20230808

 11時半起床。階下に移動し、歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。「“中国軍ハッカーが3年前に日本の防衛ネットワーク侵入”米紙」(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230808/k10014156961000.html)という記事。

アメリカの有力紙、ワシントン・ポストは、中国軍のハッカーが3年前に日本の防衛上の機密情報を扱うネットワークに侵入していたことをアメリカ政府が覚知し、日本側に伝えていたと報じました。
ワシントン・ポストは7日、日米の複数の関係者の話として、中国軍のハッカーが3年前、日本の防衛上の機密情報を扱うネットワークに侵入し、日本の防衛計画や防衛力、防衛上の欠点などを狙ったとみられると報じました。
アメリカのNSA国家安全保障局が覚知し、当時、ホワイトハウスで安全保障問題を担当していたポッティンジャー大統領次席補佐官などが、急きょ日本を訪れて防衛大臣に状況を説明し、日本側に「近年で最も深刻なハッキングだ」と指摘したということです。
さらに、おととし1月に発足したバイデン政権は、中国が日本の防衛上のネットワークへの侵入を続ける一方で、日本の対策が不十分だという情報を得て、この年の11月、ホワイトハウスでサイバーセキュリティーを担当する高官が日本を訪れ、日本側と対策を協議したとしています。
ワシントン・ポストは当局者の話として、「日本は対策を強化したものの、十分ではなく、日米の防衛当局の情報共有を拡大する上で支障をきたすおそれがある」と伝えています。

 父の手土産の寿司と食パンを食し、めだかに餌をやる。今日もまた昨日おとといと同じく、雨が降ったりやんだりをくりかえしており、かつ、その雨が豪雨といってもさしつかえのないいきおい。めだか鉢の水もひんやりしている。
 食卓にてきのうづけの記事の続きを書き進める。居間のテレビで父が例によってエンジェルス戦を観戦していたのだが、9回の表にクローザーがバンバン打たれまくって敗戦。これで7連敗らしい。
 (…)のため、茣蓙の上にカーペットを敷く。これでだいぶすべりにくくなったと思う。(…)はさっそく踏ん張りのきくようになった部屋でバスタオルの引っ張り合いをしろと母にせがんだ。ついでに空気清浄機のフィルターもおもての水場でざっと水洗いした。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月8日づけの記事を読み返す。

 わたしはいま、目的意識と価値意識が医療と医学を成立させたと言いました。目的論と価値観、このふたつは、客観的であることを至上命令とする自然科学が一貫して拒否してきたものです。ということは、医療と医学はその誕生のはじめから、いわばその「母斑(あざ)」として、自然科学との不協和の刻印を帯びていたということではないのでしょうか。生と死の問題を反目的論的・没価値的な自然科学の枠内で論ずるのは、場違い以外のなにものでないでしょう。生と死の問題に触れるとき、医学をその生誕以来ひそかに養い続けてきた隠れた哲学、つまり生の目的と価値をめぐる思索が、はじめてその姿を明るみに出すのです。
 彼自身医学者でもあり哲学者でもあったヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーは、《生命そのものは決して死なない。死ぬのは個々の生きものだけである》といいました。この「生命そのもの」とはなんでしょう。
 地球上に生命が発生して以来の数十億年に、無数の生物個体が生まれ、一定の時間を生き、そして死んでいきました。個々の個体だけではありません。多数の種が誕生し、死滅しました。生物の進化はそういった不連続によって構成されています。しかし、最古の生命体以来現在のわれわれに至るまで、すべての生物は「生きて」きました。あるいはまた、視点を歴史的・通時的な次元から空間的・共時的な次元に移すなら、現在の地球上に棲息しているあらゆる生物は、単細胞生物から高等な動植物に至るまで、すべて「生きて」いるのです。この「生きている」ということは、たんなる抽象的な普遍性ではありません。それは個々の生きものが、生殖を通じて子孫に手渡してゆく「生命の基本的な現実(アクチュアリティ)」なのです。ですからそれは、実在(リアリティ)としての進化や生態が帯びている「不連続性」の埒外にあるわけです。「生きている」というアクチュアリティのこの「非・不連続性」、それをヴァイツゼッカーは「生命そのものは決して死なない」と表現したのです。
