20230824

 9時にアラームで起床。歯磨きしてトースト二枚を食す。大谷翔平が右肘の靭帯損傷で今季は投手としてもう登板できないというニュース。10時をまわったところで寮を出る。徒歩で(…)楼へ。国際交流処のオフィスに入ると、(…)とふたりの娘、それにめずらしいことに(…)外国語学院長がいる。(…)外国語学院長はオフィスのパソコンでなにやら作業をする必要があってここをおとずれたらしい。握手してあいさつ。
 (…)にパスポートを渡す。(…)がパスポートのコピーをとったり、パソコンの操作に手間取っているらしい(…)外国語学院長のサポートをしたりしているあいだ、ソファに座って『スロー・ラーナー』(トマス・ピンチョン/志村正雄訳)の続きを読む。
 そろってオフィスをあとにする。(…)外国語学院長とはそこでお別れ。(…)と娘ふたりといっしょに階下にある駐車場に移動する。(…)の娘は上の子がもうすぐ10歳で、下の子がたしか6歳だったか、いずれにせよ(…)や(…)と年がかなり近い。駐車場に到着したところで、(…)からプレゼントを渡される。上の子が描いたという花の絵。小さなキャンバスを黒く塗りつぶしたうえに色とりどりの花が描かれている。10歳にしてはけっこう上手いほうだと思う。礼をいう。ふたりの娘はおそらくはじめて接する日本人相手に緊張しているようす。以前パウル・クレーモンドリアンをミックスしたような絵を見せてもらったことがあるが、あれは下の子が描いたものだ。
 車の助手席に乗りこむ。お土産のクッキーをバッグから取り出して後ろのふたりに渡す。じぶんは食べたことないのだが、母がこのクッキーがうまいといっていたから買ったのだと告げたのち、これは子どもたちへのプレゼントだからもしきみも食べたいんだったら彼女たちの許可をもらわないといけないよと言うと、(…)は笑った。(…)は絵の才能はたぶん下の子のほうがあるといった。それにくわえて、上の子はlifeをseriousに考えている、でも下の子はそうでもない、そういう性格のほうがartist向きでしょうという。上の子は最近本を読むことに熱中している。とにかくずっと本を読んでいるというので、きみも読書が好きだと以前言っていたけどと応じると、そう、わたしも昔は本ばかり読んでいたという返事。だったら彼女はwriterになるかもしれないなというと、たぶんずっとreaderのままだと思うと(…)は笑った。(…)は読書だけではなく、絵を描くのもまあまあ好きだったという。旦那さんはそうでもない。趣味は多いのだが、麻雀とかビデオゲームとか日本のアニメとかそういうものばかりで、だから文化系というか芸術系というかそういうアレではないらしい。
 警察署に到着する。ここでの手続きはすぐにすんだ。書類一枚記入しておしまい。われわれがその書類を記入しているあいだ、娘ふたりはおとなしくすごろくのようなおもちゃで遊んでいた。すごくおとなしいんだねというと、さっき彼も同じことを言っていたと(…)はいって、われわれの担当をしてくれたひとの良さそうな男性スタッフのほうを指した。
 娘ふたりにはEnglish nameを与えているようだったが、本名を知りたかったので教えてもらった。上の子は(…)で、下の子は(…)。旦那さんの苗字が(…)であるのだろう。中国語の名前は美しいから好きだというと、あなたの名前もきれいだと思うというので、(…)ってthree housesという意味でしょう、でも実際のところ家なんて一軒も持っていないんだよねというと、(…)は笑って、でもそれがあなたのdestinationだと思うといった。
 (…)と娘ふたりはそのまま家に直帰するという。こちらは彼女が呼んでくれたタクシーに乗りこんでひとり大学まで戻ったのだが、(…)ちゃんが描いてくれた絵を(…)の車の中に忘れてしまった。すぐに(…)から微信が届いた。次回会ったときにあらためて渡してもらうことに。(…)ちゃんにちょっと悪いことをしたかもしれない。
 北門でタクシーをおりる。そのままキャンパス内にある瑞幸咖啡へ。アイスの美式咖啡を打包する。帰宅後、コーヒーを飲みながら、おとついづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月23日づけの記事を読み返す。
 作業の途中、新三年生の(…)さんから微信。これで三日連続だ。今学期の時間割が発表されたのだが、授業の数がとても少ないという。時間割を見せてもらったのだが、授業は全部で7コマしかなく、火曜日は丸一日休みになっている。ちなみに一個上の先輩たちが三年生前期だったときに受けていた授業の数は11コマで、4コマも減っている。具体的には(…)先生が担当していた经易日语と、以前(…)さんが担当していて去年からは(…)先生が担当していた商务日语口语、それから過去にはこちらも(…)さんも担当していたことがあり去年からはやはり(…)先生が担当していた日语报刊选读、そして最後にこれはわりと最近新設された授業だったと思うのだが(…)先生が担当していた日本网络新闻阅读で、こうしてみるとたしかにずいぶん減った。でも学生たちにとっては授業が少ないほうがありがたいでしょうというと、「しかし、これは日本語学科が消える前兆だと心配しています」という返事。なるほど、そういう前触れとしても解釈できる変化なわけか。とはいえ、今学期から一年生が二クラスに増えるわけであるし、となるとどうしても教員の負荷も増えるわけであるし、そのあたりの調整がいろいろ入った結果としてこの時間割なのではないか。実際、「(…)先生は一部の授業が来学期に調整される可能性があると言いました」とのことで、この「調整」というのは要するに「移動」のことだろう。来年からは(…)が独立するし、そうなると向こうの授業を担当しなくてもよくなるわけだから教員の手も空くだろうし、それに今学期から新任の教師がひとり入ってくるという話もあるし、どうにかまわっていくのではないかと思う。

