20231007

 過去の出来事の反復及びそれに付随する情動という転移の二つの側面は、分析の進行の原動力となるものであったが、やがてフロイトは分析家への愛情が同時に分析の進行の妨げともなる患者の抵抗の表現でもあることに気づくようになった。
 分析における唯一の規則は、自由連想法である。患者は頭のなかに浮かんでくることをすべて語らなければならないが、患者が分析家に愛情をいだきはじめると、自由連想はこの愛情によって止められてしまい、患者の語ることがすべて分析家への愛情の要請の意味を帯びるようになる。フロイトはこの点に注目して、患者が分析家に愛情をいだくようになるのは決して偶然ではなく、一つの理由があると考えた。患者が自由連想の規則を守らずに分析家への愛情の要請にのみ関心を向け、新しい分析材料が表れることを止めてしまうのは 何かそこに言いたくないものがあるからであり、愛情はそれを隠そうとするものである、というのがフロイトのこれに対する解釈であった。
 転移と反復は同一のものとして考えられていたのであるが、転移性愛情を分析の進行を妨げる抵抗であると考え、一つの欺瞞と見なす場合、転移を過去の反復現象として考える必要はなくなる。なぜなら、自由連想が始まって、患者がそれまで抑圧していた無意識の知が喚起されたとき、愛情はそれを隠すためにやってくると考えられるからである。欺瞞としての転移は、それだけで独自の機能をもっており、もはや患者の幼年時代の両親への愛情の再現と考える必要はなくなるのだ。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅱ部第六章 精神分析の四基本概念」 p.345-346)



 6時45分にアラームで起床。朝食は二年生にもらったポッキーですませる。昨日一日うんこをしていなかったのだが、今朝もなぜかうんこをしたいと思わず、めずらしいこともあるもんだなと思いつつ、授業中にうんこしたくなったら嫌だなと思う。今日は非常に寒い。最高気温はたったの17度。コートこそ着用しないものの、ほぼ冬服で出発する。
 寮のそばの売店でミネラルウォーターを買う。おなじ店で朝食をもとめる男子学生らの姿が大量にあり、そうか、この時間帯が稼ぎどきなのかと思った。ケッタにのって外国語学院へ。到着した時点でうんこをしたくなっている。もうちょい早めに来いよ便意! と思いながら6階まで階段で移動。すぐに便所でうんこする。6階の便所はまだそれほど汚くなかった。たぶん利用者があまりいないからだろう。
 8時から二年生の日語会話(三)。第25課。動詞の活用が序盤かなりあやしかったので、ここの基礎反復練習を教案に組み込んだほうがよさそうだと判断。それ以外は上々。ただ後半のアクティビティを実施するにあたって、グループ分けをいつものようにランダムにするのではなく、学生らの希望するまま席の近い者同士で組ませたところ(つまり仲良しグループでやらせたところ)、グループごとにものすごい実力差が生じてしまったので(勉強する子は勉強する子と仲良くなるし、勉強しない子は勉強しない子と仲良くなるのだ)、これはやっぱりダメだなと思った。というかこれを書いているいま、ふと思い出したのだが、大連で外教をやっていた(…)さんが、環境は残酷であるという前置きとともに、おなじ学年でもクラスごとに学生の実力差が露骨にあらわれる、熱心に勉強している子が多いクラスとそうでないクラスでは卒業までにかなり大きな差が生じると語っていたわけだが、うちも今年から新入生が二クラスになるのであるし、ひょっとしたらこちらもその残酷さを目の当たりにするかもしれない。熱心に勉強している子が多いクラスではその熱心な学生にひっぱられるかたちでクラスの平均的なレベルが底上げされるという現象が、はたして中国国内だけの話であるのかほかの国の学校でもおなじなのかはよくわからんが、というかたぶんある程度はどこでもそういう傾向があるのだろうが、全体主義的な価値観にそめぬかれており、かつ、これはクリシェであるけれども面子文化がまだまだ残存していることは否めない中国のほうが、そういう傾向がより顕著なんではないかという気がする。内卷という現象だってそういう側面から解説することも部分的にはできるだろう。
 休憩時間中にも便所でうんこをした。授業のあいまに便所でうんこをするのははじめての経験かもしれない。いや、だからといってわざわざ記念するほどのアレでもないんだろうが、しかしいちおう書き記しておく。
 学生らはこのあと(…)先生の基礎日本語。みんなブーブー文句ばかり言っている。先生もいっしょにいきましょうというので、ぼく日本人なのに基礎日本語の授業を受けるの? というと、みんな笑った。授業終了後、入れ替わりに教室に入ってきた英語学科の学生らのHello! に応じ、廊下に出る。5階でまた三年生に会う。(…)くんから声をかけられたので、きみモーメンツに全然寝れないと書いていたけどなにかあったのとたずねると、悪夢を見て夜中に目が覚めたという。もしかしてこんな感じ? といいながらナイフで刺すジェスチャーをすると、肯定の返事。外国人に殺される夢だったという。その後は(…)くんと立ち話。四級試験合格おめでとうと告げる。12月にはN1を受けるとのこと。恋愛のほうはどう? あたらしい彼女はできた? とたずねると、全然! と笑いながらいうので、だいじょうぶ、38歳になっても独身のおっさんもいるから! とはげます。
 外国語学院を出る。(…)で食パンを三袋買う。寮に帰宅後、ひととき休憩したのち、11時前になったところで第五食堂へ。打包。食うものを食ったあとは昼寝。二時間くらい寝た。
 (…)に微信。蛇口から水漏れしているのでrepairmanを呼んでほしい、と。すぐに返信がある。logistics departmentにreportした、もし明日までにrepairmanが来なかった場合はまた連絡してほしいとのこと。しかしこの記事を書いている18時24分現在、いまだにそのrepairmanはやってこない。いつ来るかわからないので、食堂にも出向かず、こうして部屋で待機しているんだが!
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年10月7日づけの記事を読み返す。以下、初出は2020年10月7日づけの記事。

