20230822

 7時にアラームで起きた。階下に移動。母の姿が見当たらない。(…)もいない。ということは朝の散歩だろうと判断する。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。それからめだかに餌をやるためにおもてに出る。家の前を左右にのびるゆるやかな坂道をゆっくりゆっくりのぼってくる(…)と母の姿がみえる。日光に弱い母は早朝にもかかわらずすでにサングラスをかけている。道に出ていって(…)に呼びかけるが、若いときのように走ってやってこない、かなり疲れているようにみえる。今日は第一公園のあたりまで歩いたと母がいうので、そんなに! と驚く。注射を打って以降、やはり多少は後ろ足の具合がよくなってきているのかもしれない。
 トースト二枚を食す。食後すぐにトイレに駆け込む。下痢ではあるのだが、昨日の夜ほどひどくはない。弟が買ってきてくれた整腸剤がよくきいている。ドラッグストアには深夜にもかかわらず薬剤師がいたらしく、弟はどれがいちばん効くかたずねたという。薬剤師はこれ一択といった感じで「ザ・ガードコーワ整腸錠α3+」を勧めてくれたというのだが、実際、服薬したのは深夜に一度きりであるのにもかかわらず、すでに効果の出始めていることがわかるくらいであるのだから、今日をうまく乗り越えさえすればなんとかなるんではないか。今日は特急電車と飛行機での移動のみなので、トイレがないということはないわけであるし、食事も控えめにしつつだましだましやれば、たぶんなんとかなるだろう。昨夜はどうなることかと思ったが、けっこう前向きになれた。
 荷物の最終チェックをする。きのう体重計でスーツケースの重さを量ったときは制限重量内におさまっていたはずが、念のためにあらためてチェックしてみると、あれ? なんかあやしくない? という感じだったので、持っていく本を減らすことに。冬にまた帰国できる可能性も高くなってきたわけであるし、本は電子書籍青空文庫もあるので、無理して持っていく必要はない(そもそも中国の寮にすらすでに積読が10冊近くたまっているのだ!)。そういうわけでスーツケースで運ぶ書籍は保坂和志の小説論三部作のみに。リュックサックには『モーテル・クロニクルズ』(サム・シェパード畑中佳樹・訳)と『スロー・ラーナー』(トマス・ピンチョン/志村正雄訳)を入れる。
 出発ぎりぎりまで荷造りしていたのにくわえて腹の調子がやはり心配だったこともあり、家を出る前に(…)をワシワシしそびれた。なんとなく不吉だ。こんなふうにちゃんとさよならできなかったときにかぎって今生の別れになってしまう、そういうまぬけな間の悪さがじぶんの人生にはつきまとっている気がする。
 母の運転で(…)駅へ。北京に到着したタイミングで一度連絡すると告げて車をおりる。切符売り場で難波までの特急券を買う。それから売店で飲みものを買うことにしたのだが、いつもであればコーヒーを買うところであるものの、この腹の具合でコーヒーはまずい、たとえカフェインの離脱症状に悩まされることがあったとしても避けるべきであると考え、験を担いで地元の名が冠されている(…)茶を買うことに。たまには神都らしいところを見せてくれ!
