20231001

(…)去勢は、象徴界には主体の存在が何であるかに答えるシニフィアンはない、〈他者〉の場は完全なものではない、そして享楽は不可能である、ということを意味する。そして主体から存在の可能性を取りあげてしまう。主体にとってこれは死の宣告であり、決して直視することのできない、恐ろしい場所を指し示すことである。メドゥーサの神話では、蛇の神をもつ魔女の顔を見た者は石と化すとされている。蛇の形をした髪の毛はファルスを象徴し、その顔は直視することのできない、恐ろしい享楽の場を示す。その場に到る者は、死と遭遇するに等しいのだ。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅱ部第四章 精神分析の倫理」 p.234)



 10月だぜ!
 11時過ぎ起床。歯磨きしながらニュースをチェック。ババア(呪)が朝からやかましい。南国の鳥みたいな声でずっと口論している。ほかに女性がひとり、男性もひとりかふたりいるようす。連休ということでもしかしたら親族が集まっているのかもしれない。しかしなぜ寮に集まるのだ? 春ねむりの新譜『INSAINT - EP』をデカい音量で流して喧騒を封じる。
 (…)さんが送ってくれたキウイを快递まで回収しにいく必要がある。それで朝食もとらずに身支度を整えて部屋を出たのだが、玄関のとびらを開けた瞬間、上階からババア(呪)の号泣する声が聞こえてきて、マジで勘弁してくれと思った。なぐさめにかかる男たちの神妙な声色もときおり混じる。
 ケッタで出発。(…)で食パン三袋購入し、后街の中通快递でキウイを回収。キウイはなかなかけっこうデカい箱に入っている。帰路は(…)に立ち寄り、朝昼兼用で鱼头面を食す。食い終わったあとのどんぶりをカウンターまで運んだら、おばちゃんたちやっぱりよろこんでくれた。
 帰宅。(…)さんにお礼の微信を送る。大学にもらった梨をひとつ中華包丁で剥いて食う。昨日セブンで買ったスタバのコーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年10月1日づけの記事を読み返す。2013年10月1日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。「(…)ジュースとプリンを購入し、部屋に戻ってから飲んで食べて屁をこいて、すると一年に一度あるかどうかという悪臭で、なんか屁に追い出されたみたいで気にくわんけどと言いながら(…)が早々と退散した」というクソくだらない記述で笑ってしまう。

 今日づけの記事もここまで書く。時刻は15時半。「(…)」の添削にとりかかる。身体にだるさを感じる。もしかしたらコロナかもしれない。昨日「漫展」の会場にいる間、これだけの人混みであるし下手をすれば二度目の感染もあるかもしれないなと警戒し、帰宅したら鼻うがいをしておこうと考えたのだったが、すっかり忘れていた。それでいえば、スーツなのかブレザーなのかよくわからん衣装を着用している男性コスプレイヤーがいたが、彼は額に冷えピタを貼って口元はマスクで覆っていた、しかもその状態でステージに立ってカラオケまで歌っていたのだが、あれはコスプレの一環だったのだろうか? それともマジで体調不良を押して参加した人間だったのだろうか?
 微熱があるとき特有の熱っぽさ、関節のだるさ、なんとなくしんどい感じがあったが、熱ははからず(もし本当に熱があったら仕事をする気をなくしてしまうので)、だましだまし添削を続ける。夕飯は第四食堂で打包。饭卡の残高がなくなる。明日からは当分自炊だ。
 食後、下痢に見舞われる。身体のだるさも引き続きある。コロナだったらうっとうしいなァと思いながらベッドに横になる。30分ほど寝る。シャワーを浴び、ストレッチをする。寝巻きを長袖に変えておく。いつもどおりに過ごそうというわけでコーヒーを淹れ、作文の添削の続きにとりかかる。途中、広州旅行中の(…)さんから微信無印良品で「かつお節せんべい」を買ったが、うーんという感じだったというので、いやいやあんだけ「污染水」で騒いどったのによりによってそれ食うんかよと思いつつ、無印のものは味や量の割に高いでしょうというと、それでも広州の無印良品は大繁盛しているとの返事。広州人はお金持ちだから、と。(…)には明日もどってくる予定。(…)さんは足を怪我したという。スマホを見ながら広州タワーの階段をおりている最中、足を踏み外したとのこと。どうも軽く捻挫したっぽい。お大事に。
 添削を終えると時刻は22時だった。残された連休の予定を確認したが、休みのうちに今学期分の授業準備をすべて片付けておくのはどうやら無理っぽい。5日に(…)さんと(…)さんが寮にやって来るので、4日は部屋の掃除をしなければならないし、6日はおそらく5日づけの日記の作成でほぼ一日潰れる。やれやれ。
 執筆できる体調ではなかったので、残った時間は書見に費やすことに。『小説、世界の奏でる音楽』(保坂和志)の続きを読み進める。

