20230930

 死の欲動を、第Ⅰ部に出てきた母胎の論理を使って解釈してみよう。
 主体は〈他者〉から印を授かる。この印を全体として再現しようとするとき、一つの際限のない過程、全体と無の弁証法が生まれる。言い換えると、数を数えるときには一つの数えられない要素が生じ、そこで欠如としての主体が誕生する。最初に授かった印はまだ単なる痕跡だが、それを数えるときに主体が生まれる。それは否定的存在であり、〈他者〉の世界で生まれるものであるが、生まれた時点からすでに自らの存在を喪失している。つまり、主体は自らが何であるかの問いに答えてくれるようなシニフィアンを持たない存在である。それは自らの存在に対する問いかけを止めず、メビウスの輪の表から裏、裏から表への往来が示すように常に不安定な状態におかれている。
 精神病の場合にはこの不安定性が直接観察できる。そこでは、主体にはおのれの存在に関する問いが知覚のなかに含まれる空として感じられ、知覚が常に何かの意味を含むものとして語りかける。そして普通には何の意味もない日常的な出来事、簡単な会話、日々の挨拶などが、何か重大な意味をもつという確信が生じる。彼は自らの存在の謎を知覚のなかに読み取り、世界全体が彼にとって、意味をもったものとなる。こうして〈他者〉の世界は彼に直接語りかけるようになる。世界は主体の存在を決定することの不可能性という一つの欠如によって、破滅の危険にさらされている。詩人が言うように、世界にひとつ足りないものがあるとそこから世界がその穴に吸い込まれて破滅するのだ。破滅から逃れるために妄想が生まれる。精神病の妄想体系とは、世界を安定させるために欠如に一つの存在を見つけようとする試みである。それゆえに、妄想とは錯乱から抜け出そうとする努力だと言える。そして、これは精神病の治療の意味をもっている。このような機能をもつ妄想とは、世界の失われた秩序を回復させようとする一つの論理的体系であって、それは論理的な厳格さをもって展開される。精神病的な主体的構造をもった者が天才的数学者、論理学者であることは稀でない。集合論創始者で現代数学の基礎を創ったカントールの例は有名である。ラカンは、精神病者とは厳密性の試みだと言っていた。そして「この意味で自分も精神病だ。私は常に厳密であろうとしたという唯一の理由から精神病なのだ」とまで言っていた(J.Lacan, Scilicet, n° 6-7, Paris, Le Seuil, 1976)。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅱ部第四章 精神分析の倫理」 p.228-229)



 9時半にアラームで起床。やや寝不足。歯磨きしながらニュースをチェック。2Pacの射殺犯が逮捕されたという報道に触れる。以下、NHKニュースの記事より(
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230930/k10014211701000.html
)。

アメリカのヒップホップ界の伝説的なラッパー「2PAC」が1996年、ラスベガスで何者かに銃撃され死亡した事件で、現地の警察はロサンゼルスのギャングの元リーダーの男を殺人の罪で逮捕・起訴したと発表しました。
2PAC、本名トゥパック・シャクールさんは1996年、アメリカのラスベガスの交差点で信号待ちをしていたところ、乗っていた車が何者かに銃撃され、25歳の若さで死亡しました。
この事件で地元の警察は29日、ロサンゼルスのギャングの元リーダー、ドゥエイン・デイビス被告(60)を殺人の罪で逮捕・起訴したと発表しました。
元リーダーは、2019年に出版した自伝でトゥパック・シャクールさんを襲撃した車両に乗っていたことを明らかにしていて、ことし7月には警察から家宅捜索を受けていました。
2PACは2017年にはソロのラッパーとしては初めて「ロックの殿堂」入りを果たすなど「ヒップホップの伝説」と呼ばれていて、長年にわたり未解決だった事件の進展をアメリカのメディアは大きく伝えています。

