20231002

欲動とは、自らの存在を持たない主体が対象物によって存在を得ようとする機制である。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅱ部第四章 精神分析の倫理」 p.241)



 10時半起床。月餅ふたつ食す。昨日に続けて今日もやや下痢。しかし身体のだるさはない。快復したとみていいだろう。きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年10月2日づけの記事を読み返す。

 排除が一般化され、妄想も一般化されるとなると、もはや神経症と精神病のあいだの断絶は維持されず、両者のあいだに連続性が認められるようになるのだろうか。必ずしもそうではない。スクリャービン(1993)は「結び目のトポロジーによって、神経症と精神病は少なくとも補填の機能という点からは近づく」が、「しかし神経症と精神病を分割する根源的な点は維持されている」と言う。
 マルヴァル(2011)もまた、排除がたとえ一般的なものとなっても、精神病に限定的な〈父の名〉の排除というメカニズムは一般化排除とは独立して存在していると考えている。彼によれば、晩年のラカンは、例えば七七年一月一一日の講義で「精神分析は妄想である」(S24, 52A)などと言っているが、これは「妄想」という語を「保証が不在のディスクール」という拡張した意味でもちいているにすぎず、本来の精神病の妄想とは一線を画すものであるという。つまり、排除にはすべての主体に共通する「一般化排除」と、精神病に特異的な「限定的排除 forclusion restreinte」の二つがある。そして、この二つの排除に、普通妄想 délire ordinaire と精神病の妄想 délire psychotique がぞれぞれ対応している。ミレールが「人はみな妄想する」と言っているのは、一般化排除や普通妄想という考え方から発展してのことであって、精神病とは関係がないものであるとマルヴァルは主張している。
(…)
 ミレール(1999c)は、この討論でみられた意見の対立を臨床における二つの観点として整理している。第一の視点では、神経症と精神病は不連続であり、神経症はいわゆる正常者と地続きである。第二の視点では、精神病と正常者が連続性をもつ。後者の視点は、現代的な普通精神病の視点に直接つながっている。トーマス・スヴォロス(2008)は、「人はみな妄想する〔=人はみな精神病である〕」の臨床と、神経症と精神病を明確に区別する臨床は両立できるという。つまり、この二つの臨床は、物理学におけるニュートンアインシュタインのような関係にあり、「より広い射程をもつサントームの臨床は大きな有用性をもつが、排除の臨床もある条件下では有用である」とみなされるのである。このような折衷的見解は穏当なものではあるが、たしかに臨床的にみてもある程度納得のいくものである。というのは、私たちの臨床にはシュレーバーもいれば、ジョイスもいるからである。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.70-72)

 2013年10月2日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。作業中は『Does It Look Like I’m Here?』(Emeralds)のExpanded Remasterを流した。最近毎日流している気がするが。あと、春ねむりの新譜もまた流していたのだが、こちらは元々男女問わずデスボイスみたいなのがあまり好きではない、しかし春ねむりは『春火燎原』あたりから(あるいはそれ以前から?)そういう発声をけっこう頻繁に用いるようになっている。表現としてここでデスボイスをチョイスするその必然性はめちゃくちゃ理解できるのだが、審美的になかなか耳が受けつけてくれない、そのことをふと考えたときに、先ほど男女問わずと書いたばかりであるけれども、もしかしたらじぶんのこのデスボイスの受け入れがたさのなかには、「せっかくかわいい声をしているのに」みたいな、しょうもないアレもいくらかはあるのかもしれないなと思った。もしそうだったとしたら、まさに春ねむりの試みは成功していることになる。内面化されたおっさんを撃つデスボイス。押しつけられた「女の子」を、「わたしは拒絶する」。

