20231003

 欲動の対象とは欲動を満足させる対象であるが、これは要請の対象である。
 母と子の間で要請が交わされるとき、口、肛門、耳、目などの諸器官が仲介となり、各器官には機能に応じた対象物ができる。乳房、排泄物、声、まなざしがそれに相当する。
 しかし欲動の真の対象は das Ding、無である。無は何の形態ももたないゆえに捉えようがなく、結局これら四つの対象によって形態を与えられて初めて具体的な対象物となる。
 フロイトが「欲動は、欲動としては、すべて死の欲動である」と言うのは、このように、具体的な欲動の対象の奥には無の場に達しようとする死の欲動が潜んでいることを意味する。
 欲動の満足は近親相姦的欲望の満足をもたらし、子どもを前エディプス期へ固着させる結果になる。それゆえに、欲動の満足は拒絶されねばならないが、それに導くのは Che vuoi、すなわち母親が子ども以外に欲望の対象をもっていること、そして、この他の欲望が子どもに疑問主として受け取られることである。
(向井雅明『ラカン入門』より「第II部第四章 精神分析の倫理」 p.242)



 やたらと寝た。11時半にようやく活動開始。冷えてきたからかもしれない、布団から抜け出しにくくなっているのかもしれない。一年前の日記には最高気温39度と記されていたが、今日は21度しかないし、週末は17度まで下がるようす。体調不良も単なる冷えの問題かもしれないと思われたので、カタカタやりはじめてほどなく、クローゼットからスウェットを取り出して長袖の上に着た。こちらは基本的に薄着の傾向がある。その傾向を自覚してからせめて部屋着だけは厚着しようと気をつけるようになった。と言いつつ、下は(…)さんの置き土産であるハーフパンツのまんまなのだが。
 朝食は今日も月餅。口の中がパサパサになるのを白湯で流しこむ。きのうづけの記事の続きを書き、投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年10月3日づけの記事を読み返した。以下、初出は2020年10月3日づけの記事。

 「対象」——さて、対象によって「欲動」の振動運動が喚起され、それは原初的主体となるが、この運動は原初的には対象の現前に依存していて、対象によって、対象とともに受動的に立ち上がる。つまり「欲動」という振動する皮膜は、対象によって贈与され、対象の周囲に配置され、皮膜とは対象の皮膜でもあって、「欲動」とは原初的には対象と一体の運動である。いいかえれば、「欲動」・振動としての原初的主体とは、「対象」そのものである。口唇対象である乳房が差し出された時にのみ口唇欲動と口唇運動としての主体は立ち上がり、そこでは乳房と分離した主体などなく、いうなれば乳房としてのみ主体はその場限りに存在する。主体とは欲動の運動であり、同時に欲動の対象である。
 主体はそれ自身(欲動の)対象であり、それ以外の場に主体は存在しないことは、精神分析的与件の理解にとって決定的に重要である(…)。主体が基本的に対象であることは、シニフィアンの整備とともに主体が乳児期から離陸し、言語によって意識し認識するようになった後でも、厳然たる下部構造として主体を規定し、さまざまな症候のもととなる。シニフィアンは対象とは別の次元に存在するので、シニフィアン(意識)の中に主体はなく、そのことは主体にとって苦痛であるゆえ、世界(=シニフィアン=意識)の中にはない自分自身を求めて、なおそれが世界の中にあると信じつつ、人間は無数の症候(擬似対象)を形成する。宗教、政治、芸術といった活動はすべてこの擬似対象の再形成と関わり、そこで神の視線(宗教)や社会的理想(政治)や作品(芸術)は、何らかの意味で対象としての原初的な主体の存在=基体であり、とはいえなぜそれが自分にとって必要かは、主体は意識と象徴世界の内部では欺瞞的にしか説明できない。より卑俗な例では、人は世界(意識)内での自らの営為に対して与えられる、勲章やメダルといった「小さな対象」(ラカンのいう「対象a」)を愛するが、その理由はイデオロギー的蒙昧さといったシニフィアンの次元では説明できず、より深い発生的動因に根ざしている。社会的地位に不随する他者の「視線」への欲望も、同様に対象への欲望である。
 糸巻遊びの例に帰ると、そこで放り投げては発見され続ける小さな糸巻は、欲動の対象であるとともに、放り投げる子ども自身である。この行為=対象を通じて求められているのは、母親である以上に、彼自身である。ただし、ここにはシニフィアンの萌芽と並行して、「欲動から幻想の領域への離陸」の契機があり、厳密な意味では糸巻は欲動の対象ではなく、糸巻が即彼自身であるわけではない。これは小さな勲章(そして種々の「対象a」)にも言えることで、それは名誉や絶対他者という、象徴世界(シニフィアンのレベル)で形成された神経症的形成物と結合しているので、単純な欲動の対象ではない。が、ともあれ、対象と主体の即応性のみが、象徴世界内部のさまざまな「小さな対象」的症候を説明し、放り投げられる糸巻は(厳密には後述するように「幻想」における)主体の確立と関わっていることを、ここでは記憶しておこう。なお、対象と主体の即応関係は、特に倒錯で顕著であり、そこではフェティッシュを通じて、主体は端的に対象と短絡する。
樫村愛子ラカン社会学入門』p.131-133)