 (…)先生に微信を送る。今学期の時間割が欲しい、と。教務室の先生に頼んでくれとの返信があったが、連絡先を知らない。もしかしたらそのうち(…)先生から連絡がくるかもしれないと思って放っておくことにしたのだが、これがその通りになった、夜に(…)先生から連絡があったのだ。それによれば、今学期は月曜日の10時半から一年生の会話(1)、火曜日の10時半から二年生の写作、14時半から一年生の会話(2)、水曜日は休みで、木曜日の8時から二年生の会話、金曜日は休みというスケジュール。しかしこれにスピーチの練習も加わるわけであるし、院試に挑む学生のサポートもある。木曜日に朝一で授業があるのは正直かなりうっとうしい。
 ここまで書いたいま、紙切れに今学期の時間割表を手書きで書いて、デスクの前の壁に貼りつけた。先学期の時間割が書き記してあった紙切れは逆に剥がす。ほか、「S」執筆中のメモ書きも大量に貼ってあったのだが、それもすべて剥がした。今後は「実弾(仮)」の脱稿に向けて必要なメモ書きをまたペタペタ貼っていくつもり。
 処理水の海洋放出がはじまる。モーメンツでさっそく非難の投稿がはじまる。(…)さんといっしょに鹿児島に渡ったばかりの新四年生の(…)さんが明日の雨がおそろしいという。新三年生の(…)さんは自分は日本語専攻の学生であるが日本はクソだという。しかし両者ともにすぐにその投稿が見えなくなったので、たぶん公開範囲を変更してこちらの目に触れないようにしてくれたのだと思う。いちおうそういう気遣いはあるわけだ。
 今日からしばらくめんどくさいことになりそうだな、学生から直接聞かれたらどう答えようかなと思いながら、きのうづけの記事にとりかかる。すると(…)さんの書道の先生である(…)さんから微信が届く。「日本福岛核污染水开始排海」という人民日報の記事に対するリンクとともに、「真的没有办法了吗?没有了海洋还有未来吗?悲伤」というメッセージ。ええー……と思う。こちらを糾弾する口調ではないし、謝罪をもとめるようなアレでもないのだが、しかし普段まったく連絡をとらない間柄であるし、会ったことがあるのも一度きりであるのに、わざわざこんな記事を送りつけてくるのか、と。文人であり芸術家を自称する人間ですら、政府と個人を同一視する発想から逃れることができないのか、と。じぶんは専門家ではないし各国・各メディアの報道もバラバラであるのでなにも断言できる事柄はない、とりあえず最悪の事態にならないことを祈っているとお茶を濁して返信。
 中国政府はすぐに日本からの全海産物の輸入禁止措置を発表したようであるが、EUは逆に震災のころからずっと続けていた輸入制限を解除したようである。それからこれはのちほど夜になって知ったのだが、中国各地では塩の買い占めが起こっているらしい(中国で販売されている食塩にはヨウ素が入っておりうんぬんという理由らしい)。それでこれもやっぱり夜になって思ったことであるのだが、この件、コロナのときとほとんどおなじパターンをなぞっていないか? つまり、中国を取り囲む壁の内側と外側で尋常でないほどの温度差があるという意味なのだが、いや、もちろん、いまや「ただの風邪」扱いされることも多いコロナウイルスと同様、ALPS処理水の放出が完全に安全であると断言することは難しいだろうし、安全であるにしても少なくとも「完全に無害」でないことは科学的に明白であるのだが、だからといって新三年生の(…)くんが明日の雨に濡れてもだいじょうぶなのだろうかという心配をモーメンツに投稿していたり、おなじく新三年生の(…)さんがインターンシップ先の仲間たちときのう海で遊んだり回転寿司を食べたりした記憶を短い動画にまとめてモーメンツに投稿しつつ昨日が海が汚染されていない最後の一日だったみたいなコメントを付していたり、他学部の女子がもう海に遊びにいくことは二度とできないと嘆いていたりするのを見ると、あれ? これゼロコロナ最盛期とまったくおなじパターンちゃうか? という既視感をおぼえざるをえないのだ。もちろん、今回の決定に対して世界各国で反対しているひとたちはいるだろうし、その中には科学的データにもとづく意見も多数あるのだろうが、少なくとも中国国内における反対意見の多くはそういうレベルのものではない、コロナのときもたびたび聞かれた言葉でいえば、本来科学的に検証すべき問題を政治的問題に作り変えた政府の思惑のままに、ヒステリカルな世論がひきおこされ、その力によって人民らがバッチリあますところなくコントロールされているという印象を受ける。日本語学科の、それもこちらの目につく範囲内でこの反応であるのだから、平均的な中国人の意見はもっとずっと先鋭的だろう。日本でコロナウイルスが流行しはじめたばかりのとき、(…)さんが日本で生活するのがけっこういたたまれないと語っていたが、たぶんいまのこちらもそれと似た状況に置かれている。肩身のせまさ。その(…)さんもモーメンツで、いろいろなひとからそのまま日本で暮らしていてだいじょうぶなのかときかれる、食事は問題ないのかと質問される、じぶんは専門家ではないのでたしかなことは口にできないがと前置きしたうえで、IAEAの公式発表の中国語訳をスクショして載せていたが、あれも親族友人含めマジでいろいろつっこまれるのがうっとうしくなって投稿したものなんだろうなと思う。ゼロコロナ末期に政策の矛盾点をVPN経由で知った(…)くんですら、官製記事に飛びついてすぐに反応してしまっているし、ネガティヴ・ケイパビリティうんぬんとまではいわないが、いったん距離をとって冷静に情報を検分するという構えそのものがまずない。