 ここで「移行対象」と「幻想の設立」のためには、「他者(対象)」が適切なリズムとパターンをもって、協調的に出現することが不可欠である、というすでに述べた前提を想起しよう。
 ここでは二つのことが問題となっている。まず第一に、今日制御工学が素描しつつあるように(鈴木1991)、主体の随意運動は、フィードバックによる逐次訂正的な遂行過程ではなく、目的に至る軌跡を確立した上で逆にその微分値として個々の瞬間の筋肉運動を決定していくような運動で、それは運動の種別性に応じてあらかじめ確立された運動アルゴリズムを要求する。このアルゴリズムは学習とともに確立され、この学習の初期過程では、対象として出現し遊びを誘導する他者の運動(例えば母猫の尻尾)が、運動の適切な全体像とそれを構成する運動過程を主体に提示し、アルゴリズムの確立に特権的な作用をなしている。第二に、生物神経—情報工学が明らかにするように、生体の運動はいかに高度なものでも、発生的には基本的に振動運動への変換—変位の積み重ねとして成り立っている。例えば単純な反復的吸引運動の発展物として、対象物指向的な咀嚼運動があり、さらにその上に、差異化された口腔—発生運動(言語)が構成される。言うなれば、どのような随意運動も、その端緒は欲動的な反復運動で、その展開の途上にない運動を主体は獲得できない。そして他者(母親)は主体と身体的に同種なので、獲得されるべき運動の可能かつ最適なアルゴリズムを主体に先立って獲得しており、それを上述のように欲動に上乗せ可能な適切なリズムとともに主体に贈与する。つまり他者は主体の制御アルゴリズムの進化において、欲動から高度な制御運動に向けて、進化の時間を先取りして縮約し、主体に一挙に贈与する。
(…)
(…)つまり他者によって主体は自己の身体制御アルゴリズムを贈与されるが、その他者は、自己と同じく欲動=振動からより高度な運動に離陸した存在であり、それゆえにその離陸の過程を圧縮して、主体に贈与し、対象の欠在=外傷、つまり身体制御の不能状態を主体に克服させるからである。つまり他者は欲動という原始的な身体状態を、より高度な組織に現実的に「翻訳」する。
樫村愛子ラカン社会学入門』より「コミュニケーションと主体の意味作用」p.143-145)