 特急に乗る。乗りこんだのはこちらのほか、旅行客らしい白人男女数人のみ。駅を経由するごとに乗客が増えていくわけだが、それでも鶴橋あたりまで隣の座席は空いたままだった。移動中は書見するつもりだったのだが、三分の二ほどは居眠りしていた気がする。途中でとなりの席に座ろうとする乗客の気配で目が覚めた。こちらと年齢のそう変わらないようにみえる女性。スーツケースを隣の席の足元に置いてあったので、それをじぶんのほうにひっこめたわけだが、そうするとじぶんの足の置き場がなくなる。かといって素足のまま、座席で体育座りをするのも隣の女性には不愉快だろう。結果、片足だけ足裏を床につけることのできないまま、座席とスーツケースに板挟みになって吊られることに。その状態で難波までこらえた。見栄えの悪い拷問。
 難波で南海線に乗り換え。ここでの乗り換えははじめてだった(というか、ひょっとしたら、難波駅でおりること自体はじめてかもしれない)。予定ではここでいったんトイレ休憩というつもりだったのだが、腹の具合が思っていたよりもずっとだいじょうぶそうだったので、そのまま関西空港行きの電車に乗りこんだ。さすがにここまでくると周囲の乗客も大荷物ばかりで、日本語のほかに中国語や韓国語や英語も耳にした。しかし中国語を耳にすると、それがもはや外国語とは思えないというか、いや意味はほとんどまったくとれないのであるから外国語であることには違いないのだが、環境音としての中国語はこちらにとってもはやアウェイではなくホームになりつつある。おなじ関西空港からはじめて中国に渡ったときは、中国語を操る集団にたったひとりまぎれこんでいるじぶんの身の置き場のなさをひしひしと感じ、聞き慣れない響きを有する言語のあちこち飛び交うのがほとんど矢や銃弾のように感じられたというのに、いまではむしろその響きに人心地がつくのだ。
 関西空港に到着する。念のため、移動中はあまり茶を飲んでいなかったのだが、いまこのタイミングであればトイレに駆け込むことになってもだいじょうぶというアレにくわえて、下痢のときほど水分をしっかり補給しなければならないというあたまもあったので、ここでぐびぐび飲む。ターミナル1に移動する。エスカレーターで上階に移動する最中、こちらの前にいた中国人の母子がおそらく子どもの祖母と思われる人物とビデオ通話をはじめたのだが、ピカチュウのぬいぐるみを買った! すごく楽しかった! と興奮して語っていて、そりゃあよかったとほっこりした。
 便所へ。個室には列ができている。クソをふりしぼる。下痢ではあるが、やはり昨日より全然マシだ。朝もクソをしているわけであるし、これで腹の中はほぼ空っぽになったはず。だったらおそれるものはなにもない。便所を出たところで整腸剤を流し込む。それからチェックインカウンターへ。中国国際航空(エアチャイナ)を利用するのははじめて。カウンターに向かう前に機械を操作して座席の指定をしたりする必要があるらしかったのだが、その機械のそばについてたスタッフの女性がこちらを初心者と見てとるなりだいたいすべてやってくれた(座席はいつでもトイレに行けるように通路側を指定)。チェックインにはやたらと時間がかかるというイメージがあるのだが、今回はけっこうスムーズに済んだ。スーツケースの重量にも余裕があったので、しまったな、やっぱり阿部和重シンセミア』全四巻は持ってきてもよかったかもしれないと思った。スーツケースのなかには外付けハードディスクを入れてあったのだが、あれ? これって預かり手荷物禁止のバッテリー類に含まれるんだっけ? と直前になって迷った。毎回預かり手荷物で運んでいる記憶があるのだが、いや毎回ではないか、リュックサックに入れて持ち込みで処理していることも同様にあったか? それでカウンターのスタッフにこれはだいじょうぶだろうかとたずねたのだが、外付けハードディスクというものをそもそもあんまり理解していないふうだった。仮になにか問題あるものが見つかった場合、ケースを開封して中をチェックすることがあるかもしれませんというので、それくらいだったら別にかまわないかというわけで、そのままにすることに。