 ふつうに考えて、「元リーダーは、2019年に出版した自伝でトゥパック・シャクールさんを襲撃した車両に乗っていたことを明らかにしていて、ことし7月には警察から家宅捜索を受けていました」のところで、こいつアホちゃうかと思うわけだが、まあこちらもいまや公開制となってしまった日記にいろいろまずいかもしれない過去を書いてしまう点で似たようなものなのかもしれない。
 トーストを一枚だけ食べる。10時半集合の約束だったが、15分はやく(…)くんより到着の連絡がある。急いで身支度を整えて外へ。(…)くんのほか、(…)くんと(…)くんもいるが、(…)くんはいない。彼はやっぱり来ないことにしたらしい。まずどこかでごはんを食べましょうと(…)くんがいう。(…)はどうですかというので、腹が減っていないと応じる。ほかのふたりも同様。どこかで包子かなにかを適当につまめばいいんではないかと言いながら北門の外に出る。いつ降りだしてもおかしくはない曇り空。きのうは(…)くんも(…)くんも(…)くんも彼女とデートだったので、(…)くんはひとりで寮にずっといて歌をうたいながら過ごしたという。ちなみに、一緒にカラオケに行きませんかとの誘いがあったあの日も結局カラオケには行かなかったらしい。最近カラオケも値段が高いという。
 門を出てそのまま道なりに歩く。近くにメシ屋があるわけでもないので、「漫展」の会場があるホテルのあたりにまず行き、その近くでメシを軽く食おうと提案する。それで滴滴で呼んだ車に乗りこんだ。移動時間は10分以上あったと思う。会場があるホテルは予想していたよりも遠くにあったのだ。車内ではぽつりぽつり会話を交わしたが、運転手の男性からおまえ何人だという質問を寄越されることはなかった。
 ホテルの門前で車をおりる。ホテルの入り口に『エヴァンゲリオン』のアスカがいる。周囲を見渡すと、コスプレイヤーの女性の姿がちらほらある。イベントは9時スタートの16時終わり。今日同行した学生のなかでもっともアニメに詳しい(…)くんは大興奮。(…)くんはアニメよりもゲームのほうが好きなのだが、『原神』や『アズールレーン』などの中華ゲームのキャラをコスプレした女の子がけっこうたくさんいたらしく、やっぱりよろこんでいた。(…)くんは精日分子であるけれども二次元より三次元派で、アニメは有名どころしか知らない(もしかしたらこちらのほうが詳しいレベルかもしれない)。
 近くにケンタッキーがあったのでそこで軽くメシを食うことに。店内もコスプレイヤーだらけ、というか少なくとも一階にいる客は全員コスプレイヤー(とカメラマン男子)だった。会場のホテルにはもしかしたら更衣室というか控え室というかそういうのがないのだろうか? 店内でメイクをしたりカツラを装着したり衣装の細部を調整したりしている姿がたくさんあって、店側もそれを許容しているようす。ハンバーガーとチキンとコーラがそれぞれ複数セットになっているやつをケンタッキーのVIP会員である(…)くんが注文。それをみんなでシェアする。となりの席にすわった男性ふたりが「わたしはこれを食べます」「これはおいしいですか」などとおたがいにカタコトの日本語で会話していたので、これはまたアレだな、われわれの席で交わされている流暢な日本語でのやりとりに気づいて「日本人ですか?」からの連絡先交換パターンだなと覚悟していたのだが、めずらしくそうはならなかった。店内にはセーラー服を着ている高校生くらいの男の子もいた。女装ですよ! と(…)くんは言った。(…)くんは「男の娘」が好きであるので、たぶんけっこう興奮していたと思う。
 店を出て、会場に向かう。通りのあちこちにコスプレイヤーの姿がある。くすぶったコンクリートの壁面と亀裂の入った路面からなるどこまでも色味に乏しく殺風景なこの地方都市に、色味はくっきりしているのだが生地がどうしてもペラペラで安っぽいために近くでみると学芸会じみた印象がどうしてもぬぐえない衣装とカツラを身につけた姿が、結べばなにかの星座になりうるような配置であちこちに点在している。
