20230807

 11時半起床。階下に移動すると、仕事休みの父がまた(…)の毛をはさみでカットしていた。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、めだかに餌をやる。今日は終日降ったりやんだりであったが、どうも昨日の夜からずっとそうだったみたいで、おかげで鉢の水がずいぶん冷たくなっていた。しかしヌマエビがまたサクラエビのように赤くなって死んでいる。最終的に何匹生き残ることになるのやら。めだかは子持ちが一匹いるのを見つけた。
 弟のこしらえたお好み焼きを食したのち、食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月7日づけの記事を読み返した。『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』(コンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳)の一節が印象に残った。

 第一に、ラカンはいつだったか、自殺とは成功した唯一の行為である、と語りました。自殺は人間同胞から逃れ、〈現実界〉に出会うことを約束する唯一の行為なのでしょう。この指摘は原則的には正しいとしても、なお問題を含んでいます。というのは、自殺は生命に価値を与える父の審級へと依拠する行為だからです。〈他者〉の〈要求〉の犠牲になるようなときでさえ、自殺は常に父への服従という形をとります。自殺、つまり死の性愛化は生命に価値を与えることなしには不可能です。マリオさんが提示した症例について、自殺という問題系は決して自閉症的な問題ではない理由を考えてみましょう。自殺は、父の審級に依拠するものにしか関係ありません。つまり神経症、倒錯、そして発病後の精神病です。結局、精神分析の視点で言えば、生命それ自体は価値を構成することはありませんし、死はなおさら価値にはなりえません。精神分析と医学の間に差異があるとすれば、それは次のようなことです。精神分析にとって生命とは、他のすべてのものと同じくファリックな価値です。この点から言えば、生命の維持それ自体は、精神分析の倫理方針ではなく、死の性愛化と大同小異です。ご存じのように、フロイトはある時期、性欲動とは異なるものとして自己保存欲動を考えようとしましたが、『制止、症状、不安』の中で、死の不安は去勢不安の変形に過ぎない、と主張するに至ります。まさにそのことによって、精神分析は死という問題に答えます。つまり、生命と死の性愛化は本質的に、去勢の付随現象、より一般的に言えば、父の審級との直面なのです。
 ちょっと脇道に逸れますが、生命は父性的な価値です。つまり、生命の意志は系譜の中で伝達されます。ですからそれは、精神分析的な倫理の価値ではありませんが、だからといって生命が分析にとって取るに足らないものである、というわけではありません。父性的な価値が問題ですから、生きるということは、結局、超自我の命令ということになります。そのために、例えば禁じられた享楽としての死の性愛化ということも生じるのです。
 しかしながら、分析家が生命を価値あるものと見なさないとしても、自殺を止めさせようとしないわけではありません。しかし、それは死の性愛化を阻止するためです。
(コンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』 p.169-170)