 チェックインをすませたところで残り時間はたった一時間。マジか、思っていたよりも余裕がないな、と思いつつ、レストランやカフェや土産屋があるはずの階下に移動したのだが、というかターミナルからそのフロアにおりていくエスカレーターがかつてあったはずなのだがそれが見つからず、それで別のエスカレーターから階下におりたのだが、階下には食い物屋などひとつもなかった。もしかしてコロナ禍をきっかけにあのフロアは全滅したのだろうか? それでいえば、二年前の出国時にもおなじような発見をした記憶がなくもないわけだが、と、ここまで書いたところで関西空港のウェブサイトを検索してみたところ、こちらがかつてよく時間を潰すのに利用していたサンマルクカフェは残っているらしいものの、パスタの店はなくなっていた(ここで西洋人が店員に片言の日本語で「オオモリ!」とオーダーしていたのをおぼえている)。まあどのみち機内食も出るだろうし、時間もあまりないし、そもそも下痢であるのだから別になにも食わなくてもいいかというわけで、そのまま保安検査へ。空腹で搭乗となると、どうしても二年前の上海→(…)の旅程を思い出して恐怖するわけだが、あれはただの空腹だけではなく極度の寝不足と寒さもあってぶっ倒れかけたのだから、今日は仮にこのまま夜までなにも食わなかったとしても、最悪水分さえとっていればだいじょうぶなはず。
 保安検査を抜けた先に免税店とならんでスタバがあった。パンでも買おうかなと思ったが、とんでもない行列ができていたので、やっぱりパスすることに。そのまま搭乗口付近のベンチに移動する。中国行きのフライトであるが、目的地が北京だからだろう、中国人だけではなく日本人もいるし、西洋人もいる(英語だけではなくフランス語も聞き取れた)。(…)行きの便では考えられない多様性だ。新三年生の(…)さんから微信が届く。大連で食った回転寿司の写真。ものすごくおいしいという。北海道直送のアイスクリームもあるとのこと。こちらはいま出国前だと告げたのち、いまの時期大連はもうアイスクリームを食べるには寒いでしょうと続けると、今日の気温は30度とのことで、これはけっこう意外だった。(…)さんは夏休みのあいだじゅうほとんど出かけず、「いたずらな」親戚の子どもの世話をしているとのこと。12月にはN1を受ける予定だが、夏休みのあいだほとんど勉強していないというので、きみだったらきっとだいじょうぶだよと請け合う。今日の午後は日本語の書籍の専門店に向かうつもりだというので、大連ってやっぱり特殊だよな、そんな店北京や上海にもないんじゃないのと思う。少なくとも(…)省には絶対にないと断言できる。
 搭乗。座席は三列シートの右端(通路側)。左隣はどことなく新四年生の(…)さんに雰囲気の似ている若い女子。その左隣には彼女のツレらしき別の女子。たぶんふたりで日本旅行に出かけた帰りなのだろう。(…)さんに似た女子はひっきりなしに咳き込んでおり、それがちょっと心配だった、というのは彼女が心配だったのではなく彼女がコロナに感染しているかもしれないという薄情な心配だったのだが、こればっかりはもうどうしようもない。こちらも感染して三ヶ月以上になるわけであるし、ぼちぼち抗体も弱まりつつあるはずなので、二度目の感染に気をつけなければならないわけだが、しかし中国の大学で暮らすとなると、正直、気をつけるもクソもないよなという感じだ。味覚も嗅覚もだいたいもどったのは幸いだが(帰国翌日に(…)一家といっしょに食った寿司はほとんど味がわからなかったが、その後食った寿司だの和食だのはだいたい楽しめた)。
 離陸前だったか離陸後だったか忘れたが、キャビンアテンダントが希望者にブランケットを配布していて、そのときはまったく寒くなかったのだが、もしもに備えてもらっておいた。これが正解だった。離陸してほどなく機内がめちゃくちゃ寒くなったのだ。座席の問題だったのかもしれないが、冷風がもろにあたってアホみたいに寒く、(…)さんに似た彼女もすぐにブランケットにくるまった。こちらは最初ひざかけとして使いながら書見していたのだが、眠気に見舞われてからは彼女と同様ブランケットにくるまってうとうとした。よく寝た。
 機内食が出た。牛肉と鶏肉とあとなにかがあるらしかったが、こちらを中国人だと思ったのか、あるいは中国語のできる人物であると思ったのか、キャビンアテンダントとのやりとりは終始中国語だったので、残る一品がなんであったのかは不明。とりあえず牛肉は呪いの食物であることが確定しているので鶏肉をお願いする。日本料理なのか北京料理なのかよくわからない、鶏肉と野菜をどろどろに煮込んだやつが、フルーツや最中といっしょに出てきた。おそるおそる食す。ここまで食ったらあとは同じだろうということで食後のコーヒーも飲んだ。
