20231006

 対象aを把握することの困難は、それが対象と名づけられているにもかかわらず、何の対象性ももっていないことである。対象性のない対象とは逆説的な表現であるが、それは対象a現実界(Réel)を表す対象であることに由来する。通常われわれにとって対象とは目に見えるもの、言葉で表されるものを意味している。だが真に現実的な対象を捉えようとするときは、われわれの前にある対象の想像的次元と象徴的次元を抽象しなければならない。そしてその後に残るものが対象性のない対象なのである。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅱ部第五章 同一化と対象a」 p.324)



 書き忘れていたことがひとつ。昨日は(…)と(…)からもLINEでバースデーメッセージが届いたのだった。三人によるグループチャット上でのやりとりで、(…)が中国語で生日快乐と祝ってくれたのを受けた(…)が、「アホがまた一つ歳くったか!」という反応をして、文面を見ただけであの輩感丸出しのガラガラ声が聞こえてくるようで面白かったのだが、それはそれとして、これはすでに本日付けの話だったと思うが、学生に調理してもらった蟹の写真を投稿したところ、上海蟹かという質問があった。で、そうではない、淡水にいるものだ、われわれが中高生のときによく泳いだ(…)にいたやつだと受けると、おまえが木の棒で串刺しにして殺したくっとったやつかという反応があり、あれはモクズガニであるがいわゆる上海蟹もまたモクズガニであるはずだという言葉が続いて、さすがに(…)はこのあたりについて詳しい(しかしのちほど上海蟹はシナモクズガニという別種であるという訂正があった)。ちなみに(…)の息子の(…)であるが、「お前に関わったから少し前にアリ踏み殺して『バイバーイ!』ってゆーとったからな!」という報告があり、これにはクソ笑ってしまった。「お前に関わったから」というのは、小学生のときにしょっちゅう虫を殺していたこちらの罪深さを踏まえてのことだ。(…)は息子をサイコパスにしないためにもこちらにはもう会わせないといった。
 あと、京都の(…)さんからもお祝いのLINEが届いた、記録によれば、去年も連絡をくれている。(…)さんとももう七年くらい会っていない計算になるのか? 『A』は(…)さんがいたからこそ脱稿することのできた小説だった。冷房のない暮らしを灼熱の京都でひと夏送って自律神経が狂ってしまったこちらに対して、カフェでたまたま出会ったまるきり初対面の間柄であるにもかかわらず、うちの部屋を作業スペースとして自由に使ってくれていいよと彼女は申し出てくれたのだ。あの申し出がなければ実際『A』を脱稿することは絶対にできなかっただろう。(…)でバイトするようになってからは、(…)さんの部屋の代わりに、作業場として(…)の客室を借りる機会も増えた。ふりかえってみると、じぶんは本当にその場しのぎで生きているというか、手持ちの道具でやりくりしているよなという感じだ。まるきりでたらめだ。まるきりでたらめなまま四十年近く生きてきた。そんなじぶんに一抹の矜持もおぼえる。世間を舐めるな、社会を舐めるな、人生を舐めるなと、たのんでもいないアドバイスを、犬も喰わない説教を、うんざりしているこちらをよそにガンガンよこしてみせた当時のおっさん連中、全員いまごろくたばっとったらええな。
 歯磨きをすませ、朝食代わりに月餅とポッキーを食す。昨日二年生女子がくれたもの。それからきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、2022年10月6日づけの記事の読み返し。2013年10月6日づけの記事も読み返して「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。「きのう(…)さんに28歳の抱負はとたずねられたとき、死ぬまで生きると咄嗟に口を突いて出たことを思い出した。然り、まさしく!」という一節。イエス。深刻ぶらず、でたらめに、明るく死ぬまで生きよう!
 翌日の日語会話(三)に備えて、第25課のシミュレーション。(…)さんに必要な資料を送る。(…)さんからは明後日のスピーチ練習の予定についての確認。午後2時半から行うことにする。
 食堂はすでに営業開始しているだろうし、饭卡のチャージもできるだろうが、冷蔵庫および冷凍庫に大量の食材が残っているので、自炊をすることに。火鍋で用いたトマトスープの素と一緒に豚肉だの長ネギだの广东菜だのをタジン鍋でチンする。昨日からであるか一昨年からであるか忘れてしまったが、キッチンの蛇口が微妙に水漏れしており、それで徐々に悪化しているようにみえたので、明日あたり(…)に連絡して業者を呼んでもらったほうがいいかもしれない。
 食後、シャワーを浴びる。20時半から「実弾(仮)」第四稿執筆。と思ったのだが、なんとなくその気分ではないなとなって、ソファに移って『小説、世界の奏でる音楽』(保坂和志)の続きを読みはじめた。書見中、スピーカー経由でいろいろに音楽を流していたのだが、きのう学生たちがやってくる前にローカルにダウンロードしておいた『Rideau』(Tape)や『Sons Of』(Sam Prekop John McEntire)や『On the Corner』(Miles Davis)が、再生しようとすると「元のファイルが見つからなかったため、曲“…”は使用できませんでした。元のファイルを探しますか?」と表示され、そのままストリーミング再生がはじまるという現象がまたしても生じて、これマジでクソ鬱陶しい。要するに、ローカルにダウンロードしたはずのものがしょっちゅうキャンセルされるというか、ダウンロードされていなかったことになってやりなおしの憂き目に遭うということなのだが、Musicフォルダを外付けハードディスクに保存するようになって以降この現象が生じるようになった気がする。しかしいろいろググって対策すべて試みてみたのだが、いっこうによくならない。あと、アーティスト名が英語表記になったり日本語表記になったりと統一性がなかったり、あげくの果てには表記別に別のアルバム扱いになったりすることもあって、これも本当に鬱陶しいので、やっぱりSpotifyのほうがいいのかなといまさら思うこともときどきある。
 以下は『小説、世界の奏でる音楽』(保坂和志)より。ここも「実弾(仮)」執筆中のこちらが常時気を配っていること。