 自転車で(…)に買い出し。日本人とバレたらいろいろめんどうくさいことになりそうだなとやや警戒しながら店をまわる。ボディソープ、豚肉、ニンニク、パクチー、トマト、レタス、インスタントラーメンを購入。平時からこもりがちなこちらは問題ないが、(…)さんみたいに外遊びが好きな人間であれば、こういう状況で中国に滞在するのはきっとつらいだろう。夏休み中に(…)に遊びにいくつもりだと以前語っていたが、ほとばりが冷めるまではもしかしたら延期するかもしれない。
 帰宅。タジン鍋に豚肉とトマトとパクチーをドーン! して、レンジでチーン! する。食後、ベッドに移動して小一時間ほど寝る。コーヒーを用意してきのうづけの記事を投稿し、2022年8月24日づけの記事を読み返す。
 20時半になったところでシャワーを浴びる。浴室でゴキブリを一匹見つけたのでスリッパで叩き潰す。あがったところでストレッチし、そのまま今日づけの記事にとりかかる。途中まで書いて中断し、一ヶ月半ぶりの懸垂をしながら、合間に抜き書きノートの移行作業。2009年11月1日に読んだものらしい柄谷行人『意味という病』(講談社文庫)の抜き書きを手作業で移行。いま読み返してみてもおもしろい箇所がたくさんある。

