20231020

 「社会の心理学化」は両義性をもったアンビヴァレントな現象である。一方では社会の再帰化を押し進めて現在の伝統や規範を解体する力を担っている。他方では従来の伝統や規範に代わって社会を記述したり統合する役割を担う。社会の解体と構築はこうして同時的になされる。このような現象は「心理学化」に限ったことではない。社会変動や社会変容では常に新しいイデオロギーや規範や方法が前のものを破壊すると同時に新しく社会を構築してきた。現在「社会の心理学化」が問題となる時、前者の破壊力のみが取りあげられ、破壊性をもった心理学化がどのような社会を形成しているかということにはあまり関心がもたれていない。臨床社会学は後戻りできないこの変容に付き添って、具体的に社会を見ていこうとするものである。社会学とは、常にこの社会の変異 mutation を敏感に感知して考察し言葉を与えてきた学問ではなかったか。
 そして今回の変動は、社会を支えていた従来の伝統や規範の物語が別の物語にとって代わるということではすまず、物語そのものの破壊を意味しているところに、「心理学化」が担う社会構築の決定的な困難がある。「心理学化」とは何しろ物語を構築している欲望や無意識まで露にしてしまおうとする現象なのである。社会はこのような過酷な相対化や再帰化にどこまで耐えられるものだろうか。そこに臨床社会学的転回があるといってもよいだろう。物語の欲望の構造を明らかにしてしまった心理学(正しくは精神分析)は、別の物語で前の物語批判を行うのではなく、社会を構築するためフィクションや幻想や物語が必要であることを示唆する。社会学は近代になってすでにそこに出現してきていた社会を社会的事実として認めスタートし社会とは何かを問うてきた。しかし今、ほぼ社会の秘密は明らかにされたといってよい。もう社会を解明している時は過ぎ、社会学は社会を維持すること、人間の生きられる限定された条件を維持することを考察しなくてはならない。神が消滅した時、危機の中で近代の社会学者たちは神の代替物としてのマナや価値やカリスマの必要性を声高に主張してきた。その力はすでに神のもとにではなく人間のもとにあったけれども、いまだミスティックなものだったであろう。しかし「心理学化」はそれが人間が他者に依存して生成していく構造に由来する偶然的なものでしかないことを明らかにする。ちょうど医学や自然科学が私たちの身体の構造を明らかにしてしまい、私たちの身体の中に不死の魂はなく、私たちは数日水がないだけで生きられず、生きるために地球や環境を維持しなければならないことを明らかにしてしまったように。私たちはそんなふうにやっかいな存在でしかない。それを知ったうえで再び社会という物語をお好みで作っていかなくてはならない。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「はじめに」 ⅱ〜ⅳ)



 9時半起床。昼寝も含めて昨日はよく寝た。HPが満タンになったかのようだ。朝食はトースト一枚。ニュースなどチェックしながらひとときゆっくり過ごす。11時になったところで寮を出る。饭卡にチャージする必要があったので、まず現金をおろすために第四食堂近くにある中国建設銀行のATMを利用しようとしたところ、別の銀行のATMに変わっていたので、あれ? いつのまに? となった。財布にはたまたま現金が300元ほどあったので、だったらこいつをチャージすればいいかというわけで、そのまま第三食堂へ。以前は食堂内にあった窓口が外に移動していた。300元チャージする。
 第四食堂に立ち寄る。以前(…)さんらにおすすめとして教えてもらった麺の店で打包する。それで片手に麺の入った袋を提げ、片手でケッタのハンドルを握り、えっちらおっちら寮までもどったのだが、寮の最寄りにある交差点でバイクにはねられた。びっくりした。交差点の右手から男子学生の二人乗りしたスクーターが近づいてきているのは見えていたし、全然接触するようなタイミングでもなかったのだが、その交差点をほぼ渡り終えたタイミングで、こちらの後輪にスクーターが突っ込んできたのだった。すべてがスローモーションになるほどではなかったが、自転車から倒れる際に、左手に提げた麺をどうしようか、手放して体を守ったほうがいいだろうか、それとも麺もがんばって守るべきだろうかと考える瞬間らしきものがたしかにあった。あたまを打つことはなかった。あおむけにただ倒れた。あとで確認すると、右の手のひらと右のひざと右の肩にそれぞれおおきめの擦り傷ができていたので、麺を提げていたのは左手であったはずだし、たぶんぎりぎりまで倒れまいとして右手一本でハンドルをコントロールしようとした、その影響で体の右側から倒れ込むかたちになったのだろう。
