20231106

 作者忙殺につき、本日掲載予定の「アカシック(…)の五次元ホロスコープ」はお休みさせていただきます。ご了承ください。


  • 8時起床。(…)から微信。(…)はどうだったか、と。コンテストの結果はよくなかったが楽しめたと返信。今週中に健康診断に行こうかと思うのだがどうだろうかというので、水曜日か金曜日であれば問題ない、運動会が木曜日から開催されるという話もきいているがもしそれが本当であれば木曜日でもかまわないと返信。金曜日に決まる。
  • 10時から一年生1組の日語会話(一)。第3課。これまでに担当したことのある一年生のなかでもっともやる気のないクラスであるし、特に(…)くんをはじめとする男子学生の授業態度のひどさが目立つので、しめるとすればぼちぼちかなと先週あたりから考えていたのだが(ちょうど一年前の日記でも当時一年生の男子学生を微信で注意していた)、出席をとるために学生の名前をひとりずつ日本語読みで点呼する最初の最初から(…)くんが返事をせずスマホをいじっていたので(今回が初めてではなく毎回こうなのだ)、あ、ここだな、となり、返事くらいはちゃんとしろと注意した。(…)くんは大学から日本語を勉強しはじめた学生であるし、日頃からこの授業態度であるし、当然こちらの発言などろくに聞き取れないので、このクラスの通訳代わりである(…)くんと板書を介して、授業中にスマホをいじっても居眠りをしてもいい、ただ授業の最初に返事くらいはしろ、それからほかの学生の邪魔をするなとだけ伝えた。(…)くんは理解しているのかしていないのかよくわからんキツネみたいなツラでこちらをじっと見つめていた。既習組の(…)くんはおおよそ理解しているようすだったが、それでもぴりっとするところまではいっていない。周囲の女子学生らも、こちらの言葉が聞き取れないのみならず、語調から感情を判断することすらままならないレベルなので、たぶんこちらがいつものように半分ふざけているだけと判断していたのだろう、くすくす笑っている子もいた。
  • で、授業をはじめたのだが、単語の復唱に着手してほどなく、(…)くんと(…)くんと(…)くんがわりと大きな声でおしゃべりをはじめたので、っしゃあ! 来たな! となり、中断。おまえら三人ちょっと外に出ろと廊下に呼び出す。この時点でもまだこちらがいつものように冗談としてこうしたふるまいに出ていると考えて笑っている女子学生らもいたようだが、通訳として呼び出した(…)くんは完全に事情を察しており、顔がひきつっていた。もう二度と授業に来るなと告げる。邪魔だ、鬱陶しい、目障りだ、と続ける。三人とも顔が完全にこわばる。スマホでゲームをしてもいい、居眠りをしてもいい、でも邪魔をするなと言ったよなと詰める。(…)くんに通訳をうながすと、既習組である(…)くんと(…)くんのふたりはこちらの発言がわかるといったが、わかっているんだったらどうしてしゃべるのかとここでひときわ強い口調で詰問すると、完全にびびった表情になる。「不合格」にはしない、「合格」は与える、だからもう来週から教室に来るなと続ける。それで教室にもどる。三人が着席して動かないので、やっぱり聞き取れてねえじゃねーか! と内心笑いそうになりつつ、教室から出ろ、寮に帰れ、授業には二度と来るなとあらためて指示。(…)くんの通訳を受けて、三人とも教室を出る。教室の空気がここでようやくピリついたので、日本語に興味がない学生はスマホでゲームをしてもいい、居眠りしてもいい、ただしゃべらないでほしいとあらためて全員に伝えた。
  • ピリついた空気を解除するためにモードをチェンジ。以降、ごくごく普通に授業をする。学生らがビビりすぎないだろうかとちょっと心配だったが、案外そうでもなく、ごくごくふつうに笑いも漏れたし、後半のゲームもかなり盛りあがった。とはいえ、体感、先週よりしっかり前を向いて授業を受けている学生の数はやはり多かったと思う。そういう子らの態度はきっと長続きしないだろうが、授業の邪魔さえしなければあとはなんでもいい。いやしかし、調子にのっている男子学生を叱るのはやっぱり気持ちがいいものだ。一年前の日記にも書いてあったが、中途半端にイキがっとるチンピラを詰めるときとおなじ気持ちよさがある。しかしこちらが赴任した当時は、日本語学科の学生といえば内気で気弱でシャイなオタク趣味の女子学生が大半であったというのに、そうであるからこそ(…)さんから(…)くんは外見の印象にちょっと圧があるからなるべくニコニコして接するようにしたほうがいいよと助言を受けてそのとおりにしていたというのに(いまおもえば、これは(…)さんから受けた最良の助言だったと思う)、コロナ以降既習組の男子学生が増えた結果、そうしたこちらの道化っぷりを認めるなりこいつはいけると調子をこいてイキがりはじめるカスが一定数出てきたわけで、となるといろいろこちらもそれに応じたふるまいに転じていく必要があるかもしれない。というか、これはもう育ちの悪さに起因している性質であるとしかいいようがないのだが、相手を値踏みしてこいつはだいじょうぶだと判断するなり盛大にイキりはじめる種類の男を見ると、とりあえずぶん殴りたくなってしまう、鼻っ柱を折りたくなってしまう、おまえなにを調子こいとんねんとはったおしてやりたくなる。