 ホテルに入る。一階のロビーにもすでにコスプレイヤーの姿がある。エレベーターで三階にあがろうとするが、なかなかやってこないので、階段で移動することに。階段はなぜか便所と記されている扉をひらいた向こうにあった。従業員が移動に利用するほうの階段だと思うのだが、段に腰かけてスマホをいじったりメイクをしたりしている参加者の姿でけっこう埋まっていた。
 三階に出る。屋上というかテラスというかそういう屋外スペースがある。ガラス窓でそのスペースとへだてられている廊下を歩いた先に受付がある。受付にはこちらの知らないアニメだかゲームだかのキャラのコスプレをした女子が三人か四人いて、スタッフとしてたちはたらいていた。このときはまだわからなかったのだが、のちほど会場をぐるりと一周してみて、ここのスタッフのコスプレがいちばんクオリティが高かったというか、金と時間がかかっているなァという印象を持った。スタッフとしてたちはたらいているくらいであるし、たぶん(…)のコスプレイヤーのなかでは第一人者的な立ち位置にある子たちなんだろうが、その中に以前万达で声をかけられて連絡先を交換した(…)さんの姿もあった。こちらは全然気づかなかったが、(…)くんのほうが気づき、先生、(…)さんですよ! と教えてくれたのだった。中国語で軽くあいさつだけした。こちらがこのような場に来るとは思ってもみなかったのだろう、多少うろたえているようにみえた。(…)さんはのちほど数枚の写真や動画をモーメンツに投稿していたが、そのなかに同じようにコスプレしている彼女の写真も投稿していた((…)さんはバイセクシャルである)。チケットは45元。思っていたよりも高い。(…)くんが事前に購入しておいてくれた。右の手首に紫色のテープを巻いてもらう。
 まず屋外スペースのほうに出た。あいにくの曇り空であるが、あちこちで撮影が行われている。スペースは広くない。普通の歩行ペースであれば、二分で外縁沿いを一周できる。さてどうするのかなと思って学生たちのほうを見たところ、三人とも硬直していた。なにをすればいいのかわからなくなっているようすだった。おい! おめーらから誘ったんやろが! なにを空気にのまれとんねん! それで仕方なくこちらが率先するかたちでコスプレイヤーらのあいだを歩き、あれは犬夜叉だね、あれは綾波レイだね、あれはマキマさんだね、あれは五条先生だね、あれは『ハイキュー!!』のキャラクターだね、あれも『ハイキュー!!』のキャラクターだねと、手持ちのわずかな知識をフル動員しながら、まるで中国人ツアー客をひきつれて二条城を移動するガイドみたいにふるまうはめになった。
 そのまま屋内スペースに移動。ステージがあるが、歌ったり踊ったりするわけではなく、そこも撮影スポットになっている。物販もあったが、手作りのグッズを販売しているわけではなく、日本産のグッズを割高価格で販売しているふうだった。壁に白い布がはられていた。自由にイラストを描いてもいいらしく、コスプレイヤーたちがおもいおもいじぶんの好きなキャラをサインペンで描いていた。みんな上手だった。ネフェルピトーのイラストが特に上手だったので、(…)くん、『HUNTER×HUNTER』の絵があるよと教えた。
 軍服を着たコスプレイヤーがいた。チェンソーマンがいた。ナルトがいた。カカシ先生がいた。オビトがいた。カオナシがいた。新八と神楽ちゃんがいた。こちらには同定できないが、(…)くん曰く、『原神』と『アズールレーン』のキャラクターがたくさんいた。さっきの階段とは別の階段をおりて二階に移動した。こちらにも物販とステージがあった。物販には「福袋」が売っていた。初音ミクや『チェンソーマン』や『原神』や『ぼっち・ざ・ろっく!』のイラストが印刷された紙袋が山のように積まれているのだ。ひとついくらであったかは忘れた。ほかに、こちらはたぶんオフィシャルなものではない、二次創作者の手になるものだと思うのだが、缶バッジやキーホルダーが大量に販売されている一画もあった(BL作品っぽいものもあった)。(…)くんは缶バッジに興味をもっているようだったが、高いから買えないと嘆いた。あとは無料でお菓子を配布しているゾーンもあった。
