20231028

 ロバートソン(1995)はこのグローカリゼーションという概念を示して、グローバルとローカルが排他的ではないことを示唆した。グローカリゼーションとは、グローバリゼーションの中で頻繁に新しく興隆するローカルなものの現象を、グローバリゼーションに対する反動や退行とみるのではなく、グローバリゼーションに連動する現象とみる概念である。グローカリゼーションは、グローバリゼーションがローカルなものの破壊を行うがために起こるローカルなものの再構成である。グローバリゼーションとグローカリゼーションはコインの表と裏のように結合している。ベック(2000a)の言葉に従えば「脱伝統化された伝統はグローバルな交換のコンテクストの中で再定位される(relocate detraditionalized traditions within a global context of exchange)」のである。
 ローカルなものの興隆は結局グローバリゼーションの効果でしかないにもかかわらず、まるでローカルなものがグローバリゼーションに対抗しているかのように見た目には見える現象(実際研究者たちもそのように記述していた時期もあった)、すなわちいわばローカルなものの「ねつ造」は今に始まったことではない。例えば、この論文の冒頭で紹介した生活世界論者のみならずリスク社会論者たちが言及する「伝統」といえども、すでにそれは歴史の中で構築されたものにしかすぎず近代が書き換え再流用したものにしかすぎないことはアンダーソンがすでに指摘している。伝統が叫ばれるとき、伝統が想定している前社会との恒常性・歴史的連続性は瀕死状態にある。そこでは主体の幻想の機能によって新たに歴史をつなぎ合わせることが求められる。人間のローカリティ(そのための「人間」内部での強い同一性)の協調は同じく、その強い幻想によって社会変容を乗り切る方策でもあるといえるだろう。
 ウェーバーが指摘した「プロテスタンティズムの倫理」も、労働を悪とする宗教的倫理から簡単に身を放すことのできなかった当時の人間が、労働する身体への変革また神なき社会への適応のためによりどころにした幻想であった。ジジェクはこのような幻想を、精神分析の移行対象と同値として捉え、「消えゆく媒介者(vanishing mediator)」の概念を使って説明する。精神分析における移行対象とは、子供が母親から自律していくときに母親の代理として依存するおしゃぶりやぼろきれなどである。おしゃぶりに依存する子供を外から見るとまだ母親に依存し退行的であるかのようだが、実際にはその内部でどんどん自律へ向けた心身の組織化がなされている。同じように「プロ倫」を信奉する信者たちは一見篤信者にみえながらその内部ではこの幻想を支えに資本主義の身体を形成していったのである。このように移行対象は母親からの自律を助けている中間的な媒介者である。この媒介者は奇妙な妥協物であるといえるだろう。それは移行がもつ危機的な不連続性そのものを示唆する症候性を痕跡としてもってしまう。それゆえこの危機的不連続性の痕跡を消去するためにも、媒介物そのものは移行に従って忘却されていく必然性をもつ。それは消えることによりその機能を果たすといえるだろう。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス」 p.79-81)



 7時半起床。朝食はトースト一枚とコーヒー。最寄りの小卖部でミネラルウォーターを買う。土曜日なのに授業なのかというので、日语演讲比赛の练习だと受ける。你参加吗? と驚いた顔でいうので、いやいや学生だよ、じぶんは教えるだけと応じる。
 ケッタに乗って外国語学院へ。教室には(…)さんと(…)くんが先着している。ほどなく髪の毛を切った(…)くんも姿をみせる。散髪代は后街で20元ほどだったという。安すぎる。テーマスピーチをいつものように通す。即興スピーチは「初心」「生と死」。発音をなしとすれば、結局、事前に原稿を複数暗記しておいてそれをテーマに応じて使い分けるスタイルでやっている(…)さんがいちばんうまくやれているかもしれない。(…)くんは抽象的なテーマになるとかなり高い確率で構成が壊れるし、(…)くんは全体的に遅い。
 練習中、(…)先生が教室にやってきた。土曜日であるが授業があるらしい。のちほど学生らに聞いたところによれば、高考で英語ではなく日本語を選択した他学部の学生を対象にするかたちで、英語の代わりに日本語の授業をおこなっているという(科目名は「大学生日本語」らしい)。知らんかった。(…)さんが即興スピーチをやっているところを(…)先生は写真に撮って北京にいる(…)先生に送った。しかしそれに対する(…)先生の返信というのが、肝心の(…)さんにはまったく触れず、写真の端っこに写りこんでいたピンク色の小さなゴミ箱に対する言及(あれはわたしの私物であるのだから共同の道具のように使わないでくれ)だったらしく、(…)先生も学生もみなそろって苦笑していた。
