20231013

 〈他者〉の不在から〈一者〉の実在(existence)に重心を移したからといってラカンが言語(langage)の重要性を捨てたわけではない。ただ言語構造、つまりS1—S2という構造を二次的なものとして、それ以前にあるものとして構造化されていない単独のS1、そしてS1の群集(essaim)を最初に置いた。essaimはS1と発音がほぼ同じで、ミツバチなどの群れを指し、S1がS2とは繋がらずに群集をなしている状態を言う。S1が essaim の状態であるときの言語的存在をララング(lalangue)とラカンは呼ぶ。ララングはラカンの造語で、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものである。
 ララングは子どもが文法的に言葉をしゃべる以前の言語的状況で、そのとき子どもは自分の言葉を伝達のためではなく、享楽を得るために使う。そこではそれぞれの子どもに特異的な私的言語が使われるのである。すべての子どもはあるときからララングを諦めて、文法的に構造化され、意味を生み、伝達のために使われる言語(langage)の世界に入ることを要請される。すでに第Ⅱ部第六章で説明した疎外と分離の論理における、疎外の段階である。
 ラカンは無意識についてずっと「無意識はひとつの言語のように構造化されている」という命題を堅持してきたのだが、ここにきてそれを無意識についての最も基本的な命題だとは見なさなくなった。というのも、言語のように構造化されている以前の無意識の状態があり そこではS1が群集しており、享楽の追求のためにあるからだ。この次元ではS1は直接に現実界と繋がっており、これは現実的無意識だと言える。フロイトはそれをエス(Es)と呼んでいた。
 結果、現実的無意識に対して、「無意識はひとつの言語のように構造化されている」という場合の無意識は一段階格下げされることになる。言語のように構造化されている無意識は、言うなれば、精神分析の申し子のようなものである。フロイト精神分析を発明して言い間違いや夢の奥に何か別の意味が潜んでいると主張し始めたときから、この言語的無意識は機能し始めたからである。その意味でこの無意識は想定された無意識で象徴的ではあるが想像的な性格ももっている。マテームで表された無意識のディスクール(三七五頁)はこの無意識に相当し、現実的無意識はS1・S1・S1……と表せるだろう。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅲ部第七章 ジョイスの方へ」 p.394-396)



 9時起床。よく寝た。満足だ。歯磨きしながらニュースをチェックし、トースト一枚を食す。きのうづけの記事の続きを書き足して投稿。途中、二年生の(…)さんから微信。こちらの写真を使ったステッカーが大量に送られてきたので、それ全部学生たちが作ったものだよと返信。彼女は今学期から日本語学科に移ってきた学生であるが、けっこう能力が高い。広西省出身であるし、おそらく少数民族だろう。
 ウェブ各所巡回し、2022年10月13日づけの記事を読み返す。『ゼロから始めるジャック・ラカン――疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版』(片岡一竹)、次回の帰国時に紙の本を買おうというつもりだったのだが、やはり「増補」されている箇所が気になるので(サントーム以後のラカンだろう)、Kindleでポチろうと思ったところ、紙の本しかリリースされていなかった。そのうち電子書籍でもリリースされるのかな?

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は11時半過ぎだった。冷蔵庫に残っている食材を処理したかったので、野菜を適当にカットして鉄鍋で炒めたのに麺をぶちこんで炒面をこしらえる。食後は「わたしは◯◯オタクです」の添削。すべて片付けたのち、新入生の授業スケジュールをざっと見直す。
 17時半になったところで夕飯。昼飯とおなじ。肉と野菜をカットとして鉄鍋に麺といっしょにぶちこんで炒める。食後はベッドに移動し、『幸いなるハリー』(イーディス・パールマン/古屋美登里・訳)の続きを読み進め、30分ほどの仮眠。
 シャワーを浴びる。21時から23時半まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン47、無事終わる。ずいぶんよくなったと思う。夜食はトースト一枚。ベッドに移動後、イーディス・パールマンの続き。今日は「介護生活」「救済」「フィッシュウォーター」を読んだが、このなかでは「救済」が一番いい。『蜜のように甘く』収録の「初心」や「夢の子どもたち」には及ばないと思うが、なにか近しいものを感じた。「救済」も「夢の子どもたち」も、あえてこういう言い方をするのであれば、「健常」の外に半歩踏み出している「健常者」が登場する、というかひとが良識的な象徴秩序の外側に触れる一瞬が描かれているのだが、語りはその当事者にではなくむしろその越境の一瞬を傍観する人物のそばにつきしたがっており、かつ、この人物は事態の単なる目撃者に(職業)倫理的にとどまり、その事態および当事者を決してjudgeしようとしない、そこからこれらの作品に共通する独特の上品さとまっしろなポエジーが生じるのだろうなと思う。