 こちらのステージではカラオケやダンスのパフォーマンスが行われていた。自由参加らしい。ステージの背景はモニターになっており、そこにプレイリストが表示されていたのだが、ほぼすべてが日本の楽曲だった(というかアニソンだった)。パフォーマンスはなかなかひどいものだった。ひどいというかお粗末だった。たとえばダンスをするにしても、動きにキレがないとか練習不足であるとかいう前にまずふりつけが全然あたまに入っていない。カラオケにしてもやっぱり大半がスマホで歌詞を見ながらであるし(しかし日本語の歌詞であるのでこれは仕方ない)、そもそも専門のPAがいないのかマイクの声が全然聞こえない。カラオケやダンスのほかには、たぶんアニメやゲームのワンシーンを再現したものだと思うのだが、ステージで小芝居をする集団もいた。その小芝居にしても(中国語にもかかわらず)セリフがあたまに入っていないのか、グッダグダの進行であったり、あるいはやっぱりスマホ片手であったりする。しかしそれでもオーディエンスは相応に盛りあがっていたりする。中国にきた最初の年、学生らが参加するアフレココンテストの引率として(…)さんといっしょに(…)大学をおとずれたときだったと思うが、コンテストの合間に学生らが日本語の歌を歌ったり弦楽四重奏曲を演奏したりする時間があったのだが、そのクオリティがどれもこれもかなりひどいものだったので(当時はまだこの手のゆるい催しに慣れていなかったので共感性羞恥をおぼえそうになった)、日本だったらこのレベルでこの大舞台に出ようとする子たちはいないと思うのだが、こういう積極性がやっぱり中国なのかもしれないねと(…)さんと話し合った、そのことをふと思い出した。これはもちろん強みでもある。日本であれば、ステージに立ってパファーマンスをするということは、もっとずっと敷居の高い行為であるはずだ(と同時に、その敷居の高さ=慎重さこそが、日本社会の弱みだけではなく強みをもなしているのだから、簡単に甲乙をつけるわけにもいかないのだが)。
 (…)くんはちょっとカラオケに興味をもっているようだった。参加しろ参加しろとうながした。会場は先の三階とこの二階のみ。このままでは45元も払っておきながらなにもせずに帰宅というさぶい流れになってしまうという懸念があったのだ。(…)くんはさっそく受付に走った。“打上花火”を歌うらしかった。この楽曲も中国に来てから何度耳にしたかわからない。うんざりするレベルできいている。(…)くんの出番はわりとすぐにまわってきた。PAがまったく仕事をしていないせいで、歌声はいくらか聞こえるのだが、その歌詞が日本語なのか中国語なのかは聞き取れない、そういうレベルでの聴取体験であったが、日頃、日本語の歌ばかり歌っているというだけあって、ほかの参加者よりはずっと上手だったと思う。しかしカラオケの持ち時間はひとり1分ということですぐにステージからおりた。これもふしぎだよなと思った。参加者全員にフルで歌わせるのは時間の都合上むずかしいというのはわかるにしても、なんかもうちょっとキリのいいところでみたいな調整はできないのだろうか。
 (…)くんがステージに立つ前後、(…)くんがじぶんの好きなゲームのキャラのコスプレをしている女の子たちに複数声をかけて写真撮影をお願いした。そのうちの何枚かはこちらが撮影した。おー! ようやくなんかこういう場所での楽しみ方がわかってきた感じやな! と思ったが、写真撮影をお願いするのは彼だけだった。(…)くんは(…)さんから女性コスプレイヤーと写真撮影することを禁止されている。(…)くんはそもそもアニメや漫画にあまり興味がない。しかしその(…)くんが途中、中学生か高校生くらいの男の子からいっしょに写真撮影をもとめられる一幕があった。(…)くんはもちろんコスプレなどしていない。ぼくはイケメンだから! と(…)くんは言っていたが、たぶんあの男の子たちはゲイなんだろうなとこちらは内心ひそかに思った。そして(…)くんに同じにおいを嗅ぎつけたのではないか。(…)くんが地面に座りこんでスマホをいじっている女性コスプレイヤーに撮影をお願いしたところ、いまゲームがいいところだからあとにしてと断られていたのには、悪いけれどもクソ笑ってしまった。そんなことある? コスプレイヤーって撮られてなんぼみたいなアレちゃうの?
