20231019

 「心理学化する社会」とは、社会の脱制度化や再帰化が進み、人々を支配していた伝統や価値や規範に代わって、心理学的言説や技術が人々を支配していく社会である。ギデンズが個人の再帰化は難しい課題となるとしその機能不順としてたくさんのアディクトが生み出されることを指摘しているように、社会や個人の再帰化は過渡期の現在、これまで以上に社会から排除される人々を増大させるだろう。臨床社会学はそういった社会に介入する診断をもつ社会学である。臨床社会学は危機の時代のシカゴで生まれたが、社会の危機において再創造されてくるものなのだろう。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「はじめに」 p.ⅰ)



 6時半起床。朝食はトーストとコーヒー。寮の敷地内で(…)から声をかけられる。日本の有名なsingerが死んだだろうという。谷村新司のことだ。マジで興味がない。(…)はいい加減こちらの(属する世代の)ろくに知らない日本の芸能人についてあれこれ話しかけてくるのをやめてほしい。こちらは刃牙シリーズを読んでいる最中、ビスケット・オリバのことを魅力的なキャラだと思ったことは一度もない。
 小卖部でミネラルウォーターを買って外国語学院へ。(…)くんから授業に遅刻するという連絡。大金の絡む事情なので理解してほしいとのこと。詳細は知らんが、問題ないと返信。教室に入る。六階まで階段をあがったのでへろへろ。廊下に出ていったんすずむ。(…)さんが中庭を見下ろしながらとうもろこしを食っていたので、高いところは怖くないかとたずねる。怖くないという。
 8時から二年生の日語会話(三)。第28課。前半で雑談をはさみすぎた。教案そのものもちょっと弱いかなという感じ。アクティビティのルールも改稿前のほうがよかったかもしれない。いろいろ思うところがあったので帰宅後にメモ。
 ひととき休憩したのち、11時になったところで第五食堂へ。打包。食後、30分ほど昼寝するつもりだったのだが、たぶん3時間ほど寝てしまった、目が覚めると16時前だった。毎回昼寝をしすぎると起き抜けの気分があまりよろしくないというか、変に気落ちした感じになるのだが、これはどうしてだろう?
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ひとつ書き忘れていたこと。きのう(…)くんからきいたのだが、故郷の遼寧省で職業研修に参加している(…)さんが職場を起訴したらしい。労働基準法的なアレをめちゃくちゃに無視しまくっている職場だからという。しかしそれでいえば、中国のほとんどの職場が労働基準法的なアレをまったく遵守などしていない。そういう話は学生たちからよくきく。そもそも996なんていう言葉が流行語になってしまうような社会なのだ(「過労死」という単語が仮に日本で生まれることがなかったとしても、じきに中国で生まれただろうとこちらは確信している)。
 ウェブ各所を巡回し、2022年10月19日づけの記事を読み返す。(…)さんと(…)さんと一緒に、まさに昨日行くことをこちらが拒んだ東北料理屋でまずいメシを食ったのち、夜のキャンパス内を散歩した日。当時国旗掲揚チームに所属していた(…)さん、(…)さん、(…)さんと遭遇して立ち話をした折、(…)さんと(…)くんのカップルが前日に別れたことを知らされている。(…)さんはこの失恋をきっかけに日本語をまじめに勉強しはじめるわけだ。
 2013年10月19日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

コンビニで菓子パンと紅茶花伝のホットを買った。唐突な寒気の日にはなぜかいつも紅茶花伝を飲みたくなる。紅茶花伝を見るとふしぎにいつも惹起されるところのなんでもない記憶というのがあって、たぶん小学校中学年か高学年のころだと思うのだけれど、今日の夢にも出てきた(…)(父親がビジネスホテルを経営している金持ちのサッカー青年)の実家がある坂の上から急激な角度でのびる下り坂をくだった先にあるあれは空き地だったか、それとも田舎につきものの個人系の自動車工場みたいなものの一画だったか、とにかくなんでもない道路沿いにわずかにもうけられたスペースに自動販売機が二台ほど並んで設置されていて、その自動販売機のまえに母親の運転するぼろっぼろの軽自動車を止めてジュースを買ったときの記憶、たぶん弟もいっしょにいたような気がするのだけれどそのときじぶんは紅茶花伝のホットを買って、そのとき初めて買ったわけではたぶんなかった気がするのだけれど、しかしなぜかそのときの記憶というのが紅茶花伝という言葉の響きに頑につきまとっており、というかこういうふうにして書きしるしながら記憶を探索するうちにだんだんと明瞭化してくるところがあるのだけれど、たぶんそれまでは自動販売機で購入するといえばじつにクソガキらしい甘ったるい清涼飲料水の類であったのがその日そこではじめて紅茶花伝という、いわばコーヒーとならんで大人の嗜好品であるという印象をもっていたまがりにも紅茶であるところの商品をすすんで自発的に購入したその背伸びの記憶、それまでは母親が購入したのをひとくちふたくち飲ませてもらう程度だったのがついに一缶まるまるじぶんのために買ったという前進の感、べつだん背伸びしたわけでもなんでもなくて本当にその味が好きでそれを買うことにしたのは確かなのだけれどそれだからこその驚き、つまり、クソガキであるはずのじぶんの嗜好がしかし知らぬ間に大人のシンボル(として理解されていた)紅茶にぴったり合致してしまっていることを不意に自覚してしまった瞬間のある種の取り返しのつかなさ、おのれの成長に置き去りにされてしまっていた事実を自覚したとたんに現実と自覚がそのあいだに介在させていた距離をひといきに飛び越えて重なるその収差の働き、そうした印象が強く色濃く残っていて、たとえばこのあいだ職場にやってきたフランス人たちとまがりなりにも英語でコミュニケーションをとれてしまっているじぶんを自覚した瞬間のおどろきもたぶんこれと似たようなものだったし、あるいは(…)とつれだって京都駅の伊勢丹をひやかしていたときにこちらにセールストークをしかけてくるスタッフの言葉をひとつひとつ通訳している、というかできてしまっているじぶんにはっとして気づいた瞬間のおどろきもやはりこれとよく似ていた。自覚の範囲外で着々と進行していた成長(変化)があるしきい値をこえた途端に自覚されるにいたってハッとするみたいな、自身にたいする認識の更新にせまられて不意をつかれたような気持ちになるような、その種の体験の原体験としてあの日の自動販売機で購入した紅茶花伝があるのかもしれない。

