20231027

(…)とはいえ先に見たように、人間は想像的なものを失っては生きてはいけないため、精神分析的文化は、この想像的なものを「意識的に」構成維持しようとする。ニューエイジが「人間の自明性(想像的なもの)の防衛装置」なら、精神分析的文化は「人間の自明性(想像的なもの)の再配置の装置」である。この戦略は限界的戦略である。なぜなら、「想像性なもの」はジジェクがいうように、意識されないことでうまく維持される性格をもつからである。とはいえ、精神分析精神病者神経症者たちに示唆してきたように、一度生活世界の外側に出て外からの視点を獲得したうえで、想像的なものを再構成なり維持していく戦略は、このような限界的状況の中では最善の策であり、困難な中にも自由や・創造性・能動性を最もはらむものである。精神分析的文化では主体と社会の再配置—再構成において内省的な力を利用しており、それは一見近代主体の枠組みの中に留まるように見える。しかしそれは自らのコンテクストや構造に対する理解を含んだ内省であり、近代主体——知の主体を越えたものである。カストリアディス(1986)は、このようなあり方のなされている社会を「他律社会」に対し「自律社会」と呼んでいる。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス」 p.77-78)



 9時前に一度ふと目が覚めてなんとなくスマホに触れたら李克強の訃報が出ており、さすがにびっくりして目が冴えた。心臓発作とのこと。またわけのわからん暗殺説などがしばらく出回るんだろうなと思った。モーメンツも哀悼の言葉一色。近平の旦那ではなくこのひとが覇権を握っていたら、世界情勢もいまとはまたいくらかちがったふうになっていたんだろうな。
 9時半ごろに活動開始。一年生の(…)くんから訃報のリンクが送られてくる。いや、別にそんなもん送ってこんくてもええねん。歯磨きをすませ、きのうのうちにこしらえておいた英文メッセージを(…)に送る。residence permitのrenewの件と、来週スピーチコンテストで(…)を離れる件。それからひさしぶりに第五食堂の一階をたずねて炒面を打包。おばちゃんから、ひさしぶりだな、帰国していたのか、と言われる。
 帰宅して食す。(…)から返信。(…)の外に出るには書類の提出が必要。そのためのformatが送られてくる。印刷してしかるべき項目に記入後、ボスである(…)院长のサインをもらったうえで国際交流処に提出してほしいという。クソめんどい。residence permitの件について関係各所とコンタクトをとって確認してみるという。
 食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年10月27日づけの記事を読み返し、2013年10月27日づけの記事を「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。大阪出張中の(…)から連絡があって一緒に焼き鳥を食ったと記録されている。そういえば、そんなこともあった! というかもしかして、これが(…)と直接会った最後の日になるのではないか? 結婚&渡米後の(…)とは一度も会っていないから、たぶんそういうことになるはず。

 今日づけの記事の記事もここまで書く。卒業生の(…)さんから微信。前回同様、工場で生産しているよくわからん部品のようなものの名前を教えてほしいという。写真が送られてくるが、よくわからない。中国語では刀卡というらしい。画像検索してみる。「段ボールの仕切り」としかいいようがない。取引先に伝わりさえすればいいのでそれで問題ないという。もうひとつ「プラスチックの容器」としか形容しようのないものの画像も送られてきたので、そのまま「プラスチックの容器」という。「今は工場で働いていますから」「ソニーのベゼルを作る工場」「だから、日本のお客様がいらっしゃいます」「毎日そのような工場の部品の通訳いっぱいです」とのこと。