不条理とは見せかけである。それは世界を総体的に意味あるものとするオプティミズムの産物であり、しかもたえずオプティミズムへと、最終的な和解へと自動的に導くのである。ひとびとはそこからただちに引返すか、逆に世界を「不条理」として意味づける。むしろ不条理とは、より一層意味を回復させるために不可欠な一手段である。君たちの生存は無意味だ、疎外されている、非本質的だ……信仰や革命の原動力はこういう訴えにある。
(p.64「マクベス論」)

 カイヨワは、夢の世界が自由奔放な幻想の世界だという「一般の考え」が錯覚にすぎないといっているのである。一般にわれわれのいう夢は、外側からみた夢すなわち記憶としての夢にほかならないので、「夢の世界」そのものとは縁もゆかりもないといわねばならない。同じことが、狂気や未開の思考についていえないだろうか。狂人は苛酷なほど明瞭な観念に苦しんでおり、けっして非現実的な空想に耽っているのではない。彼は「現実の世界」よりずっと強烈にリアルな世界にすんでいて、その「世界」の軛からのがれることもできないのだ。外側からみれば幻聴だとしても、当人にとってはどんな現実の声よりも明瞭で強迫的である。
 迫害妄想をもつ病者は、たとえば彼を中傷する他者の声を聞く。しかし、実は彼は他者の声を「聞く」のではない。もし現実の声であるならば、 それはわれわれの外側にある。すなわち、われわれはそれに対してさまざまな対応が可能であり、黙殺することも反撥することもできる。あるいは耳を閉ざすこともできる。しかし、病者においては、その声に対する「距離」をもつことができない。その声は圧倒的な実在であって、彼はあまりにリアルな世界のなかに生きるほかないのである。そのようにあまりにリアルな世界をさして、われわれは狂気とよぶのであって、狂気の「世界」はクリエイティヴな空想世界どころではなく、その逆に現実よりもはるかにきわだって現実的な世界というべきである。
(中略)
 ……むしろこういいかえるべきかもしれない。われわれが夢、狂気、未開の思考にあこがれているのは、それらの世界が自由奔放だからではなく、あまりに苛酷な明瞭なリアルな世界だからではないのか。
(p.68〜69「夢の世界」)

 たとえば夢のなかで、かりにわれわれが樹木を見ているようにみえても、事実はそうではない。樹木は見らるべき対象として存在するのではなく、ただ圧倒的にそこに存在する。なぜ樹木がそこにあるかは問題ではなく、またそれを見ないですますこともできないというふうに絶対的に現前している。われわれはそれに抗うことも対象化することもできない。カフカの小説における事物の現前性はそういうものである。ヘミングウェイがいったように、これはけっして夢を模したものではなく、われわれが距離をおいて生(世界)を対象化しえなくなったとき生じるものである。カフカは奇怪な夢を奇怪に書いたのではなく、「在りさうもない事だけが起つてゐる」現実をリアルに書いたにすぎない。
 カフカの作品にはなんの寓意もないし象徴性もない。むしろそのような「意味」を切りすてることによって、読む者をあまりにリアルな世界のなかにまきこむのだ。われわれはそれを「夢のようだ」という。しかし、そのときわれわれは、ふつうは 「意味」によって汚染されている現実世界を原型的に感受しているのである。
(p.75〜76「夢の世界」)