 その後ふたたび第五食堂で打包。食し、『幸いなるハリー』(イーディス・パールマン/古屋美登里・訳)の続きを少し読み、今日づけの記事をここまで書く。スピーチ組から土曜日の練習はどうするかという連絡があったので、必要であれば付き合うと返信。(…)さんは車の運転の練習があるという。(…)くんは先週と同様、文章の整理をするので、こちらが教室にくる必要はないとのこと。ありがてぇ。

 シャワーを浴びる。コーヒーを淹れて、19時半すぎから22時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス34枚で計958/1040枚。シーン48、終わる。シーン49も途中までチェック。うまくいけば今月中、遅くとも来月中には第四稿が終わりを迎えるわけだが、その後はすぐに第五稿に向かうのではなく、熟成期間も兼ねてめんどうくさい作業を先に片付けておこうかなと思った。漢字のひらきをチェックしたり、未使用の小ネタや時代背景を象徴する記述をしかるべきシーンに挿入したり、シーンごとの登場人物の服装に矛盾がないかチェックしたり、そういうもろもろを年内に片付ける、と。で、新年から第五稿にとりかかればいい。できれば来年中に脱稿したいが、うーん、どうなんだろな。はやく短編作家になりたい。長編はもう嫌だ。「実弾(仮)」なんてもともと150枚くらいのつもりだったのに。

 夜食はトースト。(…)くんから夜遅くに微信。N1の過去問を解いてみたのだが、読解で満点をとることができたという。褒めまくった。(…)くんは授業中いつも熱心であるし、会話能力もリスニング能力も高く、(…)くんと肩を並べるレベルだと思うのだが、読解能力はもしかしたら(…)くんよりも上なのかもしれない。たいしたもんだ。調べてみたら、N1は180点満点(「言語知識」「読解」「聴解」がそれぞれ60点ずつ)で、合格ラインが100点。(…)くん、ほぼ間違いなく合格できるだろう。
 寝床に移動。『幸いなるハリー』(イーディス・パールマン/古屋美登里・訳)を最後まで読み進める。イーディス・パールマン、やっぱりいいな。全作読む価値のある作家だと思う。簡潔な記述のところどころに、いったん立ち止まって考えないと見落としてしまう、そういういわば「不親切な」記述なごろりとまぎれこんでいることがあり、それがよいアクセントになっている。たとえば、「花束」という短編では、とある夫婦のもとに妻宛に差出人不明の花束が二回届く、そのうちの一回はじつは夫に嫉妬を抱かせようとする妻の自作自演であることが判明するのだが、その種明かしに関する記述は差出人不明の花束が二度目に届いた際の「それでロイス[引用者注:妻]は、自分がしかけた策略が倍になったとわかったことで満足しなければならなかった」の一行のみとなっている。短編のわりに登場人物が多いという点以外、イーディス・パールマンの文章は(少なくとも翻訳では)かなり読みやすいのだが、先のような「種明かし」は、往々にしてこのように切り詰められたかたちで上品に提示されており、それによって説明的な記述の度し難いつまらなさ、記述の束をサスペンスの因果にまとめあげてしまう俗悪さがぎりぎりのところで回避されている(単なる「種明かし」が、「種明かしの技法」の更新ないしは変奏という技術的達成に転じられている)。
 あと、どうでもいいといえばどうでもいいことなのだが、表題作「幸いなるハリー」に「もしジャック叔父さんが死なずに、いまもあの部屋でいっしょに暮らしていたら、フェリックスは廃品漁りに夢中にならなかったかもしれない。ポケモンカードを集めることで満足していたかもしれない。」という記述があり、ここにぶつかったとき、あ、そうか、イーディス・パールマンは現代の作家なんだなとふしぎな気持ちになった。しかし「海外現代文学」と「ポケモンカード」というのはじぶんのなかでなかなかまじわらん言葉だ。書き写していても、ちょっとぎょっとする。
 あと、訳者である古屋美登里のあとがきに、「短篇作家の自由」というイーディス・パールマンのエッセイからの引用があったのだが、その内容がまさにこちらが彼女の作品に触れているあいだに感じるものだったので、ここに写しておく。

「短篇の結末では、縺れた糸を撚り合わせるという長篇に必要なことをしなくてもいいのです。得体の知れなさこそが、短篇小説の持ち味です」

「短篇作家は、チェーホフのような短い事件を書いてもいいし、アップダイクのような人生の断片を描いてもいいし、グレース・ペイリーのようにニューヨークの公園での午後のひとときを語るだけでもいいのです。語られないことをそれとなく示すために短篇小説はあるわけですから、作家がすべきことは手がかりをそっと差し出すことなのです」

 昼寝をアホみたいにしていたせいで、予想通りではあったが、寝つく前に金縛りだの幽体離脱だのにさんざん見舞われるはめになった。