20230803

 11時起床。階下に移動し、歯磨きしながらニュースをチェックする。「早稲田文学」の休刊を知る。「Z」を応募して予選を通過するも、審査期間中に当時キャリア最高傑作という手応えのあった「A」を脱稿したため、編集部に辞退のメールを送った思い出。(…)荘に住んでいたころだったと記憶している。8年前か9年前か。
 めだか鉢をのぞく。ホテイアオイをいったん鉢の外に出して、エビが無事かどうかの確認。意外なことに死骸はひとつだけ。あとは全部脱皮の殻。
 母が美容院に行くというので車に同乗。元町珈琲でおろしてもらう。前回とは違って平日なので席にはまだいくらかゆとりがある。Lサイズのブレンドをオーダーして、二時間ほどひたすら書見。『パパイヤ・ママイヤ』(乗代雄介)を最後まで読む。小説の会話文というのはむずかしいなとあらためて思った。執筆中の「実弾(仮)」ではじめて会話文らしい会話文を導入しているのだが、くだらないやりとりであればいくらでも書けるというか、そのくだらなさにこそやどるリアリティみたいなものを追求していくのはけっこう楽しいし手応えも感じる。それに反して、やりとりがシリアスになるとその途端にそこで交わされているすべてが芝居がかった作り物のようにみえてしまうというか、読んでいるほうもちょっと醒めてしまう感じがあって、こういうのってなんとかならんもんかなと常々思いながら書いていたそのもどかしさを、語り手であるママイヤがシリアスな感情をおもてにする場面に遭遇するたびにおなじように感じた。でもこういうのは小説の問題ではなく、むしろどれほど深刻で切実な話題であろうとその話題を表現するためには手垢のついた言葉やフレーズしか使うことができない、というかそういうものを便宜的に使わざるをえない言語的主体たるわれわれの問題なのかもしれない(すべてはすでに言い表されており、われわれは言い表されたその言葉を引用し組み合わせることでしか、なにかを語ることはできない的な)。実際、実生活でも、目の前の相手が涙ながらに語ってみせる悲劇や後悔や傷、あるいは感動の表明が、それ自体は比類ないほど深刻で切実なものであるにもかかわらずそれを語る言葉があまりに紋切り型で安っぽいために、相手のその告白を低く見積もってしまう、それほどのものでもないと受け止めてしまう、そうではなくても気持ちがすっと醒めてしまうということは多々ある。それにくわえて、『パパイヤ・ママイヤ』の語り手(あるいは書き手というほうがいいのかもしれないが)は、芸術的な感性の持ち主であり日頃から本もよく読んでいるらしいママイヤであるから、たとえシリアスな場面のやりとりや描写になにかしら芝居がかったものが感じられたとしても、そうした自意識に対するある種の免疫をもちあわせている彼女であってすらこの手の場面では一種通俗的にならざるをえないものなのだという読み方をすることもできる。また、明言こそされていないものの、ママイヤのパパイヤに対する視線には性的なものも確かに含まれており(特にパパイヤの肌に言及する箇所が顕著)、そこにある種の恋愛感情を重ねて読み取るのであれば、こうした読み筋は補強されることになるだろう(というのも、恋愛感情ほどひとを通俗的にするものはないのだから)。さらに、これとは別の理解として、そもそもママイヤは「青春」の一語に象徴されるふるまいにたいするアンビバレントな憧れを有しているので、(彼女が思う)紋切り型の「青春」的ふるまいとそれを表象する言葉の通俗性は、それ自体意図して描かれたものと読むこともできる。
 冒頭に顕著なように、わたし(ママイヤ)の語りでありながらときおりパパイヤに沿って物語るその語り口もおもしろかったし、最後の写真の使い方もすばらしかった。パパイヤとママイヤによるひと夏の経験を、ただ追体験するだけではなく、そのひと夏のあいだに撮影した写真——というより写真の写生——をフックとする、あのときああだったこうだったという当事者ふたりによる思い出話にまで読者を付き合わせるという、使いようによってはちょっとあざとくなりすぎるくらいの仕掛けが、しかし完璧にハマっている。この仕掛けは本当によかった。