厄介な仕事だ。広東省の東莞市で生活しているという。(…)さんはおそろしくやる気のなかったクラス——コロナ直撃世代なのでそれも仕方ない——のなかでは比較的まじめにやっていた学生であるし、死ぬほどシャイであったので普段こちらに直接話しかけてくることはほぼなかったが、テキストを介してのやりとりは何度もあり、実際力もある子だった(だからこそいまこうして日本語を使用する仕事についているのだ)。「でも日本のお客さんは本当に優しいです」「日本の方の印象は今すごくいいです」「本当にみんな優しいです」というので、それはきみのがんばっている姿が相手に伝わっているからでしょうと受ける。しかし、「私の敬語も下手です。前回お客様と一緒にご飯を食べた時、「遠慮なくどんどんお召し上がって下さい」を言いたかったけど、どいうのが忘れて直接に「なんで食べ続けないですか。食べてください」と言いました。そのお客さんは元々食べ終わりました。私の話を聞いた後、すぐに続けてご飯を食べました」「そのお客さんの「すみません、すぐ食べます」のような顔、今もう忘れられません」というくだりには、声を出して笑ってしまった。
 浅田彰の『構造と力』が文庫化するという情報を目にした。文庫化は浅田彰本人がずっと拒否しているという話をずっと以前どこかで見聞きしたおぼえがあったので、これはけっこう意外だった。リリースされたら、ひさしぶりに再読しようかな。
 授業準備。来週末はスピーチコンテストでまるっとつぶれるので、この週末で二週間分の授業を詰めておく必要がある。ひとまず日語会話(一)の第2課と日語会話(三)の第32課を詰める。途中、三年生の(…)さんから微信。わたしたちもう帰国しましたよ、と。いったん故郷に帰ったのではないかとたずねると、帰省はせず大学に直帰したという。「先生に会いたいだから」と殊勝なことをいうので、だったらどこかで夕飯を食べましょうか、帰国記念におごってあげるよというと、「(…)先生マジで優しいーー」「感動しています」とあったのち、(…)ですかと続いたので、さすがにちょっと笑った。せっかくなんだからもっと高いものを選びなさいという。散歩ついでに万达までいきましょうかというと、いいねという返事。いまは(…)先生のオンライン授業中なので(「授業中にスマホをいじるな不良!」)、17時半に女子寮前で落ち合うことに。
 中途半端に時間があまったので「究極中国語」でボキャビル。授業が延びそうなので待ち合わせ時間は45分に延期。時間になったところで出発。門前で(…)と(…)と遭遇。夕飯かというので、これから学生といっしょに食事する、万达まで行ってくると応じると、beautiful girlかというので、ちょっと笑ってしまう。(…)には(…)さんと夜ふたりでいるところをこれまで何度も見られている、たぶんそういう関係になっていると疑われているのだと思う。三ヶ月間日本で働いていた子がきのう帰国したのだ、だからいっしょに食事にいくのだというと、じゃあbeautiful girlとの食事を楽しんでというので、But I have bad newsと前置きしたのち、She has a boyfriendと続ける。(…)、大笑いする。
 女子寮まで歩いていく。門前に(…)さんと(…)さんのふたりがいる((…)さんとのやりとりだけでは(…)さんも一緒なのかどうかわからなかった)。ひさしぶりー! とあいさつ。軽く立ち話しただけで、あ、完全に別人だわ、見違えたわ、となった。とにかくレスポンスがはやい。そしてこちらの発言を完璧に聞き取ることができている。会話ってやっぱりリスニングが大事なのかもしれんなと、しっかり聞き取りできているそのようすが「こいつは話せるぞ」という印象を相手に与えるのかもしれんなと思うと同時に、じぶんの英語のリスニングのひどさをちょっと反省した。中国語の勉強をいい加減はじめなければならないのは当然として、英語のリスニングもどうにかしたほうがいいかもしれん。仕事では中国語よりもむしろ英語をよく使うわけであるし。メシを食うあいだだけでも英語のニュース動画かなにかを再生速度を落として流すくらいのことはしたほうがいいかな。