 ロートはだいたいにおいて、ひじょうにざっくりとした書き方をする。あらすじのようにざっくりとしているのだが、しかし同時に個別の事象に焦点があたっている。時代小説やミステリー小説などはぐんぐん事情や経緯を説明してしまう荒っぽい書き方が多い気がするのだが (私は時代小説やミステリー小説はほとんど読まないが、たまに雑誌に載っている箇所を読むとたいていそうなっている)、それはただ言葉によるナレーションでしかない。
 こういう説明の仕方で通じるかどうかわからないが、書き方を映画に置き換えたと仮定して、時代小説やミステリー小説で事情や経緯を説明する書き方は映像と別にかぶせられたナレーションでしかないが、ロートの書き方は説明すべき人や物や事をちゃんと映している。
 しかし同時にざっくりとしている。だから緩い。書き手というのはだいたいにおいて密度を濃くする方がいいと思っているからそっちに傾きがちなのだが、そうするといま書いていることから外に出にくくなってしまう。
(p.50-51)

 「こういう説明の仕方で通じるかどうかわからないが、書き方を映画に置き換えたと仮定して、時代小説やミステリー小説で事情や経緯を説明する書き方は映像と別にかぶせられたナレーションでしかないが、ロートの書き方は説明すべき人や物や事をちゃんと映している」は、ムージルカフカの小説を読んでいるときによく感じる。ムージルの「三人の女」なんて、映画でいえば、それだけで十全に屹立していてほかを寄せつけない(意味をはねつける)ショットがたくさんある(それでいて同時に、ムージルは倒錯した「意味」の人である、そこのところの食い違いがもたらす質感こそがほかでもないムージルなのだ)。「書き手というのはだいたいにおいて密度を濃くする方がいいと思っているからそっちに傾きがちなのだが、そうするといま書いていることから外に出にくくなってしまう」も、「実弾(仮)」を書いているいま、すごくよくわかる。郡司ペギオ幸夫の議論なんかとも通じると思うのだが、ある種の小説においては(すべての小説ではない)、いかに外部を呼び込むか、それによっていかに風通しをよくするかがもっとも重要になってくる。
 以下も上と同様、ヨーゼフ・ロートの小説に関する記述。心理描写について。

 これらは一般に心理と呼ばれているものとは違うのではないか。
 ふつう小説で心理を書くときにはもっと名指すことが難しい、悲しみと失望と怒りが混然一体となった状態とか、浮気をあばくことに対する逡巡とか葛藤とか、そういうことが書かれるのではないか。
 しかしここでは、一つ目では怒ったこと、二つ目では不機嫌になったこと、三つ目の引用では逡巡らしい逡巡は書かれないまま決意が、はっきりと書かれている。私は映画を見ているような感じがした。役者の表情の演技やその他の全体の演出からわかる程度の心の状態だけを示し、それ以上複雑なところにまでは踏み込まないというか必要ないというか。
 心の状態を説明するために費やされる文章量が少なく、しかもそれら心の状態は短時間で変化して次の状態に落ち着く。読者は心の推移する様子が丁寧に書かれていれば、そこに心理的な同調が生まれて、主人公に肩入れしたり、主人公の身になって怒ったり悲しんだりするはずだが、この小説では短くはっきりと(つまり思わせぶりでなく)書かれてしまうから、読者は外から見ているような気分にしかならない。これは近代小説における〝心理〟とは違うものなのではないか。
(p.67)