 となりのテーブルに座っていた老人ふたり組が、両方とも男性であり一方は乳母車のような歩行補助具を利用しているほど高齢だったのだが、席を立つ前にどっちが代金を支払うかという話をしていた。で、その際に、ここでおごらんかったらもうおごる機会ないかもしれんからなという死を冗談にした理屈で高齢のほうが財布を出し、それがちょっとおもしろかった。老人らがじぶんたちの死をネタにした冗談を口にする、あの明るさが好きだ。たぶん安心するのだと思う、じぶんもあんなふうに死を(たとえそれが表面的なものでしかないとしても)受け入れる余裕をいつか得ることができるのだろう、と。老人らが席を立ったあと、店員がアルコールスプレーでテーブルを消毒していて、そうか、こういう取り組みもあるのかと思った。中国では見たことがない。
 『パパイヤ・ママイヤ』(乗代雄介)を読み終えたので、『スロー・ラーナー』(トマス・ピンチョン/志村正雄訳)の続きにとりかかった。「低地」を読み終えたところで母から電話があったので席をたって会計をすませた。母はオレンジ色のインナーカラーをいれていた。七十歳前には全然見えない。そのまま(…)メガネへ。先日購入した例のめがねであるが、装着しているとわりとしょっちゅうずれ落ちてくるふうであったので、つると鼻当てのところを調整してもらうことにしたのだ。調整は10分ほどですんだ。フロントの部分が重いタイプのめがねであるので、どうしても一般的なものにくらべて前にずれ落ちやすくなるらしい。
 その後、兄一家の家へ。(…)が死んだのは昨夜の21時であるという話だったし、まだ埋めていないだろうというアレから線香のひとつでもとたずねることにしたのだ。家には(…)ちゃんの母君しかいなかった。(…)はまだ埋めていないとのことだったので居間に通してもらうことに。(…)はきれいな花に埋もれるようにして横になっていた。小さな棺桶のようなものの中に入っており、頭だけ出した状態で胴体も足もすべて花のなかに埋まっていた。中にはドライアイスを入れてあるらしい。兄の同僚である(…)というあだ名の女性がおり、彼女は(…)という名前のボーダーコリーを飼っていたのだが、先週、17歳(!)で死んだらしい。(…)は(…)が死んですぐに火葬したのだったか埋めたのだったかしたのだが、やはり死んでから一晩くらいはいっしょに過ごしたかった、つまり、通夜をしておけばよかったという後悔があったらしく、それをきいて、兄一家のほうでも(…)の通夜だけ行うことにしたとのことだった。(…)の額をなででやったが、冷たくなっていた。母は泣きながら、あんたいつも鳴いてばっかおったのに鳴かなあかんやんかと口にし、それは(…)が死んだときにこぼした嗚咽とほぼ同じだった。
 麦茶をいただきながら話しているうちに、(…)ちゃんと(…)が帰宅した。(…)はむちゃくちゃ背が高くなっていた。二年ぶりということもあって最初は少しはずかしそうにしていたが、すぐに床にあぐらをかいて座りこんでいるこちらのほうにやってきて、その上に腰かけてiPadをいじりはじめた。(…)はこちらと会うのをずいぶん楽しみにしていたらしい、明後日(…)のうちで手巻き寿司を食う約束になっているわけだが、その日がいつであるのかいつであるのかと何度も何度も(…)ちゃんにたずねてきたとのこと。(…)、おめえ(…)と会いたかったんかん? とたずねると、うんとすぐに応じてみせるので、どんだけ素直やねんといった。(…)はもともと(…)ちゃんが飼いはじめた犬であるし、強くショックを受けているようであれば明後日の食事会も延期したほうがいいかもしれないと母と話していたのだが、そんなふうでは全然なかった。こんな言い方もアレやけどさと前置きしたのち、やっぱほかに家族がおったからだいじょうぶやったんかもしれん、ひとりやったらそりゃもうしんどかったやろけどさぁというので、突然死ってわけでもないしな、余命宣告されてそっから二年か三年生きたんやろ、ほりゃ大往生や、覚悟する時間もあったしなと受けた。