20230721

 11時起床。階下に移動してめだかに餌をやる。あれだけ徹底的に除去したはずの浮草がいつのまにかひとつ浮いていたのでとりのぞく。ダニみたいなやろうだ。歯磨きし、冷食のまぜそばを食し、『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読み進める。飽きたところで食卓に移動し、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年7月21日づけの記事を読み返し、2013年7月21日づけの記事を「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。ぼちぼち執筆も再開しないといけないなと考えたところで、「実弾(仮)」の資料として、『ヤンキーと地元』(打越正行)を帰国し次第すぐに図書館で借りる予定だったことをいまさら思い出した。『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(上間陽子)も。

 『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きをいくらか読み進める。その後、母の運転で図書館へ。『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』を借りる。『ヤンキーと地元』は(…)図書館にあるらしいので取り寄せる必要がある。帰路、ミニストップに立ち寄り、コンビニスイーツや(…)のジャーキーなどを買う。
 帰宅後、『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』を少々読み進める。「実弾(仮)」の資料として直接使うことのできるものではないが、おもしろい。五所純子の『薬を食う女たち』をちょっと思い出す。『薬を食う女たち』は社会学者の手になる本ではない、しかるがゆえに取材で得たものをどう書くかの点で文学的な実験のようなものがこころみられていて、その点含めてかなりおもしろかった記憶があるので、また再読したい。
 父が(…)のケツを消毒するという。肛門付近を一度外科手術しているのだが、以降定期的に消毒用の泡で肛門まわりを清潔にしてやってほしいと獣医から指導されているのだという。老化にともなって神経が弱っているらしく、肛門が常時ゆるくなっているときいていたが、消毒を手伝うさいにチェックしてみると、たしかに穴が少しだけひらいたままになっている。さらに父が泡をふきかけてティッシュでぬぐいはじめると、穴がますますひろがりはじめて指が入るほどのサイズになったのだが、と思っているうちに奥からうんこがでてきたので、うんこ出てきた! うんこ出てきた! とパニックになった。母は(…)の上半身(?)をおさえているし、父は出てきそうなうんこをゴム手袋をつけた手で受け止めようとしている、空いているのはこちらだけだったので急いで台所からキッチンペーパーをもってきてそれでころころしたうんこをふたつみっつ受け止めた。母は爆笑していた。
 うんこの話に続けて書くのもどうかと思うが、夕飯はシーフードカレーだった。食後は(…)を車にのせて(…)へ。これだけ足が弱っているにもかかわらず、(…)はやっぱり散歩やドライブが大好きらしい、今日の昼さがりにしたところで、図書館にいくためにこちらが街着に着替えたところ(今日の昼、前回の出国時に押入れのなかに置いていった本や衣類をチェックしたのだが、使えそうな服や靴、読みたい本がたくさんあった!)、ドライブに連れていってもらえると思ったのだろう、玄関先をうろうろうろうろ徘徊しはじめて、そっか、やっぱり外にいくのは好きなんだな、と思ったものだった。(…)橋の下付近に車を停める。週末だからだろう、すでに19時近かったと思うのだが、横一列になってダンスの練習をしている少女たちがいた。(…)の姿は見かけない。驚いたことに、(…)は堤まで上がりたいという意欲をみせた。堤にあがるためにはかなり急傾斜の斜面をのぼる必要があるので、やめておいたほうがいいんではないかと思ったが、(…)はひきさがらない、行こう行こうとする。そしてのぼった。びっくりした。さすがにのぼりきった先でへたりこんでしまったが、まさかこの斜面をのぼることができるとは思わなかった。へばっていると、黒柴を連れた女性がそばにやってきた。はじめてみる顔だった。名前は(…)。いかにも(…)という感じの顔立ちだった。年齢は忘れてしまった。