 この「生きること」あるいは「生きていること」そのものLeben als solchesを、「生きているもの」Lebendesを見るのと同じ視点からみて、意識の対象として——ノエマ的に——構成することはできません。それはちょうど、ハイデガーが「あるということ」としての「存在そのもの」Sein als solchesを、「あるもの」としての「存在者」Seiendesから区別して、これを「存在論的差異」と呼んだのと同じ事態です。わたしたちの周囲に、あるいは意識の中に存在しているのは、机だったり山だったり、あるいは幼いころの思い出だったりしますが、それらはすべて「存在者」です。それらの存在者が存在しうるのは、それらがわたしたちの内部あるいは外部のどこかに「ある」からなのですが、この「ある」ということそれ自体は、実はここにあるとかあそこにあるとかいえるものではないのです。存在そのもの、あるということそれ自体は、存在者としてはどこにも存在していません。
 それと同様に「生命そのもの」も、生きものとしてどこかに生きているものではありません。生きているといえるのは、個々の生きもの、あるいは複数の同種の生きものによって構成されている「種」だけなのであって、「生きているということ」 が地球上のどこかに生きているわけではありません。だからそれは死ぬこともありません。それを、ある不思議な生命的実在であるかのように、あるいはなんらかの存在者であるかのように考えたり、それをリアリティとして認識しようとしたりするところに、いわゆるアニミズム神秘主義の落とし穴があります。生命そのものは、あらゆるアクチュアリティがそうであるように、対象的認識作用を絶対的に超えています。
 しかしわたしたちは、認識対象に理性の光を当ててこれを照らし出そうとする通常の認識、プラトン以来西洋の認識論を支配し続けてきた知覚ないし表象とは違った、もっと「盲目的」ではあるけれど、ある意味ではもっと確実な——「体感的」と呼んでもよいような——感知のしかたを知っています。盲人が全身で周囲の情勢を感じとり、それによって確実に世界を捉えているように、この身体感覚はわたしたちの実践的な行為や行動と切り離しがたく一体となって、通常の認識が対象化しえない世界の「肌理(きめ)」、世界のアクチュアリティをわれわれに教えてくれます。西田幾多郎が「行為的直観」と呼んだものは、「直観」という依然として視覚優位の用語の不適切さを別とすれば、ほぼこの非対象化的・非ノエマ的な体感を指しているものとみなしてよいでしょう。
 行為的直観あるいは身体感覚によってわたしたちが捉えている世界の姿が、対象から一定の距離をとって光の媒体のもとでこれを見る理性的認識よりも確実なのは、それがそれ自体、われわれの「生」そのものに直結しているからにほかなりません。この「確実さ」は、科学が理想としているような精密さからはほど遠いものです。それはむしろ、それによってのみわたしたちの生命が保証され、生存が安全になりうるような、実践的な確実さです。その原型は、アメーバが直接に環境と接触し、その原形質を移動させることによって、環境との接触面で有益な物質を摂取し、有害な物質を回避する行動に見ることができます。もっと複雑化した動物の行動も、つねにそのつどの感覚と一体になって、ひたすら「生きる」という目的のみに向かって方向づけられています。脳や神経系統、とくに感覚器官の高度に発達した人間のような動物でも、その例外であってよいはずがありません。