 さすがにびびった。起きあがってふりかえると、男子学生ふたりが路上に突っ立っていた。たぶんスクーターも横倒しになっていたと思う。周囲には歩行者もちらほらいた。運転していたほうの学生がへらへら笑っていたので、あたまにきて、おまえなにしとんねんコラ! と日本語で言った。麺の入ったビニール袋も当然路上に投げ出されている。男子学生は麺の弁償をするといった。それでまたあたまにきた。よりによって最初に口にするのがそれなのか、と。なぜ最初に謝罪しないのか、と。それでその点をまず英語で詰めた。ふたりともまったく英語を解さないようだったが、こちらが外国人であるとわかるとすぐに音声入力式の翻訳アプリを起動した。こちらのあやつる英語は中国語に、学生のあやつる中国語は英語にすぐさま翻訳されるやつだ。男子学生はその翻訳アプリであらためて食事代を弁償するといったので、そんなもんはどうでもいい、なぜ最初にまず謝罪しないのだとかなり強い口調で言った。翻訳アプリの精度がすごかった。こちらのあやつるJanglishも正確に中国語に訳した。学生はそこではじめて不好意思といった(对不起じゃねえのかよと思った)。学生はさらにブレーキの調子が悪かったのだと続けた。これでまたあたまにきた。そんなもんはbad excuseだといった。ブレーキが壊れているバイクになんて乗るな、さっさと修理しろ、それができないんだったら慎重に運転しろと詰めた。じぶんでもちょっと驚いたことに、だいぶあたまにきて興奮していたにもかかわらず、英語はなぜか普段よりすらすらと口を突いて出てきた(そういえば、(…)と口喧嘩したときもそうだったなと、10年前を思い出した)。怒りは論理や主張を単純化し、複雑なニュアンスを抹消するがゆえに、不自由な外国語であっても表明しやすいというだけのアレなのかもしれないが。じぶんは外国人だ、だから中国の交通ルールは知らない、おれの国では事故があったらかならず警察に報告する義務がある、ここではどうなのだとたずねると、おたがいが納得しているのであれば報告しなくてもいいという返事。じぶんはいまたいした怪我をしていないと認識している、しかしのちほど体の調子が悪くなるかもしれない、交通事故ではよくあることだ、自転車もおなじだ、のちほど壊れていることが発覚するかもしれない、その場合は補償してもらうことになると続けると、わかったという返事。微信のアカウントを教えろと伝える(身分証明証の写真も撮っておくべきかと思ったが、キャンパス内であるしさすがにその必要はないかと思った)。専門はとたずねると、たしか土木という返事があったはず。このあと同僚や国際交流処のスタッフに連絡をする、その場合そちらに大学から連絡がいくかもしれない、運転するときはもっと気をつけろと伝える。
 それで帰宅。右手のひらは痛みがややあるだけで擦り傷もたいしたものじゃない。ただ右肩と右膝はまあまあ広範囲の擦り傷だったので、日本から持ってきているマキロンで消毒しておいた。関節の痛みや打撲の痛みはいまのところないが、過去の経験から二、三日後に痛みはじめることがあるのを知っているので、いちおう油断はできない。あたまを打たなかったのは幸いだった。麺も容器に蓋がついていたので無事だった。
 (…)にひとまず報告しておく。これこれこういうことがあった、警察は呼ばなかったのだがだいじょうぶだろうか、と。で、すっかりのびてしまった麺を食いはじめてほどなく、その(…)から着信があった。いまは(…)にいるらしかった。そうでなかったらすぐに面談するところだという。警察に報告する義務はない。しかし報告するのであれば普通は被害者側が警察に電話をするとのこと。そして報告を怠っていた場合、たとえば数日後に具合が悪化して病院で検査および治療を受けることになったとしても、加害者側がそれは無関係だとゴネてarguementになることも多いという。だから、そういうときはなるべく警察に連絡したほうがいいし、そのまますぐに病院に行ったほうがいい、あるいは事故の現場を写真撮影し、できれば相手の身分証明証も写真に撮ったほうがいいという話だった。