 練習後、(…)くんとそろってセブンイレブンへ。李克強の話になる。(…)くん、案の定あれは暗殺ですよと言い出すので、ぼくはその可能性はほぼないと見ているという。どうしてですかというので、去年の時点ですでに左遷されて権力が剥奪されているのに、いまさら殺す必要がないと応じる。それでも暗殺だ暗殺だという(…)くんに、暗殺かもしれない、でもそれをいまの時点で断言するべきではない、不明なことは不明のまま我慢するべきだ、共産党を嫌うあまり共産党にとって不都合なニュースであればなんでも飛びついてしまう中国人が壁の外側には一定数いるがそれは壁の内側の情報をすべて信じこんでいる人民とおなじくらい知的ではない、きみも知っているだろうが壁の外の中国人のなかには共産党が憎いあまり南京大虐殺はなかったと言ったりトランプ元大統領を英雄として支持したりするものもいる、そういうふうにはなってはいけないと制した。
 弁当と夜食のおにぎりをふたつ買って帰宅。食す。それから一時間半ほど昼寝。三年生の(…)さんからよくわからんアイコン画像が送られてくる。ヒゲ+サングラス+帽子の男性を模したもの。先生にそっくりですという。おなじ三年生の(…)くんからは「それにしても」と「それにしては」の使い分けに関する質問。
 コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを長々と書き記す。投稿後、第五食堂で夕飯を打包。食後のコーヒーを飲みながら、ウェブ各所を巡回し、2022年10月28日づけの記事を読み返す。

Christian dogma is about the only thing left in the world that surely guards and respects mystery. The fiction writer is an observer, first, last, and always, but he cannot be an adequate observer unless he is free from uncertainty about what he see. Those who have no absolute values cannot let the relative remain merely real-time; they are always raising it to the level of the absolute. The Catholic fiction writer is entirely free to observe. He feels no call to take on the duties of God or to create a new universe. He feels perfectly free to to look at the one we already have and to show exactly what he sees. He feels no need to apologize for the ways of God to man or to avoid looking at the ways of man to God. For him, to “tidy up reality” is certainly to succumb to the sin of pride. Open and free observation is founded on our ultimate faith that the universe is meaningful, as the Church teaches.
(Flannery O'Connor “Mystery and Manners”より“Catholic Novelists and Their Readers”)

 2013年10月28日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は19時半前だった。

 シャワーを浴びる。(…)さんからまた微信。会議中に録音したものか電話中に録音したものかわからないが、男性が日本語でなにやら説明している短い音声。一部聞き取れないところがあるという。ちゃちゃっと確認して返信する。「先生善人」との反応。
 (…)さんからも微信。バラの花の香りをつけた牛乳を飲んだことがあるか、と。ないと返信。裏町の路上でそういうものを売っている人物を見つけた模様。また買ってくるつもりなのかもしれないと思ったので、それとなくそうならない流れに会話を誘導し、機会があればまた飲んでみますと返信。それから授業準備にとりかかる。来週の日語会話(一)に備えて第2課の脚本を印刷。そのまま第3課を詰めることにしたが、どうも眠くてあたまが働いてくれなかったので、先に日語基礎写作(一)の「嫌いなものを擁護する」の資料を改稿する。
