20230726

 9時過ぎに暑さで目が覚めた。エアコンを入れて二度寝をこころみたがダメだった。10時ごろには下におりたと思う。歯磨きをし、めだかに餌をやり、(…)のマッサージをしてやった。冷食の炒飯を食し、きのうづけの記事の続きを長々と書きはじめる。父が最近自室でちょくちょくYouTubeを視聴しているらしく、その影響でことあるごとにコスパコスパがと言い出すようになってうっとうしいと母がいうので、そんぐらいやったらまだマシや、父やん母やんらの年代のひと退職して暇になってYouTubeみはじめて陰謀論にハマる人間もよっけおるでな、トランプは光の戦士とかあたまわいとるようなこと言い出さんかぎりはかまへんと応じた。その流れで安倍晋三が暗殺された件に話がおよんだのだが、兄夫婦がわざわざ娘ふたりが寝静まった夜遅くに献花のために現場まで出向いたという話を母がするので、まだそんな感じなんかとげんなりした。安倍晋三が生きていれば今ごろはもっとずっといろいろよくなっていたはずだみたいなことも兄は口にしていたという。母は安倍晋三の末路について、殺されるのではなく自分の犯したもろもろの罪をしっかり認めて法の裁きを受けてほしかったというので、少なくとも法治国家を支持する人間であればそれが一番まともな反応やわなと思った。中国やロシアなどの独裁国家的なふるまいを指弾するその口で安倍晋三を個人崇拝している人物を見かけるたびに、心底思う、どういう理屈でその矛盾に折り合いをつけているのだろう。そう考えると、やっぱりジョージ・オーウェルはすごい。二重思考(doublethink)ってマジですでに現実のものになりつつある。
 いまはどうか知らないけれども、ひと昔前まで、そういう政治的傾向のある人間にかぎってTwitterのプロフィール欄でリアリストを自称していた記憶があるのだが、その手の連中のいうリアリズムっていったいなんだろなとも思う。そう考えている最中、ふと、蓮實重彦の『随想』の一節を思い出した。2016年8月23日づけの記事より引く。

 のちの連合艦隊司令長官山本五十六でさえ、当時の近衛首相に日米戦争を回避するよう要請していた――その意図が那辺にあったかは議論のわかれるところだが――ことはよく知られているし、開戦時の東條首相はいうまでもなく、陸軍の参謀総長も海軍の軍司令部総長でさえ、誰ひとり勝算ありとは口にしていないのだから、軍人の中に開戦回避論者がいたのはごく自然なことだとさえいえる。とりわけ、小野寺少将のように中国大陸における諜報機関と深くかかわり、情報処理能力にたけた軍人なら当然である。わたくしが気がかりなのは、この記事の記者が、軍人なら誰もが開戦論者だったかのような前提で文章をしたためているかに見えることだ。合衆国の第三十四代大統領のアイゼンハワー元帥が、第二次世界大戦の連合軍総司令官だった経験から、ほとんど戦闘経験のないニクソン副大統領の好戦的な提案を退けたことからもうかがえるように、あらゆる軍人が戦争をしたがっているかのような思い込みは、ごく拙劣な情報処理によるものでしかない。
 いうまでもなく、この記事に若干の難癖をつけたからといって、小野寺少将の次女の発言として引かれている「人は生きるために生まれてきた。国のためでも死んではいけない」という言葉に疑念を呈しているのではない。それどころか、小野寺少将の次女の言葉であるだけに真摯に受けとめているのだが、問題はそれにふさわしくあるにはいったいどうすればよいかということだ。おそらく、この言葉にふさわしくあろうとするなら、小野寺少将が、「日本軍人でありながら対米戦回避」のために三十通もの公電を打電したというメロドラマのような文脈ではなく、そうすることで、少将は軍人としての当然の義務をはたしていたのだというリアリズムの文脈においてそれをとらえなおすべきだろう。この記事の記者の善意をいささかも疑うものではないが、マスメディアにおけるメロドラマ的な図式化がきわだちつつあるいま、あえてそう指摘しておきたい。
 戦争の始末におえない怖ろしさは、軍人が軍人としての義務をはたしえない状況に軍人を陥れるメカニズムが不可避的に作動してしまうことにある。かりに自国民の防衛が軍人の義務だとしても、沖縄戦を想起するまでもなく、その義務をはたしえない軍人を少なからず生産してしまうのが戦争の本質的なメカニズムだからである。そのメカニズムを作動させないためにわれわれが存在しているはずだが、われわれはその義務にどこまで自覚的たりうるだろうか。
蓮實重彦『随想』より「十二月七日という世界史的な日付が記憶によみがえらせた、ある乗馬ズボン姿の少年について」)

