20230802

 10時起床。階下におりて(…)をマッサージしてやる。朝の散歩で(…)がひさしぶりによく歩いたと母がいう。いつもはだいたいうちの前の道路に出てそのへんをちょっとうろうろするだけなのだが、今日は道路をくだって空き地まで移動し、さらにそのあと団地の入り口まで歩いたという。日頃の様子を見ていると、ちょっと信じられないくらいの長距離移動である。途中で足がもつれたことは一度だけあったが、へたりこむことはなく、一時間ほどずっと立ちっぱなしで移動していたことになるというので、シャブでも打ったんかとおもわず口にした。
 歯磨きをすませ、『震災後のことば 8・15からのまなざし』(宮川匡司)を最後まで読み進める。吉本隆明が震災後も脱原発はありえないと主張していたのは知っていたし、根っからの左翼であるからこそ科学技術に対する一種の信仰があり(震災直後、東浩紀浅田彰との対談だったと思うが、筋金入りの左翼はむしろ先端科学技術を支持し推進するものであるというようなことを発言していた気がするが、記憶がちょっとあやしい)、リスクがあるからといって先端技術をキャンセルするのではなく、むしろそれを制御できるほうに研究をすすめていく——今風にいえば、加速させていく——という考え方なのだろうが、古井由吉もまた脱原発は不可能であるという見立てだったらしいのは意外だった。

今、原発反対といいますね。でも、原発をなくした場合の一般の生活がどれぐらいエネルギーを削減しなくてはならないか。それはどんな水準の生活になるのか考えてないでしょう。おそらく、昭和三十年か三十五年ぐらいに戻さなくてはならない。そうすると今では信じられないことが、いろいろ起こってくる。
(214)

 いったん便利になった生活からは戻れないでしょう、人間というのは。だから今原発があるという危険を踏んで生きるよりしょうがない。増設というのは無理だと僕は思うんです。守りきれない。
 しかしわれわれがこれまでどおりの暮らしを続けていけば、おのずと原発の増設を要請することになる。
(214-215)

今あるのを、守るよりしょうがないんです。だから近代文明を、運命として背追い込む。これまで、それを踏んで生きてきたんだから。
(215)

 あと、吉本隆明が空襲のあとと震災のあとを比較し、前者のほうが「明るい」と語っているのだが、似たようなことを野坂昭如も語っていた。以下、上が吉本隆明で、下が野坂昭如

 でも、印象が、戦争中は暗くないんですよ。町中も、人々の印象も、どこか明るくて、単純だったという感じです。戦争で、気分も高揚していたこともあったんでしょうけれども、空襲で町がやられた後も、みんながあわただしく動き回っているという感じがあった。それがちょっと今回とは印象は、まるで違う。
(…)
 明るい。あの、うかうか言葉を使うと、怒られちゃうからな。怒られてばっかりいるから(笑)。でも、印象は明るい。
 あれは戦争っていうことが、逆に人間を元気にさせるという面があったのかもしれません。
(16)

 まったく影のない焼跡の上で、食うもの、着るものすべてない。だが、人々はある意味、晴れやかな表情で、てきぱき過ごしていたように思う。戦争に敗けたということは、つまり空襲が終ったということ。もう空襲の恐れはない。原子爆弾も落とされない。
 語弊があるかもしれないが、昭和二十年の焼跡は、いっそあっけらかんと明るい印象だった。この度は違う。先が見えず、立ち尽くすしかない。ため息すら出なかっただろうと思う。
(107-108)

 ほかにも印象に残った箇所をいくつか抜いておく。まず、竹内寛子の原爆体験。

(…)まず、高熱ですから、一瞬のうちに溶けた方が一番気の毒です。そして、あとは、ひどい傷です。これが人間かというような姿、人間の尊厳なんてどこにあるかと言いたくなるような、ひどい状態ですね。
 夜になると、崩れ落ちた建物が焼けるのと、人間が焼けるのと、その特殊なにおいが、ずっと漂ってくる。町全体が焼けているわけですから、余熱がすごいです。空が明るくなって、夕焼けがずっと続きます。夕焼けが冷めないんです。
 今、都会ではそんなことないけれど、私たちが住んでいたころは、炊事場の流しにはタイルがよく使われていましたね。それから、おふろ場も。お台所にあるいろいろな瓶は溶けて、あめのようになっているんです。それを見ると、この家ではここが炊事場だった、ここが浴室だったということがわかります。
 それから、一族が亡くなられた家というのは、いつまでたっても後片付けできない。どなたかがいらして、身内の方が集まられると、その家は少しずつ復旧していく。そういうのを見るのはつらいです。
(88-89)