 おなじ斜面をおりるのは危険だろうという話になった。すこし移動した先に階段がある。その階段の手前まで歩いていって、階段をおりるさいは父が(…)を抱っこすることにした。(…)は子犬のころから抱っこが嫌いであるのだが、いまはもう逆らわない、というか逆らうだけの力がない。車からおりるときは母の補助をともないつつも自力でおりるが、中に入るときはやはり父に抱っこしてもらっている。河川敷にふたたびおりて車にのろうという直前、きのうにひきつづき、(…)ちゃん一家を見かけた。旦那さんは車のそばにひとりいて、奥さんと(…)ちゃんがちょうど離れたところから車にもどってくるところだったのだが、その場にしゃがみこんで両手をひろげ、(…)! おいで! と声をかけたところ、(…)は全力疾走でこちらにむかってきた、しかしこちらを追い抜いてそのまま旦那さんのほうにつっこんでいったので、おい! うらぎりもの! となった。(…)ちゃんは6歳であるけれどもまだまだ子犬みたいに元気で、小便をするときは足の先が腰よりも高くあがっているし、小便をしたあとの砂かけも体躯に見合わずおそろしくアグレッシブでおまえ砂に先祖でも殺されたんけというレベルだ。
 帰宅。21時からの『もののけ姫』にそなえてはやめに風呂に入る。あがったところで寝室に移動。父と弟がそれぞれ別室でエアコンをつけているため、ここで三台目起動となるとおそらく停電する、そういうわけで窓をあけて上半身裸の状態で視聴することにしたのだが、まずテレビの設定にとまどった。もう何年も使っていないものらしいテレビが一台あり、主電源はすぐにわかったのだが、それとは別に白と赤のケーブルがあって、そいつをテレビのどこに接続すればいいのか全然わからない。いちおう全部の組み合わせをためしてみたのだが、全然映像が映らない、もういいかなと思ったが、父がわかるというので部屋にまねくと、ケーブルを接続するためのデッパリとは全然思えなかった箇所にそのケーブルを接続するのが正解で、しかも二本あるうちの一本だけでかまわないという仕様らしい。よくわからん。
 それで『もののけ姫』をみた。ひさしぶりにテレビで映画を見て思ったのだが、マジでコマーシャルが多すぎて鬱陶しい。『もののけ姫』自体はもう何度もみているのでいまさら細かい感想を書く気にもなれないが、物語として完成されきったこの作品に到達してしまったからこそ、次なるキャリアとして『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』といった、ある種突き抜けた方向にいくしかなかったのだろうなといういつもの感想をあらためて抱いた(それらにくらべると、『千と千尋の神隠し』は『もののけ姫』以前寄りの作品だと思うが、それでも宮崎駿安藤雅司の方針の違いに由来する千尋像の急転など、通常の文法から逸脱している箇所は多い)。前評判をざっとチェックするかぎり、『君たちはどう生きるか』も相当突き抜けているようであるし(『風立ちぬ』はまだみたことがないのでなんともいえない)。
 『もののけ姫』について「物語として完成されきった」と書いたばかりだが、あの作品の結末だけはいくらか安易であるというか、安易というのはいいすぎかもしれない、板挟みに板挟みをかさねたようなあの物語をどうにか着地させるにはあの結末しかないだろうというのは理解できる、しかしだからこそなのだが、「あの結末しかないだろう」という、それまでの筋から必然的に導き出されるもっともらしい着地点以上のところに達することができなかった、比喩的にいえばもっと突き抜けた不時着にいたることができなかった、そういう印象はじつは小学校六年生のときに映画館ではじめてこの作品をみた時からずっと受けている。あの終わり方しか考えられないのだが、それしか考えられないというのはある意味その作品の限界でもあるわけで、袋小路の閉塞感、最後の壁を突破できなかったという意識があったからこそ、エンディングはやや尻切れとんぼ気味になっているんではないか、バランスよく終わらせるのであればもうすこしその後の描写があってもいいところをこれ以上は無意味だとさっと切りあげているんではないか。
 ちなみに、「S」を書いている最中、最後の最後で「彼」が掘割をひきかえすという展開しか思い浮かばなかった、ある意味安易であるし型通りであるかもしれないがそれ以上の突破を可能にする文脈をそれ以前にこしらえることができなかったという忸怩たる思いがあったのだが、そのときあたまに浮かんだのはほかでもないこの『もののけ姫』の最後だった。『崖の上のポニョ』みたいな、これ子どもに見せてもええんかよと戸惑うほどのホラーテイストな突破も、たぶん『もののけ姫』のようななにもかもがしっかり整って完璧であるからこそ最後の最後で敷かれたレールをそのまま進むような着地をせざるをえなかったそのときの悔しさみたいなものがきっかけになっているのではないかと勝手に思っているのだが、真相は知らん。
 夜食はコンビニスイーツのみ。歯磨きをすませて『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』の続きを読み進めて就寝。身体のあちこちがまた痛んだり痺れたりしはじめており、パソコンに向かうのがだんだんしんどくなってきたので、とっとと筋トレを再開したほうがよさそう。たんすを使って懸垂をするか。