20231029

 しかし一方、現代においてはローカルの破壊とその再構成があまりに早くなされるため、痕跡を隠蔽する時間がなく、そのフィクション性が露になる事態が生じており、これまでのように移行対象を設立して見かけの連続性を仮構することが困難になってくる。ポストモダンの思想とはまさにこの気分をなぞったものである。不連続性が見かけ上あまりに露になってきたとすれば、それぞれを言語ゲームとして表し「相対主義」でくくる以外に認知上の混乱を免れることはできなくなる。
 だが近代的主体の幻想に依存しながら人々の気分を分節し、この不安を自覚的に生きるよう教育してきたポストモダンの言説により、実際私たちは少しずつこのコンテクストを生きる自覚を得つつあるのも確かである。そしてまた、精神分析が与えている認識とは、まさにこの人間のローカリティについての自覚的認識なのである。精神分析の治療では、無意識的に私たちが依存してきたコンテクストを自覚しもう一度それを生き直すことがめざされる。
 このように、現在見られるのは、この根底的なクライシスの中でむしろこれまでの人間というローカリティが自己反省的に生きられていることである。これは、ニンゲンというローカルな文化についての幻想の構成(ニューエイジ)とは異なるオーダーにある。それは移行対象として新たな幻想としてこれまでの「伝統」をなんとか見かけの連続性で繋げるものとは異なる。精神分析的な立場は、どこまで人間がこの無意識という担保を自分たちにとってコントロール可能で幸福なものとできるかを積極的に考えるものである。そこでは「消えゆく媒介者」としての幻想が機能しているのではなく、「精神分析的な認識」と「それを可能にする他者」が存在しているといえるだろう。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス」 p.83)



 9時半起床。朝昼兼用で第五食堂。日語会話(一)第2課の資料を(…)さんと(…)さんにそれぞれ送信。(…)さん、週末に通っているダンススクールとは別に、運動会で中国の伝統舞踊をパフォーマンスするため、最近は毎日昼休み中にそっちの練習もしているとのこと(練習風景を映した動画が送られてきた)。運動会はいつ開催されるのかとたずねると、来月の9日と10日だという返事。木曜日と金曜日。金曜日はもともと授業がないので、一日分損をした気分になる。くそったれ。
 コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年10月29日づけの記事を読み返す。2013年10月29日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

 日語基礎写作(一)で使用する「(…)」を印刷。それから日語会話(三)の第32課と日語会話(一)の第3課を詰め切る。これでひとまず今週と来週分はどうにかなる。金土日の三日間はまるっとスピーチコンテストで潰れるし、さらにその三日分の日記で来週はやはり使い物にならないことが予想されるので、その来週の分も含めていまのうちに授業準備を最終段階まで詰めておく必要があるのだ。
 外出。タンクトップにシャツでちょうどいい気温。予報によると、明日以降最高気温およそ30度ほどの日々が五日間ほど続く。マジでこの土地は衣替えのタイミングが掴めない。南門の前で歩行者信号が変わるのを待っていると「こんにちは」と日本語で声をかけられる。ふりかえると、小型の電動スクーターに乗った(…)さんと(…)さんのコンビ。これから后街に向かうところだという。
 (…)で食パンを三袋買う。そのまま(…)に移動し、明日の授業でビンゴの景品として配るキャンディかチョコでも買うつもりだったのだが、セブンイレブンだったら日本の商品があるんじゃないかと思い、立ち寄ってみることに。ぷっちょがあった。あったがしかし、個包装されてはいない。次善策としてペコちゃんのペロペロキャンディを三袋買う。
 第五食堂で打包して帰宅。食後、30分ほど寝る。シャワーを浴び、ストレッチをし、二年生の(…)くんから届いていた質問に答える(たぶんN1の読解問題だと思う)。二年生の状況を見るかぎり、来年のスピーチコンテストの代表はおそらく(…)くんだろう。(…)さんや(…)さんもおそらく候補にあがるだろうが、総合能力ではやはり(…)くんがあたまひとつ飛び抜けている。アニメ好きはやっぱり強いなァ。
 週に一度はしっかり書見したい。そういうわけでソファに移動し、『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』(樫村愛子)の続きを読み進める。「ポストモダンにおけるメランコリーと倒錯」と「「リアリティショー」の社会学的分析」を読む。権威の解体(大文字の他者の失効)の帰結としてある「主体の死」。しかしそれは手放しで称賛すべき現象ではない(分裂病者をことほぐかつての言説は無邪気な統合失調症神話にかたむきすぎていたし、現代は現代でかつて分裂症者のおかれていたその位置に自閉症者を代入しようとする安易な身ぶりも散見される)。主体は近代とは別の仕方で主体化される必要があるが、人種主義や反動的なナショナリズムに依る退行的な仕方ではなく、主体化を可能ならしめる権威(他者)が幻想でしかないことを知る再帰的主体のままにそれを果たす必要がある(というかそうせざるをえない)。樫村愛子の著作、連続して読んでいるけど、基本的にはおおむねこうした認識の周辺をくりかえし語っている印象。
 23時に中断。トーストとおにぎり食す——と、書いているいま思ったが、めちゃくちゃあたま悪いカップリングの夜食やな! なんやトーストとおにぎりって! 人生なめとんか! なにしても許されると思っとったら大間違いやぞ!