 (…)くんは男性コスプレイヤーと一緒に写真を撮るのであればオッケーらしい。このまま手ぶらで帰るのもアレであるしと思っていると、(…)くんがナルトと一緒に撮りたいと言い出したので、じゃあぼくとvくんもいっしょに撮ってもらいましょうといった。それでナルトとオビトそれぞれと写真を撮ってもらった。
 その後、もう一度三階にもどった。おもてはいつのまにか雨降りになっており、屋外スペースは無人になっていた。受付には列ができていた。これからまだまだ参加者がやってくるようだったが、われわれはすでに死ぬほど手持ち無沙汰になっていた。また二階に移動した。しばらくステージをながめた。サカナクションの「新宝島」がアニソンであることをはじめて知った(楽曲にあわせてコスプレした女子が二人か三人、ふりつけもクソもあったもんじゃない、こちらが(…)を吸いまくったときとおなじくらいひどいダンスをステージで演じていた)。DA PUMPの“U.S.A.”にあわせて踊っている子たちもいた。おれは本当にわけのわからん人生を歩んでいるなとふと思った。十年前の日記のなかで生きているじぶんは毎日フロント企業でバイトしながら中毒にならない程度に(…)をたしなみつつ前科持ちのあいだで「調停者」として四苦八苦している、そして十年後のいまは中国の片田舎にある大学で教員として働きながら受け持ちの学生を引き連れて(…)くんいうところの(おそろしく手作り感のある)「コミケ」に参加している。なんなんだろうと思う。(…)にいたころ、(…)さんからたびたび、おまえみたいなやつが職場にひとりおると重宝する、おまえヤクザでもオタクでもメンヘラでもインテリでも対応できるからな、そやからおれは新人の教育係(…)とちごておまえにさせたいねん、と言われたものだったが、本当にそんな感じで、このでたらめな人生を通じてなんだかんだ全方位の人種とやりとりしているよなと思う。
 一階に移動した。どうする? どうする? という空気になっていた。イベントの終わりは16時である。時刻はこの時点でまだ13時にもなっていなかった。となると、これから来場するコスプレイヤーも相当数いるだろう。しかしそれまでずっと、なにをするでもなくこのせまい会場内をうろうろするのか? だれも言い出せないのであればおれが言うしかあるまい! そういうわけで、よし! 帰りましょう! と言った。45元の元をとれたとは全然思えないが、これ以上ここでグズグズしていても仕方ない。一階ロビーは食堂に面していた。食堂には今回のイベントとは関係のない一般の利用者がたくさんいた。みんなコスプレイヤーのほうを好奇の視線でジロジロ見ていた。
 滴滴で呼んだ車に乗りこんだ。車内でぽつりぽつりと会話を交わすわれわれに向けて、おまえらは何語を話しているのだと運転手がたずねた。日本語だ、このひとは外教だ、と学生らが答えた。運転手はなにも言わなかった。学生らの表情はやや緊張していた。
 老校区の前で車をおりた。傘を持っているのはこちらひとりだった。こちらがときどきミネラルウォーターを買う売店で(…)くんと(…)くんは折り畳み傘を買った。(…)くんは買わなかった。こちらの傘に入るからと勝手なことをいうので、ぼくの傘は小さいから向こうに入れてもらえと(…)くんのほうに追い出した。そのままセブンイレブンへ。早稲田の店長とあいさつし、おにぎりを三つ買う。学生らはそれぞれ弁当を買った。惣菜は基本的にどれもこれも(…)産らしかった。ペットボトルに入ったスタバのコーヒーが二本セットで買うとお買い得みたいなキャンペーン中だったのでそれも買った。店内はおでんのいいにおいがたちこめていた。店長曰く、具こそ中国風にローカライズされているものの、出汁は日本のセブンイレブンのものとおなじらしい。このにおいを嗅ぐと日本にいたころを思い出しますと店長は続けた。このあいだうちの授業でここのセブンのことを宣伝しておきましたからと伝えると、ありがとうございますと店長は笑った。