 歩き出す。ふたりはしきりに、すごく楽しかった、また日本にもどりたい、いますぐもどってもいいと口にした。毎日パーティーみたいだったという。月の出勤日数は15日ほど。そのために三ヶ月働いても三十数万円しか稼げなかったというのだが、稼ぐのが目的ではないのでむしろ休みの多さがありがたかったという。同僚は日本人のほかにネパール人、タイ人、フィジー人、インドネシア人、台湾人がいたという(このとき彼女らが「台湾人」と口にしたことにこちらは「うん?」と内心ひそかに思った)。以前はフランス人もいたことがあるという。(…)さんに言い寄っていた黒人というのはフィジー人らしい。
 意外なことにふたりとも食事はまったく問題なかったという。大半をおいしく食べた。(…)さんは江西省のおそらく都市部出身で、故郷でも和食をたびたび食べる機会があると以前言っていたし辛いものが特別好きなわけでもないとも言っていたのでたぶんだいじょうぶかなと思っていたのだが、(…)さんは生粋の(…)人であるから正直食事にはかなり苦労するだろうと思っていた。でも全然そんなことなかったという。なにがおいしかったのとたずねると、カレー! ラーメン! 海老のてんぷら! お好み焼き! という返事。逆に苦労したのはサラダ。中国人は野菜を生で食う習慣がほぼない。これまで日本に渡った学生の大半がサラダには苦労している。しかし(…)さんという優しい料理長——料理長であるが、三十歳くらいの若者らしい——が、ふたりのためにわざわざ毎回野菜に火を通してくれたらしい。ほかにも食堂で中国語のポップスを流してくれたりしたらしく、だからふたりとも料理長のことは大好きだといった。味噌汁もおいしかったというので、これにもおどろいた。毎日白米にかけて食べていたというので、子どもだなと笑った。逆にいちばんおいしくなかったのはなにとたずねると、刺身ですごく生臭いやつがあったという。黒い皮がついていて、血がすごくて……というので、あ! カツオか! となった。あれはたしかに日本人でも好みがわかれる。こちらはあの血生臭さこそがむしろ好きなわけだが、生臭いといえばたしかにあれほど生臭いものもない。納豆もダメだったという。はじめて口にしたときは吐いたとのこと。しかし生卵は平気だった。特に草津温泉をおとずれたときに食べた温泉卵がたいそうおいしかったとのこと。それからネパール人の経営するインド料理屋で食べたチーズのナンとインドカレーも最高においしかったという。偽中華料理は食べたかとたずねると、麻婆豆腐はちょっと信じられなかった、全然辛くなかったからとふたりは笑った。
 いくらか先取りして書いてしまった。食べ物や飲み物についての話題はこの道中のみならず、食事中も、帰路も、それからキャンパス内を散歩しているあいだもひっきりなしに出たのだった。そう、飲み物についてはふたりともコーヒーを飲むようになったという話があった。日本人がいつもコーヒーを飲んでいるのを見て、彼女らも朝食後にコーヒーを飲む習慣がついたとのこと。かつての(…)くんとよく似たことを言っている。お酒についてはほろよいだけ飲んだという。インターンシップで日本に渡った女子学生、だいたいみんなほろよいを飲む。あと、(…)さんはカモミールティーもよく飲んだといった。アイスクリームもよく食べた、食後のデザートという習慣も身についた。しかし体重はふたりとも10キロほど減ったという(しかしこれはおそらく5キロの間違いだと思う、斤と公斤を混同したのだと思う)。(…)省の料理は油が多いからなァというと、そうそうそうとふたり。ふたりとも油断ちの結果痩せたと考えているらしい。