 「(…)」の面白回答をピックアップしたまとめを作成しはじめる。こちらがカタカタカタカタやっているあいだも、上では気の狂ったようなおしゃべりが絶えない。ドストエフスキーの小説を仮に実写化することがあれば、ババア(呪)あらため呪術婆は助演女優賞決定やなと思う。あの熱量で一方的にまくしたてつづけることのできる人物、これまでドストエフスキーの小説のなかでしか出会ったことがない。カフカの『城』の、宿の女将だったと思うが、あれも一章まるまる使って一人語りしつづけていた記憶があるけれども、世界そのものが躁転したかのようなドストエフスキー的なあの語り口とはまた別物だろう。呪術婆はドストエフスキーの世界に属している。
 16時半に作業を中断する。二年生の(…)さんから質問が届く。「議論」「討論」「検討」の違いについて。ちゃちゃっと解説する。(…)さんはいま図書館で勉強しているという(おそらく(…)くんも一緒にいるのだろう)。連休中の図書館はほぼ満席らしい。意外だった。しかしよくよく考えてみれば、院試に挑戦する四年生はほぼ全員が帰省せず居残りしているだろうし、平日とちがって授業はない分、勉強したい学生らはみんな図書館に向かうことになるのだから、満席でもたしかにおかしくはない。
 (…)へ。五鲜か三鲜か忘れたが肉片面をひさしぶりにオーダー。うまいことはうまいのだが、具に魚肉ソーセージを入れるのはやめたほうがいいのにと食うたびに思う。食後の器をカウンターまで持っていく。客とだべっていたスタッフのおばちゃんがその客にこの外国人は中国語がけっこうわかるんだよと説明する。
 ついでに(…)で買い物。豚肉、トマト、にんにく、パクチー、广东菜を買う。帰宅して冷凍庫を調べてみたところ、以前買った豚肉の残りが200g残っていた。
 ひとときだらだらする。30分の仮眠もとる。デスクで授業準備の残りを片付けたのち、浴室でシャワーを浴びる。それから「実弾(仮)」第四稿執筆。21時半前から23時半前まで。シーン46、片付く。プラス13枚で計893/1040枚。「実弾(仮)」は現状シーン54までなので、連休明けから猛烈に忙しくなるとはいえ、それでも年内には第四稿が片付くだろう。第五稿に着手する前にいろいろ整理しておきたい。
 夜食はトーストと(…)さんにもらったキウイ。キウイがびっくりするほど甘かった。これまでの人生で食ってきたキウイはいったいなんだったんだろうと愕然とするほど甘い。酸味がゼロなのだ。あまりにも甘すぎるので、これクサかなんか練りこんであるんちゃうかと疑ったほどだ。
 寝床に移動後は『小説、世界の奏でる音楽』(保坂和志)の続き。やっぱり具合がよろしくないのか、それともただ腹を冷やしただけなのか、二度三度トイレに駆け込むことになったので、前回の出入国でクソ世話になった整腸剤を服用した。『小説、世界の奏でる音楽』で、世話をしている野良猫一族の話が続くところがあるのだが(『百年の孤独』に家系図を付録としてつける必要はないという作家が、ここでは猫一族の家系図を挿入しているのだが、ここの説明部はあくまでも小説ではないということなのだろう)、そのなかに以下のような一節があった。

 ニャン子が私以外の別の人からも食べ物をもらっていることは間違いなかったが、雨の日と日曜祭日はそこで食べられないらしく、そういう日は昼間からうちの玄関の前で丸くなっていた。〇四年頃から私はニャン子がくると、マザー・テレサの「貧しい姿に身を顕わしたキリスト」という言葉を思い出すようになっていた。一番弱い猫が困ったときに頼ってきてくれると思うだけで、私は祝福されたような気持ちになっていた。いや、現に祝福されていたのではないか。祝福とはそういうことなのではないか。
(p.144-145)