しかしこれは大学外で事故が発生した場合の話だ。のちほど、これがキャンパス内で起きた事故であることを知った(…)は、そうであれば警察ではなく大学のguardがdealする案件になるといった。病院に行っておいたほうがいいんではないかというので、でも病院にいって検査を受けていたら時間がかかるだろう、それはちょっとめんどうくさいからと受けたのち、たいした傷ではないしあたまを打ったわけでもないからだいじょうぶだよと続けた。それに相手の学生のWeChat IDはちゃんとキープしてある。いずれにせよ、次回また事故に遭うようなことがあれば、そのときはその場でなるべくじぶんに連絡してほしい、じぶんに連絡がつながらない場合は(…)先生でもいいとのこと。了解。
 学生からは文法もクソもないめちゃくちゃな英語で謝罪が届いた。“Teacher Hello, just happened suddenly, have not had time to formally apologize to you, sorry, affected your normal life, follow-up your car and body problems at any time to contact me”と。同級生らの入れ知恵を受けて逃げられても困るので、すでにinternational departmentに報告したこと、そちら経由で大学のguard and security departmentにも報告がいっていると告げた。それから怪我と自転車の状態について、現状たいしたことはないが、今後悪化した場合はしかるべきcompensationを要求するとあらためて告げたのち、事故の直後に謝罪しようとしなかった点と、事故の責任をバイクのブレーキに転嫁しようとした点を、あらためて指弾した。学生はとりあえずの医療費としてこちらに100元送金したが、当然これは受け取らない。
 メシ食す。きのうづけの記事の続きを書き、ウェブ各所を巡回し、2022年10月20日づけの記事を読み返す。

 欲望と欲動には、単なる欲求(ニード)とは異なるという共通点がある。欲望と欲動、どちらのレベルにおいても、与えられた対象すべてに対して、主体は「これは〈それ〉じゃない」と感じる。このことは、欲望について強調されることが多いので、欲動に関するラカンの言葉を引用しよう——「自らの向かう対象をひったくりとって、初めて欲動はそのようにしても自分が満たされないことを知る」。しかし、欲望と欲動の間には、ある根源的な差異がある。欲望は、自らを満たされない状態に保つことによって、自らを維持する。これに対して欲動は、「そのようにしても自分が満たされない」ことを学びながらも、その中の「どこかに」満足を見つけつづける。欲望とは違い、欲動は、「そのようにしても満たされない」にもかかわらず満たされていることによって、自らを維持するのである。欲動は、その目標に達することなく満たされる、というこの逆説を、ラカンは次のように説明する——「口——欲動のレベルに開く口——に食べ物を詰め込んだ時、その食べ物が満足を与えるわけではない。言うなれば、モグモグする口の快楽が満足を与えるのだ」。この言葉は、享楽が「一未満の〈欠如〉」というかたちで現れるという命題を、視覚的に説明している。我々は、言わば、口をいっぱいにすることなく——つまり、欠如の対極にあるものを得ることなく——口を満足させる。我々が口いっぱいにものを詰め込んだ時、その口いっぱいのものが我々を満足させるさせないにかかわらず、欲動は満たされている。我々の食べるものが「それ」であろうがなかろうが、口を動かすという行為の内に、「それ」の一部が生み出されているのである。この「それの一部」こそ、欲動の真の対象である。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.276-277)

教室に入る。(…)さんの隣に見知らぬ女子学生がいる。商務英語を専攻しているルームメイトだという。一年生か二年生か忘れたが、驚いたことに、年齢はまだ17歳とのこと。は? となる。小学校に入学する歳はいま7歳で統一されているんではないかというと、それは大都市の話だけだと(…)さんがいう。マジかよ! 商務英語課の彼女、(…)さんというらしいのだが、4歳のときに小学校に入ったらしい。おれ話せるようになったの5歳からやぞ! 今日はもぐりとして授業を受けたいとのこと。