 ところで、私は夢そのものと夢の記憶はちがうといった。それは夢の記憶がわれわれが眼ざめたときに構成されたものだということを意味している。夢のなかでは不可解なことはなにもない。なぜなら、そこではわれわれはなにかを理解しようとはせず——すなわち対象化しようとはせず、たんに了解しているだけだからである。一瞬一瞬の了解はあるが、それらを結びつけようとはしない。たとえば私は家のなかにいたはずなのに、突然電車に乗っている。だが、私はそのことをべつに不審だとは思わない。そのつど了解しているからであり、そこになんら疑問の余地はない。
 しかし、記憶としての夢においては、その一つ一つが理解しがたく、また馬鹿げたもののようにみえる。それは夢を想起するとき、それらの〝経験〟を前後関係や因果関係にまとめてしまうからだ。つまり、夢とはわれわれが眼ざめたときに作りあげる一つの物語であって、「夢の世界」そのものではない。夢が不可解に思われるのは、われわれがそれを「なぜ」「いかに」「いつ」といった統語法(シンタクス)のなかに整序しようとするからである。
 だが、このような物語化は不可避的である。そして、重要なのは、夢のなかの経験だけでなく、現実の経験もまたそのようなシンタクスのなかで整序されているということだ。 現実とはすでに記憶である。試みに、自分が今日一日どうしたかを想い出してみればよい。私は家のなかにいた、電車に乗っていた、というような事柄が浮んでくるが、その途中はすこしも思い出せない。つまり、実際の経験なるものも一つの構成にほかならず、われわれは一日、一年、一生という物語を作りあげるのである。われわれは自分自身に関する物語をたえまなく作り、それを「自己」とよんでいるにすぎない。
 もしそのような物語化を排除しようとすれば、われわれの現実は「夢の世界」に近接する。むろんそれは夢そのものでもなければ、現実そのものでもない。なぜなら、ひとたびわれわれが〝経験〟として意識するとき、それはすでに言語化されたものであり、そのものではないからである。われわれが事実とよんでいるものは、一つの表現形式にほかならない。いわゆるリアリズムが根本的に見おとしているのは、最も単純な事実でさえも一つの表現形式にすぎないということである。
 たとえば、われわれが慣れきってしまった表現形式とがべつの文体をみるならば、そのことは明瞭となるだろう。W・H・オーデンは『第二の世界』という講演集のなかで、アイスランド伝説(サガ)について論じているが、アウエルバッハから引いた次のような例をあげている。
 
①彼は眼をひらいた、そして衝撃を受けた。
②彼は眼をひらいたとき、衝撃を受けた。
 
 オーデンによれば、アイスランド伝説の文体では①のような「併列」が大半を占めている。両者の違いは明らかであって、②では「眼をひらく」ことと「衝撃を受ける」ことに、因果関係ないし時間的関係が前提されている。つまり、そこには統語法(シンタクス)によって構成された経験があるが、①ではまだ意味づけられていない生きた経験が記述されているのである。
 たとえば、「明け方、私は消防自動車のサイレンの音で眼をさました」という文章がある。これはむしろ、「私は眼をさました、そして消防自動車のサイレンの音をきいた、明け方だった」と書いた方がよりリアルであろう。なぜなら、前の文では一つの経験が実はありもしない時間的な順序のなかで整理されてしまっているからだ。
(p.77〜80「夢の世界」)

 私が興味をもつのは、しかし、二十世紀の作家よりも、オーデンが引用している十二世紀のアイスランドの〝作家〟である。

髪は巻き毛で栗色、眼も美しかった。顔色はとてもあおく、鋭い目鼻立ちをしていた。鉤鼻で、出歯のために口元はみにくかった。彼は徹頭徹尾、戦士だった。
(『ニャウル伝説』)

 ホメロスなら(あるいはどんな英雄叙事詩でも)、こんなふうに書くことはありえない。英雄は英雄であり、それにふさわしい肉体的外見をそなえていなければならないからだ。しかし、近代の小説家がこのように書くということもまたありえないのである。たとえば、「鉤鼻で、出歯のために口元はみにくかった」という条(くだ)りを、意地悪く英雄の裏面をみやぶったつもりで得意気に書くにちがいない。だが、右のような「併列」的文体では、「眼が美しかった」と「口元がみにくかった」の間に but という語がはさまっていないことに注目すべきだろう。そこに but という語をいれてしまうのは、英雄はかくあるべきだという理念と実はこうだという現実の「矛盾」を意識するからだが、そういう矛盾はただわれわれの観念がつくり出したもので、この伝説の書き手は一見「在りさうもない」現実をあるがままに見ているのである。
(p.82〜83「夢の世界」)

(…)われわれは自分が正しいとき他者を憎むより、自分がまちがっている時にかえって他者を憎む。
(p.120「私小説の両義性」)