 以下は2019年10月7日づけの記事より。

起床したのが遅かったこともあり1時すぎに寝床に移動してからもしばらく『創造と狂気の歴史』。すごく面白い記述に行き当たった。ラカン精神分析学者のラプランシュがヘルダーリンとシラーの関係について論じている文章について解説している箇所なのだが、まず《「転移」(Übertragung)は、精神分析の概念であり、過去(幼少期)における養育者(父親や母親など)と自分との関係が、現在の人間関係のなかで再現されることを指します。たとえば、精神分析を開始すると、分析家に対して好意をもつようになったり、反対に攻撃性や悪意を抱いたりするようになりますが、これは過去(幼少期)における養育者との関係が、分析家や他者とのあいだに再現(=転移)されていると考えられます。言い換えれば、転移とは、過去(幼少期)における重要な人物との関係が、一種の「スタンプ(原版)」となり、そのスタンプが現在の人間関係においても反復され、複写されることなのです。》(251頁)。ところで、ヘルダーリンは〈父の名〉が排除された主体である。ゆえに、その前に〈父〉としてのシラーが現れたところで、うまく転移関係を形成することができない。そして(一時期の)ラカンの理論によれば、精神病とは〈父の名〉が排除された主体が〈父〉の機能を呼び出す必要にせまられるライフイベント(結婚、昇進、出産……)をきっかけに発病するものである。よってヘルダーリンはこれをきっかけに発病する。《すでに何人かのラカン派の論者が指摘しているように、ラカンのいう「一なる父(Un-père)」とは、おそらくはその同音異義語である「無対(impair)」を含意していると考えられます(Vicente 2006)。つまり、もしヘルダーリン神経症の構造をもち、父のイメージを原版として刻み込まれていたなら、新たに出会ったシラーという父性的な人物を、かつての父親像とペア(対)にすることができたのですが、実際に彼に現れた第三項としての〈父〉たるシラーは、誰かと転移的なペアにすることが決してできないような〈父〉であり、そのような〈父〉をラカンは「一なる父」と呼んだと考えられるのです。》(254頁)。〈父の名〉が排除されている主体(原版を持たない主体)が、第三項としての〈父〉と遭遇することがあっても、両者は転移関係を形成することができず、〈父〉は「一なる父」とならざるをえない。そしてここに注釈として引用されている内海健の考えがまた非常に面白いのだ。《内海健は、転移の特徴の一つとして「二重登記」をあげており、転移によって現在が過去に回付(refer)=二重登記されることによって現在の「事象そのものがもつリアルさが和らげられる」ことが精神の安全装置になっていると指摘しています。ゆえに統合失調症において転移が機能しないということは、「いかなる過去の経験にも照合されない」ものを経験するということであり、もしそのような経験を素通りすることができなかったとすれば、それは同化不可能な、表象(re-presentation=再現-代理)不可能な経験となり、統合失調症の病理の核心を形成することになります(内海 二〇〇八、 一四五—一四七頁)。この考えは、ラプランシュ=ラカンの「一なる父」という考えと非常に近いものです》(360頁)。ここで語られている「転移」は、「現実界」に対する「象徴界(+想像界)」、「物自体」に対する「言葉(統覚)」が負っている役目とほぼ等しいと考えることもできる。ある原初的な関係がまずあり(原版)、以降、主体はその原版との重なりにおいて、あるいは類似と差異のスペクトラムにおいて、続く関係を経験することになると、そう考えてみると、これはほとんど「S」について語られている事柄ではないかという気すらしてくる。もちろん「S」は、精神分析的な図式に則りつつもそこからの内破をはかるべく、かなり無理な接木をいくつも施してはいるのだが。