 以下は、桶谷秀昭の発言。

(…)そして、もう一つは「文明」という言葉があるでしょう。英語でシビライゼーション(civilization)ですね。これと「文化」というのは一つの対立概念として、ずっと十九世紀から使われてきました。文明と文化は違うものだったのですが、この違いがほとんどなくなりかけてきたのが、この二十年でしょう。ハンチントンというアメリカの学者が、『文明の衝突』って論文を書いたでしょう。
(…)
(…)あの論文が、文明と文化をほとんどイコールに扱っています。もともとアメリカというところは、そういう傾向がありましたが、やっぱり時勢ですね。文化というのは、もともとは、模倣したり、輸出したり、輸入したりできないものです。これは過去の歴史的な生活体験の集積ですから。それぞれ民族によって違いますしね。
 これに対し文明というのは、模倣したり、輸出したりできます。だから、明治の人は、基本的に文化という言葉は使いませんでした。みんな文明なんです。夏目漱石福澤諭吉も文化は使わない。というのは、我々は西洋文明を模倣している。けれども日本文化は守らなければいけない——明治人の問題意識には、これがありました。
(153-154)

(…)明治十年までに生まれた人間は、子供のころ、要するに塾へ行って、素読をやっているわけですね。意味もわからずに漢文を暗記する。あれをやった人はみんな、土性骨(どしょうぼね)があるんです。意味もわからずに暗記して、十五、六歳になると、それがおのずから意味を帯び始める。
(169)

(…)平和、平和って言うでしょう。平和って何のことを言っているのか。戦争をしないのが平和じゃないですよね。そうじゃなくて、戦争の原因を内側に含まない社会が平和社会。
(175)

 あと、以下の古井由吉の発言を見て、結核文学ならぬ交通事故文学というものは成立しうるのかなとちょっと思った。

——先ほども話題に上りましたが、戦前は、結核がありましたよね。ずいぶん文学者も亡くなった。梶井基次郎堀辰雄立原道造……。正岡子規だって、結核菌による脊椎カリエスだった。
古井 かなりのもんでしたね。結核抜きには日本近代文学は語れないほどで。だけど、結核が死病ではなくなり、高度成長が始まったら、交通事故が増えました。結核の死亡者とどっちが多いか、というぐらいになった。交通事故死は伝染しませんけど、でも、文明のもたらした死病のようなものの、ひとつです。
(199-200)

 結核は罹患してから命が尽きるまでのあいだに時間がある。その時間が実存にさしせまることで生じる葛藤を言葉に置き換えることで生じたのが結核文学であるとした場合、交通事故による死とは大半が常に突然の不意打ちで生じるものであり、その断絶の印象、幕切れのあっけなさこそが、近代文学の嫡子たる結核文学の後続として暫定的に対置されうるものとしての交通事故文学=現代文学の特徴になりうるかもしれない。ロラン・バルトカミュも交通事故で死んだ。アンゲロプロス若松孝二も。ゴダールの『軽蔑』も交通事故で終わる。バルトが死の直前に残した原稿のタイトルが「わたしたちは愛するものについてつねに語りそこなう」だったのはいくらなんでもできすぎだと思う。