  • (…)で昼飯。(…)さんから微信。先ほどの授業中に撮影したこちらの写真をさっそく表情包にしている。授業後半でものの値段をあてるゲームをやった際、前置きとして安物のサングラスの写真を紹介、続けてこちらの私物のサングラスがいくらであるか学生らに質問、学生らは当然前置きを踏まえて1000円前後だと予想するわけだが、実際はコロナ給付金で購入したレンズ代込みで50000円オーバーのものである、で、価格をネタバラシしてからもっとも安い値段を予想したグループのところに近づいていき中指をおったてて、FUCK! 卧槽! と威嚇するといういつものアレをやったところを撮影されたわけだが、のちほど、このとき(…)さんが送ってくれたこちらの写真をモーメンツに投稿した(…)さんが、卧槽! と何度も言われてちょっと怖かったみたいなことを半分は冗談であると思うのだが投稿しており、あ、そっか、授業の序盤で本当に学生らを叱りつけているのでここでのこちらのふるまいももしかしたら冗談ではないと思ったのか、だとすれば申し訳ないことをしたなと思いつつ、しかしそういう不安がよぎる程度にはこちらがしめるべきところはしめるという印象を彼女は確実にもったわけであるからその意味では成功だとも思った。
  • (…)くんと(…)くんから謝罪の微信((…)くんからは連絡なし)。例によって、わたしは先生のことを尊敬しています、先生の授業が大好きです、みたいなクソしらじらしい前置きがあるので、中国の学生たちはこの手の文章がかえって相手をイライラさせるかもしれないという想像力すら持ち合わせていないのだろうかと、劣等生ほどテストや作文の課題でこういうことを書く傾向などとあわせてげんなりしつつ、こんなしらじらしい言葉は必要ない、かえって相手に失礼だ、興味がないなら興味がないでかまわない、わざとらしい賞賛などこちらはまったく求めていないと返信。(…)くんには、日頃モーメンツにNikonのカメラで撮影した風景写真をしょっちゅう投稿しているのを確認済みなので(けっこうセンスがいい)、日本語に興味がないのであればそれでかまわない、不合格にだけならないように気をつけてテスト前だけ少し勉強すればいい、それで残り時間は写真活動にあてて将来そういう方向で仕事ができないかどうか探ればいい、本気でそうするのであればこちらもその決断を支持する、ただ授業中の邪魔だけは二度とするな、スマホをいじるのであれば教室の後ろのほうに座れと伝えた。(…)くんは日本語に興味があるといった。日本の音楽やイラストや文学に影響を受けた、特に夏目漱石村上春樹に興味がある、だから日本語を勉強して彼らの小説を原文で読むのが目標なのだという。こちらの経験上、高校時代に日本語を勉強していた男子学生で、一年生のときにまじめに授業を受けていなかった学生は全員もれなく卒業までに劣等生と化していると受ける。きみと(…)くんも現状100%そうなるだろうとこちらは確信していると強めに続けると、(…)先生の基礎日本語の授業はたしかに先に進むのが早くて高校時代にくらべるとレベルが高いというので、(…)先生の授業はむしろゆっくりすぎるという評判だ、彼女の授業速度がはやいと感じるのであればきみのレベルはしょせんその程度ということだ、十中八九来学期中には大学から勉強をはじめたクラスメイトに追い抜かれるだろうと追い討ち。(…)くんには、きみはぼくがこれまでに担当したことのある学生のなかでもっとも授業態度が悪い、最悪の学生だ、不合格にはしないから授業には来ないでほしい、そうすればきみは寮でリラックスできるしぼくもきみの顔を見ないで済む、おたがいにとってそのほうが幸福だろうと、やはり強めの言葉で返信。これくらいのことをダイレクトに言わないと通じない。
  • 帰宅。今月3日づけの記事を雑に書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年11月4日づけの記事を読み返す。