 人間の場合には、やはり高度に発達した「自己意識」と呼ばれる能力のために、この生存への方向づけそれ自体も経験可能となっています。ただ、わたしたちの経験があまりにも豊富な対象知覚によってすみずみまで満たされているために、対象知覚とはまったくその様態の違うこの生命への方向づけそのものについての経験は、いわばそれらの対象知覚にまぎれ込み、そのなかに埋没していて、通常はそれとして取り出すことができません。なんとか取り出そうとしても、それはたちまち意識内の表象対象に姿を変えてしまうのです。この意識化による変質をまぬがれるためには、意識の「ノエマ面」すなわち意識対象の面に向けられた注目を一時停止して、その「ノエシス面」すなわち意識作用の面それ自体を注意深く感知する必要があります。つまり「意識されたもの」だけに注目するのではなく、「意識するはたらき」それ自身をさらに意識するような、一段高次の意識をはたらかせる必要があります。そうすればこのノエシス面の感触は、上に述べた直接的・体感的な感覚として、あるいは西田のいう行為的直観として、わたしたちの経験の重要な一部になっていることがわかるでしょう。
木村敏『からだ・こころ・生命』 p.38-43)

 2013年8月8日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。途中、インターホンが鳴ったのでおもてに出ると、テレビのチューナーがうんぬんかんぬんという業者がいる。工事を頼んでいたらしい。弟に対応を任せる。業者の男性がひとり部屋にあがって居間のテレビまわりをあれこれいじりはじめたのだが、(…)は男性がうちに入ってくる前まではワンワン吠えていたものの、実際に彼が部屋にあがったあとは番犬の義務を放棄、尻尾をふりながら男性のあとを追い、男性がチューナーをいじっているあいだはそのそばに伏せ、前足をちょいちょいと動かしては遊んでくれ遊んでくれと催促する始末だった。

 今日づけの記事をここまで書くと、時刻は15時前だった。授業準備に着手しようとしたが、母が図書館に出かけるというので、こちらも同行することに。(…)図書館にて『それは誠』(乗代雄介)を借りる。
 帰宅後、敷いたばかりのカーペットに寝転がって、『それは誠』(乗代雄介)を読む。数日前、母からこちらと弟に生命保険をかけているという話を聞いて、結婚もしていないふたりにそんなものをかけても無駄であるのだからとっとと解約したほうがいいと応じたのだが、その話題があらためて出たので、仮に大きな病に倒れることがあったとしても高額医療補償があるわけであるし、死ぬことがあったとしても遺産をのこすべき相手はいない、ほかに考えられるしんどいケースとしてはガンになって入院するというパターンくらいだろうが、その場合は手持ちの金である程度はなんとなくなるはずであるし、ごくごく低いその可能性にそなえてひとりにつき月々10000円以上支払うのはばかばかしい、その金で(…)が晩年をすこしでも快適に過ごせるようにしてあげたほうがいいといった。両親は納得したようすだった。それで母はすぐに保険会社に電話した。相手がどうして解約するのかとたずねるのに、もう払うお金がないのでと即答するので、さすがに笑ってしまった。保険会社の人間は後日あらためてうちをたずねてくるという。解約のために印鑑を押す必要があるのだろうが、それと同時に、あれこれメリットを語って引き止めようと最後の営業をかけるつもりなのだろう。しかし先ほどの母の電話対応があれであるし、そもそも平日の昼間から大のおとなが四人も家にそろっているそうした状況を目の当たりにすれば、先方も、この一家は訳アリだ、関わらないほうがいいと判断するのではないかと両親がいうので、言われてみればたしかにおかしいな、働き盛りの男三人が全員真昼間からボロボロのパジャマで在宅しているなんて、さっきのチューナーのひとも、なんじゃこのうち! 生活保護の不正受給でもしとんけ? というあたまになっていたんではないか。
 雨の降りやんだ隙を縫って(…)へ。以前も会ったことのあるスピッツと再会。名前は(…)くんと記憶していたが、そうではなかった、(…)くんだった。ドイツ語で光を意味する単語であるのだと飼い主のおじさんはいった。(…)と(…)くんは相性がよい感じ。(…)くんは積極的に(…)に近づくし、(…)もそれを決してうとましがるふうではない(その場に伏せたまま、知らんぷりしている)。母は(…)のために持ってきているサイコロ型にスライスされた犬用のおやつを(…)くんにあげた。(…)くんは大喜びで食べていたし、(…)もそれに嫉妬するふうではなかった。