 昼飯は(…)へ。こちらがおとずれるのはこれで二度目か三度目であるが、家族はたびたび出向いてランチを食っている。もともと母が(…)の子ども広場で働いていたころ、そこにしょっちゅうやってくる(…)ちゃんという女の子がいて、彼女の両親がレストランを経営しているという話をきっかけに通いはじめたというアレだったはず。店内はレストランというよりはカフェのような感じ。開店直後の11時半におとずれたのだが、すでに先客が二組いた。人気店らしい。店に入って着席する直前、母が店員の女性に、息子が帰ってきたんで食べにきましたと告げた。噂の(…)ちゃんの母親らしい。たぶんホールを仕切る立場なのだろう。で、父親がシェフということなのだと思う。
 日替わりランチを注文する。サラダとスープどちらかを選ぶという仕組みだったのでこちらはサラダ、両親と弟は冷たいスープを選んだ(二種類ある冷たいスープのうちのひとつはヴィシソワーズだったが、もうひとつは忘れた)。続けてパン二種類(オリーブオイルで食べる)。で、メインディッシュの豚肉。表面をパリパリにしつつ中をやわらかく焼いたものに野菜と餅米みたいなのが付け合わせとして配置されているもの。デザートはパンナコッタとあれはなんだったか、酸っぱい紫色のアイスクリームだかシャーベットだかの組み合わせだったと思う(ほかにカボチャのケーキやゴマのプリンがあった)。豚肉はやや塩胡椒きつめだったが(父と弟曰く、この店の唯一の難点は塩胡椒のきつさらしい)、総じてうまかった。特にデザートがうまく、それ専門に特化して店をひらいても絶対にやっていけると父はしきりにくりかえした。コーヒーを飲んでお会計。
 会計にはふたたび女将さん——という言い方をカフェ風のレストランで働く人物に対して使うのもちょっと妙かもしれないが——が出てきてくれた。母があらためてこちらのことを紹介しようとするので、そんなこといちいちせんでもええのにと思いつつ、ごちそうさまでした、おいしかったですと告げる。その女将さんがわざわざ呼び寄せたのかもしれない、レジには噂の(…)ちゃんもあらわれた。現在中学二年生。何年ぶりの再会になるのか知らないが、(…)ちゃん化粧までして〜! と母は驚いていた。バスケ部の黒いTシャツを着ており、目元にうっすらと化粧をしている。(…)中学校に通っているというので、いま一学年何人くらいですかとたずねると、50人だか60人だか、いずれにせよ信じられないくらい少ない。二クラスだという。中学校で二クラス! 限界集落間近やんけ!
 来店客が続いたので立ち話は早々に切りあげる。母は(…)ちゃんのことを彼女が小学校に入学する前から知っている。最初は祖母といっしょに子ども広場にやってきて遊んでいたのだが、小学校に入学すると、自転車に乗ってひとりで遊びにやってくるようになった。子ども広場側ではなく小学校側のものだと思うが、一年生の外出は家から半径100メートル程度といっていただろうか、とにかく近所しか出歩いてはいけないみたいなルールがあったらしいのだが(あるいは自転車での移動制限だったかもしれない)、(…)ちゃんのうちから子ども広場まではそれ以上の距離がある。それでも(…)ちゃんはほとんど毎日のように子ども広場に遊びにやってきたらしく、職員のあいだでも黙認していたとのこと。夏休みは毎日首にタオルを巻いて朝から遊びにやってきて、お昼は食事をとるためにいったんうちに帰るのだが、午後になるとまた遊びにやってくる。そういう生活をずーっと続けていたらしい。そんな児童がいまや中学二年生で、化粧までしており、母とそう変わらないほど背丈ものびているわけであるから、現実に(…)ちゃんと交渉があったわけではない、対面したのも今日がはじめてである、ただ以前の職場について話すたびに母がたびたび口にする(…)ちゃんという名前を聞き慣れていたにすぎないこちらまでもが、あの(…)ちゃんが中学二年生なのか! とやはり驚いたのだった。子どもの成長速度はおそろしい。ちょっとラカン的な意味で現実的なものを感じさせる。おなじ速度でわれわれに近づいてくる死をどうしたって意識せざるをえない。
 ユニクロに寄ってもらう。裾直しのすんだワイドパンツを受けとる。ついでにTシャツもまた試着するが、途中で猛烈にうんこがしたくなってきたので、とりあえず無地の白Tシャツを一着だけ買っておく。便所でうんこする。
 帰宅後、ニュースをチェックしていると、韓国の研究者が常温常圧伝導体を開発したというニュースがやけに話題になっていた。「夢の物質」と呼ばれているらしく、実用化すれば技術革新どころの騒ぎではないらしい。アメリカや中国の研究機関が実験の再現に成功したという話もあり。くだんの物質はLK-99と名付けられたとのこと。
 食卓にてきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月2日づけの記事を読み返す。ナンシー・ペロシが訪台した日。(…)くんと夜、散歩しながらそのあたりのことについていろいろと語り合っており、なかなかおもしろい記事になっている。一部だけ引いておこう。