 21時半ごろにまた(…)さんから微信。例の牛乳、結局こちらの分を買ったらしい。冷めるとおいしくなくなってしまうのでいまから走って持っていきますという。マジでもう貢いでくれるなと思いながら街着に着替えて外に出る。バスケコートの脇で合流。(…)さん、半袖一枚だったので、ちょっと驚く。寒くないという。以前も微信で伝えたばかりであるが、こちらのために食べ物や飲み物をわざわざよそで買ってこなくてもいいとあらためて伝える。わたしは先生にとって迷惑ですと捨て犬のような目でいうので、おめー! そういう発想をまず捨てろ! 手首切んなよ! と内心あせりながら、迷惑ではないです、申し訳ないです、と受けたのち、ではこうしましょう、きみのすすめてくれる食べ物や飲み物はおいしいです、ぼくはいつもとても楽しみです、しかしきみがぼくのためにお金をたくさん使うのは申し訳ないです、ですからお金はぼくが払います、そうすればぼくは申し訳なくありません、わかりますか? という。(…)さん、納得。やれやれ。
 女子寮に向けて歩き出す。(…)さんが買ってきてくれたのは薔薇の花びらがつけこんである牛乳。コーヒーカップのような容器に入っている。6元。飲んでみると、たしかにふんわりと薔薇の香りがする。もう一種類、薔薇ではなく桂花のものもあったという。gui4hua1? と中国語でたずねると、日本にはありませんかというので、ちょっとわからないと返事。しかしこれを書いているいまググってみたところ、桂花とはモクセイのことらしい。日本にもある。桂花は秋の花です、大学の中にもありますという。それでその桂花のところまで連れていってもらったのだが(女子寮の近くに植わっていた)、花は咲いていなかった。
 (…)さんはひとりで裏町に出かけていたという。食堂→裏町とはしごして夕飯を食べていたらしい。先生裏町にいきませんかという。いや、さっき裏町からもどってきたところなんでしょうと思ったが、あ、散歩したいということなんだなと察し、裏町はひとが多いから大学の中を散歩しましょうと受ける。それで昨日、(…)さんと(…)さんと歩いたのとほぼ同じコースをたどることに。(…)さんの両親は深圳に住んでいるという。故郷は江西省ときいていたが、江西省の実家にいるのは祖母のみ((…)さんはこのとき「おばあさん」という日本語が出てこなかった)。边牧の(…)はもともと深圳で買った。しかし三ヶ月前からか、あるいは今年の三月からか、祖母のいる江西省で飼われているという。祖母と(…)はいつもケンカしているとのこと。深圳にいたままだったらあぶなかった、毒殺されていたかもしれないと、最近話題になっている犬猫虐殺の件を踏まえていうので、以前も言ったけど一ヶ月もすれば落ち着くよ、こういうのはいつものことだから、みんなすぐに忘れるよというと、辞書アプリの「極端」という単語をこちらに見せるので、そうそう、極端なひとたちが多いでしょうという。日本でもそうですかというので、もちろん日本にもそういうひとはいる、でも中国のほうがずっと極端なひとの数が多いと思うと受けると、中国はまだ発展途上国だからというようなことを(…)さんはいった。ときどき思う、中国人は祖国が世界第二の経済大国であることをしばしば誇るのだが、それでいて同時に、その祖国のことを先進国とはいわず発展途上国ということがある、あれはどういう論理で両立しているのだろう? (…)さんの場合でいえば、あまり好きな言葉ではないが、いわゆる「民度」についてそう言っているらしいことがのちほどの会話であきらかになった。
 「極端なひと」の話になったとき、(…)さんは新冠の話を切り出した。上海で都市封鎖されていた件について最近知ったというようなことをいうので、「四月之声」をいまさらどこかで目にしたとかそういうことかなと思ったところ、友人からひそかに当時の実情を伝え聞いたという。翻訳アプリを介して、飛び降り自殺者もたくさんいたといったのち、先生知っていますかというので、中国にいる外国人はそんなことはみんな知っている、知らないのは中国人だけだよと応じる。それで壁の話をする。翻墙とVPNの話もする。昨日のふたりもそうだったが、(…)さんもVPNの使用を重罪のようにとらえている節があった。日本に壁はありませんかという質問があったときには、さすがにけっこう絶望的な気持ちになった。あのね、インターネットに壁があるのは世界でも中国だけだよと、厳密にいえばそうではないのだが応じると、(…)さんはひどく驚いていた。全然知らなかったという。これがいまの若者なんだなと思った。いま三十代ないしは四十代の中国人であれば、ネットが自由だった時代の中国も知っているし、GFWなどという狂った代物によって自国が情報統制されていることなんて当然常識として理解しているわけだが、生まれたそのときからネットが国内に限定されておりそれを不自由とも感じずさらに愛国教育漬けになっている若い世代はそんなことすら知らない。(…)さんは当然、日本では自国政府を批判することができるということも知らなかった。これがこの国の平均的な大学生の認識なんだろう。ついでだから処理水の話もした。最初は半信半疑だったと思うが、きのう(…)さんと(…)さん相手に語ったように、教育と情報の重要性を大日本帝国の過ちを例にしてこちらが説明したのを聞いていくらか得心がいったようす。でも大部分の中国人は信じないと思いますというので、絶対信じないでしょうねと応じる。