 (…)公园を抜ける。変な言葉もたくさん覚えたといってふたりともケラケラ笑う。たとえば? とうながすと、すけべ! ゲス野郎! うるせえだまれ! あざーす! といろいろ出る。これからは大学院を目指して勉強するのかとたずねると、(…)さんは大学院に進学せず卒業後そのまま日本で働くことを考えているという。内卷だから? とたずねると、そうそうという返事。この会話を交わす前に、(…)さんが彼氏と別れたという話はきいていた。それにくわえて、彼女が日本でいろいろな男性から言い寄られているという話も(…)さん経由で聞いていたので、もしかして日本で彼氏ができたんではないか、それで卒業後すぐに向こうにもどることを考えているのではないかと思ったのだが(食事の席でこちらが冗談で日本人の彼氏ができたかとたずねると、(…)さんが意味ありげに彼女のほうを見る瞬間もあった)、真相はわからん。いずれあきらかになるだろう。ちなみに彼氏と別れた理由は、彼氏がいつも夜遅くまで遊んでいるから。不良だなというと、不良です! ダメです! となぜか(…)さんがひきとった。
 中国ではLINEが使えないとふたりはいった。だからせっかく連絡先を交換したのに連絡がとれないという。LINEが使えないことを知らなかったという事実にこちらはむしろ驚いた。まあ中国のインターネットには壁があるからねとちょっとだけ踏みこんでみた。それまでの会話の感触から、これはひょっとしたらという思いがあったので、まあこのせいでいろいろ問題があるよね、コロナのときなんてぼくが実際に生活していた日本と微博や小红书や抖音で紹介されている日本は全然別物だったからと誘い水を向けてみたところ、(…)さんが、あー! と目を見開いたのち、処理水も! と口にしたので、うわ! マジか! とびびった。中国と外国では全然ちがいます! とふたりとも興奮したようすでいうので、きみたちそのことももうわかっているんだねといったん歩みを止めて確認した。モーメンツに海鮮類の入ったお好み焼きの写真を投稿していたでしょう? だからたぶん気づいているんだろうなとは思っていたんだけどというと、ふたりとも笑った。でもあんまり大きな声では言えないよね、クラスメイトや家族もだれも信じないでしょうといったのち、いまの中国人は日本でシーフードを食べたら即死すると思っているからなというと、ふたりともうんうんとうなずきながら苦笑。(…)さんは中国の原発のほうがはるかに多くのトリチウムを排出しているみたいなことまでいった。同僚の日本人か台湾人あたりから聞いたのだろう。韓国と中国だけが反対していますというので、韓国も政府としては反対していないよと訂正。
 先生はLINEどうしていますかというので、VPNを使っていると応じる。学生のなかにも内緒でVPNを使っている子はいるよと続けると、でもちょっと危ないですというので、以前はそうでもなかったけどね、いまはどんどん厳しくなっている、コロナ以降特にそうなっていると受けたのち、教育のほうもいまは小学校から愛国愛国ばかりでしょうというと、ふたりともうんうんと首を縦にふる。情報と教育、このふたつがいちばん大切なんだよといったのち、戦時中の日本はこの情報と教育が政府によって完全にコントロールされていた、外国の情報は全部間違いだということにされた、そして学校ではひたすら愛国教育、その結果国民は洗脳された、だから南京や(…)でああいう信じがたい罪を犯すことになった、そういう情報環境と教育環境がああいう罪を平気で犯すことのできる人間を作り出すはめになったと、だいたいにしてそのような説明をすると、いまの中国と似ていますねと(…)さんはいった。しかし(…)さん、あれほどわかりやすい優等生——すなわち、愛国少女——であったのに、たった三ヶ月間でこうなるのであるから、そりゃ近平の旦那も自国民が海外に出ることに対して警戒心高めるわなという感じだ。びっくりする。これを書いているいまもびっくりし続けている。