 それでは、ラカンは「前提的問題」のなかで、大他者をどのようなものと考えているのだろうか? この問いについての答えは、はっきりしている。次の二つの記述を確認しておこう。
〈父の名〉は、シニフィアンの法を構成するものとして、大他者の場において、象徴的第三項のシニフィアンそのものを二重化 redouble している。(E578)
〈父の名〉の頓挫…とは、言うなれば、シニフィアンの場としての大他者における、法の場としての大他者のシニフィアンの頓挫である。(E583)
 ラカンはここで、それまで単に「大他者 l’Autre」と呼んできたものを、シニフィアンの水準と法の水準の二つに分割している(Miller, 1996c)。そして、前者の「シニフィアンの場としての大他者」は、後者の「法の場としての大他者」(=〈父の名〉)によって二重化されるものであるとされている。この新たな大他者の概念のもとでは、精神病はもはや大他者の除外によって特徴づけられるのではなく、大他者の非-二重化(「シニフィアンの場としての大他者」が、「法の場としての大他者」によって二重化されないこと)によって特徴づけられることになる。後のラカンの言葉を使うなら、「精神病の主体は前駆的な大他者 l’Autre préalable に満足している」(E807)、つまり精神病者は〈父の名〉によって二重化される前の前駆的なシニフィアンの世界(原-象徴界)に住んでいると言えるのである。
 〈父の名〉は、「シニフィアンの場としての大他者」に法を与えることによって、大他者を二重化する。これは、私たちが原-象徴界と呼んできた母の現前と不在の気まぐれな法(=法則)が、より上位の法である〈父の名〉によって統御されるようになることに等しい。(…)
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.241-242)

 作業の途中、二年生の(…)さんから微信パクチーが山盛りになったピザの写真。どこかのチェーン店が期間限定で販売しているらしい。ちょっと興味がある。ついでに交通事故の件について話す。すると、彼女から話を聞いたらしい(…)さんからもすぐに微信が届く。「誰があなたにぶつかったのですか。彼を探しに行きます」「彼を殴ってあなたに補償する」「慰謝料を請求する」と。そんなたいしたもんじゃないと応じる。(…)さんからはやっぱり病院に行ったほうがいいんじゃないかと届く。たぶん通訳として同行してくれるつもりなんだろうが、それで半日潰れてしまうのもちょっとアレだしなァと思う。実際、いまのところは擦り傷のひりひり以外、不調は特にない。と書いているいま、左肘の関節が微妙に痛みはじめていることに気づいたが!

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は14時半。日語会話(一)の授業準備に着手。第1課の教案を詰める。初学中の初学であるので、アクティビティに限度がある、どうしても単調な反復練習になってしまいがちになる、そこのところをどうにか工夫したい。そういうわけで時間がかかった。とりあえずこれでやってみるかという案がかたまるころには16時半になっていた。しかし2班はともかく1班の授業は正直あまり気乗りがしない。今日もモーメンツで1班の(…)さんがどうしてじぶんは日本語専攻なのかと不満を漏らしており、これ自体は例年見かけるアレであるのだが、その投稿に対して、(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くん、(…)さんがいいねしており、仮にこのメンツが全員ほかの学科に異動することを希望しているのだとすれば合計12人、クラスのほぼ半分やないか! まあいいねしている全員が同感であるのかどうかはわからないというか、(…)くんなんてどっからどう考えても日本語オタクであるからこれは同感ではなくむしろ同情のいいねなんだろうし、そういう学生はほかにもいるのかもしれないが、いやしかし、やりにくいよなァと思う。こういうときはこちらが赴任した当時2年生だったあの歴代最低クラス、(…)さんたちがいたクラスのことを思い出してじぶんをなぐさめる。あれは地獄だった。(…)先生も歴代最低だといっていた。