 「恋人の道」を通る。きのうとちがってやけにあかるいなと思って頭上を見あげると満月だった。月明かりというものをこうして明確に感じるのもちょっとひさしぶりだ。真夜中であるにもかかわらず、十メートルほど先の道までぼうっと白く浮かびあがっているのだ。(…)先生が女性教諭をあたらしく日本語学科に雇おうとしているという話が出た。先学期も似たようなことを言っていたが、結局、給料が少ないということで(…)の大学に引き抜かれてしまったわけであるし、なかなかむずかしいんじゃないかと応じると、翻訳アプリを介して、(…)先生は女性教諭を(…)先生に紹介するつもりですという。相亲? とたずねると、笑いながら肯定し、そうすれば先生は(…)にずっといますというので、そういう作戦かと苦笑した。
 遊園地の事故の話が出た。深圳にある有名な遊園地のジェットコースターで墜落事故かなにかが生じたらしい。公式発表では怪我人が8人出たということになっているが、事故直後の写真などがネット上に一時期出回っており、それによるとかなり多くの死者が出ているとのこと。しかしそのような情報はすぐに検閲された、と。でもこれは政府の問題ではありません、遊園地の問題ですというので、そもそもの政府が情報の自由を禁じているのだから大資本もその禁止にのっかって好き勝手にやっているんでしょうと思うわけだが、なにかおおきな社会問題が生じるたびに中央政府ではなく地方政府がスケープゴートにされるのと同様、人民らはこのあたりけっこう巧みに誘導されているよなと思う(だからこそ去年の白纸运动で中央そのものが名指しで批判されたのは衝撃だった)。
 図書館に沿ってぐるりと移動する。中国の労働環境の話になる。(…)さんのお父さんは春節以外、休みは週に一日、日曜日のみだという。母親も同様。みんな996だ、と。中学生や高校生も朝から晩まで勉強漬けで地獄のようだよねというと、日本はどうですかというので、高校生だったら16時ごろには授業が終わると思うよという。自習は? というので、朝晩の自習があるのは中国くらいでしょうと笑う。
 女子寮前にたどりつく。事故のあった遊園地にこの夏休み中おとずれたばかりなのだと(…)さんはいった。家族といっしょに行ったというので、大学生の女の子が家族といっしょに遊園地にいくのかと思ったが、しかしこれは別に日本でもありうる話か? うちの家庭では絶対にありえないが。
 帰宅。(…)さんからひきつづき微信が届く。うちの(…)におやつをあげたいという。ビーフジャーキーを自作するので日本に持っていってくれませんかというので、肉類の持ち込みは禁止されていると応じると、ネットで調べてみたところ問題ありませんでしたというので、いやいや税関でしょっちゅう中国人捕まっとるやんけと思いながら検索してみたところ、やはり禁止されているようであるし高額の罰金が発生するようであったのでスクショを送る。じゃあクッキーはどうですか? おもちゃはどうですか? と続くので、うちの(…)は食べ物もおもちゃも十分にあるからそのお金は(…)のために使ってあげなさいと伝える。ではご家族のためにお土産を渡してもいいですかというので、もうぼくのためにお金を使う必要はないから! とはっきり伝える。マジで困るのだ。すると、故郷にある無料のものだったらいいですかと食い下がるので、さすがにここまでくると笑ってしまった。こんなにしつこい子、はじめてだ。「先生は大学の中で一番好きな先生だから」「唯一の友達とさえ言えます」「もうすぐ卒業します。来年はお会いできません」と続いたので、友人といえば(…)さんがいるでしょうと受けると、彼女は最近高校時代の親友と仲直りしたという。いや、かつての親友と復縁したところで、それがイコール(…)さんとの関係の悪化を意味するわけではないでしょうというと、「私は恋をしても友達を作っても、唯一の人になりたいです」とあり、うわ! 出た! これが彼女のコアだ! と思った。きみ、嫉妬深いタイプでしょ? めっちゃ怖いな! と茶化す。(…)さん、否定しない。それから福禄寿という中国のバンドの「我用什么把你留住」という楽曲が紹介された。歌詞がとてもいいのだ、と。(…)さんは『百年の孤独』をおなじ名前の人物がたくさん出てくるからつまらないといったり、一番好きな日本のアーティストを菅田将暉といったり、そういう方面に関してはまったく信用できないセンスの持ち主であるのでこの曲にもそれほど期待していなかったのだが、先の楽曲がそのままタイトルになっているアルバム『我用什么把你留住』をざっと流してみたところ、あ、けっこういいかも、と思った。中国のミュージシャンももっと掘っていきたい。LI YILEIとか工工工とか花伦あたりはけっこう楽しめているのだが。音楽の話といえば、日記に書き忘れているが、当然連日いろいろ聴くには聴いている。最近では韓国のSILICA GELというバンドがちょっとよかった。