(…) よく指摘されるように、日本語には「気」という語が非常に多く用いられている。「気がつく」、「気が沈む」、「気がすむ」、「気が向く」、「気に入る」等々。「気」という概念はもともとはシナ思想だが、このように日常化された表現においては、「気がつく」が一つの語の単位であり、「気が・つく」というように「気」が何か独立したものとして意識されていない。しかし、この種のことばの本来の用法としては、たとえば「気が向く」というとき、私が何かをしたいと感ずるという意味であるが主体的なものではなくまた主体の自由にならないものとして漠然と解されている。つまり、それは慣用的にはそれ以上分解できない複合語として用いられているが、実際のニュアンスにおいては外国語に翻訳できない意味をわれわれは微妙に意識しているはずである。つまり、「気」なるものを、「私」とは別の主体ででもあるかのように感じているのである。
 木村敏は『自覚の精神病理』や『人と人との間』で、この「気」がドイツ語でいうes、すなわち非人称主体と同じものではないかといっている。この意見には私も同感である。たとえば、周知のように、ハイデッガーは“Es ist einen unheimlich”(気味が悪い)という日常的表現から、彼の現存在分析の主要な部分を展開している。彼は、非印象判断の主語esを、主観と客観という認識論的レベルに先立つものとして、つまりより基礎的なものとしてとりだしたのである。このことは、言葉とは別個に、心理学的に対象化しうる感情や感受性があるのではなく、逆に心理学こそ実は言葉にもとづくのだということを意味している。
(p.123〜124「私小説の両義性」)

われわれがはぐらかされたように感じるのは、作品を読みながら倫理的にであれ美的にであれ、一つの合目的性を予期してそれが裏切られるからである。作品を読むときだけではない。われわれの行為はつねに目的措定的なのであって、むしろそれがくいちがったときにかえって現実性を感じる。意図通りに何もかも実現してしまうことを、絵空事と感じるのである。そうだとすれば、奇怪なことが生じるのは絵空事の世界ではない、現実の世界だ。実際の世界では、整理のつかないことがつねにおこっており、むしろそれだけがおこっている。
(p.171〜172「歴史と自然」)

傲慢というのは、自分の用意したもの、自分の理解しうるものの領域の外に一歩でも出ないということである。この場合には、「経験」ということが逆の働きをしている。新しい現実を、古い経験の枠の中におしこんで安心しようとする。むろん懐疑の身ぶりをしながら。
(p.248「人間的なもの」)

どんな意識的な行為でも不透過な部分がある。ふらふらとやったのと大差ない要素がある。とにかく先ず人間は何事かをやってしまう。そして、やってしまってから考えるのである。われわれはすでにやってしまったことについてしか思考しえない。しかも、すでにやってしまっていたということへの違和感なしには思考しえない。これは極言すれば、われわれが誰でも気がついたらすでにこの世界に生きていたということと変りはない。
(p.256「人間的なもの」)

マルクスとかフロイトの出現以来、われわれは事物をいつも裏側からのぞくことになれた。しかし、それによって事物がよくみえるようになったわけではないので、逆にわれわれは事物の「表面」をみる能力をうしなったのであり、「表面」をみすえる努力をするかわりに、べつの意味体系をあてはめてわかったつもりになっているにすぎないのである。
(p.296〜297「掘建小屋での思考」)

 プロテインを飲み、冷食の餃子を食す。卒業生の(…)さんから微信が届く。いまどこにいますか、と。昨日から(…)だよと応じると、彼女はいま(…)にいるとのこと。故郷の田舎にいても暇なので「友人の勤務地」で夏休みを過ごしているという。(…)に遊びに行きたいというので、いつでも来ればいい、こちらはどうせほとんどずっと寮にいるだけだからと応じると、27日から28日にかけて行くかもしれないというので、正式な予定が決まったらまた連絡をくれと応じる。彼女とはオンライン授業中にさよならしてしまったわけで、だからもう三年半以上会っていないことになる。
 歯磨きする。またゴキブリがいたのでスリッパで叩き潰す。こちらが寮を不在にしていた一ヶ月半ものあいだに勝手に増えやがって。(…)先生から送られてきた時間割表片手に今学期のスケジュールを確認。9月中は軍事訓練で一年生の授業はないし、10月になったら国慶節の連休もあるわけだから、とりあえずまだ一ヶ月ほどはゆとりがある。そのあいだに授業準備をすべて終わらせておきたい。そうすれば残り時間は仕事と執筆が両立できるはず。今学期は9月4日開始。こちらの担当する初回授業は5日(火)。二年生の写作(一)だ。
 今日づけの記事の続きをまたいくらか書き進める。2時になったところで作業を中断し、ベッドに移動して就寝。今日は『Ut Av Det Nye』(Wako)と『Pulse』(Uztama)と『Last Year』(Ajmw)と『BEIJING CALLING - EP』(BRAIN FAILURE)と『Sensational』(Erika de Casier)を流した。