 2013年8月7日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。ZOZOTOWNで注文したテーパードパンツ二本が届いてたので姿見の前で試着。一本はホルスタイン柄で、思っていたよりもずっと細かったが、使い用はいくらでもあるかなという感じ。もう一本は茶色のジャージっぽい生地のもので、サイズはぴったりだったのだが、ポリエステル感の強いこの質感はちょっと難しいかもという印象。しかし両方ともアホみたいに安い値段で購入したものであるし問題なし。
 それでまたZOZOTOWNを散策した。以前購入したHAREのカットソーの色違いを一着ポチり、白色のテーパードパンツ(どこのブランドか忘れた)も一着ポチる。それ以外に必要なのはリュックサックと革靴。ひたすら画面をにらめっこし続ける。リュックサックについてはBEAMSのものにひとついいのがあったのだが、発売予定日が9月だったか10月だったかなので間に合わない。結局、リュックサックは買わないことに。革靴については黒のローファーないしはドレスシューズに限定していろいろチェックしてみた結果、SHIPSのものとTAKEO KIKUCHIのものでめちゃくちゃ迷ったのだが、最終的に後者に決めた。
 注文を終えたところで、帰国後にいくら使ったか、だいたいで計算してみることにしたのだが、服と本のほか、(…)の介護用品および食料、姪っ子へのお年玉、(…)と(…)の出産祝い、(…)家へのおごり、移動費、そしてなによりも高額なめがねがあるわけで、かなり大雑把に、そして多めに計算してみたかぎり、およそ18万円ほどの出費になっていて、なんだかんだでこの一ヶ月ちょっとの滞在期間中に20万円は使うことになりそうだ。京都時代であれば考えられない。20万円なんて貯金の総額だ。
 雨の一時的にやんだタイミングを見計らって(…)へ。(…)橋の下で(…)を散歩させる。二年前は目にすることのなかった現象であるのだが、雨の日になると川のほうからはるばるカニが上陸し、アスファルトの上を意外なほどの速度で横歩きしているのを見かける。あれはなんという種類なのだろう。少なくともこちらのよく知るサワガニやモクズガニアカテガニではない。当然シオマネキでもない。今度捕まえてじっくり観察してみよう。
 帰宅。夕飯。食事の直前に母が心臓の痛みを訴えて動かなくなった。何年も前からそういう症状があるとは聞いていたし、病院で検査を受けたこともあるらしかったが、改善しているようすはない。たぶん10分ほど椅子に座ったまま痛みをこらえていた。よくなったところで話をきくと、心臓というよりは胸の真ん中あたりなのか喉元あたりなのか、そのあたりと奥歯の付け根のあたりが痛むとのことで、それは狭心症の典型的な症状らしい。むかし職場の健康診断で引っかかり、その結果をたずさえて心臓専門の病院で検査したところ、とりあえず一年に一度くらいは検査をするようにと言われたというのだが、それ以上の処置がなされたわけではない。母もその後再検査を受けているわけではないようすなので、いまは仕事もしていないのであるし時間だってあるのだから、もう一度検査を受けにいったほうがいいと、こちらも父も口をそろえて言ったのだが、めんどうくさいというあたまがあるのだろうか、もう一度検査したところで結局経過観察になるだけだというあたまがあるのだろうか、うんとは言おうとしない。年齢が年齢であるし、場所も場所であるし、健康診断も兼ねて検査を受けたほうがいいに決まっているのだが、あの返事の感じだときっと行こうとしないだろう。のちほど、仮眠から覚めたあとだったか、あるいは風呂あがりだったか、あらためて母に病院に行くようにとうながしたが、かつて心臓専門の病院で二度、それぞれ別の病院という話だったが、検査を受けたものの、いっぽうは経過観察でいっぽうはなんでもないという診断だったものだからというので、それも何年も前の話ではないか、それに改善もしくは現状維持であればまだしも、実感として発作の頻度も痛みの強さも悪化しているのだったら、検査だけでも受けるべきだろうと言ったのだが、やっぱり言葉を濁して誤魔化そうとするので、内心けっこうイライラした。とりかえしのつかないことになって、あとで泣き言をいうことになるだけではないか。
 食後、ソファで仮眠。入浴し、ストレッチし、チョコミントのアイスを食しながら、今日づけの記事を書く。一階の床には現在茣蓙のようなものを敷いてあるのだが、フローリングよりはマシであるとはいえ、(…)の足がすべりやすく、寝転がっている状態から立ちあがることすら難儀しているというか、われわれの介助なしには立ちあがることができずへたりこんでしまうことすらあるので、まだまだ夏であるけれども、天気の良い日に冬物のカーペットを干して呉座の上に敷いてやろうということになった。カーペットであればある程度踏ん張りがきくはず。ただ、こうした対処療法にも限界があるというか、こちらが帰国してまだ一ヶ月も経過していないわけであるが、それでも日に日に目に見えて足腰が弱っているので、たぶんこの秋ないしは冬には車椅子を導入する必要が出てくると思う。

 授業準備にとりかかる。日語会話(三)にはひとまず目処がついたので、今日から日語会話(一)に着手。まずは第0課。一年前の日記やメモ書きなどを参考にしつつ、初回の授業でやるべきことを厳選する。一年前は初回の授業で五十音のみならず数字の確認まで一気にすませてしまったわけだが、今年から第0課は一週目と二週目の2コマにわけてやることにして、初回の授業は五十音の発音練習とゲーム、その次の授業で数字と基本的な単語の確認およびそれらを使ったゲームというふうにしようかなと思った。教科書を用いた第1課以降の授業は三周目以降でいい。去年、基礎日本語の授業の進み方がおもいのほか遅く、そのせいで第1課および第2課の授業でやや手間取ったおぼえがある(本来、会話の授業は基礎日本語の授業で履修済みの文法事項を(学ぶのではなく)使う時間なのだが、その基礎日本語を担当している(…)先生だか(…)先生だかがちんたらしすぎているせいで、こちらの授業に差し支えが生じてしまったのだ)。
 しかし新一年生の授業を準備していると、やはりちょっとワクワクするところがある。特に今年からは日本語学科のクラスが二つになるわけで、いったいどういう子たちがやってくるのだろう、どんな子と頻繁に散歩したり食事したりするようになるのだろう、どういう物語が待っているのだろうと期待してしまう。
 0時半前になったところで作業を中断。冷食のパスタを食し、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、間借りの一室に移動。『風呂』(楊絳/中島みどり訳)の続きを読み進める。たくさんの登場人物が序盤でいっぺんに登場したので、ひさしぶりにスマホで登場人物のメモをとりながら読み進めることに。ドストエフスキーの長編を読むときはいつもそうしていたのを思い出す。