 南門に向けて歩く。よく言われていることだけど、コロナによってそれぞれの国の社会問題がすべてあぶりだされたという感じだよねという。そういえばあれは日本でニュースになっていますかというので、来たなと内心思いつつなんの話とたずねると、やはりペロシの件だった。微博とかどういう空気なの? やっぱりやっちまえみたいな感じなの? ときくと、肯定の返事。戦争だ! 戦争だ! 撃っちまえ! みたいな意見が大多数だというので、あたまを抱えたくなった。(…)くんは戦争になることをかなりおそれているふうだった。日本語圏と英語圏の専門家の意見をみるかぎり、これがきっかけですぐに戦争ということにはならないみたいだよというと、でもロシアのときはなりましたよね、みんなならないといっていたのにというので、ロシアの件に関しては少なくない専門家が実際に侵攻するだろうと予測していたようだよと受けたが、中国国内ではたぶんそういう情報はまったくおもてに出ていなかったんだろうなと口にした直後に思った。戦争になったらやばいね、ぼくみたいな外国人なんて居場所がないよ、日本人だからもともとの印象もよくないしそれにくわえてアメリカ側だっていうことでなにされるかわかんないねと漏らすと、たしかに先生がいちばんやばいですと(…)くんはいった。そうなったらきみたちにかくまってもらわないといけないな、ぼろぼろの空き家みたいなところに隠れて住んで、一日三回食料だけ持ってきてもらってね、などと軽口を叩いた。実際、軽口を叩く以外なにができる?