 では、主人のディスクールにおいて、シニフィアンは享楽とどのように関係しているだろうか。具体的にみていこう。まず、主人のディスクールの動因となるのは主人のシニフィアン(S1)である。このシニフィアンは、主体を他のシニフィアン(S2)という他者に向けて代理表象する。その際に、主体はみずからの存在の生き生きした部分を喪失し、享楽を断念させられる。ここまでは疎外の図式と同じである。しかし、主人のディスクールでは、シニフィアンの導入による享楽の断念と同時に、対象aの享楽である剰余享楽が生産されている。すなわち、シニフィアンの導入は、主体に享楽の断念を迫ると同時に、主体に別種の享楽の可能性を与えるのである(S16, 40)。例えば、症状は、享楽の喪失に対する関係のなかで個々人がそれぞれの仕方で苦しむ=享楽する方法である(S16, 40)。ここで獲得される別種の享楽を、ラカンは「剰余享楽 plus-de-jouir」と呼んでいる。これが剰余享楽と呼ばれるのは、主人のディスクールの導入によって、ひとはもはや享楽そのものにアクセスすることが不可能になる(もはや享楽しない[プリュ・ド・ジュイール])が、それと引き換えに対象aの回路を通して、何度も反復を繰り返しながら「もっと享楽する[プリュス・ド・ジュイール]」ことを希求するようになるからである。
 セミネール第七巻『精神分析の倫理』では、享楽はシニフィアンの導入によって禁止されたものであった。そのため、もし享楽にアクセスしようとするならば、侵犯を行うしかなかった。「欲望は大他者の側からやってくるが、享楽は〈物〉の側にある」(E853)というラカンの言葉に示されているように、当時はおおむねシニフィアンと享楽の関係は不可能であると考えられていたのである。だが、『精神分析の裏面』になると、侵犯という語が「みだらな lubrique」ものとして格下げされるようになる一方で、シニフィアンそれ自体が剰余享楽を可能にする装置として扱われるようになる(S17, 23)。つまり、ディスクールの理論の導入によって、ラカンシニフィアンと享楽を二律背反的なものとして考えることをやめ、両者の関係を考えるようになったのである。このような理論的変遷は、バタイユ的な禁止と侵犯の問題系からの離反として捉えることができる(…)。
 では、ファルス享楽と剰余享楽はどのように異なるのだろうか? 一方のファルス享楽は、〈物〉とその断片である対象aの論理であって、象徴界の側からいかにして現実界にアクセスするかという困難のもとにある。その享楽は、禁止されている〈物〉を、いわばその断片である対象aという例外的な抜け道を通って享楽するようなものである。ファルス享楽において範例とされる対象aが、乳房、糞便、眼差し、声といった身体の一部と関係するものであったのはそのためである。他方の剰余享楽は、シニフィアンと享楽のあいだの関係を問題にしており、ここで問題となる享楽の対象は最初から禁止されたものではない。剰余享楽における対象aは、ファルス享楽における対象aとは少々異なるのである。実際ラカンは、剰余享楽の対象のリストに、社会にあふれる工業製品や文化製品といった「ささやかな対象a」を付けくわえている(S17, 188)。このような享楽は、例えば電化製品やガジェットの新機種が出るたびにそれを喜んで購入する現代人の姿とも重なるだろう。しかし、このような対象は一度手に入れたとしても、享楽を満足させることはないため、享楽の回帰が生じ、それが反復をふたたび基礎づけることになる(S17, 51)。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.318-319)

