20231107

 作者過眠により、本日の「チュパカブラ三宅のドキドキ家畜吸血日誌」はお休みさせていただきます。ご了承ください。


  • 8時起床。一年生1組の(…)くんから微信。きのうの授業後半でやった商品の値段を当てるクイズの最中、じぶんは「考えさせて」と発言したが、あの日本語は正しいだろうかと問うもの。正しい、しかし「考えさせてください」というほうが適切だと返信。
  • 10時から二年生の日語基礎写作(一)。授業前半で「(…)」清書。毎回完璧な作文を書いて寄越す(…)さんに、作文を書いているあいだどれぐらいアプリを使っているのかとたずねると、たくさんという返事。いちどアプリなしでどれぐらい書くことができるのか、素の実力を知りたい。後半は「(…)」。途中、「食レポ」の順番を決めるためのくじ引きを実施。トップバッターは(…)さんになった。
  • 授業後、今週から通常授業に出席している(…)くんに誘われるかたちで第四食堂へ。二階にハンバーガーの店がある、入り口にあるハンバーガーの店よりうまいというので、そちらに行ってみることにしたが、時間帯が時間帯だけに食堂内はとんでもなく混雑している。二限終わりで食堂に行くのはやっぱり避けたい。今後はやっぱり外で食うか、冷食の餃子ですませるか、どちらかにしようと思う。ハンバーガーの店は人気がないのか、ほかの店にくらべてずいぶん空いていたが、店員がおっさんひとりしかおらず、注文したものが出てくるまでかなり時間がかかった。こちらと学生三人からなるグループとは別に、中国人教師らと学生三人からなるスピーチのグループがあったらしいのだが、コンテスト本番が終わるなり(…)先生がそのグループをすぐに解散したと(…)くんは非難がましい口調で言った。別にそんなグループを残しておいてほしいと思っていたわけでもないだろう。ただコンテストが終わるなり、なんのあいさつもなく突然グループを解散する、そういうふるまいのひとつひとつが、指導教師としてなにひとつ役にたつことをしてこなかったくせに、コンテストの結果だけは(じぶんの昇給とボーナスにかかわるという理由から)もとめる姿勢などとあわせて、教員としてというよりもむしろ人間としてクズであるという印象を周囲の人間に与えるのだろうし、こちらもその印象にもろ手をあげて同意する。あのババアはほんまもんのクズだ。
  • 帰宅してハンバーガーを食す。授業中、(…)さんから「割引」という言葉についての質問があったので、「割合」と「割引」の意味の違いについて説明(「割合」については理解していたようだったので、「引く」が引き算のマイナスの意味であることを説明したうえで、100円のりんごの3割は30円であるが3割引は70円であると具体例を提示)。完全に理解した模様。それから授業の開始直前、例によって最前列に着席した(…)さんとそろって、先生を見ると心が痛いとかなんとかそういう感じのことを言っていたのだが、よくわからなかったので、その点あらためてたずねてみると、先生を見るといつも心がドキドキしますというので、なにを言うとんねん! となった。そういうときはドキドキではなくワクワクというものだよというと、興奮するときはドキドキではないですかというので、ドキドキには恋愛のニュアンスが込められることが多い、あなたの姿を見るとドキドキしますというと相手が「(…)さんは俺のことが好きなのだ!」と誤解することになると説明すると、そうです! わたしと(…)さんは先生が好きです! と悪ノリするので、じゃあきみが30歳になっても彼氏がいないままだったら結婚しましょう、ちなみにそのときぼくは48歳でおそらく髪の毛だけではなくヒゲまで抜けているでしょうと受ける。
  • 14時半から一年生2組の日語会話(一)。第3課。昼寝をする時間がなかったので瑞幸咖啡で打包したアイスコーヒーを持ち込んで授業をする。モチベーションのそこそこある2組のわりにちょっとなかだるみしたという印象。この教案、簡単すぎるのかもしれない。数字の読み方に特化した教案に作り替えたほうがいいかもしれない。
  • 帰宅。一年生1組の(…)さんからこちらの写真を加工した表情包が届く。二年生の(…)さんからは自作した寿司の写真。午後料理コンテストに出場したという。外国語学院代表として出場したのかとたずねると、そうではない、希望者はだれでもチームで出場できるとのことで、彼女のほかに(…)くん、(…)さん、(…)さんがいたとのこと。正直全然うまそうではないというか、中国の、それも内陸でいわゆる寿司として販売されているものは全然寿司らしくないというか、当然のことながらまず生魚がいっさい使われていない。今回学生らがこしらえたものにしても、魚肉ソーセージときゅうりと肉松(でんぶみたいなやつ)をはさんだ巻き寿司で、こちらは魚肉ソーセージも肉松も好きではないので仮に差し上げますと持ってこられたらけっこうしんどいことになっていたと思うのだが、コンテストでこしらえたものは持ち帰り禁止というルールがあるらしく、先生のところに持っていくことができず残念だと(…)さんはいった。
  • 夕飯は第五食堂。食後、2022年11月5日づけの記事を読み返す。以下は國分功一郎が語る意志(切断)の話みたいだ。