 安倍晋三の話をこちらから切り出した。(…)くんも事件にはたいそうびっくりしたという。アメリカであればまだしも日本で銃殺なんてというので、微博ではお祝いムードだったよなというと、苦笑しつつも肯定の返事。でもミルクティー店やレストランがお祝いキャンペーンをやっていたのにはちょっと引いてしまったよというと、確かに安倍晋三は多くの中国人にとってよくないひとかもしれません、と言葉を慎重に選びつつ、でも私はやっぱり中国人や日本人であるまえにわたしたちは人だと思います、と(…)くんは言った。ぼくなんて一般的な中国人よりもさらに安倍晋三のことが嫌いだったからね、普段からはやく死んでくれと思っていたくらいだけど、でも死んだからといってミルクティー無料キャンペーンするぞーという発想にはならないな、それはさすがに下品すぎるわというと、(…)くんはここでもふたたびペロシの乗った飛行機を撃墜せよとやる気満々になっているネットユーザーの例を出し、そういうひとは本当におかしいと強い口調で批判した。(…)くん自身、中国人であるし、愛国教育・愛党教育そのものが根本的に間違っているという認識ではたぶんないだろうし、台湾も当然いつかは中国に併合されるべきだと考えていると思うのだが、だからといって現状のこうした加熱する愛国ムードを肯定的にはまったく見ていない、というかむしろ徹底して軽蔑しているふうだった。
 男子寮に到着。ペロシはまだ台北に到着していない。たぶんあと一時間以内だろうという。ネット上では来年の今日は台湾復帰一周年記念日だなどと盛り上がっているとのこと。(…)くんはこちらの寮まで行くといった。今日このあと寮でシャワーを浴びている時に外からドーンという爆発音が聞こえてきたりしてねとふざけながら歩く。ふざける以外なにができる?
(…)
 書きはじめてほどなくペロシ台北に到着したというニュースを見た。予想通りであったが、モーメンツが続々と更新された。とはいえ、想像していたよりもずっと控えめな反応だった、数年前香港での抗議活動に関する情報が大陸でも(都合のよいかたちに改変されて)流れはじめたときのほうが反響は大きかったと思う。関連する投稿をしていた学生の名前を記録しておく。新二年生ではまず(…)くん。意味合いはよくわからないが、台湾をからかうような内容のもので、それに対して(…)さんが哈哈哈哈哈とコメント。(…)さんは、いま歴史を目撃しているのか的な投稿(ニュアンスは不明)。(…)くんは抗日ドラマのワンシーンを投稿(悪役日本兵らしい人物の台詞が字幕で表示されていたが、たぶんその悪どい台詞を台湾に向けているというニュアンスだと思う)。新三年生では(…)さんが、たぶん微博のことだと思うのだがアクセスできなかったことについて言及(それについて(…)さんがコメント)。ニュアンス的には夜の楽しみが奪われてしまった的なノンポリ風のアレだと思う。実際、こちらも確認してみたのだが、一時微博にアクセスできなかった。もっとも愛国心丸出しだったのが(…)くんで、三つくらい連続で投稿したうちの二つはこれを書いている3日15時現在すでに消されてしまっているのだが、ひとつは中国のお偉いさんが会見しているライブストリーミングについている愛国者らのコメント(どうしてペロシの飛行機を撃墜しないんだ的な勇ましいアレが大半!)を紹介するもので、もうひとつはウクライナカラーのマスクを装着した台湾人らが空港でなにやらシュプレヒコールを行っているようすを映した動画。最後のひとつはいまもまだ消されていないのだが、ペロシの乗った飛行機のルートを映し出しているテレビ画面に向けておもちゃのマシンガンをダダダダダダっとぶっ放しているもの。