 大学にもどる。このまま解散というのはさすがにちょっとアレかと思ったので、ぼくも男子寮に行きますと伝えると、学生らはよろこんだ。それでひさびさに男子寮の中に入ったのだが、一階にある売店の受付にいた女性がきれいだったのでそう伝えると、いやいや売店にいるのはおばさんだと三人がいった。ちがうよ、若い子がいたよ、と言った。それで売店のほうに引き返した。受付にはやはり二十代そこそこの若い女性が座っていた。ついでなのでミネラルウォーターを買った。ね? おばちゃんじゃないでしょ? と学生らに日本語でいうと、女性はこのひとは外国人? と中国語で学生らにたずねた。日本人だ、うちの大学の外教だ、と学生らは答えた。店を出てから四階にあるという彼らの部屋に向かう途中、かわいかったでしょう? とたずねると、三人ともたしかにという反応を示した。はじめてみる女性だという。いつもはあそこにおばちゃんがいる、連休だから娘が仕事を手伝っているのかもしれないとのこと。
 寮には(…)くんがいた。しかし彼はじきに彼女とのデートに出かけた。(…)くんはルームメイトの中で、唯一、今回帰省している(彼の故郷は(…)なので近いのだ)。ちなみに(…)くんはこの部屋の住人のなかでただひとりゲームにもアニメにも興味がないらしい。そうであるから、(…)くんや(…)くんや(…)くんが有名どころのアニソンなど歌っていると、ぽかーんとした表情で彼らのことをながめているらしい。全員分のデスクを見せてもらう。(…)くんのデスクは『スポンジ・ボブ』のポスターやステッカーで飾られていた(中国ではなぜか『スポンジ・ボブ』の人気が高い、というかこちらは中国に来るまで『スポンジ・ボブ』というアニメの存在を知らなかった)。ほかに淘宝で買ったという青い般若のお面があったり、『るろうに剣心』のコスプレ用に買ったのとは別の刀があったり、あとはアコギも一本あった(ちょっとだけ弾かせてもらった)。(…)くんと(…)くんのデスクは日本語学科の男子学生に典型的なもの。つまり、アニメやゲームのキャラクターのステッカーが貼られていたり、ちょっと露出度の高い美少女フィギュアが箱詰めの状態で飾られていたりする((…)くんはそのフィギュアについて(…)さんには秘密にしているらしかった)。不在の(…)くんのデスクはほとんど女子みたいだった。つまり、シャンプーや化粧水などのボトルがたくさん並んでいたのだ。以前よりなんとなくあった彼はゲイだろうなという予感が裏打ちされた感じ。(…)くんは女友達がとても多いとルームメイトたちはいった。女友達がとても多くて、髪の毛や肌といった身だしなみにとても気をつかっていて、アニメにはほとんど興味を示さないというと、(…)の卒業生の(…)くんを思い出す。彼もやっぱりゲイだった(いや、バイだったか?)。

 セブンイレブンで買ったメシをみんなで食す。(…)くんがパソコンからアニソンを垂れ流しにする。それに対抗するように(…)くんは(…)くんで日本のポップスを垂れ流しにする。(…)くんは「このパソコンはゴミです」と言いながらモンハンをはじめる。コントローラーはない。左手でキーボード、右手でマウスを操作してプレイする。中国ではこれが一般的なプレイスタイルであるとのこと。となりの部屋がうるさいことはないかとたずねると、毎日ゲームばかりしていてとてもうるさいという返事。昨夜など(…)くんがコスプレ用の刀をもって隣室に殴り込むをかけるすんでのところまでいったという。ここの寮に住んでいるのは外国語学科とマルクス政治学の学生とのこと。(…)くんが淘宝で買ったといううんこのかぶりものをこちらにかぶせる。
 昼寝をするからといって滞在を切りあげる。門前まで三人が送ってくれる。ほかの部屋の窓がひらいたままになっていたが、けっこうな数の男子学生が帰省せずに寮に残っている。意外だった。階段や廊下などの共用スペースはかなり煙草くさい。こんなに喫煙者がいるのかと驚く。少なくともキャンパス内を歩いている最中、煙草を吸っている学生の姿を見かけることはほとんどない。
 帰路、軍事訓練での教官役を終えて連休明けから授業に復帰する(…)くんからこの期間中の課題を送ってほしいという連絡が届いていたのに、課題をあらためて提出する必要はない、それを理由に減点もしないと返信。寮にもどる。五階からババア(呪)のとんでもない大声がガンガン響いてくる。いや、響くというよりもじかに届く。それくらいデカい声だ。いったいどういう人生を歩んできたらあんな地声の持ち主になるのか? 実家が滝のそばにでもあったのだろうか?