 第五食堂で打包。階段で(…)先生らしい姿とすれちがった。よくすれちがうのだが、毎回おたがいに気づかないふりをする。帰宅してメシ食ったのち、あるかなしかのうたた寝。その途中、一年生1班の(…)さんから微信。バドミントンのチームに入った(サークルのことだろう)という報告。明日初回の練習があるのだが、先生もいっしょにしませんかという。やる気のない1班の学生からこうした誘いがあるのはありがたいことであるし、ここで関係の基礎を築いておいたほうがのちのちいいとは思うのだが、ふつうに右膝と右肩を怪我しているので、実は交通事故にあったのでとこれは断る。それに、ただ受け持ちの学生らとのんびりバドミントンして遊ぶだけならまだしも、まったく知らない他学科の学生らもいるサークルのなかでやるとなると、またいろいろとめんどうくさいことになりそうではないか。
 シャワーを浴びる。水が傷口にしみる。そりゃそうや。今日は執筆の気分になれなかったので書見することに。リビングのソファに移動し、コーヒーをたてつづけにがぶ飲みしながら『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』(樫村愛子)の続き。夏休み前に読んでいたのをそのまま寮に置き忘れてしまっていた一冊。おもしろい。途中で『中国民衆の戦争記憶 日本軍の細菌戦による傷跡』(聶莉莉)に切り替える。
 細菌戦の話でも南京の話でもいいが、これほど大量に資料が残っているにもかかわらず、そうしたものにいっさい目を向けず否定を主張するひとたちというのは、いったいどういう思考回路なんだろうかと毎回思う。否定論者のたびたび口にする「中国は嘘つき」式の論法についても、中国の現政権がプロパガンダと情報統制でガチガチになった独裁国家であることはまちがいないが、それだからといってその国家の主張するいっさいがっさいがすべて嘘であるという短絡にいともたやすく飛びついてしまうその思考のお花畑っぷりにはぞっとしてしまう(そもそも戦争犯罪については、国内・国外含む広範囲にわたる研究者や専門家によって、その証拠が集められている)。これはもう何度も書いている気がするが、チベットや新疆などに代表される中国国内での人権侵害について舌鋒鋭く批判するひとびとが、おなじその口で自国の人権侵害を否定する(たとえば、現在進行形で生じている入管当局の問題を否定する)。一方で、中国には表現の自由報道の自由がないと舌鋒鋭く批判しながら、他方で、国内におけるその種の自由を抑圧する側に共感を示して支持し、自由をもとめる側の運動を「左翼」とひとくくりにして盲目的に毛嫌いする。結局、こいつらには理念なんてないんだよなと思う。二重思考を生きている人間は現実に大量に存在する。インターネットを見ていると、つくづくそう思う。
 そういうタイプのバカはむかしから大量にいた、ただインターネットによって可視化されただけだといういいまわしがある。そういう一面もあるのだろうが、それだけではなく、実際にインターネットによって、というかSNSによって、その手の恥知らずの数が増えたという一面もやっぱりある気がする。可視化されたバカによって感化されたバカがいるというか、先の例でいえば、他国の人権侵害を批判するその批判の論理が自国の社会問題にも適用可能であることにはごくごくふつうに考えてみればすぐに気づくはずであるし、そこに気づけば他国のケースを混じり気なしの「悪」として叩きつつ自国のケースを純度100%の「善」として擁護するというような、子どもでもそれはおかしいとわかる極端に走ることはないと思うのだが、ビジネスとしてやっているのか天然としてやっているのかわからない一部のエクストリームなバカが、本来であればそこでふりかざした刃がみずからを斬りつけもするという状況にどう折り合いをつけていいのかわからずもやもやする(そのもやもやはいわば「転向」の余地だ)その葛藤をただただ無視してひらきなおるという力技を披露してしまった(二重思考を衆人環視のもと堂々とパフォーマンスした)、そしてその力技をよしとしてそこだけラーニングしてしまう追随者(もやもやに耐えられない愚か者たち)が続々と出てくることになった——可視化にはこうした経緯もいくらかあるんではないかという気がする。やっぱり感染の論理か。
 夜食を食おうと思ったら食パンがなかった。しかたないので粉末スープもなにもついていない乾麺を少なめの湯で茹でて、鶏ガラとごま油だけで味つけした、今年一みじめな夜食を食った。最悪。じきに四十やぞ! ちゃんと生きろ!