 ここを読んだとき、ムージルの「ポルトガルの女」だと思った。

 ある日、みなうちそろって外出から帰ってきた時、山の上の城門の前に小さな猫がいた。門の前にたたずむ様子は、猫の流儀で塀を跳びこえたくはない、人間同様に門からはいりたいとでも思っているかのようだった。猫は背をまるめて挨拶し、なんということもなく猫がいるのに驚いている大きな生きものたちのスカートや靴にじゃれついた。猫を門内に入れるとたちまち、客でも迎えたようなさわぎだった。その翌日にはもう、どうやら小さな子どもを引きとったらしい、単なる猫ではないのだ、ということが明らかになった。この愛らしい動物は、猫でなく子どもとして扱ってもらいたい様子をはっきり見せ、地下室や屋根裏で快楽にふけろうとはせず、片時も人間たちのそばからはなれなかった。人間たちに時間をさかせ、自分のお相手をさせる才能を猫はそなえていたが、城にはそのほかにも多くの、もっと上品な動物がいたのだし、人間も自分たちの用事でいろいろ忙しかったことから考えれば、これはまことに不可解なことだった。ひょっとしたら、この小さな生きものを見るためには眼を伏せなくてはならない、ほかならぬそのことが原因だったかもしれない。猫はまったくつつましやかなそぶりで、ふつうの仔猫の柄よりはほんのわずかばかりひそやかな、というより、悲しげな、物思わしげなといってもよいほどの様子をしていた。そのたむわれかたは、人間が仔猫から期待するものを心得て、そのとおりにしているようだった。膝に乗って、人間と仲よくしようという努力さえありありと見せたが、ほんとうにその努力にうちこんでいるのではないかという感じもするのだった。ふつうの仔猫にはないほかならぬこの特徴が、いわば第二の実体、そこにあってしかもない実体、身をつつむ静かな後光のように感じられたのだ。しかし、誰もあえてそのことを口に出そうとはしなかった。膝の上であおむけになって、愛撫する指に小さな爪で子どものようにむかってくるこの小さな生きものに、ポルトガルの女はやさしく身をかがめた。若い友だちは笑いながら、猫とそれを抱いた膝の上へぐっと身を乗りだした。この他愛のないたわむれは、ケッテンの主に自分の癒えかけた病気を思いださせた。病気が死のやさしさを秘めたまま、この動物に姿を変えたのだ、しかもただその体内にやどっているばかりではなくて、このふたりのあいだに介在しているのだ、そんな気がした。ひとりの従士がいった、この猫は疥癬にかかっていますね。
 自分では気づかなかったので、ケッテンの主ははっとした。従士はくり返していった、早く殺さなくてはなりません。
 小さな猫にはもう、童話の本から取った名前がついていた。猫は前よりいっそう静かに、がまん強くなっていた。今ではそれが病気で、ひどく衰弱してしまったことが、はっきり見てとれた。あちこち動きまわらずに膝の上で休む時間がいよいよ長くなり、小さな爪はやさしく不安げに、きっと握りしめられていた。人の顔を順々に見つめるようにもなった、血の気のないケッテンと若いポルトガル人の顔を。ポルトガルの男は前こごみになってすわりながら、猫から眼をはなさなかった、それとも、猫を抱いている膝が息づかいにつれて上下するのを、じっと見ていたのかもしれない。猫の眼つきは、ないしょでみなの身がわりになって自分がかかっているこの病気が、見るにたえない状態になっても、どうか許してもらいたい、とでもいっているようだった。それから猫の苦難がはじまった。
 ある夜嘔吐がはじまり、朝までつづいた。さんざんに頭をなぐられでもしたように、まためぐってきた日の光の中で、猫は疲れきった、うつつともない様子だった。ただいとしさばかりで前後も忘れ、飢えたあわれな猫に餌をやりすぎたのかもしれなかった。しかしこうなっては、もう寝室においておくわけにはいかなかった。猫は倉庫の番卒たちのところへ預けられた。だが二日たつと、番卒たちは、すこしもよくなりませんと訴えた。どうやら夜なかには室外にほうりだしていたらしかった。猫は今では吐くばかりでなく、ところかまわずたれ流すようになった。猫の行くところ何ひとつとして安全なものはなかった。あるかなきかの後光と胸のむかつくような汚物と、このどちらを選ぶかというのはむずかしい問題だった。結局、——この猫がどこから来たのか、もうわかっていたので——、もといたところへおいてこようということになった。もといたところとは、山裾に近い、川のほとりの農家だった。猫を古巣にもどすことによって、責任からまぬがれよう、笑い草になるのも避けよう、こう彼らが思ったのだと今ならいえるかもしれない。しかしみなが良心の疼きにさいなまれていたのだ。ミルクといくらかの肉を添えてやり、汚物などさして気にもしないその農家の連中が、ていねいに猫の世話をしてくれるよう、金まで持たせてやったのだ。しかし家来たちは主がたの処置に首をかしげた。
 小さな猫を麓の家にはこんでいった従士は、帰りかけるとあとから猫が追ってきたので、もう一度逆もどりしなければならなかった、と話した。二日たつと、猫はまた山上の城にもどっていた。犬どもは猫を見るとあわてて逃げたが、家来たちは、主がたに気を兼ねて、あえて追いたてようとはしなかった。そして主人たちが猫を眼にした時、誰も口には出さなかったが、今はそっとここで死なせてやろうという思いはみな同じだった。猫はすっかり痩せほそって、つやもなくなってしまっていたが、見ていても胸のむかつくような苦しみはもう通りこしたらしく、ただ、見る間にからだが小さくなっていくような感じだった。それから二日、今までどおりのことがすべて、凝集した形でもう一度くり返された。猫は、自分のためにしつらえられた休息所の中を、ゆっくりとなつかしげに歩きまわり、眼の前に紙きれをひらひらさせると、前脚をあげてじゃれつきながら、放心したような微笑をうかべた。四本脚で立っているのに、衰えのため時おりふらついた。二日目には横倒しになることも幾度かあった。人間の場合なら、このような衰えかたもさほど異様には思われなかったろう、だが動物のそんな姿を見ていると、まるで人間が化けているのではないかという気がした。畏怖に近い気持ちで、三人は猫をながめやっていた。それぞれ立場をことにしてはいたが、三人の誰もが、現世からなかば解脱したこの小さな猫にやどっているのは、自分自身の運命なのだ、と思わずにはおられなかった。三日目にはまた嘔吐がはじまり、あたりは汚物にまみれた。従士がその場にじっと立っていた。もう一度口に出そうとはしなかったが、彼の沈黙ははっきりいっていた、殺さなくてはなりません。ポルトガルの男は、試練に耐えてでもいるように頭を低く垂れ、それから、女ともだちに向かっていった、どうしようもないでしょう。このことばは、いった当人にも、われとわが身にくだされた死刑の判決を承認したようにきこえた。みながいっせいにケッテンの主に眼をむけた。彼は壁のように蒼白な顔をしていたが、つと立ちあがって、出ていった。ポルトガルの女は従士にいった、猫を連れておゆき。
(ロベルト・ムージル/川村二郎・訳『三人の女・黒つぐみ』より「ポルトガルの女」 p.87-92)