 『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』(樫村愛子)の中に以下のような記述があった。

 また大文字の他者の不安定さは具体的な他者との関係の困難も導いている。それは、一方でキャクシアリらが指摘する、トラウマと犠牲者への人々の抽象的同一化があり、他方でフロイトがいう親近者や隣人との「些細な差異のナルシシズム narzissmus der differenzen」(親近者との小さな差異はナルシシズムを批判したり脅かしているように思われる。「集団心理学と自我の分析」)を越えて、ジジェクが指摘する「他者恐怖」(ポストモダン的主体は、大文字の他者から撤退し、自分自身を、他者と共有する共通の土台を欠いた無法者と感じとり、他者との安定した距離を消失、他者を恐怖の対象とする)やそれが帰結する「新人種主義」が共存する現象として現れている。
(p.155-156)

 日本の「コミュ障」を自称する若者や中国の「社恐」も自称する若者も、こうした側面から理解することができるのかもしれないと思った。いや、むしろ逆かもしれない、「他者恐怖」はむしろ、共通の土台の磁力が強力すぎる結果、そこからはみ出す——コンテクストにうまくうまくのれない——ことを過度におそれ、他人との接触に恐怖を抱くというほうが適切なのかもしれない。いずれにせよ、いまほどオタク文化が一般的ではなく、アニメやゲームを愛好する人間らにも日陰者という自覚があったころ、(新人種主義ではないが、それと類似した排他性を有する)ネトウヨとはイコール(コミュニケーションの不得手な「社会不適合者」である)オタクという共通の理解(あるいは偏見)があった。そしてまた、若者の多くがポジティブな意味でオタクを自称する現象が散見せられるようになった時期から(オタクがかつてのように日陰者でなくなり、むしろ多数派を占めるように見えはじめた時期から)、若い世代ほど自民党を支持するというデータが——と、書いたところで、この考えは全然おもしろくないし、雑だし凡庸だし、どうでもいいわとなった。
 李克強の追悼、中国国内ではまだまだ続いている模様。人民らがあちこちに勝手に集まって(「集会の禁止」に触れる行為だ)献花している模様が、写真や動画としてネット上で出回っている。花束に添えられた手紙のなかにはあきらかに習近平を批判するものがまぎれていたり、「长江黄河不会倒流(黄河と長江が逆流することはない)」という改革開放政策の継続を李克強が主張するにあたって口にした言葉が添えられたりしているらしく(この言葉は去年の8月に口されたものらしい、もっと以前の発言だと思っていた!)、実際、その言葉はすでに検閲対象にもなっているようすであるのだが、ただ、この現象をもって、人民らによる近平の旦那に対する潜在的なプロテストであると理解するのはちょっとはやとちりであるというか(翻墙している中国人のなかにはそう思っているひとも多そうだが)、願望込みの話になっているんではないかとも思う。たぶん献花をおこなっている人民の大半は単なる愛国仕草としてそうしているだけであり、そもそも李克強習近平がある種政敵同士であったという事実すらろくに知らないんではないか(少なくともうちの学生なんてほぼ全員知らないと思う)。とはいえ、何度も書き記すが、そういうふうに舐めていたというか、再帰的無能感に取り憑かれていたところに去年の大規模プロテスト(白纸运动)があったわけであり、さらにつけくわえていうならば、あの運動自体、直接的な激化のきっかけになったのは新疆の火災の犠牲者らに対する「追悼」だった。