 万达に到着する。広場いっぱいに屋台がならんでいる。なつかしいと(…)さんが口にする。エスカレーターに乗る。日本ではみんなエスカレーターの端に乗っていたとふたりがいう。メシは以前四年生らといっしょに食べた杭州料理の店でとることに。ふたりとも元々そこで食べることを期待していたというので(有名店らしい)、ちょうどよかった。
 席に座る。桃の香りがする烏龍茶を飲みながら注文。メニューはすぐに決まったが、話に夢中で注文しそびれていたことがのちほど発覚。なにも注文しないまま30分ほどべらべらやっていた。メシが運ばれてきてからもたくさん話す。食べ物や飲み物の話については先に書いたとおり。ほか、トイレがきれいだという話、お風呂がすばらしいという話(職場の大きなお風呂に慣れたいま寮のシャワーでは全然ものたりないという)、街中にゴミ箱が全然ないという話(言われて気づいたが、たしかに中国の街中にはいたるところにゴミ箱がある——もっともそのゴミ箱の中にきちんとみんなゴミを捨てているかといったら全然そんなことがないが)、そしてなによりもふたりが興奮して語ったのが行列の話だった。日本人は駅でもバスでも受付でもエスカレーターでもエレベーターでもみんなかならずだれに指示されたわけでもないのにきちんと列をつくってならぶ、と。そういう話をしていると、ほんとうにはじめて日本をおとずれた中国人に典型的な反応をしているなとちょっとほほえましく思うわけだが、列にならぶというこの習慣はふたりにとってよほど衝撃的だったのか、その後も何度もくりかえし口にされた。ふたりは東京から西安にまず飛んだ。そして西安で一泊し、翌日に飛行機で(…)に移動、その後高铁に乗り換えて(…)というルートで大学にもどってきたわけだが、三ヶ月ぶりとなる中国すなわち西安のエレベーター前で人民らが列にならばず、それどころか日本生活の習慣をひきずるかたちで列にならんでいたつもりのじぶんたちのわきからおじさんおばさんがわっとじぶんたちを追い抜き我先にエレベーターの中に入っていくのを見て、かなり戸惑ったといった。こちらも列の割り込みに関してはいまだに慣れない、空港でも駅でもバス停でもおじさんおばさんがぬっと脇から割りこんでくる、最初は人民とくらべてパーソナルスペースの広すぎる日本人であるじぶんの問題であるのかと思い、列ができている場合は前との距離をつめてならぶようにしていたのだが、それでもやっぱりぬっと身をよじるようにして入りこんでくると、ジェスチャー付きで説明すると、ふたりはメシを吐き出すいきおいでゲラゲラ笑った。若い世代は中国人でもその手のルールを守るようになっている、でも田舎のおじさんやおばさんは全然ダメだというので、それはもうしかたないねと受けると、しかたない! しかたない! とふたりはやっぱりゲラゲラ笑った。どうやら「しかたない」という言葉をむこうでたくさん使う機会があったようだった。
 職場がある(…)にはなにもない。なにもないのだが、空気は非常に新鮮で、毎日星を見ることができた、流れ星も何度も見たという。長野市内には同僚の車にのせてもらってしょっちゅう出た。ふたりともドンキホーテが大好きだという。ドンドンドン♪ ドンキ♪ ドンキホーテ♪ と声をそろえて歌い出したのにはさすがに笑った(実をいうとこちらはドンキホーテをおとずれたことがこれまで一度か二度しかない)。ユニクロにも行ったという。家族へのお土産は(…)さんはチョコレート、(…)さんは煎餅を買った。お土産で思い出したが、ふたりは女子寮前でこちらと合流したときにさっそくお土産をくれたのだった。(…)さんは抹茶味のキットカットと奥志賀のリースでこしらえた押し花入りのフレーム、(…)さんは草津温泉のキーホルダー。自分自身へのお土産として(…)さんは化粧品、(…)さんは小説を買ったとのこと。