 とにかく、柴崎友香は「貧しさ」を肯定するというよりも前提条件として引き受けることによって、「貧しさ」を前提条件として生きている二十代三十代の人たちを書いた。「貧しさ」を書くために「貧しさ」を対象化する位置に自分が立ってしまったら、それは「貧しさ」に対する裏切りになるだろう。「貧しさ」とはそういう、世界観のようなものだ。
(p.283)

 私は「裏切り」という言葉をすでに二回使っている。そんな強い響きの言葉をどうして使うのかと思う読者もいるかもしれないが、小説家がある特定の人たちを小説に書くとき、自分とは別のタイプの人と思って書くかぎり取材対象(作中人物)に対する見切りや類型化が起こり、書かれた側は必ず「歪められた」と思う。読者がどれだけ「自分とは違う世界に生きる人のはずなのに、激しく共感した」と言ったところで、「自分と違う」という前提があるから共感することができるのだ。そして同時に書かれた方は、「本で知ったぐらいで共感なんかしてほしくない」と思う。つまり著者は取材対象でなく読者の側についた。つまり取材対象を裏切った。
(…)
 これは具体的な誰々の何々という小説のことでなく、小説家にとって書くという行為に内包される出来事の模式図だ。新聞・テレビ・雑誌で話題になった事件やひきこもりやニートという分類対象となった人たちを題材として小説を書く人たちは、小説家本人がどれだけこの「裏切り」を否定しても裏切りは起こっている。
(p.285-286)

 「実弾(仮)」を書いているあいだ、こちらは(…)のひとびとを、そして高校時代のじぶんとその周囲の連中を、ここでの言葉を借りるのであれば、絶対に裏切らないという意志のもとに書いている。しかし同時に、それを書くじぶんの現状はすでに彼らとのあいだに否定しがたい隔絶を有しているのであり、それゆえにいやおうなく生じるだろう裏切りもあるだろう。その不可避の裏切りを小説のかたちとする。カフカの小説はあくまでも失敗作であるが、しかしその失敗のかたちがこれまでだれも目にしたことのないタイプのものであったがゆえに、文学史における特権的な位置に登記された。それとおなじ意味で、裏切りは避けられないだろうが、せめてその裏切りのかたちをいくらかなりとあたらしいものにしたい。
 (…)さんにもらったキウイ、ダンボールのなかに二段詰めになっていて、上段はすべて食い尽くしていたのだが、下段がいつのまにか熟しすぎていやなにおいを放ちはじめていた。あわてて冷蔵庫のなかに収蔵したのだが、もしかしたらもうけっこう腐ってしまっているかもしれない。
 明日は朝イチで授業なので(土日は連休中の補講があるのだ)、23時半には寝床に移動した。しかし就寝は結局2時ごろになったはず。