 (…)くんや(…)くんからコスプレ会場での写真やうんこのかぶりものをかぶったこちらの写真が送られてくる。(…)くんが(…)くんの顔面ドアップの写真までなぜか送ってよこしたので、(…)さんに転送しておく。昼寝をするためにベッドに横たわる。

 30分ほど寝るつもりだったのだが、気づけば17時半だった。たぶん2時間ほど眠ったと思う。第四食堂で打包。帰宅してメシを食っていると、母から着信がある。たぶん(…)か(…)が遊びにきているのだろうと思って出る。(…)だった。誕生日会らしい。8歳になったのだ。(…)ちゃん今日なんの日でしょうか? というので、うんこの日かな? と応じる。(…)は母のスマホを使ってこちらとビデオ通話するときはきまってあの、なんというんだっけ、ド忘れしてしまった、加工ではないしフィルターでもないし、なんだっけあの、じぶんの姿を、と、ここまで書いたところであきらめてググったところ、「エフェクト機能」とあった、まあそれだ、そのエフェクト機能でじぶんの顔面をいろいろにいじってゲラゲラ笑っているだけで、会話らしい会話をするわけでもない。なので、(…)がそのエフェクト機能でげらげらやっているあいだ、こちらは適当にツッコミをいれながら(父の姿を映そうとする(…)に、「こっちは食事中やぞ、ほんな汚いもん映すな、食欲なくすやろ」などという)、どんぶりメシをかっ食らった。
 これから写真撮影してケーキだというので通話はおしまい。うんこのかぶりものをかぶった写真をモーメンツに投稿する。おなじ写真を母のLINEにも送っておいたのだが、のちほどそれを見た(…)から(…)のLINE経由で、「(…)ちゃん、/あの写真めっちゃキモかった/うんこ/((…)より)」と届いた。その後多少やりとりしたのだが、そのなかで、(…)が保冷剤に「レイナちゃん」という名前をつけていることが判明し、保冷剤に名前! やべえ発想力やな! とびっくりした。ひるがえってこちらが無生物に名前をつけた最後の記憶はいつだろう? 大学に入学してしばらく経ったころに買ったミニサイクルにサガットとつけたのが最後ではないか?
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。追悼の2pacを流しながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年9月30日づけの記事を読み返す。『リアルの倫理——カントとラカン』(アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳)は当時抜き書きしていた部分を拾い読みするだけでもおもしろいなァ。
 2013年9月30日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。29日のできごとと30日のできごとがシームレスに記述されているが、これは仕事あがりに(…)さんといっしょに祇園で(…)を炙ったからだ、パッキパキになって眠気が完全に飛んでいるのだ。この日の記事には、のちに(…)さんと(…)さんがそろってパクられるきっかけになった事件についての記述がある。

休憩中、(…)さんが(…)さんを呼びよせて内緒話をしていたのが気になり、後であれはいったい何だったのだと問うと、例の一件だという返事があった。この例の一件とやらについては、昨日だったかあるいは先週だったかもしれないが、(…)さんの口からなにかの拍子に漏れたことがあって、それでこちらは知ることになったのだけれど、(…)さんがとある嫌疑で知人からゆすられているという話だった。示談金は二百万円。(…)さんの両親にまで話は及んでいるという。実際のところがどうなのかはよくわからないけれど、仮に(…)さんと、それにこの一件について一枚噛んでいる(…)さんの言い分とが双方ともに正真正銘天地神明に誓っての真実であるとした場合、多少は恰好のつかないところこそあるとはいえ(…)さんに支払い義務の生じることはまずないというのが(…)さんの見方で、それどころかむしろ恐喝の容疑で相手を警察に突き出してやることもできる、そうすれば手っ取り早い、すべてがさっさと片付くに違いない、相手はすでに警察に被害届を提出したというのだが、それが事実であるとしたら(…)くんは今頃とっくに引っ張られているはずだ、そうでないこの現状が意味するところはつまり相手は警察に被害届など提出していない、その目的はあくまでも法外な示談金の獲得であると、(…)さんはそんなふうに説明して(…)さんを安心させてやったというのだけれど、そういえば朝から(…)さんの表情に妙な翳りが、いくらか不機嫌なようにもみえる陰鬱が、そうしてときおり子犬のように弱々しい目つきが見られたことを、この話を聞いた途端に思い返した。

帰りぎわの(…)さんから今晩空いてるかと誘いがあった。(…)さんのところに行く予定だと応じると、そうか、とあった。なんかあったんすかと軽く追求してみると、いやなんでもないんや、ただちょっとな、真面目な話があったんやけどたいしたことやあらへん、という返事があった。