 同僚に82歳のおじいさんがいたという。皿洗いとして働いているのだが、ものすごく若くみえる。そしておしゃれ。父親はイタリア人だというので、うん? と思った。既視感のある情報だったのだ。それでたぶん(…)さんか(…)さんから聞いたのだろうと思った。ふたりもかつて(…)のホテルで三ヶ月間働いた。たぶん同じホテルなのだ。日本人はみんな若くみえるとふたりはいった。みんなおしゃれだと続いた。若い男性に長髪が多いのも驚きだったという。中国の男の子はたしかにみんな短髪だよねと受けると、中国では髪の長い男はだらしないと思われるという返事。ぼくもむかしは長かったよ、大学を卒業してしばらくは後ろで結べるくらいだったという。そういう話をしているのはすでに店を出て、くだりのエスカレーターにのっている最中だった。こちらと(…)さんがとなり同士に立っているところ、後ろからやってきた少年がまるでわれわれふたりを両親とみなす位置にちょこんと体を押し込むようにして突っ立ち停止したので、え? なに? ぼくときみ結婚してたっけ? 子どもいたっけ? というと、(…)さんはドツボにハマり、エスカレーターが四階から一階に到着したあともまだひいひい笑っていた。
 ふたたび広場に出る。蜜雪冰城で「食後のデザート」を食べるという。先の店の会計はこちらがもったわけだが、ここではじぶんたちが先生におごるというのだが、外食したあとに冷たいものを食ったりコーヒーを飲んだりすると、だいたい毎回下痢ラ豪雨に見舞われてひどいことになるので、ここでは遠慮することに。蜜雪冰城の前にはちょっとした列ができていた。しかしきれいな列になっているわけではなく、割り込み可能なダマになったような列だ。ふたりはやっぱり中国ですねと笑った。(…)さんはソフトクリーム、(…)さんはパフェを購入。前者は2元、後者は5元だというので、ここはやっぱり安いねというと、蜜雪冰城は中国にあるミルクティー店でいちばん安い、だから人気があると(…)さんはいった。(…)さんは手持ちのソフトクリームを差し出して食べますかといった。ちょっとぎょっとした。こちらの知るかぎり、中国人は日本人よりも間接キスに抵抗がある、すくなくともこちらがこれまで接してきた女子学生らは——いや、男子学生もか——わりとそういうふうだったと思うし、飲み物ですらないソフトクリームみたいなものになるとなおさらそうだと思うのだが、まあそのあたりももしかしたら日本で慣れたのかもしれない。そういうわけでひとくちもらった。2元だけあって安い味だった。しかしたとえ安い味でも2元だったらそりゃ買うよなと思う。
 歩いて大学にもどる。どぶ川沿いのトンネルを抜けて(…)公园にもどる。真っ暗なトンネルをぬけるとき、いつものように「ワッ!」と叫んでふたりを驚かせる。このトンネルを学生といっしょに抜けるときは必ずそうするのがこの五年か六年の習慣になっているのだ。釣りをしているおじさんが例によっている。しかしこのドブ川での釣りは禁止されている。こっそり! こっそり! といってふたりが笑う。これもやっぱり日本でおぼえた表現らしい。ちなみに職場の同僚らとは英語と日本語のちゃんぽんで交流していたという。おかげで英語もちょっと上手になったと(…)さんはいった。
 公園ではまた噴水があがっている。ゼロコロナ政策中は噴水のライトアップをとめていたので、ふたりともはじめてみるという。ぼくはもう10回目くらいだよというと、先生ひとりでよく散歩しますかというので、ひとりでは散歩しないけど学生と散歩するとなるとだいたいこのあたりだからと受けると、(…)さんが中国語でそれじゃあわたしたちもこれから(…)老师を散歩に誘おうと(…)さんに言うのが聞き取れた。噴水のむこうにある高層マンションをながめながら、こういう高い建物をみると中国にもどってきたという気分になるというので、たしかに日本の地方都市ではこの規模の高層マンションなんてないもんなと思う。社交ダンスの練習をしているおじさんおばさんグループの脇をぬける。真っ黒なプードル(中型サイズ)を連れている家族連れを見かける。わたしは先生の飼っている種類の犬が好きですと(…)さんがいうので、边牧? というと、そうですという。いちばん賢い犬! というので、でもうちの子はそんなに賢くないんだよねと応じる。もう老犬ですよねというので、1月で14歳になるね、だから後ろ足があんまり動かないんだよと受けたのち、でもぼくや母親がパンを食べているとものすごいスピードで近づいてくると続けると、ふたりとも笑った。
