入り、ストレッチをし、食卓について、19日づけの記事、すなわち、きのうづけの記事を書いて投稿した。2022年7月20日づけの記事を読み返した。

 ひとつのテーゼとして言いましょう——人間は認知エネルギーを余している。
 自由に流動する認知エネルギーのことを、精神分析では、本能と区別して「欲動」と呼びます。人間の根底には、哺乳類としての本能的次元があるにはあるでしょう。だけれど、それが実際にどう発動するかといえばひじょうに多様であって、欲動という流動的なかたちに変換されているのです(……という仮説なのです)。
 これはフロイトが言っていることですが、欲動の向かう先は一対一対応ではなく、自由で定まっていません。だからこそ、性的な対象も最初の段階では定まっておらず、異性を欲望するようになるという大多数の傾向は、もともと本能的にあるにはあっても、人間の場合は欲動のレベルでそれを固め直すことになります。本能のレベルに異性愛の大きな傾向があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベルにおいてたとえば同性愛という別の接続が成立することがありうるのです。性愛のことだけでなく、何か特定のものに強い好みを持ったりとか、そういう自由な配線が欲動の次元で起こるのです。
 本能的・進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の可塑性こそが人間性なのです。
 欲動において成立する生・性のあり方は、たとえそれが異性愛のようなマジョリティの形式と一致するにしても、すべては欲動として再形成されたものだから、その意味においてすべてが本能からの逸脱です。つまり、極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化されることになるのです。
 そのように欲動のレベルで成立するすべての対象との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びます。したがって、人間は本能のままに生きているということはなく、欲動の可塑性をつねに持っているという意味で、人間がやっていることはすべて倒錯的なのだということになります。こういう発想は、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけです。我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」、「正常という倒錯」です。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで言いたいことです。すべての人間を倒錯的なものとして捉える発想は、ジャン・ラプランシュという精神分析家が示しています。
(千葉雅也『現代思想入門』)

 少々迷ったが、今日の執筆はおやすみにして、『青の稲妻』(ジャジャンクー)を観ることに。これで六度目か七度目。何度観てもすばらしい。すべてがここにあるという感じ。「実弾(仮)」の参照先でもあるので鑑賞中は当然ガシガシメモをとりまくる。説明を極力省いているという意味ではかなり経済的で「はやい」映画。にもかかわらず、バイクに乗ったビンビンが長々と移動する場面を正面からとらえる冒頭のショットと乗り手をシャオジィに転じて反復される終盤のショットを筆頭に、シャオジィが何度も何度もビンタされつづけるシーン、チャオチャオがシャオジィに会いにいこうとするのをチャオサンから何度も何度も邪魔されるシーン、土砂でエンストしかけるバイクをシャオジィが何度も何度もキックするシーンなど、冗長さをこれでもかと見せつけるようなシーンが要所要所で組み込まれており(つまり、そのような箇所は異常に「遅い」)、そのはやさと遅さのバランスがおもしろい。
 バイクや自転車で移動するシーンが多くあるが、それらはすべて「移動」を説明する物語的な役目を担っているというよりもむしろ、その背後に映り込む風景をこそ示している。この映画の主役は、ある意味、開発に取り残された郊外の風景であるのだが((…)さんがずっと以前、ジャ・ジャンクーはずるい、いまの中国の風景を撮ればそれだけで充実した映画になってしまうことをわかっている、とくさしていたことを思い出す)、だからといって、たとえば山内マリコが小説『ここは退屈迎えに来て』でそうしたように、主人公たるその風景をことさら並べる必要はないし、実際、ジャ・ジャンクーもそうしていない。映画に風景描写は必要ない。風景は映画にあって決して排除できないものとして常に映り込んでしまっている。反して、小説はいちいち描写しなければ風景がたちあがらない。
 「実弾(仮)」ではもちろん風景描写をしっかりやっている。やらざるをえない。ただ、それでいて同時に、しっかりやりすぎてしまわないようにもしなければならない。しっかりやりすぎてしまうと、『ここは退屈迎えに来て』のようにファスト風土や「絵にならない田舎」こそが主役の小説という印象に作品が回収されてしまいかねない。『ここは退屈迎えに来て』は最初からそれが狙いであるので問題ないのだが(ファスト風土に文学の方面から光を当てた記念碑的作品だ)、「実弾(仮)」は違う。ファスト風土を名指し指差しことさら強調したうえでそこで暮らす人間を描くのではなく、そこで暮らす人間を描くその描写の積み重ねによっておのずと舞台がファスト風土であることが察せられる、そういうたたずまいの作品にしたい。それは岩本ナオの諸作品に共通する上品さであるし、あるいは読んだことないのだが、『影裏』(沼田真佑)が同性愛者を取り扱う態度にも通底するところだろう(この作品では語り手が同性愛者であることがごくごく自然に前提されている語りが採用されているという話を聞きかじったことがある)。

 それから2013年7月20日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲した。ようやくたまっていたすべての日記を片付けることに成功。やれやれ。
 そのまま今日づけの記事も途中まで書いた。23時半ごろに中断し、すがやきのラーメンをこしらえて食し、ジャンプ+の更新をチェックした。「中国の若年失業率、46.5%に達した可能性 研究者が指摘」(https://jp.reuters.com/article/china-economy-youth-unemployment-idJPKBN2Z00IZ)という記事の見出しが目に入ったので読んだ。

[北京 20日 ロイター] - 中国で若者の失業率が3月に50%近くに達した可能性が研究者によって指摘され、公式統計を巡る議論が再燃、労働市場の低迷が改めて注目されている。
国家統計局は同月の16─24歳の失業率は19.7%と発表した。これに対し北京大学の張丹丹副教授は財新のオンライン記事で、家で寝そべっていたり親に頼る非学生の1600万人が統計に含まれていたら、失業率は46.5%に達した可能性があると指摘した。記事は17日に掲載されたがその後削除されている。
6月の公式統計では若者の失業率は過去最高の21.3%。これは就職活動を行っている人を対象としている。
張氏の研究は、蘇州や昆山という製造業が盛んな地域における新型コロナウイルス流行の影響に焦点を当てている。
「これらの地域では新型コロナの流行が治まった3月の段階で以前の3分の2までしか雇用が回復しなかった。若者は製造業の主要労働者であるため、より深刻な打撃を受けた」という。
さらに2021年以降に導入された家庭教師、不動産、オンラインプラットフォーム分野の規制は、若い従業員や高学歴者に不釣り合いな打撃を与えたと指摘した。
国営新華社通信は19日の社説で、中国経済は第1・四半期に好調なスタートを切り、その勢いは第2・四半期も続いていると主張。「バランスシート不況」に入りつつあるとの見方を否定した。

 観測範囲内の肌感覚では正しい、というか少なくともこちらの周囲にいる学生だけにかぎっていえばこれ以上に悪い、この夏に卒業した学生ですでに就職している子なんて二割もいないのではないか。
 寝室にあがったあと、『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読み進めて、就寝。