 ここで語られている意味での「リアリズム」と、かつてTwitterでたびたび見かけた自称「リアリスト」の「リアリズム」は、おそらくまったくの別物だ。そもそもが戦死ですらない、大量の餓死者を出すことになった南方戦線の展開にしても、リアリストであればこそ戦争のリアリズムに即して、兵站をろくに考慮せず精神論だけで押し切った当時の指導者らを断罪すべきであるだろうに、たぶん自称「リアリスト」はそうすることすらしない。
 Twitterと書いて思い出したが、きのうだったかおとといだったか、イーロン・マスクTwitterをXという名前に変更したみたいな報道があった(ロゴマークも変更)。イーロン・マスクは旧Twitter微信のようにそれひとつでほとんどなんでもできるサービスに変更したがっているみたいな話もどこかで見聞きしたおぼえがあるのだが、あれは個人情報だのプライバシーだのいう観念がほぼゼロにひとしい中国であるから成立しうるサービスであって、そうした観念を少なからずもちあわせている西側諸国で同様のサービスを展開するのはかなりむずかしいんではないかと思うが、しかし時代の趨勢を見るに、便利であるのであれば、それで儲かるのであれば、それで楽したり得したりできるのであれば、個人情報保護という理念などはいつでも捨て去ってしまってもいいというひとびとの割合もけっこう増えてきているんではないかと思う。

 父が散髪から帰宅する。ついでにホームセンターをまわってみたが、庭のスロープの上にすべりどめとして敷くためのシートをどれにすべきかずいぶん迷ったという。Amazonで探す。いろいろチェックしてみたが、軽トラの荷台に敷く黒いゴム製のシートがいちばんいいのではないかという結論になる。
 きのうづけの記事だけ投稿してから父とそろってホームセンターへ。最寄りにあるコメリに寄り、セブンイレブンで7万円×2回おろしてアイスコーヒーを買い、バローに寄り、さらにもう一件別のコメリに寄る。最後のコメリで軽トラの荷台用シートが売っていたので、留守番している母に電話して必要なサイズだけ測ってもらったのち、一枚購入。3500円ほどだったと思う。帰宅してすぐに設置する。問題なし。ただし、日中は熱を吸ってクソ熱くなることが予想されるので、そのあたりだけどうにかしたほうがいいかもしれない。ためしに(…)を庭に出してみたが、スロープの途中で足をもつれさせることなく、無事におりることができた。
 食卓にてウェブ各所巡回。その後、2022年7月26日づけの記事の読み返し。(…)さんから猫の命名を頼まれた日。犬猫はほんまに最高やな。介護すら愛しいわ。

 ルーティン作成としての秩序化、それは人間が「本能で動く動物になり直すこと」だとも言えます。動物の場合、何も強制されなくても最初から決まった行動がとれますが、人間の場合には外からの「構築」が必要なのです。第二の自然をつくるわけです。
 人間はルーティンを複雑化させていきました。学校で制服を着るとか、教室では黙って先生の話を聞いているとか、体育の時間に整列するとか、みんなで行動するとか、音楽の時間にみんなで同じ歌を歌うとか、我々はそういうなんでそんなことをやらなきゃいけないのかというような共通行動をさせられ、それを嫌々ながら受け入れる。しかもそういうことをたんにイヤだと思っているのではなく、たとえば合唱コンクールで一糸乱れぬパフォーマンスを行うことに青春の感動があったりする。
 ここはフーコーが規律訓練という概念によって批判的に問題にしたところです。ですが、今はそのことのポジティブな面を言おうとしています。
 人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。
 たとえば暴走族はルールを破って駆け回るわけです。ところが、暴走族には厳しい上下関係があったりします。ですから、エネルギーを解放する方向とエネルギーを制限し有限化する方向の両方が見られるわけです。これは人間のあらゆる組織的活動に言えることで、また個人的に生活を律するときでもそうです。
 ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思います。あるいは「儀式」でもよいですが、儀礼の方がより抽象的ですね。ルーティンというのは儀礼です。なんでそんなことをやっているのかその根本の理由が説明できない、たんにドグマ的でしかないような一連の行為や言葉のセットのことです。
 人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションでも芸能でも政治でも、いろんなことがメタに分析できるようになります(こうした見方は文化人類学的なものであると言えるでしょう)。そして、儀礼とは去勢の反復だと言えます。
(千葉雅也『現代思想入門』)