 フライトは3時間半ほど。出発時間が天候のせいでたしか小一時間ほど遅れたはず。搭乗口付近にいるとき、ガラス張りの壁面越しに土砂降りの模様をながめている日本人が、これ飛ぶのかなと不安気に漏らしていたし、機内に乗り込んでから離陸までもけっこう時間がかかった。機内アナウンスでも何度か離陸が遅れたことをわびる言葉があった。もともと北京到着後に3時間だか4時間だか時間を潰す必要があったので、多少の遅延はどうってことない。
 北京首都国際空港に到着。はじめての北京。トイレで小便だけすませてから道なりに歩く。セルフの指紋採取機がある。注意書きによれば、そこで指紋をとる必要があるというのだが、そもそもこちらは就労ビザを発行してもらう段階で指紋を提出しているのだからこんなもの必要ないのでは? というか(…)の空港でも上海の空港でもこんなものは見たことないんだが? という感じであるのだが、近くにいた出張らしい日本人男性複数人のうち、中国語のできるらしいひとりがそばにいたスタッフに中国語でこれはどうやればいいのかとたずねていたので、いちおうこちらもやってみるかというわけで機械に向かう。指示にしたがって機械にパスポートを読み取らせたところ、レシートのようなものが発行される。指紋の読み取り機があるにもかかわらず読み取りをうながされるでもない。もういちど同じことをやってみる。やはりレシートが発行されるのみ。そのレシートをもって近くにいたスタッフに英語で話しかけると、それで問題ないという返事。
 そのまま行列に続くかたちで道なりに進む。その先のゲートでWeChatのミニプログラム「海関旅客指尖服務」で得たQRコードを見せる。これはゼロコロナ対策の形骸化した遺産みたいなものだと思う。入国許可のQRコードを得るためには、現在の健康状態であったり過去二週間滞在した国であったりにくわえて出国48時間以内の抗原検査もしくはPCR検査の結果が陰性であったことを申告する欄を埋めて提出する必要があるのだが、二年前の超厳格だったときとは異なり、陰性結果は証明書とともに提出する必要はなし、つまり、実質のザルであるわけで、いわゆる形式主义なのだ。「海関旅客指尖服務」は出国前のチェックインカウンターに並んでいるあいだに記入をすませてあったので楽々クリア。その先でarrival cardの記入。ここは当然ながら外国人の巣窟になっている。いちばん多いのはやはりアフリカ系のひとびとであるが、韓国人もいたし、フランス語やスペイン語も耳にしたし、英語でやりとりする中国人女性と白人男性のカップルもいた。RUSSIAと印字されたリュックサックを背負っている小柄なハゲもいて、いわれてみればロシア人っぽいというか、どこかで見たことがあるなと思ったのだが、すぐにわかった、『喧嘩稼業』のヨシフそっくりだったのだ。
 入国審査の列はなかなか進まない。ここがいちばん面倒だ。ゲートを無事通り抜けた先で電車というか関空でいうところのウイングシャトルに乗って移動。まあまあ寿司詰めの車内で思ったのだが、北京というだけあってやはり東北の人間が多いのだろうか、(…)省にくらべて周囲の男女はあきらかに背が高かった(172センチのこちらより背の高い女子がごくごくふつうにいる)。こうなるとマジで文字通り小日本人であるなと思ったので、のちほどこのブラックジョークをモーメンツに投稿しておいた。
 ウイングシャトル擬をおりてふたたび保安検査へ。乗り継ぎの利用者には専用のレーンがあてられているらしくて順番待ちの必要はほぼなかったが、搭乗時刻の間近にせまっているらしい男性客ふたりから先にいかせてほしいと頼まれたので、これはもちろん了承した。搭乗口付近はちょうど西日がさしこむ位置にあったのか、アホみたいにまぶしかったので、めがねをサングラスにかけかえた。案内図によれば、メシ屋もいろいろにあるふうだったので、ハンバーガーでも食っておこうかなと思ったが、次もまあ機内食はあるわけだし、(…)の空港かホテル横の売店でその後ちょっとしたものを食えば、それでもういいかなとなった。
 こちらのモーメンツの投稿を見た(…)さんからすぐに微信が届いた。(…)さんと三人で会いましょうと言っておきながら連絡がとれずすみませんとあったので、いや謝るのはむしろこっちだからと思いつつ、また次の機会にと返信。(…)さんはいま転職活動で忙しくしているらしい。これまでは非正規雇用だったのだが、いまは正規雇用の仕事を探しているとのこと。(…)さんからもまた微信が届いている。例の本屋で小泉八雲の『怪談』と水木しげるの『妖怪大百科』を買ったという報告。予想通りすぎるラインナップで笑った。