 始まりという問題が難しいのは、純粋な始まりを想定することがなかなかできないことにある。始まるためには、始まりを可能にしたものがあるが、後者を切断しなければ、始まりが始まることがない。これが始まりのパラドクスである。始まりは、自然発生的に生じるのではなく、先立つものを切断することで始めるものなのだ。
中島隆博中国哲学史—諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』)

 iPadを持ってベッドに移動する。『最終兵器彼女』(高橋しん)を読む。はじめて読んだのはたしか高校二年生の時だったはず。深夜テレビをつけたらアニメをやっていて、なんだこれと思ったのをきっかけに、ブックオフで漫画を買って読んだのだ。いや、しかし、高校二年生ということは17歳だったわけで、いま37歳、20年前というよりもむしろあの当時のじぶんの倍以上いまのじぶんは年齢を重ねているというその事実のほうに死ぬほど驚く。この速度で生きているのか。だったら死もそれほど遠くないではないか。
 かなり寝不足気味であったが、読みはじめたら目が冴えてしまい、結局、朝方までかけて全巻ぶっ通しで読むことになった。おもしろかった。高校生の自分には全然読めていなかったんだなということが本当によくわかった。文字を追うことはできていても、その表面的な意味を理解することはできていても、それがどのような文脈の上に配置された言葉であるのか、それを当時のじぶんはまるで理解できていなかった。なにを語ってなにを語らないか、語るのであればそれをどのような順番で語るのか、そこのところを巧みに処理することで、荒唐無稽な設定をリアリズムのトーンで描くという不可能が可能になっている。あと、高校時代はまったく思わなかったのだが、正体不明の戦争がだんだんと近づいてくるその近づきかたの描写もすごく芸が細かい。キャラクターのちょっとした台詞やモノローグや具体的な描写、たとえば、高校のクラスメイトが次第に授業を欠席しがちになったり、北海道大学がすでに存在しないことがさらっと言及されていたり、授業のかわりに午後はボランティアをするのがいつのまにか常態化していたり、地震によって教室やシュウジの部屋の壁に入った亀裂がその後も修繕されずそのままになっていたり、そういう具体的なあれこれがものすごく自然に(大袈裟に誇張したりドラマティックに演出したりすることなくあくまでも「背景」に徹して)細かく積み重ねられていくその手つきがいい。テツが隠れ家のアパートに戻ったところで敵兵とばったり遭遇する場面で、相手に向けてとっさに英語で降伏を呼びかけるも、その相手が英語以外の外国語で応答して撃ち合いになる、そのときの「なんだ敵は英語圏じゃないのかよ」みたいな台詞なんて、老兵であるテツですら相手国の国籍すら理解していない状況にあるらしい「正体不明の戦争」を完璧に象徴するものとなっていて、うわ、これすごいな、と思った。あと、高校生当時はやはり気づかなかったわけだが、巻末には多くの参考文献が載せられており、そのなかには軍事・戦争関連の書籍もたくさんある。ちゃんと資料を読み込んでいるからこそディテールがしっかりしており、それが荒唐無稽なリアリズムという力技を成し遂げる土台になっている。
 それにしてもしかし、内容も良かったし、うわこの演出すごいなと思うところもたくさんあったのだが、それ以上に、絵を見ることも文字を読むこともできているつもりだった高校生当時のじぶんがいかに見ることも読むこともできていなかったかということを、ある種の驚きと感動とともに実感し続ける読書体験だったというのが、ある意味いちばん印象的だったかもしれない。あの当時から現代文の成績だけはなぜかずっとよく、高校一年生のときに受けさせられた全国模試みたいやつでも現代文だけは満点だったのだが、そのレベルでなお全然読めていなかったのだというか、そりゃあ世の中のだれも純文学なんて読まなくなっちまうわなという感じ。『ワンピース』なんかは特に顕著であるけど、漫画であるにもかかわらず絵や画面で語らず、すべてを説明口調の台詞で語ってしまうそういう漫画が多くなっているというし、映画なんかも娯楽大作みたいなやつはみんなそうらしいし、たぶんアニメもそうなんだろうしゲームもそうなんだろうが、なんかそういう意味での「読解力」ってもうほぼ死滅状態なのかもしれない。

  • 2013年11月5日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

(…)われわれの大部分は学校で名詞とは人や場所や物の名前だと教わったが、本当は、名詞とは文章の他の部分とさまざまな関係を結べるものだと教わるべきだった。そうすれば、文法全体を物ではなく関係という観点から定義づけることができたはずなのだ。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「精神過程の世界」)

  • 夜はこの日もひたすら日記。三年生の(…)さんから明日の食事会について微信。鍋はあるか調味料はあるかという確認。午後3時にこちらの寮をおとずれる予定だというので、買い出しにいくのであれば同行しようかというと、配達ですませるつもりだとのこと。結局だれが来ることになったのかとたずねると、(…)さんと(…)さんと(…)さんだというので、あ、一年前とまるきりおなじメンバーかとなった(一年前はしかし、当日学生会かなにかの用事で、(…)さんだけ来れなくなったのだが!)。嫌いなものはあるかというので、キクラゲとエノキ以外のキノコと答える。