 ひさしぶりにこの仔猫のくだりだけ読み返してみたが、やっぱりムージルはやばい。記述がすばらしすぎて、文章を追っているだけで、比喩でもなんでもなく心臓がドキドキして息がしにくくなる。今後の人生でこのレベルの小説に出会うことがはたしてあるのだろうかと、読み返すたびに抱く印象をまた抱いてしまう。この小説では最後、ポルトガルの女が「神が人の姿を借りることができたなら、猫に化身することもできるはずですわ」というセリフを口にする。そのセリフがフックとなって、先の保坂和志の文章を読んでいるときにこの小説のことがよみがえったわけであるが、そんなことよりも、ムージルはやっぱマジでやばいなという印象に、長い抜書きを終えたいま、完全にうちのめされてしまっている。すごいわ、やっぱり。なんなんこれマジで、とただただ唖然とする。
 ちなみに、「神が人の姿を借りることができたなら、猫に化身することもできるはずですわ」は、それこそ十年前のいまごろだろう、『A』を出版するにあたってエピグラフとして採用しようかどうか迷ったことがあるのだが、たしか(…)さんからだったと思う、このセリフをエピグラフとして採用してしまうと作品全体がその方向性に意味づけられてしまうからやめておいたほうがいいという適切な助言をいただいたのだった。