 あと、きのう「高校野球女子選抜」と「エキシビションマッチ」をしたイチローについてのニュース記事があり、そのなかで女子選手からの質問に答えるやりとりが軽く記録されていたのだが、そこに「同じものを毎日食べ続けていると、わずかな違いに気付くようになる。同じメニューなのに味が違う、作っている人が違うのかなって。小さい違いに気付ける感覚を持ってほしい。(野球を)うまくなろうと思ったら、それはすごく大事」という発言があり、あ、これってじぶんが円町時代、スギ薬局のすぐそばにある溝川沿いに咲いている桜を見て気づいたこととまったく同じだよなと思った。当時は(執筆と読書をのぞいて)毎日おなじことのくりかえしであることに疑問を抱いていたというか、二十代をこんなふうに使い倒してしまってもいいのだろうか、いわゆる人生経験みたいなものももっと必要なんではないかとちょくちょく考えていたのだが、そんなとき、バイト先や図書館にいくときに毎日そのそばを通りがかることになる溝川沿いにそれまで一度も見たことのないような満開の桜が咲いているのを発見し(花の重みに垂れさがった枝が水面につきそうになっていたのだ)、美しいと思い、で、その美しいという感じは、毎日ここを通りがかっているからこそ得られる種類のものであり、日常の差異によっておもいがけず不意打ちをくらったという一種の驚きであり、しかるがゆえに観光客がたまたまここを通ってこの桜を見てもおそらくじぶんが感じたような美しさを感じることはないだろうと思った——そのできごとがきっかけとなって(もちろんそれだけではないのだが)、反復と解像度がしばらくじぶんのなかでキーワードになったのだった。

  • 2013年11月4日づけの記事も読み返す。「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

 聖トマスによる「大罪」の定義は、潜在的にいって論理階型分類(ロジカルタイピング)に匹敵するほどの洗練をみせていた。大罪とは、「目的因のごとく」、それを犯すことが他の者たちにさらにその同じ罪を犯させるような罪をさす。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「序」)

  • 翌日の授業にそなえて作文の添削。作業中、スピーチのグループでちょっとしたやりとり。(…)先生の授業がむずかしいと(…)さん。故郷の遼寧省ではすでに雪が積もったとのこと。(…)くんはなにもやる気が起きないという。コンテストの前ははやく終わってほしいとばかり考えていたのに、いざ終わってしまうと「空虚」な気分だ、と。(…)さんはコンテストの二日間で2キロ痩せたという。それからいまは北京にいる(…)先生のオンライン授業を受けているのだが、あいかわらずクソの役にも立たない代物らしく、あらかじめ彼女が配布した日本語のテキストを学生らが一段落ずつ順番に中国語に訳すのだったか、あるいはその逆に中国語のテキストを日本語に訳すのだったかするだけなのだが、当の彼女すら学生らの発表が終わったところでいま本文の何段落目まで進んだのか把握していないありさまで、クラスメイトらはやはり全員唖然としているという。彼女は日本語だけではなく中国語すらろくにできない、クラスメイトの名前を何度も読み間違えると批判はさらに続いたが、まったくおなじ批判を以前(…)さんから聞いたばかりであるし、というか彼女とやりとりしているまさにその瞬間に(…)さんからも(…)先生の授業がマジで苦痛であるという不満が届いたのだった。曰く、「誰か(…)先生の授業を真剣に聞くことができれば、それはきっと菩薩でしょう」とのこと。ちょっと笑った。それからスピーチの面々にこわれるまま、当日録画したコンテスト本番の動画を送信した。
  • 夕飯は第五食堂。シャワーを浴び、ストレッチをし、日記の続きをガシガシ書きまくる。ひさしぶりに箇条書きスタイルに変更したのはそっちのほうが記述を節約できるかもしれないというあたまがあったから。一年生1組の(…)さんから授業で必要なのでアンケートに答えてほしいとQRコードが届く。これからの人生になにをのぞむか、人生をやりなおせるとすればやりなおすか、いまなにに対してもっとも不満を感じるかみたいな質問五つか六つ。答えは選択肢の中から選ぶ形式。やりなおしたいとは思わない。やりなおせば(…)の日々も(…)の日々もなかったことになってしまう。そんなことには耐えられない。ニーチェを経由するまでもなく、こちらはこちらの人生を全肯定している。チート能力も必要ない。この人生を、この出来事をこの記憶を、なかったことになど絶対にしたくない。だからじぶんの人生に対する不満はどれかと答える質問に対してもないとしかいいようがないのだが、そもそもの「なし」という選択肢が用意されていないので答えようがない。(…)さんはアンケートに協力すると答えたこちらに対して「ありがとう」と日本語でいった。だから「どういたしまして」と応じたところ、「わかりません」とあったので、は? となった。もしかして意味がわからないということなのかと思い、「どういたしまして=不用谢」と送ったところ、「なるほど」という返事。マジかよ。授業で何回説明したかわからんぞ。このクラスと最低でもあと二年付き合う必要があるのか!
  • 4日づけの記事もほぼ書き終えたところで就寝。