 さっきまでと比べると周囲の話し声が大きいことにふと気づいた。ケンカするような口調で電話している女性もいる。周囲にいるのは(…)をおとずれる乗客ばかり。仕事やほかの用件でおとずれる人間もいるのだろうが、肌もよく日焼けして浅黒いひとが多いし、身体も小柄なひとが目立つので、大半が(…)人だろう。南方の田舎にいるひとと首都圏にいるひととではやっぱりマナーというか公共意識みたいなものにおおきな開きがあるんだなとあらためて思った。
 搭乗。三列シートの通路側に一度座ったが、あとからやってきた男性から席を間違えているんではないかと指摘された。確認してみると、たしかにこちらは窓側だった。指摘してくれた男性は通路側。ふたりのあいだには年齢不詳の小太りの男が着席したのだが、こいつが悪夢を体現したような人物だった。咳払いが半端ないのだ。いや、咳払いというレベルなどとうに超越している、チェーンソーのエンジンをかけるときみたいな音で「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔんんッッッ!」と長く長くやかましくかしましく喉を鳴らすのだが、それをマジで30秒に一回くらいのペースでくりかえすのだ。のみならずそこに口臭がくわわる。直接口を向けられているわけでもないにもかかわらずくせえ。半径一メートルがポイズンでバイオになる最悪の威力。離陸後すぐはまだよかった。というのもすぐに居眠りをはじめてくれたからだ。窓際のこちらは北京の夜景を楽しみながらひとときリラックスし、その後は同様にうとうとして過ごしたのだが、機内食の配膳されたあとが最悪だった。悪臭をまきちらす追加機能付きのバグりにバグったスピーカーが本領を発揮しはじめたのだ。リュックサックから教科書らしいものを取り出して機内照明を灯したうえでボールペン片手に勉強しはじめたバグスピはその後一時間か二時間か忘れたが、マジで30秒に一回のペースで「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔんんッッッ!」とうなり続けた。気が狂うかと思った。常人であればいくらそれをやったところで喉にひっかかる痰かなんか知らんがそいつは切れんと気づいてあきらめるだろうに、マジでバグスピはあきらめがどんなスポ根漫画の主人公よりも悪くておまえマジ勉強なんかやめてマラソンとかそういうスポーツやれよと言いたくなるくらいだったのだが、とにかくうるさいし臭いしでどうしようもない、書見なんてとてもできないし、だからといって眠りにつくこともできない。じぶんがキレそうになるのをこらえるので精一杯だったが、そんなこちらの我慢なんてバグスピはマジでまったく知らぬ存ぜぬで、あげくのはてには近くの席にいたほかの乗客が少し大きめの咳払いをしたのにわざわざ本から顔をあげてそちらのほうに抗議ともとれる視線を送り出そうとする始末で、このときばかりはマジで日本語で「どのツラ下げてじゃ」とたまらず漏らしてしまった。あたまがおかしくなりそうだった。プーチンより嫌いになった。
 着陸後、乗客らはいっせいにたちあがって我先に通路に出た。この節操のなさもやっぱり北京行きの便に乗っていた乗客とは違うよなと思う。着陸したところですぐに飛行機をおりることができるわけではない、急いでおりたところでbaggage claimでどのみちある程度待たされるわけであるし、最初におりようとも最後におりようとも結果はさほど変わらないだろうに、だれもかれもが我先に席を立って通路に出ようとする。しかしこれは単純にこの便にのっていた乗客が飛行機に慣れていないだけなのかもしれない。いや、でもそういうわけでもないか。二年前の上海行きでもたしか日本人客は着陸後もしばらくおとなしくしていたが、中国人客はほとんど全員が全員早い者勝ちとばかりに席を立って通路に出ようとしていた。
 飛行機をおりる。キャビンアテンダントの女性がこちらを外国人と認識した目線で送り出してくれたので黙礼で応じる。baggage claimではわりとすぐにスーツケースがまわってきた。ロビーに出る。横断幕的なものを持っている迎えの姿がひとつふたつある。なつかしい。はじめて中国をおとずれたとき、ドライバーの(…)もやはり「欢迎(…)老师」と書かれたボードを掲げて待っていてくれたのだ。(…)、元気にしているかな。マナーもクソもない、粗忽で粗野で、同胞の中国人からも嫌な目でながめられているような人物だったが、こちらはやっぱりああいう人物と一緒にいることにある種の安堵をおぼえてしまうのだ。育ちの問題。