 それから2013年10月7日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

通ったことのない細い路地をだいたいこちらのほうだろうと見当をつけながら自転車を漕いでいるそのときにふと彼女のことを思った。思うと同時になぜ今なのかと考えた。(…)が滞在していた期間中いまはこれほど腹がたって仕方のない相手ではあるけれどもそれでもいなくなったらさびしくはなるだろうと、それも毎日のように出歩き京都のすみずみまで踏破しているくらいであるのだからどこに出かけてもどこを歩いても彼女の影がつきまとうことになるだろうと、そのように見当をつけていたのだけれど、事実はむしろ逆で、彼女とならんで歩いたことのない路地、それどころかじぶんひとりでも通りぬけたことのないはじめての路地をゆく途中にふと彼女のことを思いだすという不意打ちがあったわけで、けれどこの想起の経路にはなんとなく得心のいくところがあった。そうだよなと思った。未知をひとりで体験するたびごとにその興奮も不安も歓びも共有する相手がいまここにいないという現実をまざまざと直視するはめになるんだと、そうしてそんなふうな凡庸な喪失感の到来はおそらくこれから先しばらく、長引く風邪のようにじぶんの生活につきまとうことになるんだと、そんなふうな感傷が一抹のざわめきとともに喉元から左胸にかけて斜めに走った。死がわたしと世界を分かつまで、というフレーズが思い浮かんだ。

 そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は18時半だった。repairman、はよ来いよ!

 パレスチナからイスラエルに数千発ものロケット弾がうちこまれたという報道。ハマスによるもの。戦闘員がイスラエル内に侵入して民間人を殺害しているとの情報もある。イスラエルのネタニヤフ首相は「戦争状態」であるとの声明を発表。イスラエルガザ地区に対してこれまでさんざんやってきた非人道的行為を多少なりとも知っていれば、今回のハマスによる攻撃の構造的な誘因が——民間人を対象としたその非人道的なふるまいそのものは絶対的に指弾すべきであるものの——イスラエル側にもあることは絶対に否定できないわけだが(これは喧嘩両成敗みたいな雑な話ではない)、しかしこれでますますイスラエルパレスチナの関係は悪化することになるというか、いやもともと最悪ではあったのだが、今回ばかりは断続的な小競り合いの発生というこれまでの経緯にはおさまらず、行き着くところまで行き着いてしまうのではないかという不安を感じる。
 夕飯は自炊。残り物の肉と野菜をクソデカい中華鍋で炒めたところに袋麺を少量の水とともにぶちこんで炒面風にする。悪くない。食後、ひととき休息したのち、明後日にひかえている新入生の授業で学生らにみせる文章の中国語訳を三年生の(…)さんにお願いする。あらかじめDeepLでざっと訳しておいたものの修正を依頼した格好。以下がそれ。若干おおげさに書いているところもあるがが、簡単にいえば、高校時代に日本語を勉強しているからといって、一年生の授業をなめてはいけないぞと釘を刺すものだ。

 人間は、自分が上手に発音することのできない音は、うまく聞き取ることができません。言い換えれば、みなさんがもし日本語を上手に発音することができれば、リスニングも同時に上手になるということです。これは、脳科学言語学の研究によって明らかになっていることです。
 ですから、一年生の間は、とにかく発音練習をしっかりしてください。もし、一年生の時に発音練習をせず、間違った発音を身につけてしまった場合、後からそれを矯正するのはとても難しいです。三年生、四年生になってから、間違った発音を直すのは、かなり苦労します。発音練習は地道でつまらないものですが、やる気のある一年生のうちにしっかり練習しておけば、二年生や三年生になってからリスニングで苦労することもありません。
 高校時代に日本語を勉強していた学生にとって、大学一年生の授業はとても簡単だと思いますが、発音の練習だと思って授業もしっかり受けてください。