 帰宅。夕飯。食後、ソファで小一時間寝る。目の覚めたところで『それは誠』(乗代雄介)の続き。最後まで読み進める。おもしろかった。これまで読んだことのある乗代雄介の小説でいちばんよかったかもしれない。『パパイヤ・ママイヤ』もそうであるけれども、ふつうにいい話、ふつうにいいエピソードみたいなものを要所要所で導入しているのだが、それが安っぽくならないための慎重な配慮がしっかりなされている。一歩間違えれば鼻白んでしまうかもしれない「いい話」「いいエピソード」をおそらく意図して取り入れているのだが、文章が湿っぽくなるのを抑制し(かといって過度にドライにふるまうでもない、話者=書き手の性格と釣り合いのとれた程度には湿っぽくなるのをよしとする、というかむしろそうなることを狙って感傷の度合いを調整した気配が、『パパイヤ・ママイヤ』でも『それは誠』でも認められる、ここには白か黒ではないグレーゾーン=「度合い」の哲学に関するたしかな感受性があるし、そういう意味でリアリズム小説だ)、関連情報を(小出しに、ときには遅延をともない)提示したりしなかったりするそこのところの操作などによって、「伏線と回収」や「どんでん返し」といったキーワードに象徴される(主としてエンタメ小説の作法であるところの)下品な企みに回収されることにあらがっている。おなじことは宮澤賢治の溺れる人問題の取り入れ方についてもいえる。この問題の取り入れは、下手をすれば、いかにも純文学然としたものとして受け止められかねないのだが、はじめて言及される場面(導入)と二度目に言及される場面(帰結)とのあいだに距離があり、くわえてその中間地点でいっさい言及されることがないそのために、ある種の身軽さを得ることに成功している。これが型通りの近代文学作品であれば、おそらくこの溺れる人問題は、語り手によって折に触れて言及されるだろうし、その言及の過程でさまざまな論理がひねりだされるのだろうが、この作品ではそんなことはなく、むしろ、きわめて純文学的なテーマでありながらエンタメ小説的な伏線と回収の作法に近い使われ方をしている。誤解をまねく言い方かもしれないが、身軽さではなく軽々しさ、いっそのこと軽薄さといってもいいかもしれないあつかいだ(そしてそのようなあつかいによって、逆に、その効果は深い感動を呼び起こすのだ)。
 だから、『パパイヤ・ママイヤ』も『それは誠』も、かなり撹乱的な小説であることは間違いない。エンタメ小説と純文学という区分に無頓着でありその境界がひかれる以前にまでたちかえって小説を一から立ちあげているというのではなく、むしろ現状あるとされているその区分にあえてみずからのっかることで、両者の法(歴史)を技術の側面から問いなおしている。こうした観点からみると、『旅する練習』のクライマックスもなぜああであったのかが理解できる。あれもまた一種の「お約束」を脱臼させる試みだったのだろう(それがうまく達成されていたかどうかは正直わからないが)。
 夜中、鹿児島の(…)さんから微信。花火大会には行ったかというので、行っていないと返信。鹿児島でも花火大会はあるでしょうとたずねると、すでにその日にそなえて仕事の休みもとってあるとのこと。ネットで調べてみたのだが、鹿児島県内だけでも今月と来月でけっこうな数の花火大会が開催されるようであるし、なんだったら11月にもあるらしい。(…)さんが行くつもりの花火大会は例年10万人の人出を記録するとのこと。台風はだいじょうぶとたずねると、毎日雨が降っている、いろんなものにカビが生えたという返信。(…)にもどったらまた連絡をするというので、いっしょにご飯を食べにいこうと応じる。
 食卓にて授業準備。日語会話(一)の全体スケジュールを確認する。第0課(その1)と第0課(その2)の教案を作成したが、第0課(その3)もやってもいいかもしれない。教科書に入る前に、第0課(その3)で時間/曜日/月日の表現を一度しっかり暗記させるかたち。要検討。
 夜食は牡蠣入りの味噌煮込み。ジャンプ+の更新をチェックしながら歯磨きし、間借りの一室に移動したあとは、『風呂』(楊絳/中島みどり訳)の続き。