それでいえば、(…)のほうはかなり辛いと思うという話があった。(…)はこちらや(…)ちゃんの三つか四つ年下らしいのだが、未婚のひとり暮らしで、だから(…)が唯一の家族みたいな感じだったらしい。しかるがゆえに(…)の死にはかなり大きなショックを受けているようで、食事ものどを通らないという状態が続いていたとのこと。(…)が死んだのはその(…)がうちに遊びに来ていたときらしい。(…)が死んだいま、犬用のおやつだのなんだのがたくさんあまっている、それを(…)のために持ってきてくれたまさにそのときに逝ったとのこと。食後に様子がおかしくなった、窒息しているようにみえた、それであわてて口の中に手を突っ込んだり、体を逆さまにしたりした、それでも無駄だった、ふつうではない深い呼吸がはじまり、しだいにそのペースがゆるやかになっていきそのまま息を引き取ったとのこと。足を切断して二ヶ月ちょっとになる。それだったらもう手術することもなかったんじゃないかとちょっと後悔しているというので、それは結果論でしかない、手術の結果どれほど延命できるかどうかなんて手術をする前にはまったくわからなかったのだからそこを気に病む必要はないと応じた。
 そうこうするうちに兄も帰宅した。あるいはずっと二階の自室にいたのだったかもしれない。(…)は塾らしく帰宅は19時になるとのこと。(…)は明日の昼、兄の手隙の時間に庭に埋める。花いっぱいの棺に埋もれた(…)であるが、おなじ棺には(…)と(…)それぞれからの手紙も飾られていた。ところで、手紙といえば、母とこちらが書いて送った暑中見舞いが届いたのは今日だったらしい。最悪のタイミングでクソみてえな暑中見舞い送ってもうたわ! と嘆くと、(…)ちゃんは爆笑していた。暑中見舞いのメッセージを読んだ(…)からは、(…)と(…)毎日いっぱいうんこしとんの? ときかれた。
 帰宅。すぐに(…)を連れて(…)へ。車にのせるときは父が抱っこ、車からおりるときはハーネスで補助しつつ(…)任せというかたちでこれまでやってきたのだが、おろすときもやはり抱っこしてやったほうがいいという話になった。(…)ではおなじ団地に住んでいるラブラドールレトリーバーの(…)とあった。(…)は(…)の姿を目にするなり、日頃の様子からは考えられないような力で飛びかかろうとした。母曰く、(…)との相性はかなり悪いらしい。(…)がまだ赤ん坊のころから(…)は敵視していたとのこと。(…)は結局じぶんより体格の小さな犬としか仲良くなれないのだ。ほんましょうもない! ダサいヤンキーみたいなやつや!
 帰宅。夕飯。ソファでひとときだらだらしたのち、食卓に移動してコーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書き記す。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月3日づけの記事を読み返す。2013年8月3日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。
 入浴。ストレッチ。コーヒーを用意し、22時から日語会話(三)の授業準備。第32課のアクティビティを一から作りなおす。いちおう新しいアイディをひらめいたのだが、うーん、どうだろう、うまくいくかなァという感じ。
 夜食は天巻き。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、間借りの一室に移動し、日本に来てから購入した衣類を姿見の前でいろいろに組み合わせてみる。ワイドパンツ二本、どちらも使い勝手が思っていたよりも悪いなという印象。ストンと落ちているタイプのものよりもテーパードのほうがじぶんのスタイルにしっくりくるっぽい(変形制服でいえば、ドカンではなくボンタンのほうがしっくりくるということだ——なんやこの比喩! いつまで田舎のヤンキー気取りなんや!)。それでテーパードっぽいやつをあらたに二本、zozotownでポチった。しっくりこなかったら返却する。