  人们不可能听懂自己发音不准的声音。 换句话说,如果大家的日语发音标准,听力也会变得很好。 脑科学和语言学的研究都清楚的证明了这一点。
  因此,在一年级的时候,请一定要注意练习发音。 如果一年级不练习,形成了错误的发音,以后就很难纠正了。到了三、四年级想要纠正错误的发音是非常困难的。 发音练习是持久而枯燥的过程,但如果在一年级时积极练习,那么到了二年级或三年级,听力就不会很吃力了。
  对于在高中学习过日语的学生来说,大学一年级的课程非常简单,但也请把它当作发音练习,好好上课。

 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチをしたのち、21時半前から23時半まで「実弾(仮)」第四稿。シーン47の続き。序盤の描写でいきなり麻痺った、最初の一時間が台無しになってしまった。風景描写というか空間の構築というか、そういうのはやっぱりむずかしい。以下、今日ずっと書き直していた箇所。しかしシーン47にはここよりもめんどうくさい描写がもうひとつひかえているのだ。

 宙ぶらりんになっている個室の扉を手前にひき寄せる。洋式便器が上蓋をあげたまま、口を開けた獣のように待ち構えている。体を斜めにして中に入る。後ろ手で閉めた扉に向きなおり、直方体のボルトを右手から左手にスライドしてロックする。
 あげたままになっている蓋をおろす。タンクの上にいつもの茶封筒が見あたらない。代わりに、千円札が五枚、裸のまま重ねて置かれている。蓋をおろした際の風圧で、そのうちの一枚が、便器と右手の壁とのあいだのせまいスペースにひらりと落ちる。
 落ちたものを見おろしたまま、どう体を動かすべきかと景人はひととき思案した。自由が利くほうの右足を、ひとまず壁と便器とのあいだに差しいれてみる。半身にはならずあくまでも正面を向いたまま、左手を前にのばしてタンクの角をつかみ、体重をその手のひらになかばあずけて、ゆっくりと腰を折っていく。桜色をしたタイル張りの床は、目地だけが黒ずんで汚れている。顔が便器に近づくにつれて、はねて乾いた小便がかすかににおいはじめる。そんなことをしてみたいと思ったことなどないはずなのに、うっすらと汚れた内蓋をなめる自分の姿を想像してしまう。無理な体勢のせいで、あたまに血がのぼり、喉元がぐっと絞まる。こめかみがドクドクと脈打ちはじめる。
 長らく二つ折りにしたままだったらしい千円札が、二枚貝のように立っているその上蓋のほうを、ぎりぎりまでのばした右手の人差し指と中指のあいだでどうにかつまみあげた。上体を慎重に元にもどし、つまみあげた紙幣にふっと息を吹きかけてから、長財布のなかにしまう。首のあたりで滞留していた血液が、あまい痺れとともに脇の下や内腿のあたりに流れ落ちていくと、視界が一瞬だけチカチカと白飛びした。
 もともとはビーチの客の忘れ物だった黒いウインドブレーカーの内ポケットから煙草の箱を取りだす。中には一グラムずつ小分けにしたパケが二袋入っている。ふたたび腰を折り、煙草の箱を持った右手をのばして、先ほど千円札を拾いあげたあたりに軽く落とす。落としたものの角を、のばしたままの右手の指先で左側に払うようにして、タンク下のほうに追いやる。背中から右脇にかけて、不意に、攣ったような痛みが走る。痛みに顔をしかめながら体を起こし、便器の正面に対峙して息を整える。煙草の箱は無事死角に隠れている。内蓋をなめる自分の姿がまたよぎらないうちに、扉にむきなおって個室をあとにした。
 堤の途中にある公衆便所だった。出てすぐ右にむかえば、河川敷に沿って延々とのびるその続きをたどるかたちになる。反対に左にむかえば、堤の道幅はぐっとひろがり、十台分ほどの駐車スペースを兼ねた小広場の様相をていしはじめる。犬をのせてやってきた近隣住民のワゴン車や軽トラで半分ほどが埋まっているその駐車スペースを、景人はゆっくりと足をひきずりながら突っ切り、堤をその先で断ち切るようにして横たわっているカツアゲ橋のたもとにむかった。右手には枯れた葉をつけている桜が立ちならび、その合間からは眼下にひろがる河川敷をのぞむことができる。左手には車道が堤に沿っていくらか低い位置を走っている。ゆるやかなのぼり坂となっているその道がカツアゲ橋のたもとと垂直に合流する交差点付近は、夕方のラッシュ時になると必ずといっていいほど渋滞になる。ヘッドライトを点けている車はまだないが、流れはすでにじわじわととどこおりつつあった。