その(…)くんと仲良しの(…)さんもひとつの中国の原則を揺るがすやつは全員許さないみたいな短い文句を投稿していたが、そのコメント欄に続けて、政府を信じろ党を信じろみたいな文章も書き込んでいた。で、これについてはのちほどアクセスが可能になった微博のようすをのぞきにいったときに気づいたのだが、やはり人民の大半は今回ペロシの訪台をみすみす許してしまった政府や人民軍に対する怒りをネット上で爆発させているらしく((…)くんもこのパターン)、それに対しておそらく政府の息がかかったインフルエンサーやメディア関係者たちが、政府には深い考えがあるのだ、まずは政府の決定を信じろと火消しに走っている感があり、(…)さんはたぶんこうした意見に同調しているのだろうと思われる。
 しかしこうしてみるとやはり完全に戦時中の日本だよなという感じ。日本でも大戦末期には愛国教育がいきすぎて自分の親や身内を密告する子らがいたという話を聞いたことがあるが、政府に忠実な人民を作りあげるための教育と情報操作に加えてここ数年の戦狼外交とその成果のアピール、つまり、無数のプロパガンダが重なった結果、生みの親である政府ですらもはや抑えきれなくなった若い愛国モンスターを多数輩出してしまっているのがこの社会の現状というわけだ(現状の日本に重ねていえば、「自民党万歳! 野党は売国奴! 安倍晋三愛国者!」一本槍でやってきたせいでいまさらひくにひけず、統一教会との癒着の件すら批判することのできなくなっている真性のネトウヨみたいな感じだろう)。第二次世界大戦の日本というか、いや中国でいえばもっとあたらしい記憶として文革があるわけだが、まさにあの時代の反復という感じ。中国政府は対抗措置としてすぐさま台湾からの商品輸入禁止リストを更新、さらに台湾を包囲するかたちでの実弾を用いた軍事訓練を開始すると発表したわけだが、その程度の措置ではたして愛国モンスターらがおさまるものかどうか。ほか(…)さんもこの件について二つ三つ連チャンで投稿していたが、現在すでにその投稿が見えなくなっているので、たぶんのちほど意見撤回したのだろう(ということはおそらく(…)くんと同様、政府の弱腰を批判するような文面だったのだと思う)。
 関連する投稿はそれくらいだった。とはいえこちらがチェックしているのは微信のモーメンツのみであるし、よりプライベートな投稿が多いとされるqqのほうではもっと露骨な意見表明がたくさんされているだろう。半匿名の微博であればなおさらそうだ。そもそもこちらが関わりがあるのは日本語学習関係者のみなので、中国人民のマジョリティが占める空気みたいなものを掴むのに適した環境ではまったくない。
 しかし安倍晋三の件といいペロシを殺せの件といい、死を望むことに対する道徳的な抵抗のなさについては、ちょっとすごいなと思う。いや、正確にいえばそのような望みをおもてだって披露することに対する抵抗のなさ、つまり、礼儀の問題といえるのかもしれないが(まあ日本でもビジネス右翼やキチガイ議員などはそれに類した勇ましい発言をTwitterなどしているのでどっこいどっこいかもしれない)。それでいえば、ずっと昔、ビンラディンが殺害されたというニュースが報道された瞬間のアメリカの路上をとらえた映像を見たことがあるが、あのときは絶句した。夜中であったにもかかわらず、建物の中からアメリカ人たちがわーっと歓声をあげながら路上に繰り出してお祭り騒ぎになって、USA! USA! みたいなことを言っていたかどうかは忘れたが、とにかく、ああ、こいつらとはマジで分かり合えないな、と当時思ったものだった。これ、「実弾(仮)」に使おうかな? ビンラディン殺害は2011年のことであるし。