 2013年10月3日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。作業の途中、体育学院の(…)くんから誕生日おめでとうございますの微信が届く。礼を言いつつ、誕生日は5日であると補足すると、(…)さんから今日であると聞いていたといってやりとりのスクショを送ってみせる。たぶん彼女が勘違いしていたのだろう。先生はどこに住んでいますかというので、外国人寮だよと受けると、okとあったので、これは突然押しかけてくるパターンかもしれないと警戒し、どうしたの? うちに来ても、今日はちょっと相手することはできないよと釘を刺したところ、「5日だよ」「いまじゃなく」とあって、いやなにを勝手に決めとんねん。というかそもそも、先のスクショのなかに先約の存在を(…)さんから知らされているやりとりがあるじゃないかと思いつつ、5日はすでにほかの学生との約束があるとあらためて告げたところ、「一緒にできないか?」「先生の誕生日を祝います」とあったので、いやそれだったらまずは許可をとりなさいよと内心げんなりした、ここで釘を刺しておかなかったらおそらく当日アポ無しで突然やってきたのだろうなと思った。5日うちにやってくるのは三年生の(…)さんと(…)さんのふたりであるが、当然全然知らない体育学院の男子学生ふたりの同席など望まないだろうし(日本語学科女子の非社交性なめんな!)、(…)さんだってわざわざ故郷の母親が送ってくれる蟹を初対面の男子学生になど食われたくないだろう。というか、うちの学生が全然知らない学生との同席を好まない点については、「漫展」への同行を(…)くんたちが断った先日の一件で了解しているのではないかと思うわけだが、まあこのあたりが体育学院の学生なのかもしれない。やっぱりこちらの口からしっかり説明しておいたほうがいいなと思ったので、5日は一緒に過ごすことができないとまずしっかりと断ったうえで、うちの学生の大半は人見知りなので知らない学生といっしょに過ごしたがらないこと、学生らはこちらと遊ぶときになるべく少人数であることを好むこと(そうでないと日本語でこちらとコミュニケーションするひとりあたりの機会が減少する)、5日の約束についてはすでに二週間ないしは三週間前から予約として入っていたものであること(がゆえに、突然そこにぽっと出の学生が乱入してきたら、彼女らも内心あまり良い気はしないこと)を説明した。たぶんわかってくれたと思う。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は16時だった。ひととき休憩をはさんだのち、日語会話(三)第25課の教案をチェック。一部改良する。作業中、二年生の(…)くんからクソコラが届く。ワンピースの麦わらの一味が勢揃いしている画像なのだが、一味の顔面がこちらと二年生男子の面々に入れ替わっている。こいつらじゃ東の海から出ることすらできんわと返信する。
 タジン鍋に豚肉とパクチーと广东菜をぶちこんで食す。食後は来週からはじまる一年生の授業にそなえて日語会話(一)の第0課の教案をチェック。第0課は全部で三回に分けて行うつもりだったが、夏休み中に実家でこしらえた教案をあらためて検討した結果、いやこれ二回で十分であるなと思いなおした。しかしのちほど、一年前はどうだったろうと思って、過去ログを第0課で検索してみたところ、去年の10月4日づけの記事がヒットしたのだが、初回授業では自己紹介と学生の名前チェックと五十音の練習しかできなかった旨が記録されていたので、マジか! 数字を取り扱う時間すらないのか! と驚いた。ちょっと教案を組み直す必要があるかもしれない。第0課、前言撤回して、やっぱり三回に分けておこなうか?
 浴室でシャワーを浴びたのち、21時半から23時半まで「実弾(仮)」執筆。シーン47を途中まで進める。堤と橋の描写に手こずった。
 どういうアレで知ったのか失念してしまったが、David Foster Wallaceという作家の存在を知った。日本語表記はデヴィッド・フォスター・ウォレスで、小説は『ヴィトゲンシュタインの箒』と『奇妙な髪の少女』の二冊が邦訳されている。ほか、ノンフィクションはマーク・コステロとの共著『ラップという現象』と『これは水です』(これは大学の卒業生に向けたスピーチかなにかで当時微妙にバズっていた記憶がある)の二冊が邦訳済み。『ヴィトゲンシュタインの箒』の帯には「ジョイスのような言葉遊びと、ナボコフのような美しくも偏執的モノローグ、ピンチョンを思わせる多重構造、ヴォネガットシュールレアリズム」と書かれているとWikipediaには記されているが、うーん、どうなんだろ、こういうのにかぎって単なる知的なパズルでしかないケースがあるからなァ。