 橋を渡る。釣りと柵に座ることを禁止するという看板がある。読み方を教えてもらったのでそのとおりに発音すると、先生の発音はすごくきれいだといういつもの反応があったので、発音だけ練習したんだよという。公園の外に出る。横断歩道の信号が変わるのを待っているあいだ、(…)は好きですかとたずねられたので、ちょっと不便だけどでも大都市よりはいいね、ぼくは東京や大阪や北京や上海で生活したいと思ったことがないからと受けると、わたしもおなじですとふたりそろっていう。(…)さんは(…)出身の素朴な子であるしそういう感じはするのだが、メイクもバッチリしていつもおしゃれしている都会っぽい(…)さんがそんな考えの持ち主だとは思わなかったのでちょっとびっくりした。ずっと中国にいてさみしくないですかというので、本があれば別にどこでもいいという。でも家族はさみしいんじゃないですかというので、ぼくは京都に住んでいたころ故郷には年に一度しか帰らなかったし帰っても二日か三日だった、それがいまは夏休みと冬休みそれぞれ一ヶ月ほど故郷で過ごすわけだからむしろこの仕事をするようになってそういう意味ではよかったんじゃないのかという。
 そういえばギターサークルの活動はどうなったのと(…)さんにたずねる。完全に忘れましたと即答。(…)さんとそろって笑う。もうすっかり興味を失ってしまったのだろう。いまはそれよりも日本! 日本! 日本! にあたまがなっているのだ。南門から新校区に入る。そのまま女子寮に向かおうとしたところ、散歩の延長をお願いされたので、一時間100元ねと受ける。一時間100元でおもいだしたが、帰国直前に秋葉原を散策した際、かわいい女の子たちが一時間2000円みたいな看板をもってあちこちに立っていたのだがあれは……と質問される一幕もあった。その値段だったらたぶんそういう「すけべ」なやつではないと思う、たぶんメイドカフェとかそういうやつじゃないかと答えた。ちなみにふたりは帰国直前に東京ディズニーランドで一日遊んでいるわけだが、それは会社の福利厚生だという。知らなかった。しかし平日、それも月曜日にもかかわらず、どのアトラクションも二時間待ちみたいな感じだったらしく、さすがにかなり疲れたとのこと。東京はいたるところで中国語が聞こえてきたという。
 ジムの脇を通る。(…)さんはがっしりしている男が好き、逆に(…)さんはそういうタイプが苦手。運動場では運動会の練習をしている学生たちがいる。Dragon boat festivalのdragon boatを模した風船みたいなやつを股にはさんで一列になった十人くらいの集団が、掛け声にあわせて前進している。(…)さん曰く、今年の運動会は来月9日あたりに開催予定、合計四日間とのこと。だとすると、少なくとも日語会話(三)が一コマ潰れる。計画通りや! 片手にスマホ、片手にハンドマイクで、有名なバラードを歌っている男子学生がふたりいる。路上でしょっちゅう流れているのを耳にする曲。これは最近の曲なのとたずねると、中学生か高校生のころにリリースされた曲だとふたり。失恋の曲。相手と別れることになった男性が(元)恋人の女性をうちまで送っていく最後の道のりを描いた歌詞になっているとのこと。運動場ではサッカーをしている学生の姿もある。座り込んでスマホゲームをしている姿もある。暗闇の室内で激しいダンスミュージックにあわせて上半身を激しく動かしながらサイクリングマシーンをこいでいる集団の姿もある。(…)さんがむかしこのエクササイズコースに参加していたはず。全身汗だくになるほど激しい運動。