 (…)図書館のパスワードを変更し、ネット予約が可能であるように設定する。こっちにいるあいだに読んでおきたいものはいろいろあるのだが、ひとまず蔵書のある分だけ予約する。『チェロと私と牧羊犬と』(八月長安)はなかったのでAmazonで古本をポチる。(…)さんにおすすめしてもらった一冊。
 そのまま今日づけの記事も書きはじめる。16時になったところで中断し、弟に車を出してもらって(…)の田んぼへ。墓場の駐車場に車を停めて、用水路におりる。ミナミヌマエビおよびヤマトヌマエビの採集。バケツを片手に提げ、弟とふたりタモを手にしてくるぶしにも満たない水嵩の用水路をゆっくりとさかのぼりながら、草の生えているあたりを中心にガサガサする。エビはいる。いるのだが、めちゃくちゃ小さい。どれもこれもまだ孵化したばかりではないかというサイズで、二年前とは全然違う(と、これを書いたいま調べてみたところ、二年前におなじ田んぼをおとずれたのは5月だった)。途中で気づいたのだが、草の下に群がっている連中よりも壁沿いにひっついているやつらのほうがサイズは大きい。そういうわけで途中からは草をガサガサするのではなく、壁に沿って雑にタモを動かした。バカスカとれた。とりあえず40匹ほどで中断。鉢に移すとなるとどうしても水質に適応できず死んでしまう個体も半数ほど出てくるだろうし、それを見越してやや多めに採集したかたち。
 ガサガサしているともちろんエビ以外にもいろいろな生物がつかまる。ヤゴもいたし、タニシもいたし、ミミズもいたし、カエルもいた。弟はカエルだのミミズだのが大嫌いで悲鳴をあげるレベルであるのだが(こちらもデカいミミズだけはどうしても好きになれない、というか母の言葉を借りるのであれば、足のない生き物と足の多い生き物は全部気持ち悪い)、そのわりにはけっこうがんばって積極的に手伝ってくれた。で、その弟がとんでもないものを捕まえた。そのときこちらは採集用のデカいタモを手にしており、弟は水槽用の小さなタモを手にしていたのだが、その小さなタモを泥の中からすくいあげるなり、うわ! と弟が声をあげた。なんや! と思ってタモのなかをのぞくと、うねうねと動く生き物の姿がみえて、なんやドジョウかと一瞬思ってそう口にしたところ、うなぎちゃう? という。嘘やろと思ってタモのなかに指先をつっこんで泥をとりのぞいてみたところ、金色にひかる腹がちらりとみえて、うわマジや! となった。サイズも田んぼだの用水路だので見つかるドジョウとくらべるとふたまわりくらい太い。持って帰りたくなったが、鉢で飼育できるようなものではないし、逃してでかくなったものをいずれとって食うほうがいいと弟がいうので、泣く泣くさよならすることに。しかしタモでうなぎを救いあげる現場を目の当たりにしたのは小学校一年生か二年生のとき以来ではないか。あのときは団地の入り口付近に流れているドブ川にクソでかいうなぎがいるということで、こちらと(…)のほかにもしかしたら兄もいたかもしれない、上級生が複数いたのは間違いないのだがみんなでタモを片手に追いかけまわし、最終的に(…)がタモですくいあげたのだったが、すくいあげたそばから逃げ出してしまったのだった。あれ以来、罠でもなく釣りでもなくいつかタモでうなぎを捕まえてやると心に決めていたわけだが、まさか生き物採集にまったく興味のない弟に先を越されてしまうとは! あと、うなぎのほかにまだまだ小さいゲンゴロウみたいなやつも捕まえて、これにもテンションがあがった。もちろんすぐに逃した。絶滅危惧種やからな!
 30分ほどで水からあがる。墓地の井戸で水を組んで足を洗い(用水路の水はぬるかったが、ポンプから直接組みあげた井戸水はおそろしく冷たく、それが最高に気持ちいい!)、車に乗りこむ。弟は去年、(…)と一緒に(…)でうなぎを釣ったという。(…)は漁業権もちゃんと購入したうえで毎年うなぎ釣りに出かけているのだが、(…)のどのへんなんとたずねると、ふつうに(…)のあのあたりというので、洪水で堤防整備するまえによく泳いどったとこ? とかさねてたずねたところ、然りの返事。マジで? あんなとこでうなぎなんていっぺんも見たことねえぞ! 亀と鯉は死ぬほど見たけど! うなぎ釣りは超簡単。仕掛けを作って投げ込んでおいてあとはひたすら放置。外道は鯉。竿を合わせるときにびちゃびちゃと派手な水音をたてると、あ、ハズレや、鯉や、となるらしい。ちなみに弟は去年、そこでびっくりするようなサイズのうなぎを釣りあげたという。派手な水音ですぐに鯉だとなったものの、ひきあげてみたところクソ巨大なうなぎで、こんなサイズのが釣れるのははじめてだと(…)も驚愕したとのこと。釣ったうなぎはしばらく親戚のうちの水槽に入れさせてもらう。そこで泥抜きしたあとに食うわけであるが、今年の話であるか去年の話であるか忘れてしまったが、その親戚のうちの水槽にうなぎをあずけていたところ、ばあちゃんが電子レンジを使う際に水槽のぶくぶくの電源を切った、で、切ったままふたたび電源を入れるのを忘れてしまった、結果それで一匹立派なやつが死んでしまったということがあったらしい。もったいない。
 帰宅。さっそく鉢にエビを加える。すごく小さなヨシノボリも一匹ついてきていたので、これもなんかの縁やなというわけで、そいつもパーティーメンバーに加える。ついでに水底にたまっているホテイアオイの根の切れ端を割り箸でつかんで掃除。

 夕飯。食後は(…)を連れて(…)へ。ドライブ中はAmazonでポチったおむつを装着。問題なし。(…)では駐車場の生垣に腰かけながらロケット花火を宙に飛ばしているふたり組がいた。花火や爆竹の音が嫌いな(…)であるが、いまは耳が悪いのでほとんど聞こえておらず、まったく気にせずうんこをして小便をした。すでにあたりは真っ暗だった。そのせいで母が(…)のうんこを踏んでしまった。出すものだけを出すと、(…)はすぐに車にもどりたがった。
 帰宅。ソファで爆睡した。目が覚めると23時をまわっていた。21時ごろに兄からLINEが届いたと母がいった。(…)が死んだらしい。享年14歳半。びっくりした。二週間ほど先にひかえている(…)の誕生日会まではもつだろうと思い、それまで特に会いにいこうともしていなかったわけだが、そんな悠長なことを考えている場合ではなかったのだ。
 入浴。あがってストレッチをし、冷食のパスタを食し、今日づけの記事を書いた。2時半をまわったところで作業を中断し、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、間借りの一室に移動。『パパイヤ・ママイヤ』(乗代雄介)を読み進めて就寝。