 今日づけの記事も途中まで書く。syrup16gのインタビュー本である『Unfinished Reasons』がようやく届く。ポチったのは実家に帰ってまもないころだったと思うのだが、配送されるまでにやたらと時間がかかった。さっそく読みはじめる。
 夕食後、(…)を連れて(…)へ。車をおりてすぐにおしっことうんこをしたのち、(…)はその場にへたりこんでしまった。今日は車に乗る前、部屋の中をけっこううろうろうろうろ徘徊していたし、十分歩いて疲れているんだろうと思っていると、河川敷のずっと向こうから(…)夫妻が歩いてくるのがみえた、正確にいえば視力の関係上こちらはそうとわからなかったが、母がすぐにあれ(…)んとこちゃうと言い出したのだ。それで(…)は両親にあずけ、こちらひとり(…)のほうにやや歩み寄り、その場にしゃがみこんで、(…)! と大きな声で呼びかけると、旦那さんがリードを手放した、そして(…)は例によって弾丸のようないきおいでこちらに駆けてきた。すると、両親がびっくりした声をあげた。(…)と両親に背をむけているこちらは気づかなかったが、(…)が駆けてくるのを見るなり、へたりこんでいたはずの(…)がすさまじいいきおいで起きあがってじぶんもそちらに駆けていこうとしたのだという。そのいきおいが若いころのいきおいそのものだったといって、両親は帰路何度もその瞬間のことを口にした。
 (…)を愛でているうちに、ほかの犬もどんどんやってきた。スピッツの(…)くん、ポメラニアンの(…)くん、芝犬の(…)ちゃん。みんな5歳前後なので、(…)は長老だ。柴犬の(…)ちゃんは、こちらははじめて見る犬だったのだが、(…)とは顔馴染みらしく関係も良好とのこと。子犬のころは真っ白だったので(…)という名前をつけたのだが、成長するにしたがってだんだんと茶色い毛がまじるようになってきたらしい。三匹とも仲良しの犬だったので、(…)もごきげんなようすで尻尾をふっていた。
 さんざん戯れて帰宅。(…)よりもむしろこちらのほうが楽しんでいた、オキシトシンを分泌しまくっていた気がするが、まあそれはいい。ソファで寝る。今日は睡眠不足気味だったので、30分程度の仮眠では間に合わないだろうと事前に予測していたわけだが、実際、1時間半ほど眠り続けてしまった。入浴し、ストレッチし、そのあとはひたすら『Unfinished Reasons』を読む。びっくりした符号が三つあった。
 まずひとつ。五十嵐隆が専門学校卒業後にセルビデオ店でアルバイトをしていたという話。「そういう生活、4、5年ずっと続けてました」というのだが、こちらも大学卒業後4年間、やはりワンオペのセルビデオ店でずっとアルバイトしていたのだった。
 ふたつ。「本当に青春だったんだな、って。普通、20歳とかが青春だとすると、俺の場合は20歳の後半から30歳くらいが、いちばん充実してて。いろんなことを学べたし、経験したし。」(167)という発言。こちらは青春という象徴的な一語を当てはめるべき一時期がじぶんの人生には欠落しているという意識がずっとあったのだが(別にそのことをコンプレックスに思っていたわけでもないし欠落感や喪失感を抱えていたわけでもないが)、(…)が潰れてほどなくだったか、あるいは潰れる前だったか、それとも(…)で(ある意味では青春の対義語ともいえる)「先生」になってからだったかもしれないが、ほかでもないその(…)で働いていた期間こそが青春だったな、ヤクザだのチンピラだの前科者だのメンヘラだの生活破綻者だの薬物中毒車だのに囲まれながらそれでも底の底のところは明るい日々のなかで本を読み本を書いていたあの時期こそが青春だったなと思うようになったのだ。
 みっつ。これは以前も書いたことがあるかもしれないが、こちらがいちばん好きなアルバムである『COPY』のリリース日が10月5日、つまり、こちらの誕生日であるということ。

 ひたすら書見を続ける。夜食はラーメンを食し、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、1時半になったところで間借りの一室に移動。朝方5時過ぎまでひたすら『Unfinished Reasons』の続き。