 そしてこちらは祇園の(…)さんと合流する。

自転車で烏丸今出川まで行ってそこからバスに乗って祇園にむかった。自室にはいちども戻らなかった。当初の予定どおり(…)さんと落ち合い、ふたりで鳥貴族に出かけた。(…)さんの一件については内緒のていであったので何も聞き出すつもりもなかったのだけれど、顔をあわすなり(…)さんが(…)さんの様子はどうだったとたずねるので、何かあったんですかと問うてみせると、今朝(…)さんが説明してくれたのと大枠のほとんど変わらない事の経緯について説明があった。きのう深夜に(…)さんから着信があり、出ると、とてもちいさなひそめた声で、いまおもてに何人かの人間が集まっている、なにやら怒鳴ったりドアを叩きつけたりしている、どうにかならないかと、ものすごく動揺した小声で伝えられ、わかりました、それじゃあひとまずそちらにむかいます、と通話を切って(…)さんが(…)さん宅に到着したころにはすでに人影はなく、それで玄関の戸を開けて中に入ると(…)さんは明かりもつけず部屋でひとり縮こまっていたという。なにがあったのかとひとまず事情を問いながら(…)さんが煙草に火を点けようとすると、(…)さん、ちょっとそこやとライターの火が窓越しに映るとあかんから、ちょっとこのソファーより下のところで火ィつけるようにしてくださいと、そんな按配で、とにかくびびりまくっている様子だったらしい。(…)さんを恐喝しようとしているその相手というのは(…)さんの高校時代だったかの後輩女性と、その後輩女性の再婚相手であるところのチンピラであって、要はこのチンピラが血のつながりのない娘と(…)さんのあやうい接点を利用して金をむしりとろうとしているんではないかというのがひとまずの見通しであるらしいのだけれど、この後輩女性の兄貴というのがじつは(…)さんの同級生であっていまはどっかの準構成員みたいな立場であるその男もひょっとするとこの一件に噛んでいるのかもしれないらしく、そのひとについてはこれまで(…)さんの話にそこそこ仲の良い友人として何度も出てきていたので驚いた。この一件のトリガーであるところの娘についていえば(…)さんも接点があるというか、(…)さん自身は平静をよそおっているように見えたし事実ある程度は平静なのだろうけれど、ことの進展次第ではちょっとめんどうくさいことになりかねないというか、端的にいって顔が潰れてしまいかねないところがあってそれを厄介に思っているんでないかという節はその語調からなんとなく察せられた。

 (…)さんの見立てとは裏腹に、ふたりはのちにそろってパクられることになるわけだが、たぶんこの時点でふたりはこちらや(…)さんに対して本当のことを全部あらいざらい話していたわけではなかったのだろう。この時点でこちらが聞いていたのは、「チンピラ」の「血のつながりのない娘」というのがたしか当時中学二年生だったか三年生だったか、いずれにせよ未成年であったのだけれども、どういう経緯でなのか知らないが(…)さんのうちに呼ばれたことがあり、そこには(…)さんも同席していたわけだが、そろって酒を飲み、のみならず(…)さんが職場の景品として余っていたのを自宅に持ち帰ったエロコスチューム(たしか銀色のビキニだったと思う)を着せて踊らせたみたいな話だったと思う。それ以上のなにかがあったのかどうかは結局最後の最後までわからなかったが、ふたりは余罪もいろいろあったので((…)さんはたしかのちほどパクられたとき、淫行だけではなく住居侵入罪やほかの罪状もあったし、(…)さんは(…)さんで、プッシャーとして引っ張られたことこそなかったものの、万引きなどの軽犯罪で何度も捕まっている)、勾留期限ぎりぎりまで引っ張られたはず。
 あと、以下のくだりも完全に失念していたので、え? そうだったの? と読み返しながらびっくりした。

それからほかにも(…)さんというじぶんの前任者の女性が表向きは(…)さんが嫌になって仕事を辞めたということになっているのだけれどじっさいは(…)さんのセクハラが嫌で辞めただとか、それでいて当の本人は(…)さんとはとても仲良しであると今なお思いこんでいるだとか、わりと最近家の近所で(…)さんとすれ違ったことがありそのときに(…)くんの家の前を通りたくないからわざわざ最寄りのスーパーに行くのにも迂回路を通るようにしているのによりによってどうしてその迂回路で顔を合わさなければならないのだと言われたといって(…)さんは笑っていたけれどもそのときの(…)さんの言葉は冗談でもなんでもなくすべて建前なしの本音であるだとか、(…)

 そのまま今日づけの記事にもとりかかった。0時半過ぎになったところで中断し、トーストと月餅を食し、ジャンプ+の更新をチェックしながら歯磨きをすませ、ベッドに移動し、『小説、世界の奏でる音楽』(保坂和志)を読んで寝た。