 (…)さんにもらったキウイをいくつか食べる。熟しているだけなのかもしれないし、少なくとも中身はふつうなのだが、皮の外側がマジでうんこみたいなにおいをしているので、これはやばいかもしれないなと、大事をとって残りは捨てることに。先日(…)さんたちにもらったドラゴンフルーツも食う。
 歯磨きをすませて寝床に移動したのち、スマホで長々とイスラエルパレスチナの続報を追った。全然知らなかったのだが、レバノンにはヒズボラという「シーア派イスラム主義の政治組織、武装組織」が存在するらしい。「アラビア語で「神の党」を意味する。イランとシリアの政治支援を受け、その軍事部門はアラブ・イスラム世界の大半で抵抗運動の組織と見なされている。日本、欧州連合、米国、オランダ、バーレーン、エジプト、英国、豪州、カナダ、イスラエルは、ヒズボラの全体または一部をテロ組織に指定している」とのこと。以上、以下、すべてWikipediaより。

少数の民兵組織から始まったヒズボラは、レバノン議会に議席を有し、ラジオ・衛星テレビ局を持ち、社会開発計画を実施する組織へと発展を遂げた。ヒズボラレバノンイスラムシーア派住民からの強固な支持を受け、数十万人規模のデモを組織する能力を持つ。ヒズボラは2006~2008年、他の政治勢力と協力し、当時のフアード・シニオラ首相の政府を相手取り抗議行動を開始した。ヒズボラによる通信ネットワークの保有をめぐるその後の論争は衝突に発展し、ヒズボラ率いる抵抗勢力はシニオラ首相に忠誠を誓う政党「未来運動」の民兵組織が支配する西ベイルートの複数の地域を制圧した。これらの地域はレバノン軍に引き渡された。2008年には挙国一致政府が成立し、ヒズボラを含む野党勢力は、全閣僚ポスト30のうちの11に対する影響力を確保し、事実上の拒否権を手にした。2018年の総選挙では同じシーア派のアマルやキリスト教勢力との連携派閥がレバノン議会の過半数以上を確保し、政治的な影響力は更に強まっている。
ヒズボラはイランから軍事訓練、武器、財政支援を受け、シリアからは政治支援を受けている。2000年にイスラエル軍が南レバノンの駐留を終結させたことを受けてヒズボラの軍事力は顕著に増大した。 2008年6月、国連がイスラエル軍レバノン領からの完全撤退を認定したにもかかわらず、同年8月、レバノン新内閣はヒズボラが軍事組織として存続することを認め、ヒズボラが「占領地域を解放または奪還する」権利を保証する政治宣言を全会一致で了承した。

 このヒズボラが仮にイスラエルが地上戦を展開するのであれば自分たちも参戦するという声明を出しているみたいな情報もあった(真偽不明)。仮にそうなったヒズボラを支援しているイランも出てくるかもしれないわけで、となるとアメリカも出てくるだろう。するとアメリカはウクライナイスラエルそれぞれで軍事展開することになり、その隙を狙うかたちで中国が台湾を侵攻する可能性もみたいな、素人の浅はかな想像もたくましくなってしまうわけで、マジで潮目を見極めて帰国したほうがいいのかもしれない。嫌な想像ばかりしてしまうな。