 運動場を出る。そのまま「恋人の道」((…)さん)のほうに歩く。(…)さんから聞いた広州の高校で日本語教師をすれば給料2万元という話をする。(…)さんのお姉さんは以前広州で働いていたが、やはり給料が2万元あったという。しかし家賃が8000元だったらしく、また都会での生活に疲れたこともあり、結局故郷にもどってきたとのこと。ベンチは例によってカップルらによって占拠されている。みんなベロチューしたりハグしたりひざまくらしたりしている。ホテルに行け! とふだんであればこちらが口にすることを(…)さんが口にする。門限の前になると寮の入り口でもいつもカップルがキスしたりハグしたりしているよねというと、ばつが悪い! ばつが悪い! とふたりはいってケラケラ笑った。どうやらこれも長野でならいおぼえた表現らしかった。
 図書館の周囲をぐるりとめぐって女子寮のほうにもどる。途中、ギターの弾き語りをしている男子学生がいる。ギャラリーも多い。(…)さんが所属していたギターサークルのメンバーだという(ただし面識はほぼない)。きれいな声をしていた。sexyな声ですと(…)さんがいう。歌のさわりだけ聞いてふたたび歩き出す。日本人は細かいことにすごく気がつくとふたりがいう。これもよく学生から聞く話だなと思いつつ、寒そうにしている子がいれば窓を閉めたり? というと、そうそうそう! という返事。それに買い物をするときに大きな荷物も持ってくれる、日本人の男はみんなgentlemenですという。この夜は本当に死ぬほどいろいろ話したが、ふたりが口をそろえてもっとも感心したようすで口にしていた日本人の性質は、どこでも列に並ぶというものと細かいことに気がつくの二点だった。
 女子寮前に到着する。先生今学期忙しいですかというので、またこういう時間をとりたいんだろうなと察し、来週末にスピーチコンテストがある、それが終わったらけっこう暇になる、だからまた食事にいったり散歩したりしましょう、きみたちせっかく向上させた日本語能力を維持したいでしょう? というと、そうそうそうそう! という反応。どうして三年生は先生の授業がないんですかというので、新入生もいまは二クラスだからねと受けたのち、でも来学期はもしかしたら三年生の文学の授業を担当することになるかもしれないと続ける。
 そうこうするうちに二年生の(…)さんと(…)さんが姿をあらわす。勉強していたというので、本当? と茶化すと、本当! といって(…)さんがパンパンになったリュックサックをこちらにみせる。明日会計の試験があるという。のちほど三年生のふたりから聞いたところによれば、会計の資格は就職に有利であるので人気があるとのこと。(…)さん、韓国語と日本語と英語をぜんぶがんばって勉強しているわけだが、それにくわえて資格試験にまで手を出しているとは、たいしたものだ。女子寮前で立ち話をしているといつもそうであるのだが、寮に帰宅する女子らからものすごくじろじろ見られる。変な服をきた外国人のおっさんがいると目立つなというと、先生かっこいいです! だいじょうぶ! という謎の励まし。ふたりとも八人部屋で生活しているわけだが、(…)さんのルームメイトは(…)さんと(…)さんと(…)さんと英語学科の学生(もともとは(…)さんと(…)さんの二人もいたはずだが、揉めて外に出たときいたことがある)。(…)さんにいたってはじぶん以外全員英語学科の先輩らしい。
 おやすみとあいさつして別れる。あいさつで思い出した、たしか食事中だったと思うが、日本人がとてもこまめにあいさつをするという話題になった際、日本人はあいさつが大好きですと(…)さんが口にし、三人そろってクソ笑った一幕があったのだった。別に好きなわけではないでしょ、と。
 帰宅。シャワーを浴びる。トーストと抹茶味のキットカットを食し、コーヒーを飲み、今日づけの記事の続きを途中まで書き進める。1時をまわったところで寝床に移動して就寝。