 ロビーに売店はなかった。売店があるのは国際線の出口のほうかと思い出す。ホテルまで近いのでとりあえず先にチェックインすることに。ホテルのとなりには売店がある。もしそこが閉まっていたら、ホテルのスタッフに近くにスーパーかコンビニがないかたずねればいいだろうと考えて外に出る。すぐにタクシーの運転手が声をかけてくる。どこに行くのだ、と。ホテルだと応じる。どこのホテルだと言いながらあとをついてくるので、すぐそこだよと前方を指差す。実際、ホテルまでは三分もかからない。売店は開いていた。烏龍茶とポカリ(中国の売店で売っているのをはじめて見た!)を手に取る。それからとココナッツのウエハースとよくわからん菓子パンみたいなものも。微信での支払いになぜか二度連続で失敗したので、もしかしてこちらが日本にいるあいだにまたわけのわからん仕様変更があったのではないかと一瞬不安になるが、三度目でうまく支払うことができた。よかった。
 ホテルの受付へ。カウンターの内側には若い男女がいる。男の子のほうがこちらの相手をしてくれる。英語はダメらしかったので、片言の中国語でやりとりする。予約はしているのかというので、していると応じてTrip.comの画面をみせる。女の子のほうが、あなたは中国人じゃないのと中国語でこちらにいうので、中国人じゃない、日本人だよと中国語で受ける。女の子はそれ以上言葉を続けなかった。その表情からなんとなく日本人のことが好きじゃないんだろうなと推し量られた。明後日に海洋放出の予定されている処理水のことで腹を立てているのかもしれない。処理水の海洋放出については、中国では官民一体となって大反対の様相をていしているわけであるし、24日以降しばらくは肩身のせまい思いで過ごすことになるかもしれない。入国当日がその日でなくて正直よかったと思う。めんどうくさい絡み方をされる可能性も高い。男の子は親切だった。翻訳アプリを使用して懸命にこちらの質問に答えてくれた。やわらかい物腰にはなじみがあった。たぶんゲイだ。日本語学科にいるゲイの子たちと共通の表情、身のこなし、口調があった。チェックアウトは14時。駅までバスはないのかという質問には地下鉄があるとの返事があったが、以前空港から出ているものがあったはずだと伝えると、地図アプリを持っているかという。百度地图で目的地を設定すれば出てくると思うというのでその通りにすると、国内線のターミナルから(…)駅まで直通のバスがやはり出ているようだったので、よかった、これで明日は高いタクシー代を払わずに済む。カウンターの奥からは宿泊客の白人男性とホテルスタッフの女性が出てきた。女性の顔にちょっと見覚えがあった。出国時にこちらの担当をしてくれた子かもしれない。ほかのふたりにくらべると英語はずっと達者。
 今回割り当てられたのは一階の部屋。入室後、すぐに部屋着に着替え、Wi-Fiを設定する。ウエハースを少し食し、ポカリをガブ飲みし、シャワーを浴びる。シャワーは水漏れがひどいせいでいきおいが弱かった。Wi-Fiもすぐに使えなくなった(しかしとなりの部屋のものにおなじパスワードで接続できたので問題ない)。無事にうんこを漏らすことなく(…)まで到着することができたと母にLINEを送る。弟に礼を言っておいてくれ、と。
 どのタイミングだったか忘れたが、(…)からも連絡があったのだった。もともと明日(…)に到着してすぐにlocal police stationに行く予定になっていたのだが、明後日に予定を変更しようとのことで、(…)に到着後24時間以内に手続きをすませなければならないという決まりがあったからそれにあわせて翌日の高鉄のチケットも買ってあったわけだが、そのあたりだいじょうぶなんだろうか? よくわからんが、明日ゆっくりできるのであればそれに越したことはない、そういうわけでもともと13時前のチケットを予約していたわけだが、一時間か二時間か出発を遅らせようとTrip.comでチケット変更の申し出をしておいた。
 歯磨きをすませたのち、ベッドに横になってネットサーフィンをはじめるも、すぐに寝てしまった。移動時間の半分は居眠りしていたはずなのに、まさかこれほどあっさりと眠りに落ちることになるとは!