 ここでも映画が引き合いに出されている。そうだよなとうなずく。「実弾(仮)」を書きはじめた最初にあたまにあったのが、とにかく映画を撮るつもりで小説を書いてみようというコンセプトだったので(そもそもの元ネタがジャ・ジャンクーの『青の稲妻』なのだ)、これらの記述にはひたすらうんうんとうなずくしかない。とはいえ、映画を撮るように小説を書く、つまり、内面に踏み込まずに人物の行動だけを描写するというのを徹底すると、それはそれでコンセプチュアルになりすぎてつまらない気がしたので、内面にもほどほどに踏み込むことをよしとするというふうにはやばやと方針転換した。中途半端さ、度合い、そういったものこそが重要であるというのが現状こちらの哲学としてあるので。それに、カメラで撮るような距離感で徹底される描写は、アラン・ロブ=グリエがたとえば『快楽の館』で完璧に達成していたりもする。
 あと、以下の指摘もすごく大事。上で引いた「書き手というのはだいたいにおいて密度を濃くする方がいいと思っているからそっちに傾きがちなのだが、そうするといま書いていることから外に出にくくなってしまう」にも通じる話。特に最後の三段落が大切。

 新規の登場人物が全体にまんべんなく出てくることに注目してほしい。この小説では物語の新展開は新規の人物によって持ち込まれることになっている。閉じた人間関係が時間とともにだんだん煮つまって……という小説とはつくりが違うのだ。
 この小説は文庫本にして二百ページ強ぐらいだが、その長さの小説で主要な人物(ゴシック体)がこれだけ登場するのもやや異例の多さだと思うが、後半になっても新規の人物が出つづけるのはかなり異例と言えるのではないか。小説が進行していく過程で新規の人物を出しつづけるというのは難しいことなのだ。
 テクニックとして難しいのではなく、書いているときの気持ちのありようとして難しい。その証拠(?)のひとつとして、私が新人賞の選考委員をやった範囲で、登場人物の数が多く、後半になっても増えつづけたという小説は文藝賞を受賞した岡田智彦の『キッズ アー オールライト』(河出文庫)しか記憶がない。人物が途中から増えると小説の結構としてはどうしても緩くなるが、その緩さゆえに得られるものが当然ある。
 その最大のものが、〝内面との距離〟ないし〝内面の相対化〟ではないか。ここで注意してほしいのは、内面が相対化されるのは登場人物にとどまらないということだ。登場人物たちの内面が相対化されるのは副産物のようなことであって、もっと内面が相対化されるのは書き手自身なのだ。
 小説を書くという行為には、書き手自身の気持ちを集中させて一点に向かって絞り込むような求心的な力学が働きがちなのだが、新規の人物を登場させることによってその力が緩む。
 小説には、「何人かの人物に出来事という力が加わるとその人たちはどうなるか?」という物理や化学の実験に似た側面があるのだが、閉じた人物群の中でそれをやってしまうと書き手自身が閉じた人間関係の原理の外に立てなくなり、その関係の中で働く力学だけがリアルであるかのような錯覚にはまってしまう。
 新規の人物を登場させることには、自分で作り上げて自分ではまってしまった錯覚=力学から書き手自身を救い出す効用がある。小説を書いたことのない人には奇妙に見えるというか納得しにくいことかもしれないが、途中で新規の人物を登場させることが書き手にとっては一種外的な力として作用する。
(p.72-73)

 このあたりは全部「実弾(仮)」を書いているときに意識していることであるのだが(より正確にいえば、書く前から意識していたのではなく、方法をもとめながら書き進めるうちに意識されていったことであるのだが)、もしかしたら十年以上前に一度読んでいるこの保坂和志の小説論三部作の記憶がどこかにひっかかっていたのかもしれない、そのわずかの記憶によって導かれるようにして意識されていったのかもしれない、そう思わせられるほどこれらの記述はしっくりくる。
 書見を中断後、夜食にトースト二枚を食す。ベッドに移動する前にはいつものように部屋の照明を落として自動筆記代わりのフリースタイルをしたのだが、やっぱり体調が万全ではないのか、くねくね体を動かしているうちにしんどくなってしまった。モーメンツをのぞくと、二年生の(…)さん、先ごろ鹿児島から帰ってきた(…)さん、卒業生の(…)さんがそれぞれ、自身もコスプレイヤーとして参加しているイベントの写真や動画をあげていた。たぶん(…)で「漫展」があったのだろう。